第四話 矢矧志貴②
伊地知の家は小さな茶の間が一つとそこに連なる台所と水場。奥に同じような四畳半程度の小さな部屋が一つ。あるのは本当にそれくらいで、黎の感覚でいうと質素とかそういう次元ですらない、人が本当に住めるのかという疑問が湧きたって仕方ないところだった。しかし、手当てをするため居間に座らされた黎の前には救急箱や裁縫箱。温かなお茶や体が冷えないように毛布まで手渡されて黎が今必要としているものがすべて揃えられている。
「しかし、碧軍は酷いことをするもんだね。女の子に銃を突き付けるなんて」
足の擦り傷や打撲もそこそこに酷かったが、一番ひどかったのは首筋の火傷だった。弾を撃ったばかりの銃口を突き付けられたせいで、黎の首筋は円形に爛れていた。伊地知は薬を塗りながら、治っても少し痕が残るかもしれないとまた怒りをあらわにする。
「服も繕ってあげるから、こっちに着替えな」
そう言って手渡された着物は擦れた木綿の浴衣だった。黎は慌ててワンピースを脱ごうとしてハタと止まる。
「どうしたんだい?」
「……えっと、脱ぎ方が」
使用人に着つけてもらったせいで脱ぎ方がわからない。ワンピースなんて初めて着たのだ。着物みたいに前合わせのような作りでもないし、袖を抜こうにも肌にぴったりと密着しているのでそれも出来ない。
伊地知が黎に怪訝な眼差しを向けた。どうしよう、早く、脱がなければいけないのに。また涙目になりかけた黎に思わぬ助け舟が現れた。
「背中。ジッパーついてるだろ」
背後を振り返ると、そこに立っていたのは先ほどどこかに消えてしまっていたシンだった。
(じっぱー、って何?)
何を示されているのかわからぬまま、黎は言われた通り背中を探る。するとうなじ辺りに何か金具のようなものがついているのを発見した。
シンは戸惑う黎の背面に寄ると、躊躇いもなく黎のうなじ辺りに手を伸ばしその金具を引き下ろした。
「ひゃあ!」
突然背中の圧迫がなくなると同時に冷たい空気が素肌に直接触れて黎は悲鳴を上げる。
思わず飛びのいた黎をすかさず伊地知が庇った。
「こらシン! あんたお嬢さんに何てことするんだい⁉」
「困ってたから助けてやったんだろ?」
伊地知の張手をひょいっとかわし、シンは意地悪く笑う。何をされたのかまだよくわかっていない黎に代わって伊地知は鬼の形相で怒り始めた。
「あんたは本当に無作法な奴だね! そんなとこまで父親に似るんじゃないよ!」
「心配しなくてもそんな餓鬼に変な気は起こさねえよ。じゃあな」
シンはまた部屋の奥に引っ込んでしまった。まったくもう、と憤慨する伊地知に縋り付いたまま、黎は自分の背中側を改めて確認した。黎の淡い色のワンピースが背中側で縦に裂けていた。まるで蛹の殻を破った蚕のようにその隙間から黎の白い肌が覗いている。
「なるほど、こうやって脱ぐんだね」
伊地知に手助けされて黎はワンピースを脱いだ。あっさりと衣服の拘束から抜け出した黎は急いで貸してもらった着物に袖を通す。
一拍遅れてなんだか恥ずかしくなってきて黎は顔を赤らめ俯いた。
「ごめんなさいね、あの子悪気はないんだけど礼儀知らずというか」
「いえ……」
「シンと私は血のつながりはないんだけど、昔から面倒見てきた子だから。あの子を嫌わないでやって」
そう言って笑う伊地知の顔は本当に息子を憂う母のようだ。
「それにしても、ずいぶんと綺麗な布だね。洋服は見慣れないけど、それにしたって上等なものじゃないかい?」
伊地知は黎のワンピースを持ち上げて感嘆としていたので黎はぎくりとした。
「こりゃあ、針を通すのもなんだか気が引けるねえ」
「洋服の布はえてしてそのようなものですので構いません。お願いします」
躊躇する伊地知を黎は慌てて促した。とはいえ黎が庶民ではないという事は雰囲気でばれているのかもしれない。
「そういえば外も暗くなってきたし、今日は泊っていくかい?」
伊地知が思わぬ提案をしてきた。外は日の入りの時間になったのか、薄暗く辺りは群青色に染まっている。ふと、はぐれた新堂や家で待っている小夜たちの事を思った。
「家のものが心配していると思います。帰らないと……」
「この辺りをお嬢さん一人で歩くのは危険だよ。暴動があったんなら町もまだ混乱してるだろうし」
伊地知の言い分に黎はますます言葉が出なくなる。黎がいなくなった事はおそらく屋敷にも伝わっているはずだ。公家の令嬢が暴動に巻き込まれて行方不明だなんて、それこそ新聞にも取り上げられかねない。
(そうなる前に、早く帰らないといけないのに……)
困り果て何も言えない黎を見かねたのか、伊地知はそれならと別の提案をした。
「ならシンに送ってもらうかい? どうせあの子も町に戻るんだろうし、あの子がいれば多少はましだろ?」
「シンさんに……」
それが一番効率的だと思ったが、助けてもらってお世話になったのにまた更に手を煩わせる事になる。遠慮がちな黎はどうしても気が引ける。それに、
(あの人、なんだか少し怖い……)
黎が知っている若い男性は久遠院家の使用人か、煌、そして新堂くらいだ。シンは今まで会ったどの男性とも違う。常に眉間に皴が寄っているし、言葉遣いも動作も荒い。
どう接したらいいかわからない。向こうもきっと、黎の事を面倒くさい子供だと思っているかもしれない。
黎が躊躇している間にも伊地知はシンを呼びに行ってしまった。また不機嫌そうな顔をしてシンが居間にやってくる。
「シン、下宿に帰るんだろ? ついでにこの子を家まで送ってあげな」
「……」
シンは答えなかった。その顔には「面倒臭い」の文字がはっきりと浮かんでいる。黎が委縮したまま俯いていると、
「わかったよ」
驚いたことにシンはそれを承諾した。すぐに外套を羽織って外に出てしまう。
「ほら、繕い終わったよ。着替えてから行きな」
伊地知の手には解れがすっかり治った黎のワンピース。黎は慌てて借りていた着物を脱ぐと、今度は手際よくワンピースを着る。良くしてくれたことに黎は唯々頭が下がるばかりだった。
「あの、ありがとうございました」
「いいんだよ。さ、もうお行き。ご家族が心配してるんだろ?」
突然転がり込んできた見ず知らずの人間に、嫌な顔一つせず世話を焼いてくれた。黎の事を気遣ってくれる優しさに涙が出そうになる。伊地知は返事を待たずに黎の背をすっと押し、戸口へと導く。
戸口の側にシンが立っていた。
「あ、そうだ」
ふと、伊地知が何かを思い出して慌てて部屋に戻り、すぐに何かを持って戻ってくる。
「シン、いつもの来てたよ」
「……」
伊地知が手にしていたのは便箋のようだった。それを目にしたシンがあからさまに険悪な顔をする。
「あの人、あんたの事心配してるんだよ。たまには返事だしておやりよ」
「……どうでもいい」
シンは乱暴にその手紙を懐に収めると、こちらに目もくれず歩き始めてしまった。黎もその背についていかざるをえなくなって、
「ばいばい、お嬢ちゃん」
そんな二人を伊地知は笑顔で見守り、こちらの姿が見えなくなるまで、伊地知は戸口に立って手を振ってくれていた。