第四話 矢矧志貴⑤
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久遠院の屋敷を出た煌は自身の車に新堂を乗せ、静かに発進させた。
今日は本当に肝の冷えた一日だった。黎の失踪の一報を聞いて車を飛ばし、現場でうろたえていた新堂を連れてあちこちを探し回って。
「すいませんでした、殿下」
助手席では新堂も疲れた顔をしてシートに凭れ掛かっていた。今回の件は新堂にも非がある。非番だったのだから暴動など軍に任せて、黎と共に避難しておけばこんなことにならなかっただろうに。
だが、今更責めても仕方がないし、新堂がこういうところで責任感が強いことはわかっている。それよりも煌が気になったのは、今回起こった暴動の全貌だった。
「新堂、今回の件、矢矧の一派の仕業だと言っていたな?」
煌の質問に新堂ははっきりと頷く。
「その矢矧とかいう奴、私も名前しか知らないんだが、そんなにやばい奴なのか?」
すると新堂はスッと目を細め、軍人らしい顔つきに戻った。
「矢矧志貴。通称『戦争屋』。昔から軍界隈では有名な奴ですよ。十六年前、北部のテルネシア大陸全土を巻き込んだ欧州大戦が勃発した原因を覚えていますか?」
「無論だ。大陸のフィリイエス王国とその近隣の小国バスキアの戦争。バスキアへの領地占領を図るフィリイエスの皇太子をバスキアの青年革命家が射殺した」
両国は互いに宣戦布告の後戦争にもつれ込んだ。そして、互いの同盟国もまたこの事件をきっかけに宣戦布告を行い大陸は一気に戦乱の渦に巻き込まれていった。
「この時逮捕されたバスキアの青年革命家に銃を売り渡したのが武器商人『矢矧志貴』です。世界中をまたにかけ、あらゆる国で武器を売りこの男が行くところでは必ず紛争が起こる。武器のみならず軍需物資、燃料、人までも売りさばく。まさに世紀の大悪党、それが矢矧志貴という男です」
「宵暁人か?」
「ええ、ですが。意外にも彼の素性を知る者は多くない。ただ戦場に現れて、武器を売って去っていく。我々軍部にとっては神出鬼没の妖怪の様な存在でした」
新堂は苦々しく眉をひそめた。
「矢矧の名を聞かなくなったのは五年前です。市場でも商売をしている形跡はなくなり、『矢矧は死んだ』という噂も出回りました」
「だがまた、奴が表舞台に出てきた、と」
「ええ。ですが、今度は商人ではなく赤軍の活動家です。それも妙な話で、矢矧は戦場を引っ搔き回しこそすれ、何かの思想を掲げて動く男ではなかったはずなのに」
「再び現れたのは赤軍として政府や軍部に徒をなす矢矧だと」
確かに妙な話だった。まるで別の人間が矢矧の名を謀っている、そうとしか思えない。
「昨年の六条財閥の総裁、六条勘助が襲われる事件、ご存じでしょう? 俗にいう六条事件」
煌は勿論と頷いた。財界の重鎮六条勘助の襲撃。六条はあの事件以来第一線を退いた。あの時は確か帝都でも軍や警察がしばらく町をうろついていて空気がピリピリとしていた。
「矢矧の名が再び浮上したのがあの事件です。あの事件は六条財閥に恨みを持つものの仕業だとされていた。邸宅には多くの警備が敷かれていたにも関わらず白昼堂々と襲われたんです。けれど、この同日、実はもう一か所襲われたところがあって、吉井藤次郎という衆議院議員の邸宅です」
「吉井――、ああ、そういえば」
六条勘助があまりに著名であったため、世間では取り沙汰されていなかったもう一つの事件。衆議院議員吉井藤次郎もあの日、邸宅を襲撃されていたのだ。
「六条勘助はまだしも何故吉井氏を狙ったかは我々軍部でも謎なんです。彼は温厚で取り立てて目立つことなく、大きな議案にも首を突っ込んでいたわけでもなかったのに」
確かにあの事件は煌も何故吉井を狙ったのかという疑問を抱いた。吉井も一命は取り留めたが、その時負った怪我が元で後遺症が残り政界から退いた。
「またこの二つ事件の際、時事通信社に矢矧の名で声明文が送られたんです。文面は、『命軽鴻毛、燕雀鴻鵠』と。ただそれだけ」
西華の故事だ。『命軽鴻毛』は人間の命は羽毛より軽いという意味から、何かを成し遂げるために己の命を投げ出すことを恐れないという事。『燕雀鴻鵠』は燕や雀などの小鳥は鴻や鵠などの大きな鳥の偉大さを理解できないという事。そこから転じて、大物や権力者への批判や、己の野望を達成するために尽力をするという意味を生んだ。
「どうやらその男、政府に対して相当な恨みを抱いているようだ」
「ええ、今動いている矢矧が、かつての矢矧にしろ、違う矢矧にしろ。この人物だけは要注意です」
そう言って、新堂は座席に深く身体を埋めた。説明に疲弊したのだろう。
「殿下、あまりこの件には関わらない方がよろしいかと」
「そうもいくまい。いずれ私が帝となるこの地で、今日のような事を起こされてはな。こんな休日の白昼堂々にテロを起こすなんて気が触れてるとしか思えない。それに、」
ここからが煌の本題だ。煌は新堂をミラー越しに見据え、
「聞いた話では、奴らは近くの公園で銃を乱射して民間人を巻き添えにしたと」
その瞬間、新堂の顔が今までとは違う意味で青くなった。その反応に、煌はやはりと唇をかむ。
「殿下、それは……」
「なんだ、私は碧軍の報告の通りに言っているだけだ。『暴動を起こした赤軍が碧軍に邪魔された腹いせに香芝公園で銃を乱射し民間人を殺害した』と」
