第七話 縋った手のその先に①
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珀宮の中心に位置する大本殿、紫宸殿。皇帝が他者との謁見を行う際に使用されるこの御殿とその広場は、百メートル平方級の広い敷地でいつもは閑散としているが、今日は一転し人々が所狭しと御殿の前に詰め掛けていた。
御殿の側面の御簾からこっそり広場の様子を伺っていた黎はあまりの人の多さに眩暈を覚えた。
黎は改めて自分の服装を見下ろす。丈の長いサーモンピンクのローブ・デコルテに首元には昔霊山の宵暁珀の前で授かった宵暁珀のペンダントが光っている。
宵暁珀、皇族の証。その重みが黎の首にずしりとのしかかった。まるで、己の立場を忘れるなと諫められているようだ。
(きっともう、私には相応しくないものなのに)
先日小夜と言い争いをした時の事を思い出して、黎は心身ともに沈んでいく心地がした。
本当は今日もこの場に立ちたくなかった。皇太子妃の親族として、そして久遠院家の人間として、この場に立つ資格はもう黎にはないと思っている。
(でも、……たとえ小夜に拒まれたとしても、私は久遠院家の人間だから)
幼い頃から指標とし続けてきた、久遠院家としてこの国に忠義を尽くす事。そして大好きな小夜と煌の力になる事。それを曲げたつもりはない。つもりはないのだけれど――、
慣れない衣装のせいか足元も少しふらつく。大人しく控えの間に戻っていようかと踵を返そうとしたところで、
「姉上」
溌溂とした貫高い声がして振り返った。ノーカラーのシャツにサスペンション付きのズボンをはいた可愛らしい少年が駆けてくる。
「まあ、久しぶりね、壬晴」
「はい、姉上」
黎の異母弟にあたる壬晴は黎に満面の笑みを向けてくる。前にあった時より随分と背が伸びた気がする、と黎は壬晴の頭を優しく撫でた。
「お久しぶりです、黎様」
その壬晴の背後に控えるのは壬晴の母親美朱だ。黎にとっては継母にあたるが、母親というほど年は離れておらず、黎は彼女を姉のように慕っている。朗らかに微笑みかける美朱の笑顔は太陽のように眩しかった。
「随分早いのですね、祝宴の儀はもう少し後だとおっしゃっていましたが」
「えっと、なんだか落ち着かなくて……美朱様は?」
「私も同じだわ。そしたら壬晴も広場が見たいというので、控えの間からこっそり出てきたんです」
黎たちの側で、壬晴が目を輝かせて御簾の向こうを覗き込んでいた。彼にとっては初めて経験する宮中の儀だから物珍しいのだろう。小さな頭をひょっこりと出して表の様子を窺う少年は愛らしいの一言に尽きた。
「ねえ、母様、姉上。人がいっぱいいるよ」
「こら、御簾の向こうに出てはなりませんよ」
美朱が慌てて壬晴の身体を抑える。揺れる御簾の向こうに集まる沢山の顔が少し見えた。
『いいなぁ、俺もいっぺん見てみてぇもんだ。未来の皇帝皇后陛下の御姿』
『一般参賀があるんだろう? そんときゃ俺らも皇居に入れるんじゃないか』
『俺らみたいな貧乏人が入って大丈夫なんかね?』
先日、千住荘で彼らが話していた事を思い出した。一般参賀は身分問わず、臣民として婚礼を祝う者たちが集う。彼らもこの群衆の中にいるのだろうか。残念ながら黎はそれを探す事は難しい。
少し動悸もしてきた黎はぐっと胸元のペンダントを握りしめる。するとふと御簾の向こうに何かを発見した壬晴が母親に抱きしめられながらも視線を外に凝らす。
「あっ、兵隊さんがいるよ」
黎は急にドキリとした。黎にも御簾越しにうっすらと青碧の軍服を纏った男たちがあちらこちらに点在しているのが見えた。
「あの方たちはこの広場にいる人たちを守ってくださっているのですよ」
「守るって、だれから守るの?」
「そうですね……、この国には色んな人がいます。中には私たちをよく思っていない人たちも」
「――あ、それ僕知ってる! 赤軍って奴でしょ?」
黎の心臓が早鐘を打つ。美朱の壬晴を諭す声が膜を張った向こうから聞こえてくるようだ。
「国の平和を脅かす悪い奴、だよね!」
「まぁ……、壬晴ったら、誰に聞いたの? そんな事」
「使用人たちが話してたよ」
壬晴は無邪気に笑顔をこぼす。少し戸惑ったように苦笑する美朱の前で、それは、それは楽しそうに、
「兵隊さんは赤軍から僕たちを守ってくれてるんだね」
