仕事を円滑に進めるコツは溜めない事
自室から出ると塵一つ無い屋敷の廊下を少しだけ気怠い歩みで進んで行く。窓から差し込む太陽の光が顔の肌を優しく照らすとこのまま何処かへ行っちゃおうかなぁ――って気分になちゃうけど、仕事は仕事。
良い大人なんだから分別付けないといけないわよね。
屋敷に籠っていないで日の当たる所に御出でなさいと、私の悪い心を刺激してしまう光の手に別れを告げて執務室の扉を開いた。
うわぁ……。何よ、これ。
執務室に入るなり視界に飛び込んで来たのはまるで山の様な書類の塊だ。
幾つもの山が机の上に聳え立ち、早く踏破してみせろと胸を張って鎮座していた。
この一枚一枚、全部目を通して捺印やら書類に己の名前を記さないといけないのよね??
仕事を始める前だってのにどっと疲れが押し寄せて来ちゃった。
「はぁ……。ねぇ、レイドぉ。私、今から疲れちゃうよ??」
女性が使用するには少し大きい執務机の片隅。
以前、彼と一緒に王都の街を散策した時に偶然出会った絵描きに描いて貰った絵を見つめて溜息混じりに話し掛ける。
絵の大きさは十五センチ角程で額の中へ大事に二人の姿を閉じ込めてある。
ふふ。この顔、可笑しいんだ。
満面の笑みを浮かべて彼の体に寄り添う私に対し彼は何とも言えない表情を浮かべていた。
執務に追われどうにも出来ない苛立ちを覚える度、私はこの顔に救われているのよね。
「お馬鹿さんっ」
得も言われぬ顔を指で突くと妙な感情が沸いてしまう。
仕事を全部ほったらかして彼の下に飛んで行こうかなぁ……。
私が攻めると彼は少し身を引き、それを良しとしない私はもっと苛烈に攻め込んでやる。
慄く顔と満面の笑み。
今この時しか存在しない貴重な時間を二人それぞれ違った表情を浮かべて共有する。それはきっと物凄く楽しい時間なのだろうさ。
「いかんいかん。偶に帰って来るだけだし、仕事はやらなきゃ溜まる一方だもんね」
己に強くそう言い聞かせて、頂上から複数枚の紙を手元に置いて早速文字の波へと目を泳がせ始めた。
え――と。出産は……。
うっそ、もう直ぐじゃん。あの大人しい子が出産ねぇ……。
出産承認の初めに記載されていたのは齢百程度の淫魔の名だ。
おどおどした性格に男に対して若干億劫。同じ淫魔として心配になる位の気弱さが目立つ子であったが……。
時の流れは残酷ねぇ。がっつり孕んじゃってさ。
出会った男は……。王都を訪れた旅商人、か。
紙に記されている王都の二文字が美しい思い出の中に眠る銀時計の姿を蘇らせてしまった。
あそこで待ち合わせして……。沢山買い物して……。そして一緒に笑って。あの日は本当に楽しかったわ。
「はい、承認っと」
書類の捺印箇所にポンっと捺印して一人目の承認を終えた。
別にさぁ……。
承認とか一々面倒な事、しなくてもいいじゃない。一気に子供が増える訳じゃないし??
でも、まぁ。
全く知らぬ子がここを歩いていたら目を丸くするかな。
管理というか、お互いが良く知っておく為に態々こうして書類を纏めて保管するんだけども……。それを全部私に押し付けるのはやり過ぎじゃない??
捺印だけならグウェネス一人でも出来るし。
「失礼致します」
真面目な彼女の事を思い浮かべていると件の彼女の声が扉の向こうから届く。
「はぁ――い。どうぞ――」
二人目の出産承認書に目を通しながら声を出して入室の許可を出してやった。
「精が出ますね??」
山越しにちょっとだけ陽性な感情を含ませた声が届く。
溜まっていた書類が減って嬉しいんでしょう。
「ど――も」
「朝食はこちらに置いておきますね??」
おぉ、どうりで良い匂いがする訳だ。
机の端の端。
執務に邪魔にならない場所に木製の盆が置かれる。
可愛いコップに注がれて馨しい香りを放つ紅茶。新鮮な野菜とがっつり腹に溜まりそうなお肉が挟まれたパン。
ご機嫌な朝食に心が躍る。
「執務中でも摂取出来る。それを心掛けて御作りしました」
「どうふぉ――」
言うが早いか。
パンを片手に書類に目を通して咀嚼を続けた。
「行儀が悪いですよ」
「別にいいふぁない。あんたしか見ていないんだし。んっ。二人目終了っ」
きっちり捺印して捺印済みの場所へ書類を置いてやる。
「この速さを維持すれば、昼までには終わりそうですね」
「ふぁ――ね――」
「因みに、本日の御予定は??」
予定、かぁ……。
ん――……。あ、そうだ。
「王都へ買い物に行って。それからぁ……。減量の為に大陸を飛んで横断するわ」
この口煩い淫魔から寝起きに言われた事が頭から離れない。
多少なりにも自分が己の体型を気にしている事に驚くわね。
「それが宜しいかと思われます。……飛ぶと申されましたが。本来の姿になる時は魔力制御をお忘れにならない様に。エルザード様が勝手気まま自由奔放に力を解放されたまま飛翔されますと地上にいる人間は卒倒してしまいます」
「分かってるって――」
あ、いっけない。捺印箇所間違えちゃった。
「最悪、意識が戻らない人間も現れるやもしれません。お忘れの無い様に。それと、南西には近付かれない様にして下さい。魔女の居城には対空魔法が設置されております。いくらエルザード様とはいえお一人では対処しきれない可能性が高いと考えられます。後、ハンカチと現金。それと…………」
「あんたは私の母親か!!!!」
パンを皿の上に置き思わず声を荒げてしまった。
一々小言が多いのよ!!!!
