第六話 二人の女③
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放課後、今日も黎はこっそり学校を抜け出して目当ての場所に向かった。いつもの通りを二度三度曲がって、向かう先は三郷区の外れにある千住荘だ。
正面の引き戸を開けて黎はまっすぐその奥へ。談話室からは相変わらず賑やかな声がする。黎は迷わずその扉を開けた。そこにはすでに十人弱の若者がたむろしていて、
「――あ、黎様!」
一人が入ってきた黎に気づくと室内の全員が一斉にこちらを向いた。黎が小さく一礼すると、皆朗らかな笑みを向けてくる。
「こんにちは」
「今日も来てくれたんですね、黎様」
「はい、……あの、これよかったら皆さんで」
黎が手に持っていた風呂敷をテーブルに置くと、皆がなんだなんだと寄ってくる。風呂敷に包まれていた箱の中身が明らかになると彼らは目を見開いて驚きの表情を見せる。
「なんだこれ? 菓子か?」
「俺は見たことあるぞ。大陸の菓子だ。ええと……」
「シュークリームっていうんです」
以前煌が用意してくれた菓子の店のものだ。彼らも物珍しかったのか、恐る恐る手に取る。
「思ったより柔らかいな、どうやって食べるんだ?」
「かぶりつけばいいんですよ」
黎が教えると、一人が物は試しにとシュークリームにかぶりついた。ややあって、
「――うまいっ!」
その声を合図に、俺も俺もと皆シュークリームに手を伸ばす。彼らが美味しそうに食べているのを見て、黎もなんだか嬉しくなった。
「いやぁ、さすが皇女様は珍しいものをよく知ってなさる」
「洋菓子は食べた事ありませんでしたか?」
「ないない、俺たちみたいな貧乏人がおいそれと買えるものじゃありやせん」
口元にクリームをつけて笑う南出という男は、紀州の田舎から出稼ぎに来ていると以前話しているのを聞いた。田舎に父母と弟三人と妹二人。家族を養うためには仕送りが必要らしい。その隣で同じく嬉しそうにシュークリームを頬張っている木梨という小柄な少年も、黎と同じ年にも関わらず工場の下働きをして家計を支えているのだという。
赤軍に属する者たちは労働者や下層階級のものが多く、その地位改善を政府に請願し続けている。ここのいる者たちは他の一派とは少々異なる思想の上で動いているという事だが、本質的に変わることはない。そして彼ら一人一人に焦点を当ててみてみれば、なんて事のない、彼らは血の通った人間であるという事がよくわかる。彼らだって新聞社を襲撃し人を傷つけた者たちだ。世間的に悪い事をしているはずだが、
「千太郎にも、食わしてやりたかったな」
そう呟いたのは三善という男で、千太郎とは彼の親友で先の発砲事件で死んだ仲間だ。その名前が出た瞬間、彼らの表情に暗い影が落ちる。あの時多くの仲間を失った彼らは事件に対して激しい憤りを抱き、同時にやりきれない悲しさを抱えている。
いつの間にか彼らの手は止まってしまっていた。悲観に暮れる彼らをどう励ませばいいのかわからない黎は、一人俯いていると、
「なんだ、美味そうなもん食ってんじゃねえか」
扉を開けて入ってきたのはシンだった。シンが現れた途端、部屋の空気は一変する。
「あ、お帰りなさい。矢矧さん。黎様からの差し入れです」
「へえ、食べていいのか?」
箱に残っていたシュークリームを覗き込んでシンは黎に尋ねる。黎が頷くとシンは黎の隣に腰掛けて、シュークリームを一つ手に取りかぶりついた。
「うん、美味い」
するとそこにいた皆の暗い影があっという間に払しょくされた。同じようにシュークリームにかぶりついて、「やっぱり美味いな」と笑う彼らの顔を見ると、この空間における目の前のこの男の影響力がどれほどのものか身をもって実感する。
「シンさんはシュークリーム食べた事あるんですか?」
「昔一度だけな、ルクシアに行った時に商談の席で――」
「えっ、ルクシアに行かれた事があるんですか⁉」
黎は思わず聞き返した。するとシンは明らかにしくじったと言う顔をする。失言だったらしい。
「昔の話だ」
「でも、ルクシアってテルネシア大陸の西端の国で――」
「ああ、もういいだろ。この話は終わりだ」
シンは苛立たし気にシュークリームを詰め込んで会話を切った。そのままシンは他の仲間の元へ行ってしまう。一人残された黎は不満げな顔をして俯いた。
ここに来るのも両手では足りないくらいの回数になってしまった。黎は今でも彼らにとっては客人だが、彼ら一人一人の人となりや、どんな人生を歩んできたのかがわかってくるようになった。けれど一人だけ、いまだに不可侵のヴェールに包まれた人物がいる。黎がシンと呼び、他の皆が矢矧と呼んでいるその男の素性を黎は未だに測りかねていた。恐らくシンの方が意図的に隠しているのだという事はよくわかる。
『お前は信頼に足る人間だと思っている』
ここに来た最初の日、シンは黎にそう言った。そして、碧軍を糾弾するための同盟を結び、共に戦う事を約束した。それなのにシンは自身の核心を黎に話そうとはしてくれない。それはまだ、シンが黎を信用していない、という事の表れなのかもしれない。
悶々としていると、部屋の隅の方に集まっていた者たちがワッと歓声を上げた。何にそんなに盛り上がっているのだろうと近づいてみる。
「何をしてらっしゃるんですか?」
「あ、黎様も良かったらやってみますか? カードゲーム」
彼らが囲んでいたテーブルの上は緑のフェルトが引かれ西洋かるたが散らばっている。参加者は四対一で対面に座っており、一人の方がこの場を取り仕切る胴元の様だ。
「どういうゲームなんです?」
「ブラックジャックですよ。このトランプを引いて手札の合計を二十一にする。一番二十一に近くなれば成功、二十一を越えたら負け。胴元も同じように引いて、胴元に勝てば金がもらえる」
参加者の手元には確かにいくつかの銭が握られていた。要は賭け事の一種の様だが、黎はカードゲームなど生まれてこの方やった事がない。
「私、カードゲームはやった事なくて……」
「ルールはそんなに難しくありませんよ。これは一種の度胸試しですから
「それに、私賭け事は――」
「なら褒美をやるってのはどうだ?」
そこに割って入ってきたのはシンだった。シンは胴元を押しのけると自らがそこに座る。
「俺に勝った奴は俺に何でも命令していい。物でもして欲しい事でもなんでもな」
すると部屋中が俄に沸き立った。ゲームに参加していなかった者も一様に集まってくる。
「いや、矢矧さん。あんたブラックジャック負けなしじゃないですか」
「選手ならな、胴元はどうかわかんねぇよ」
そう言ってシンはちらりと黎を見た。
挑発するような視線。言葉にはせずとも、こちらを誘っているのがわかる。
「……やります」
黎はそう言って一番右側の席を譲ってもらった。観客は一層興奮し、部屋はさながら賭博場の様相を呈し始める。
「よし、それじゃあ皇女様のお手並み拝見と行こうか」
そう言って笑う胴元に、絶対負けるもんかと鋭い視線を送った。