無邪気な声で語って、
「――ええ、そうね」
美朱もそんな壬晴の頭を撫でて肯定した。
当たり前のように微笑ましい光景のその横で、黎の心はぐちゃぐちゃに溶解していく。
「……、すみません。美朱様、私控えの間に戻ります」
「え、……ああ、わかりました」
戸惑う美朱の視線から逃れるように、黎はその場を後にした。控えの間を通り過ぎ、宮殿の裏手に駆け出す。
外に出るまで、黎は息をしていなかった。遠泳をした時みたいに、外に出た瞬間に大きく息を吸う。
「――」
黎は声もなく空に叫んだ。声に出来なかった、それなのに涙だけは自分の意思に反してボロボロと溢れ出す。
何が辛いのか、何が我慢できないのかわからない。ただ、言葉に出来ない感情が無尽蔵に溢れ出して、止まらない。それなのに形には出来なくて、言葉に出来ない声は嗚咽になる。
黎は泣き虫で、幼い頃から沢山泣く事があった。大声で叫んで、喚く事もあった。
でも、声に出せない泣き方は今日初めて経験した。
胸をわしづかみにされるみたいに、身体が痛くて。心が、痛くて。
――それなのに、何も言えない。
黎は地面に蹲り泣き続けた。その時、
「――黎様」
名を呼ばれるとは思わなくて黎は驚いた。誰もいないはずの緑生い茂る木々の間から現れたのは、――青碧の服を着た青年。
「新堂、様……」
「お久しぶりです、黎様」
思わぬ顔に出くわして、黎は狼狽のあまりに涙が引っ込んだ。新堂とは発砲事件の日以来顔を合わせていなかった。そして同時に血の気が引く。
「どうして、ここに……」
「煌様の婚礼の儀ですから。……ああ、そういう事ではありませんよね」
新堂は気の抜けた笑い方をすると、茂みから進み出る。こちらに近付いてくる彼の姿に、黎は畏怖を抱いていた。
「先ほど広場で、御簾の向こうの貴女の姿をおみかけして。……どこかに走り去っていかれたので、」
あの御簾での様子を見られていたのか、と黎は愕然とした。広場の人間からは見えないと思っていたのに。
「顔色が優れません。泣いておられたのですか?」
黎の顔を覗き込もうとする新堂から思わず距離を取る。取り繕う事も出来ないほど黎は動揺し、その態度が益々新堂の顔を険しくする。
――怖い。黎の首に残る痣が微かに疼いた。
「黎様……」
「申し訳ございません」
黎はただ謝罪の言葉を述べる。これではいけない、なんでもない風に振舞わなければ。
黎の態度は明らかにおかしい。ここ数か月新堂をあからさまに避けていた事を踏まえて、新堂に何かあったと悟られてしまう。
それだけは絶対に裂けなければいけない。しかし、
「……軍人が怖いですか?」
「えっ」
「あの事件から貴女は、碧軍を恐れているように思える」
図星をつかれて黎は何も言えなくなった。黎は軍人を恐れている。同じ服を着た新堂の顔すらまともに見られないほど。それは黎が碧軍と何かがあった事を主張しているも同然で、
「まぁ、でも……当然ですよね。あんなことがあったんですから」
そしてそんな黎の様子を戸惑う事なく受け入れている新堂の態度にも、黎は違和感を抱く。
黎はまた一歩、後退した。その瞬間、新堂があからさまに落胆した顔をする。
「新堂様」
「――はい」
黎が名を呼ぶと新堂は朗らかに頷く。その動作が突然悍ましいものに映って、黎は背筋が凍った。
「何故、私が軍人を恐れているとお思いですか?」
聞くのが怖い、だが、聞かなければ。目を背けてはいけない気がする。新堂は黙っている。鋭い視線でただじっと、黎を睨む。
「新堂様、貴方は――」
黎がゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「貴方はご存じなのですね? 私と、碧軍の間に何があったのか」
つまりあの発砲事件の時、黎が本当は誰に、銃を突き付けられたのか。
「……」
新堂は答えない。それは肯定に他ならないと黎は判断した。刹那、黎の胸中に襲ってきたのは、畏怖ではなく――怒りだった。
「何故ですか⁉ 民を守るべき碧軍が、民に手をかけたばかりか、その汚泥を他者に擦り付けるなど……! 軍人としての矜持は無いのですか⁉」
黎は怒りで頭が真っ白になって、目の前の男を糾弾する。新堂は苦悶の表情を浮かべていたが、
「……黎様、貴女は少し勘違いをしておられる」