「エルザード様の母親は数百年前に他界されました。それはもう……。素晴らしい御方でした。他種族の配慮も忘れず、我々淫魔を一番に想い、率先して導いて頂きました。自由奔放が特徴である淫魔として、その性格は些か不釣り合いかと存じましたが。それが逆に新鮮に映ったのですね。一族は彼女に傾倒し、エルザード様が生まれた時はまるで我が子の様に喜んだのを今でも覚えております」
「あ――。はいはい。悪うございましたねぇ――」
この世に存在しない母親と比べないでよね。
「しかし、今のエルザード様をお母様が見たらきっと嘆き悲しむでしょう。里へは偶にしか帰って来ない、自由奔放に大陸を跋扈して剰え狐一族に迷惑を掛ける始末。そう言えば……。狐の里にずっと居座られて迷惑だと匿名で苦情の連絡も来ておりますよ??」
「はぁ?? 苦情?? 匿名は何て名前??」
まさかと思うけどあのクソ狐じゃないでしょうね。
柔らかな蒸気を揺らす紅茶を啜りながら聞いてやった。
「えぇっと確か……」
グウェネスが思い出すように目をきゅっと瞑っている。
「――――。思い出しました。『弟子を寝取られそうになっている、超絶怒涛の可愛さと強さを兼ね備えた史上最強の狐さん』 からの苦情で御座います」
「ブフッ!!!!」
あ、危ない。
紅茶を吹き出して書類にかけそうになっちゃった。
「あ、あのクソ狐!! やることが根暗過ぎなのよ!!!!」
何で私に直接言わないで里の者に知らせるのよ!!
「その史上最強の狐さんに一応返信をしておきました」
「はぁ?? イスハに??」
「違います。史上最強の狐さん宛てに、です」
この際、どっちでもいいわよ。
「で?? 内容は??」
「内容はこうです。『苦情の件、確かに受け取りました。我が一族を束ねる女王は我々淫魔に対し自由に過ごせと仰せつかっております。女王がその手本となる姿を我々に示す事は至極当然かと思います。しかし、それが狐一族に対して多大な迷惑を掛けている事に我々も大変遺憾の念を抱いております。そちらで消費した食事並びに宿代としてお気持ちばかりの代金を送付させて頂きました。此度はこちらの不手際がそちらに対し、義憤を抱かせてしまった事をお詫び。今後再発防止の為、尽力を惜しむ事無く発揮する所存です』 」
「え――。お金払ったの??」
「左様で御座います。女王が跋扈するのは構いません。我々淫魔は元々そういった性格が強い種族ですからね。そしてそれの尻拭いをするのが私の役目です」
聞き捨てならない単語が耳に残る。
「…………ちょっと。今尻拭いって言った??」
「さぁ?? 気のせいではございませんか」
私がジロっと睨むときゅっと小首を傾げる。
「では、私はエルザード様の部屋の掃除。並びに汚れたシーツの洗濯に参りますので」
私の鋭い視線から逃れる様にスタスタと感情の無い足音を立てて部屋から逃げて行った。
「汚くないっ!!!!」
閉じられた扉に向かい憤りを咆哮して特大の舌打ちを放つ。
全く!! 仕事の邪魔をして!!
眉をぎゅぅっと寄せて書類を睨みつけてやった。
はぁ、朝っぱらから疲れるわねぇ。
「ね、レイド……」
こういう時こそこの絵の出番だ。私の溜まりに溜まった憤りをすっと柔らかく溶かしてくれる。
ふふ、ありがと。元気出たよ??
難しい顔を浮かべる彼に心の中で小さく礼を述べ、若干荒々しい咀嚼を続けながら己に課せられた責務を黙々と片付けていった。
お疲れ様でした。
本日より番外編の連載を開始させて頂きます。
本編のプロットもちゃんと執筆していますので御安心?? 下さいませ。
さて!! 野球の日本シリーズも大詰めを迎えました。
果たしてどちらが勝利を掴み取るのか、目を離せませんね!!
それでは皆様、お休みなさいませ。




