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ミーナの記憶にあるマリアの最後の時は、花火大会があった日だ。その日マリアの祖母はマリアに向かって、警戒心を露わにして叫んだ。
「あんた誰だい!? 何であたしの家にいるんだよ!!」
数年前に認知症と診断されてから、祖母は少しずつ以前とは変わっていった。とてもしっかりしていて気丈だった祖母が出来ない事が増え、それを気に病み、マリアに苦労させると泣いて。
だがやがて気に病むことすら無くなり、世話をされるがままになっていった。
マリアは医師から祖母の症状について詳しく聞いていた。だからいつか祖母が自分を忘れる日が来るのだと覚悟してはいたのだが、その日は意外と早かった。マリアといるよりもデイケアの施設にいる方が長くなっていた祖母は、マリアを馴染みの無い者として忘れたのだ。
祖母を迎えに来た施設の職員は、祖母の様子とショックを隠せない少女を見て、今日はこのまま祖母を施設に泊まらせましょうと提案した。
「あなたも今日はゆっくり休みなさい。明日になったら施設へ来て。今後の事を相談しましょうね」
マリアはうなずくしか無かった。祖母を連れたワゴン車が去って行った時、マリアは自分が嫌でたまらなかった。
父と義母に殆ど放置されていたマリアを引き取り育ててくれた祖母。大好きだった。強い恩も感じている。だから次第に日常生活が送れなくなっていく祖母を助けるのは当然だと思っていた筈だ。それなのに。
今まで必死に世話をしていた自分をあっさり忘れた祖母の傍にいないで済む事に、どうしてもホッとしてしまうのだ。
……これがその日に起きた事だ。そしてこの日以降の記憶は無いから、多分その日にマリアはミーナとしてこちらの世界に転移したのだろう。
「……あたし、きっとお祖母ちゃんから逃げたくて、この世界に来たんです。あんな状態のお祖母ちゃんを放り出すなんて、酷い事を…… あたし、最低です!」
泣きじゃくりながら打ち明けるミーナの背を優しく撫でながら、ヒルデガルドは言った。
「あなたの話によれば、あなたのお祖母様はきちんと世話をして貰える所に行ったのですよね。そして、あなたとお祖母様には信頼出来る人が、後見してくれているのですよね」
「……はい。藤田さんが」
認知症になる前の祖母はとてもしっかりした人だった。自分が認知症だと知ると、すぐに以前から懇意にしていた藤田弁護士に成年後見人になってくれるよう依頼し、マリアの事も頼んでいた。
マリアが見ても藤田弁護士は誠実な人物だったし、何よりあの祖母が選んだ弁護士だ。信頼出来る人だと思う。
「なら大丈夫。あなたがいなくなっても、きっとその人がお祖母様に不自由が無いよう計らってくれますよ」
更にヒルデガルドはこう言ってミーナを慰めた。
「あなたがこちらに転移する直前にお祖母様があなたを忘れた事は、あなたにとっては辛い思い出なのでしょう。でも、私はむしろ神の御慈悲なのだと思いますよ。あなたを忘れれば、お祖母様はあなたがいなくなっても悲しい思いをせずに済むでしょう? あなたがこの世界に転移したのは神に何らかのお考えがあったが故の事でしょう。そうなさる際に、神はあなたの大事な人を苦しめない為に、そのようにお計らいになったのではないでしょうか。今頃、お祖母様はきっと心穏やかに暮らしていますよ」
ミーナは顔を上げた。目は赤く腫れていたが、涙は止まっていた。
そんなミーナにヒルデガルドは更に言い聞かせた。
「私はね、あなたがこの世界のご両親の下に生まれる前にいた世界で経験した事も、れっきとしたあなたの〝過去〟だと思いますよ。その過去を踏まえて、今のあなたがいる。その事をただ拒絶するのではなく、まず認めたらどうですか。ゆっくりでいいから、よく考えてみなさい。自分が転移者だという事をあなたは実際の所、どう思うのか。転移する前の、過去の自分について、どう思うのか。同じ世界にいた、その挿絵画家さんの事を、本当はどう思っているのか。そして、これからどうしたいのか」
「…………」
「結論が出たら、教えて下さい。それでもサイリア修道院に移りたいと願うのであれば、その時はあなたの意思を尊重しますよ」
ヒルデガルドは微笑むと、立ち去った。
〝あなたにとって、この世界に転移する前の世界は、考えたくも無い程嫌なものだったのですか?〟
ヒルデガルドが去った後、ミーナはヒルデガルドに言われた事をずっと考えていた。祖母に対する疚しさに折り合いをつけた今、ようやくミーナはニホンでの生活に向き合っている。
決して快適な生活で無かったのは確かだ。母は小さい頃に亡くなり、残った父親はロクでも無い人間だった。その後妻である義母も同様だ。
自分を引きとって育ててくれた祖母は優しかったが、やがて認知症になり、マリアは祖母の世話に明け暮れた。
人生を楽しむ余裕など、殆ど無かった。
だが捨ててしまいたい人生だったのかと問われると、そうだと言い切ることは出来ない。あの時のマリアは精一杯生きていたという自負はある。
それに。
(御影君……)
こちらの世界に胎児として転移して、今の両親の娘として育てられて。
タクヤに記憶を引きずり出されるまで、元の世界の記憶の多くがこちらの世界での人生に埋もれていた。
しかしタクヤ―― 御影卓也の事は、〝夢〟としてではあるが、かなり鮮明に憶えていた。だから銀の渓谷で再会した時に、タクヤはそれなりに歳を取っていたにも関わらず、すぐに彼だと分かったのだ。
初めて会った時の事だって、今もハッキリ憶えている。
そしてミーナは呟いた。
「……良い奴だったな、御影君は」
今までタクヤからひたすら逃げるだけだったミーナはようやく思い出した。御影卓也が自分にとって、どんな存在だったのかを。
明日は16時前後更新の予定です。




