序章 白夜
1920年代の架空の国、宵暁国を舞台にした恋愛奇譚。
本作に登場する国・団体・人物・事件等は、実在のものとは一切関係ありません。
青紺の空を鳶が悠々と飛んでいる。縛られるものもなく、高い雲の真下を力強く。
その雄々しき姿を仰いで、小夜は感嘆の声を上げた。
とても美しい空だと思った。この空をあんなに自由に飛ぶのは、きっと感じた事のない清々しさなのだろうと、箱庭に佇む小夜は只々その鳶を羨むばかりだ。
「ここにおられたのですね、母上」
「――陽仁」
ふと地上に視線を戻すと、小夜のすぐ側に凛々しい顔つきの青年が立っていた。その大きな瞳にあどけなさを残しつつも、もうすっかり大人の顔つきと体格となった我が息子。いつの間にか背も追い越されて、もうここ数年は小夜が見上げる立場だ。
「もうすぐ式の準備が始まるからと、女官たちが探していました」
「ああ、そうでしたわね。行きましょうか」
今日は陽仁の大切な儀礼の日。御年十八になった息子を祝う成年の儀だ。小夜は息子に笑いかけると、二人で宮廷の庭を歩き出す。
「珍しいですね、母上がお庭に出るなんて。何を見ていたのですか?」
「鳶を見ていました」
鳶は遥か彼方へと飛び去ってしまったが、まだ少しその雄姿が向こうに見える。
「……懐かしいわ。貴方の御父上が成年の儀を執り行った日も、こんな雲一つない快晴でした」
「御父上――陛下の成年の儀ですか?」
小夜は頷くと、当時の事を思い出してクスクスと声を立てた。
「あの日は色んな事がありました。私が儀式の当日に皆の目を盗んで宮廷を抜け出して」
「母上が?」
陽仁は目を丸くした。
「ええ。私だけでなく、陛下――貴方の御父上も」
「陛下も?」
ますます驚愕する陽仁の様子はまるで幼い頃の無垢な少年の頃を思い出させた。
「そうですよ。母が幼い頃です。私と、陛下と――黎も」
「れい?」
「……私の双子の妹。貴方の叔母上にあたる人です」
黎。その名前を紡いだ瞬間、随分奥深くにしまい込んでいた記憶が解き放たれた。黒く煙るような、でもどこか甘く懐かしい香りを漂わせるその記憶に、小夜は静かに酔いしれる。
陽仁は黎の名前を聞いて深く眉を寄せた。
「叔母上は確か、皇籍離脱なされた方、でしたよね?」
「正しくは、離脱ではなく剥奪ですね。お聞きになられたことがありましたか?」
「はい。叔母上は若い頃、共産主義者と共謀し国家の転覆を諮ったと……いえ、侍従長が言っていただけなので本当かどうかは」
陽仁は半信半疑で難しい顔をしていた。確かに、話に聞くだけでは到底信じられない事ではある。皇籍に連なる人間が国を裏切ろうとするなんて。でも、
「本当の事ですよ。貴方が生まれる直前、彼女は私や陛下、そして民を欺いてこの宵暁の国から逃亡したのです」
その答えに陽仁は少なからずショックを受けたようだった。
「彼女のお話はこの皇居では禁止ですからね。侍従長や内大臣の前ではなさらないように。渋い顔をされますから」
「はい……」
陽仁は素直にうなずいたが、まだ何かを言いたげな顔をしていた。ここには小夜と陽仁の二人だけだ。この広大な内裏の庭で、会話を盗み聞きされる心配もない。
だから小夜は、この庭を抜けるまでの間だけ内緒話をしようと思った。
「……黎はね、とても優しかったのです。穏やかで包容力があって、誰よりも気高く、この国を慮り、そして誰よりも芯の強い子でした」
「母上……?」
「私たちは瓜二つの双子で、でも黎は、私に無いものを沢山持っていた。憧れだった」
ピィーと、鳶の鳴き声が空に響き渡った。小夜は今一度空を見上げる。再び舞い戻ってきた賓客を仰いで、小夜は目を細めた。
「たとえ国民全員があの子を反逆者と罵ろうとも、私は――あの子の味方でいると誓ったのです」
目を閉じると、あの幼い日の事が昨日の事のように感じられる。まだ何も知らなかった無垢な時代を思い出す。