第一話 成年の儀①
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古来より八百万の神々が守る神聖不可侵の国、宵暁国。四方を海に囲まれたこの亜州の小国を生み出したとされるのは、悪行を働き主神の怒りを買った神『宵暁珠命』。彼が天界から追放された時、その身体と魂が砕け地上に散らばり、今の宵暁国の大地と人をお創りになったという。散らばった神の欠片は美しい宝石となって宵暁国の土地に眠り、その宝石から再び神が転生した。この神の末裔が現在宵暁国に君臨する皇族であり、幾千という長きにわたり、この小さな島国を統べてきた。
そして西暦一九二五年、この年は宵暁国にとって記念すべき年であった。宵暁国の名の謂れといわれる『宵暁珠命』の創世神話の始まりからちょうど二千年を数え、さらに宵暁国の北部に位置する世界最大の大陸、テルネシア大陸で勃発した欧州大戦が終結して十年を迎える年だった。
世界中からようやく戦争の機運が取り払われ、つかの間の平穏を謳歌する初夏の時節。少しずつ照り付ける日差しや吹く風に確かな熱を感じ始める頃、帝都はその陽気すら飲み込んでしまうような人々の高揚に包まれていた。
宵暁国の第一皇子、煌の成年の儀が間もなく執り行われようとしていた。
今上帝星仁の嫡子である煌は御年十八を数える。都内の帝大付属の高等学校に通われ勉学に励まれており、座学、実技、体錬いずれにおいても優秀な成績を収め、学友たちからも大層慕われているまさに未来の盟主にふさわしいお方だという。
この国は立憲君主政であり、国政は内閣と各省庁、そして貴族院と衆議院からなる帝国議会が中核となるが、その頂点に君臨し主権を有するのは代々の宵暁皇帝であった。まさにこの国の未来を背負って立つことになる若き英傑が成人を迎えられるとあって、この慶事に人々が湧きたつのも当然であった。
その成年の儀を間近に控えた珀宮は本日、一足先に一大催事の当日であるかの如く忙しない空気に包まれていた。
「そっちにはいらっしゃったか⁉」
「いいえ、こちらには」
「とにかくしらみつぶしに探すのだ。何かあってからでは遅い!」
あちらこちらで宮仕えの高官たちが揃いも揃って慌てふためいている。その滑稽な姿に、珀宮の広大な庭園の茂みの一角に隠れていた少女がいたずらな笑みをこぼした。
まだ幼い少女だ。年は十を数えた頃か、縹色の鮮やかな袿に紺の帯を締めた少女は、黒曜石のような瞳を細めて昼顔の咲き乱れる垣根から大人たちを覗き見ている。
「ふふ、黎見た? 今そこを通った侍従長の顔、まるで餌を待つ鯉みたいに口をパクパクさせてたわ」
少女は隣に蹲っているもう一人の少女に話しかけた。黎と呼ばれたその少女は茜色の鮮やかな袿に臙脂の帯を締めている。年齢、背格好そして顔立ちも前述の少女と全く瓜二つだが、笑みを浮かべている少女とは逆に不安げな様子でオロオロと茂みの外の様子を窺っている。
「ねえ、小夜。すごい騒ぎになってるよ。もう戻った方が……」
黎は狼狽して小夜の縹色の着物の袖を掴む。一方の小夜は、何言ってるのよ、と強気に眉を吊り上げて、
「私たちの目的はここからでしょ。塀のどこかにあるっていう、秘密の抜け道を探すのよ」
「本当にあの話信じてるの?」
「わからないから調べてるんじゃない」
小夜は着物が泥だらけになるのも構わずに体勢を低くして、更に茂みの奥深くに潜り込んだ。一人でどんどん奥へ行ってしまう小夜を黎は涙目になって引き止める。
「小夜、もうやめようよ。外に出たら本当に怒られちゃうよ」
「じゃあ、あんたは帰りなさい」
少し苛立った様子の小夜はこちらを振り返ることなくそう言い放ち、歩みを止める事はなかった。いけない事だとわかっているのに、小夜を止める事が出来ない。黎は恐怖でパニックに陥った。パニックになってしまった幼子の行動は限られるもので、
「うっ……、うわぁん――‼」
例に漏れず黎は声を上げて泣き出した。庭園全体に響き渡るかと思うくらい甲高い泣き声にさすがの小夜も驚いて振り返る。
「ちょっと! 泣かないでよ……!」
「……っ、……小夜のバカ! バカァ!」
黎は大声をあげて泣き続けた。すると、
「小夜様! 黎様!」
黎の泣き声を聞きつけて庭に人が集まってきた。小夜は泣きじゃくる黎を睨みつけ、でもどうすることも出来なくて口を噤むほかなかった。
「いいですか、小夜様、黎様。ここは陛下のおわす珀宮。格式高いこの宮でかくれんぼなさって騒ぎを起こすなど、あるまじき行為でございます!」
数分後、黎と小夜は元いた自室に戻され、乳母の君塚から叱咤を受けた。黎は未だにぐずりながら目を擦っている。一方の小夜は不服そうに君塚の説教を喰らっていた。
「特に小夜様! 貴女はここに参られてからというもの、宮廷の壺を隠したり女官の服に虫を入れたりと妙な悪戯ばかりしておられるそうですね。少々おいたが過ぎます!」
「知ってたの、君塚」
「当たり前です! 貴女は今年十歳のご生誕を迎えられ、物事の分別もお分かりになるはずです。未来の皇后様がくだらない悪戯で宮廷をかき乱すなど、前代未聞でございます!」
