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だから頭に血が上った父親がマリアに向かって再び片手を振り上げた時、卓也は思わず飛び出していた。そして父親の腕を掴んだ。自分でもびっくりするような行動だった。
父親はいきなり自分の手を両手で押さえつけた少年に驚いた顔をしたが、すぐに怒りを露わにした。
「何だお前は!! 邪魔をするな!!」
そして今度は卓也めがけて拳を振り上げる。卓也は細身で父親はかなりガッチリした体型だ。力なら上だと思ったのだろう。
その時後ろから忍び寄ったマリアが思い切り父親の股間を蹴った。悲鳴を上げてうずくまる男を放置し、マリアは卓也の腕を掴んで小道を走り出た。
しばらく走ったところでマリアは止まった。そして荒い息をつきながら卓也に言った。
「ありがとう、御影君。助けてくれるとは思わなかったわ」
「いや……」
卓也も呼吸を整えながら答えた。心臓が早鐘の様に鳴っている。走ったからではない。心が高ぶっているのだ。大人に逆らうのも、家と学校を往復する行動から外れた真似をしたのも初めてだったから。
不意にマリアはうつむいた。どこか怪我でもしたのかと卓也は慌てたが、やがて背中が震えだす。
そしてマリアは声を上げて笑った。
「あの顔見た? ああ、良い気味だった! あいつ、あたしがやり返すなんて、思いもしなかったんでしょうね」
卓也から見ればどう見ても大変な状況に置かれているだろうに、笑うマリアは生き生きしていて、本当に楽しそうで。
卓也もつられて笑った。楽しいと思って笑うのは、久しぶりだった。
しばらく笑うと、マリアは腕時計を見て呟いた。
「もう帰らないと。あいつのおかげでずい分時間を無駄にしたわ。じゃあね、御影君」
そう言ってマリアが立ち去ろうとした時。
卓也は思わず声を掛けていた。
「家まで送るよ。あいつが追って来たら、まずいだろう?」
もういつもの予定の時間を大分過ぎたのに。家で絵の勉強をしなければならないのに。
卓也はまだ〝予定〟に戻りたくなかった。小さい頃以来の心地良い解放感を、このささやかな〝冒険〟を続けたかったのだ。
マリアはじっと卓也を見つめたが、やがて笑いながら言った。
「そう? なら送って貰おうかな」
女の子を家まで送る。たったそれだけの事なのに、それは卓也に取って素晴らしい時間になった。共に歩いているマリアがそうしたのだ。
マリアは様々なものに目を止め感動の声を上げた。通りすがりにある古い建物、店の風変りな内装や看板、色づいた木々、変わった落書き。
他の者なら見ても何とも思わないようなささいな物も、マリアが見れば素晴らしい宝物になった。それまで全ての物をただの〝素材〟としか見ていなかった卓也は、ほんの僅かな時間歩いただけで気付かされたのだ。世界は、輝きに満ちていると。
だからマリアの家に着いた時、卓也は勇気を出して言った。
「ねえ、俺の家も途中までは同じ道だからさ。良かったらこれから一緒に帰らないか? 多分、帰る時間は同じぐらいだろう? しばらく君の護衛をするよ」
すると、マリアがとても嬉しそうに笑ったのだ。その笑顔はとても可愛くて。
こうしてマリアは卓也にとって、ただのクラスメイトから〝特別〟になった。
※ ※ ※
「――すみません、今なんて仰いましたか?」
魔王バルバロッサの担当編集であるミナコはタクヤに聞き返した。聞こえなかった訳では無い。タクヤが今言った事を、耳が拒否したからだ。
だがタクヤは、ミナコがそれだけは聞きたくなかった事を、繰り返し言った。何でもない事の様に。
「だから、今年末の契約更新日をもって、俺は魔王バルバロッサの挿絵の仕事を止める。同時に俺が持つ魔王バルバロッサ関係の版権も、全て引き上げる。以後は二度とバルバロッサの絵はこの世界に出さない。出来るよね? そういう契約なんだから」
「――冗談ですよね? そうですよね!?」
顔を強張らせながら震える声で、縋る様に言うミナコに、タクヤは大きく顔をしかめた。
「もう一度同じ事を言わせたいのかい? 冗談なんかじゃない。今年一杯で、バルバロッサをこの世から消すつもりだ」
「ちょっと待ってください!!」
ミナコは血相を変えて叫んだ。
そして大きく深呼吸すると動揺を必死に抑え、自分に言い聞かせた。冷静になれ、ここで頭に血が上ったらそれこそ終わりだと。
ミナコは出来得る限りの愛想笑いを浮かべながら、交渉に掛かった。
「ヒナツ先生と、また何かあったんですね。分かりました、何とかして先生を説得しましょう。出来る限りミカゲ先生のご希望に沿うようにしますから、今回はどうかお怒りをお収め下さい」
タクヤはミナコの必死の言葉を笑い飛ばした。
「おいおい、俺の決断にあいつは関係無いよ。変な勘違いであいつに文句を言うのは止めてくれ」
「ならどうしてですか!? 何かご要望がおありでしたら、出版者も席る限りの対応をさせて頂きます。仰って下さい、何がご不満なんですか?」
「逆だよ。満たされたから、止めるんだ」
「――は?」
呆然とするミナコに、タクヤは微笑みながら言った。
「もう目的は果たした。これ以上無理にこんな世界に関わる必要は無い。それだけの財産は築いているしね。これから俺は、一生俺が心から望むものとだけ共に暮らすんだ。その為にはあの絵が邪魔なんだよ。アンドウさん、話は済んだ。もう帰ってくれ」
ミナコはタクヤを怒鳴りつけたい衝動にかられたが、どうにか抑え込んだ。
魔王バルバロッサの挿絵の仕事を止める理由を問い詰めたいが、恐らくタクヤは言わないであろうし、ここで無理にタクヤを追及してさらに機嫌を損ねでもしたら、それこそタクヤを翻意させる可能性を低くするだけだ。
魔王バルバロッサはただ出版社に莫大な利益をもたらすだけでは無い、〝特別な〟小説だった。ミナコも大まかな事情は聞かされている。何としても中断させてはならない。
ミナコは一旦引き下がることにした。とにかく、自分の手には負えない。編集長に、いや、社長も交えて相談しようと心に決めた。
明日は12時前後更新の予定です。
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