第五話 取引②
きっかり五分後、
「よ、来たな」
指定された通り、正門を出てすぐ右に曲がった交差点にシンが立っていた。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫……です」
全速力で走ってきたので黎はゼイゼイと肩で息をしていた。そんな黎の様子に、シンは面白そうに口角を歪ませて笑う。
「じゃあ、行くか」
そう言ってシンは歩き出す。黎は慌ててその背中を追った。
こうして歩いていると、事件の日シンに連れられて貧民街を歩いた事を思い出す。ここは人通りの多い繁華街だけど、背の高いシンの背中は見失う事もなく大きく見える。
「それにしても、あんたも変わった奴だな」
ふと前にいたシンがこちらを振り向いた。
「俺が言うのもなんだけど、女学校に忍び込んできた奴にホイホイついてくるか、普通」
そう指摘されると今更だが黎は学校を飛び出してきてよかったのかと不安になる。でも、それも一瞬の事で、
「シンさんは知らない人ではないし。それに、私の恩人ですから」
「恩人だからっていい奴とも限らないぞ」
「もしシンさんが悪い人だったら、それは私の見る目が無かったというだけです。話を聞こうと思ったのは私の意思ですから」
黎がきっぱりと告げるとシンは目を丸くして、そしてまた笑い出した。
「やっぱりあんた面白いお嬢様だな」
「お嬢様じゃありません。私は、……黎です」
「ふーん、黎ね」
シンは含みのあるように黎の名を呟いた。何故だろう、名前を呼ばれただけなのにドキリとした。
「じゃあ、お嬢様」
くるりとシンはこちらを振り返った。
「信じてくれたお礼に俺もお前を信じる事にするよ」
「……それってお礼になってます?」
「なってるさ。俺が人を信用する事なんて滅多にないんだ」
「あとお嬢様じゃないって――」
「さ、無駄話はそれくらいにして早く行くぞ」
まさに暖簾に腕押し。こちらの嫌疑の目をさらりと交わす男に、やはり不信感は拭えなくて。
――でも、嫌じゃない。
どうしてそう思うのか黎自身もわからなかったけれど、しばらく歩いてみてようやくその理由に気が付いた。
彼はここ最近黎の周囲の者たちが放つような視線を向けてこない。
同情、憐み、哀愁。
彼は黎の身に何があったのかを知っているのに、黎をそういう目で見ない。それが酷く黎に安らぎを与えていた。
「もうすぐだ」
こちらを見ずに素っ気なく告げるその態度も、今の黎には染み入るほど嬉しいものだったのだ。
到着したのは三郷区にある古いアパートだった。『千住荘』と書かれたくすんだ木の標識のかかった門を抜け、シンは躊躇なく玄関の戸を引いた。薄暗い廊下の奥から微かに明りと人の声が漏れている。黎はシンの後を追って廊下を渡った。ギシと軋みを鳴らす、今にも抜けてしまいそうな廊下の先に、すりガラスの戸があって、その奥から複数の人間が騒いでいる声がした。
シンが扉を開けた途端、封じられていた喧騒が一気に耳に飛び込んできて、
「……?」
それが一瞬で止んだ。部屋にいたのは若い男たちばかりだった。談笑していたのであろう彼らは黎たちが現れた途端、一同にこちらを見て固まった。
「……矢矧さん? その子誰です?」
一人の少年が意を決して尋ねた。皆シンの言葉を待っている。黎もなんと答えていいかわからずじっとシンを見つめた。
シンは皆の視線を集めるようにたっぷりと溜めると、
「――俺の運命の女神様だ」
一瞬で部屋中が歓声に沸いた。拍手や口笛が派手に鳴り響いて鼓膜を揺らす。当の黎は何を言われたのかわからず呆けて、目の前の喝采を遠い世界の事のように見つめていて、
「……ま、半分は冗談だけど」
隣にいる黎にしか聞こえないくらい小さな声で囁いたシンは意地悪く笑う。
――何が、何だか、わからない。
目の前で起きる出来事の全てが非現実的で、己の身に降りかかる事全てが理解の範疇を越えていて、
「さあ、どうぞ。お嬢様」
冗談交じりに差し出された手を黎は無意識にとる。背後で部屋の扉が静かにしまった。




