渡し舟
冷たい朝だった。分厚い雲に遮られ、地上に届くのは、唯、微かな光であった。更に、河の近くは霧が立ち込め、より辺りを鬱蒼としたものにさせた。支配しているのは、鈍い色彩と、洗剤の混じった排水溝のような臭みである。
岸には一層の小舟が、荒縄で繋がれており、傍には煙管をふかしている、船頭らしき禿頭の初老が、ぼんやりと陸の方に目を滑らせていた。
すると、霞をかき分け、どす黒い外套を着た男が来るのが分かった。まだ遠いから顔は判然としないが、その歩みからは、一種の不満が感ぜられる。
船頭は煙管を吸うのを止め、袋にしまった。それから調子を確かめるように、何度か前屈をしたり、肩を回したりした。
外套を着た男が近く迄来ると、船頭は、
「やあ」
と挨拶をした。男は少し戸惑って、目礼のみを返した。
近くに来ると、男が怪我をしているのが分かった。手は赤黒く染まり、その飛沫が外套──それは、所々破けていた──にもいくつか跳ねて、染みをつくっている。が、特徴的なのは、首にある円環状の、鬱血痕である。首から上は酷い色をしていた。これらのことから、男が一度死んでいることは容易に推察させられた。
「河を渡りに来たんでしょう。通行手形を出すと良い」
船頭は、男にこう催促した。
「なんだ、その通行手形とは。そもそも俺は、何でここに来たかもわからないし、ここがどこかさえ分からないのだ」
男は、船頭の言っていることが全くもって解せないという風であった。
「恐らく、貴方の着ている外套のポケットに紙片が入っているでしょう。それが通行手形だ」
男は、船頭の言われた通り、ポケットの内側を探った。すると、確かに紙片のあることが認められた。皴こそ少ないが、紙面はどことなく薄汚かった。
広げてみると、達筆とは言い難い、よれた字でこう書いてあった。
三途之河通行手形
貴殿、△村□雄は、以下の因の果てぬるに依り死せり。
・絞首自死
尚、生前の罪状は、以下の記す通りである。
・生類の生殺与奪
・刺突殺人
・自死
・輪廻法第四十九条違反
・同第五十二条違反
・同第百一条違反
従って、天界が阿僧祇の日の出と日没を迎える迄、地獄にて服役の義務を負うものとする。
受刑地 地獄南東地区
***
「そうか、俺は死んだのか。だけど、俺はこのことについちゃ、なんも憶えてない」
男は、驚愕とmelancholyを巡らせる表情で、吐露した。
「大体の人はそう言う。別段思い悩むことじゃありません」
船頭は、慰めるつもりでもなく、事実そうなのだというように返した。
「船に乗ってください。もう今更変えられぬ運命ですよ」
男は逡巡を顔に巡らせたが、どう考えても理解の範疇を超えたことを悟り、小舟に乗り込んだ。そして、こう呟いた。
「そうか、俺は死んだのだな」
「ええ、そうですとも」
舟は滑るように動き出した。船頭が熟練者であることは、櫂を扱う腕が巧みに動くことで、容易に察せられる。
舟が半ば迄渡ったところで、男が口を開いた。
「なあ、船頭。あなたは経験豊富そうだから聞きたいのだ。俺は、服役すれば赦されるのか?」
「それは、罪から解放されるということですか?それとも、前世の人から容赦されるということですか?」
船頭が、定義を質すと、男は困惑したようで、
「その両者の違いとはなんだ。赦されるとは、一義的なものではないのか?」
と、尋ねた。すると、船頭は懐古というよりは、食傷気味の顔をして、
「ええ、大きく異なりますよ。前者については、輪廻法の定める所に依って、保証されています。しかし、人の怨嗟とはそう簡単なものではないでしょう。それは、あなたの生きていた世界での日常とも言えることでしょう。常識的に考えれば、死人を憎む道理なんて、ない筈なのですがね」
と言いつつ、笑いを噛み殺すように、口の端を曲げた。
男は、船頭の言うことを、何度か頭の中で反芻した。言っていることが理にかなっていることは十分承知できたが、喉に突っかかる様な感覚を覚えた。
「さあ、そろそろ地獄岸に着きますよ」
岸からは、凡そ二〇〇メートル程の距離があった。が、既に業火を視認することができた。微かに漂う、杏にも似通った香りが鼻腔をすくめた。
烈火のテクスチャはとても美しい赤色を揺らしていた。