君塚の口調はますます怒りに燃え始めたが、その矛先が向いている小夜は随分と涼しげな顔をしている。それに反比例して黎の方は一度収まっていた涙の波が再び押し寄せて、またしてもしゃっくりをあげて泣き始める。
「ああ、黎様。今のは黎様に対して怒ったのではないのですよ」
流石の君塚も留飲を下げて、今度は黎をあやす方に尽力を注ぎ始めた。鬼のような形相の女性は一転、全てを包み込んでくれるような観音菩薩のような眼差しで黎の前に跪く。
「ですが黎様も、ダメだと思う事には堂々と意見してくださいますよう。たとえ相手が大好きなお姉様でも、……いえ、大好きなお姉様だからこそあなたがお止めにならなければいけません」
「……はい」
黎は枯れた声で小さく返事をした。小夜は小さく「なにそれ」と愚痴をこぼす。
「さあ、今日はもう部屋で大人しくしてくださいまし。お遊び相手が欲しいのでしたら、後宮の女官たちを手配いたしますわ」
「……いいわよ、二人で大人しくしてるわ」
「よろしゅうございます」
こうして不貞腐れたままの小夜と、泣き腫らした黎の宮廷探検は呆気なく失敗に終わった。
黎と小夜が実家である久遠院家の屋敷を離れ、珀宮の内裏で過ごしているのは三日後に開かれる皇太子殿下の成年の儀に参列するためであった。
珀宮は帝都の南方に位置する霊山の中腹に燦然と佇んでいる。歴代の皇帝や皇后、皇太子が暮らし、時代によっては大勢の側室も控えていたというその宮殿からは、帝都の街を一望できる。
「ああ、こんな事なら久遠院のお屋敷に残っていたかったわ」
小夜が窓から外の様子を眺めて口を尖らせた。今は皇太子成年の儀を直前に控えているため、宮廷の外はあちこちが宵暁のシンボルである茜と瑠璃の旗と装飾で彩られ、物珍しい劇団や露店が街を賑やかしている。その喧騒がこの静かな部屋にまで響いてくれば、まだ幼く好奇心旺盛な十歳の少女がそれに心惹かれないわけがない。
「そもそもどうして私たちがその儀式に参加しなければいけないのかしら。成年の儀なんて宮司が祝詞を唱えて終わりじゃない」
「それは、小夜が皇太子殿下の許嫁だからだと思う」
黎が小さな声で返すと小夜はキッとこちらを睨んだ。ご機嫌斜めな小夜はまだ悪戯を無為にした黎のことを怒っているのだろうか。黎の目には再びじわりと涙が滲む。
「ああ、もう泣かないでよ。私が悪かったわ。そもそも黎を無理やり連れて行ったのは私の方だしね」
ソファに寝そべっていた小夜がまた泣きそうになっている黎の頭を優しく撫でた。溢れそうな涙を必死に堪えて黎は小夜の手をギュッと握った。そうすると強張っていた身体から少し肩の力が抜ける。
「でも理不尽よね。私たち双子なのに、私の方が先に生まれたからって、皇太子殿下の許嫁になるなんて」
「小夜は嫌なの? 皇后になるの」
「私たち殿下とお会いした事すらないのよ。名前しか知らない相手なんて喜べるわけないわ」
小夜と煌の婚約が成立したのは、小夜と黎が生まれて一か月後の事であった。二人の母、明里は身体が弱く、二人を産んだ後力尽きるように息を引き取った。明里の葬儀が終わり四十九日の喪が明けたその日に、珀宮の使いが父、恭夜の元を訪れた。
元々世襲親王家である久遠院家の令嬢が皇太子妃に選ばれるのは黎たちが生まれる以前から決められていた事だったらしい。
選ばれたのは先に生まれた姉の小夜。だが小夜は親が決めたこの婚姻に不満を持っていた。
顔も見た事がない、性格もわからない十も年上の婚約者に、子供ながらに不満を募らせる。それは繊細な乙女心の故であると同時に、小夜自身の気質にも理由があった。
「皇后になってしまえば、一生のほとんどをこの皇居で過ごす事になるわ。私はそんなの嫌」
小夜は窓の外を眺めて呟いた。小夜は実に行動的で部屋でじっとしているよりも庭を駆け回る事の方が好きな少女だ。悪戯好きで、珍しいものに目がない。
「それにいつも君塚が言うじゃない。『未来の皇后陛下たるもの、慎ましくお淑やかになさい』って、……そんなの私きっと無理だわ」
今日だって『町への抜け道を探しに行こう』と意気揚々と飛び出していったのは小夜だ。対照的に、黎は部屋で本を読んだり絵を描いたりする事の方が好きだ。内向的で、泣き虫で人と話す事も得意ではない。
黎と小夜は双子の姉妹だが、性格はまるで正反対だ。似ているのは見た目だけ。使用人でも二人の事を間違えた事はない。
「ああ、人生ってどうしてこうままならないのかしら」
ソファに寝転がって小夜は悪態をついている。小夜の黒曜石の瞳は黎と同じはずなのに、めらめらと燃えて赤く見える。
「私いつか絶対こんな家飛び出してやるわ。その時は黎、あんたも一緒よ」
「えっ、でもそしたら皇后には誰がなるの?」
「別に私たちでなくたっていいでしょ、変わりはいくらでもいるもの。だから、」
小夜は飛び起きるとまっすぐにその大きな瞳をこちらに向けてきた。
「あんたもお父様の言いなりになっちゃだめよ」
命令を下され、黎はそんなの無理だと思いながらも、頷くしかなかった。