新堂は口元を引きつらせる。学生時代からそうだ。この男は気もいいし愛想もよくて人当りもいいが、――嘘がつけない。
「新堂。私はお前を信頼している。黎との婚姻を斡旋したのも、お前なら彼女を幸せにできると思ったからだ」
「……」
「将来有望の将校とはいえお前はまだ若い。軍の意向に逆らえないのもわかる。だが、もしお前たちがこの国の平穏を脅かすというなら――」
「殿下!」
新堂はたまらず叫んだ。彼は今や息を荒げ、額に脂汗を浮かべている。これ以上の糾弾は危険だと判断した煌は、静かに話を切り上げた。しばらく車内に沈黙が下りる。そして、
「申し訳ありません、殿下」
「……お前だけが悪いのではない」
それは本当の事だ。新堂一人にどうにか出来るのなら、今日のような惨事は起こらなかったはずだ。
「だが、今回の件で、その矢矧とやらの逆鱗に触れなければ良いのだがな」
煌はぐっとアクセルを踏む。また車内に沈黙が下りた。
◆
夜の帳が下りた街を男が一人で歩いている。ここは帝都の繁華街の一つ、三郷区。事件のあった香芝区からは路面電車四駅分は離れているとはいえ、あんなことがあったばかりなのにすれ違う者たちは皆暢気な顔をして歩いている。
今日は久しぶりに伊地知の家に顔を出したが、彼女も元気そうで安心した。あの家を出てから、どうしてもあの掃きだめの街から足が遠のいてしまっていたから、今日はいい機会だったのかもしれない。
「ここの所忙しかったからな」
そう呟いて男は肩を回しながらふと、さっきまで一緒にいた少女の事を思い出す。
あからさまに育ちのいいお嬢様だった。最初は面倒な奴を拾ってしまったと思ったが、なんだかんだと世話を焼いて、身の上話まで聞いてしまった。
「ま、お嬢様はお嬢様で色々あるんだろうな」
自由になりたかったと言って泣いた彼女を放っておくことが出来なかった。恐らく初めて本音を言って涙を流したのだろう彼女。だが、自分とは全く無縁の世界で暮らす少女に何と慰めの言葉かけることが出来ただろう。恐らくこちらが何を言っても無駄だった。
どうしてやるのが、一番良かったのか。
自分でもよくわからなかったし、そもそもどうしてそこまであの少女の事を気にかけているのかもわからない。
とはいえもう二度と会うことはないだろう。ため息をついて歩いていると、いつの間にか目的地に到着していた。
今にも崩れそうな二階建ての襤褸屋。明治の御代の頃に建てられ改築もされていないせいで、所々錆と苔に覆われているが窓から漏れ出る明かりが、まだ多くの住人を有しているのだと示している。正面玄関の引き戸を開けると、薄暗い廊下が続いていた。すると廊下の奥、共同の食堂と談話室から一人の少年が顔をのぞかせる。
「――矢矧さん⁉」
少年が幽霊でも見たような顔で叫んだ。それを合図に複数の若者たちが顔を覗かせる。
「い、生きてたんですか⁉」「幽霊じゃあありませんよね?」
縁起の悪い事を立て続けに言われ、男は顔をしかめる。
「物騒な事言うな。まぁ、色々と面倒ごとに巻き込まれちまって、現場を離れざるを得なかった、悪いな」
「無事ならいいんです! 俺たちあんたまでやられちまったのかと……!」
「簡単にやられるか、阿呆」
しかめ面のまま談話室に入ると、中央のソファに身体を沈める。皆シンと静まり返り、こちらの様子を窺っていた。
「何人やられた?」
「……五人。死体は全部碧軍が押収しました」
想像以上の被害に舌打ちした。部屋にいる連中の顔をよく見ると明らかに人数が減っている。昨日、作戦会議をした時の半分もいない。
「碧軍共、滅茶苦茶だ! いくら俺たちを袋のネズミにするためだからって、あんな暴挙を……!」
「しかも民間人まで巻き添えにしたんだ!」
「許せねぇ! こうなりゃあ、今からでも軍部に直接押し入って敵を――」
「やめろ、やけになるんじゃねえ」
興奮する仲間たちに向かって男は一喝した。彼らは今頭に血が上っていてまともな判断が下せていない。こんな状態で事を起こしたら、それこそ敵の思う壺だ。
「そもそも今回仕掛けたのは俺たちの方で、碧軍はそれを鎮圧するために動いたに過ぎない。世間的にはテロを起こした俺たちが非難されるのは当然。碧軍がそれを鎮圧するため、暴徒を始末したといえばそうなる」
「でも矢矧さん! いくら何でもあれは!」
「今回はあっちが一枚上手だった。迂闊に巣に入り込んじまったのは俺たちの方だ」
爆発が起こってからの碧軍の展開の速さを見るに、おそらく今回の計画がどこかで漏洩したに違いない。
「だが、幸いにも新聞社襲撃は成功した。あそこはしばらく刊行できないだろう」
本来の目標は達した。だが、そこには多大な犠牲と、そして重大な禍根が残る事になる。
「公園での襲撃の件も恐らく俺たちがやったことになるだろうな。碧軍は自分たちの所業をもみ消すつもりだ」
そこにいた誰もが絶句していた。怒りのあまり、いや、怒りを通り越してもはや何も言えない状態なのだ。
だからこそ、将である自分が制御しなければならない。
「計画は進めよう。払った犠牲は奴らの首で清算してもらうさ」
男の笑顔にそこにいた全員が竦みあがる。
”矢矧志貴”の猛追はこの程度では揺らがないと、その瑠璃色の目が燃え盛った。