そう呟いた時の彼はどこまでも冷たく、冷酷な目に変わっていた。
「軍人に元々矜持なんかありませんよ。我々は戦争の実行者。上官の言われるままに戦地に赴いて、上官の言われるままに引き金を引くんです」
「……っ!」
「民を守る? ええ、勿論それも軍の仕事です。ですが、それよりも優先されるべきことがあれば、我々は目の前の民を犠牲にしてでも任務を遂行するんです」
「そんな……、そんなの!」
「黎様、貴女には以前申し上げたはずです。俺が貴女との婚約を受け入れたのは新堂家の利になるから、と。それと同じです。軍人は己の利益と命の安全のために職務を遂行しているんです。すべての軍人がそうとは言いませんが、そういうものが大半なんです」
黎はもう何も言えなかった。思えばこの人は最初から、黎に同情などしてくれたことがなかった。人当りの良い顔をして、結局は自分の利益のために黎を利用した。彼は最初からそう言っていたではないか。
「黎様。確かに国を憂う貴女にとって許せないことかもしれないですが、現状被害を被っているのは赤軍ですよ」
そしてさらに、新堂は黎にとって最も許されない一言を放った。
「犯罪集団がどうなろうと、世間は誰も同情などしませんよ」
黎の身体は勝手に動いていた。目の前にある新堂の顔を力いっぱいはたいていた。
「よくもそんな事が言えたわ! 大切な人が死んで悲しいのは皆一緒なのに!」
「……」
「仲間を無差別に殺されて、それを自分たちのせいにされて! あの人たちがどれほど悲しんだと思っているの⁉ そんな事を考える心すら軍に売り渡してしまったの⁉」
「――あの人たち?」
だがその瞬間、新堂の目がぎらつき豹変した。
「黎様、誰ですか? あの人たちって」
「……⁉」
「黎様、まさかとは思いますが、貴女――赤軍の連中と繋がりがあるんですか?」
新堂の口元がひくりと歪む。黎は反射的に身を引き踵を返して走り出した。だが、
「きゃあ!」
「待ってください。話はまだ終わってませんよ!」
腕を乱暴に掴まれた。強靭な握力に黎は痛みで呻く。あっさりと捻り上げられ、黎は息を呑んだ。
「痛い……っ! 放して!」
「貴女が知っていることを話してくだされば放しますよ」
詰問する新堂はまるで別人のようだった。怖い、突然新堂が知らない男のように見えて黎は恐怖で足が竦む。
「俺だって貴女にこんなことはしたくないんですよ……! さあ、早く――」
「嫌っ……!」
必死で腕を抜こうとした時、鈍い音と悲鳴がして突然腕への負荷が消滅する。高いヒールを履いていた黎はよろけて転びそうになった。だが、間一髪黎は腕を引き寄せられ転倒を免れる。
強烈な既視感。以前と同じように、黎の眼前には黒い壁がそびえたっていて、
「……シンさん」
目の前にいたのはシンだった。以前と同じように、宝石の様な青い瞳を湛え、険しい顔でこちらを見下ろしている。
だが黎はハッとして足元に目を向けた。今しがた、黎と口論になっていた新堂が伸びている。気絶しているだけの様だが、黎はその光景に顔を青ざめさせた。
「シンさん、貴方……なんてことを」
「……すまん」
シンは酷く小さな声で謝罪の言葉を口にした。消え入りそうな、黎にしか聞こえない声で。
「どうして、ここにいるんですか?」
「……」
「どうして、助けてくれたんですか?」
シンは答えない。黎を抱えたまま、明後日の方向を見つめて黙っている。
――どうして答えてくれないの?
黎の目に再び涙の波が押し寄せる。共に溢れ出す感情の嵐に押しつぶされ黎は目の前の男の姿が見えなくなった。
「――おい、黎」
シンが名前を呼んだ、その時、
「――誰かいるのか?」
近くで声がした。建物の角からこちらに近付いてくる足音が聞こえる。
「まずいっ……!」
シンが黎の身体を放した。一瞬よろけた黎にシンはまくしたてる。
「お前は早く建物の中に入れ」
そう言い残して離れていこうとする。遠ざかる手を黎は無意識に、――掴んだ。
「待って――」
涙で前が見えない。頭の中が混乱して、冷静でないのは自分でもわかる。
「――いかないで」
ぐちゃぐちゃで、何が何だかわからなくて。でも、
「おいていかないで……!」
――縋るものが、それしかなかった。
「……」
目の前の男は一瞬驚いたように目を見開いた後、黎の手を取って駆け出した。