恐怖のマギアライト洞窟
「な、何よこれぇ……」
洞窟の内部を見てしまったシェリルは悲鳴を上げ、横にいたヘンリーに抱きついた。
ヘンリー洞窟を覗き込むと、彼は彼女が怯えた理由を理解した。
天井からは冒険者一行を見下ろすコウモリが爛々と目を光らせ、地上は泥のようなものに覆われている。
左右を見渡すと、羽化したばかりのゴキブリが無数に張り付いた岩壁が、赤茶色に染まっていた。
人里で見かけるそれは、人間を見かけるや否や素早く反応して逃げ回るのが普通だ。
だがリチャードが灯りを向けても微動だにせず、触覚だけを頻りに動かして平然としている。
ゴキブリだけではない。
ぶら下がったコウモリも、洞窟内の昆虫を喰らいにきたムカデも、彼らを恐れる様子がまるでない。
我関せずといった風で、彼らはヘンリーたちを静かに出迎えた。
一心不乱に餌に食いついているのを見て、ヘンリーは思った。
この洞窟に蔓延る全ての生物や魔物。
これらが一体となって、冒険者たちが肉塊に成り果てるのを待ち望んでいることに。
動物界の掟である弱肉強食が、ここでは人間にも適用されるのだろう。
少年が四方に注意を向けていた、その時である。
ビチャリ、ビチャリ……
暗闇の奥で、何かが垂れ落ちる音が鳴り響く。
天上から、地面に何かが降り注いでいたのだ。
「な、何だ。これは」
魔物の仕業だろうかと、少年は咄嗟に訊ねた。
「地上に泥みたいなものが堆積しているだろう。これら全てコウモリたちが落とす糞だ。虫たちにとってはご馳走でな。これを餌にして、こいつらは育ってるのさ」
「それに洞窟内は、ガスが充満していて常に暖かい。こいつらにとっては楽園だろう」
リチャードは淡々と状況を説明していく。
彼の淡白な反応とは裏腹に、二人は戦々恐々としていた。
あまりに壮絶な光景に、彼らは恐れることしかできなかった。
「うへぇ……。話には聞いてたけど、想像以上だな」
「数ある大陸の冒険譚で、この世の地獄、なんて称されることもある場所だからな。どうする、引き返すか」
気圧された様子の二人に、リチャードは再び言葉を投げ掛ける。
彼の挑発的な物言いは、二人の闘争本能をくすぐった。
新米とはいえ、二人とて冒険者の端くれ。
そう簡単に、理想や目標を曲げるつもりはない。
しかしそんな彼らの気持ちなど露知らず、彼は返答を待つことなく、次の句を繰り出す。
「冒険者なんざ、俺の国じゃあ皮剥ぎと一緒で、軽蔑の対象なのさ。社会の底辺がやる、汚れ仕事としか認識されてねぇ」
「にも関わらず、お触れのせいでお前らみたいな希望に満ちた連中が、うじゃうじゃ国にきやがる。不愉快なんだよ、そういう奴らがよ」
ヘンリーは、彼の言う希望に満ちた連中というのが、魔女退治に現れた冒険者であると読み取った。
だが冒険者を嫌悪していながら、自身は冒険者であり続けるという矛盾が、彼にはどうも引っ掛かる。
暫しの間思案した後、ヘンリーの脳裏にある出来事が浮かんだ。
彼に会う以前に、町人から嫌々ながら冒険者という職業に就く者も多いと、聞き及んでいたのだ。
冒険者として活動していく為には、各国に点在する冒険者組合に入る必要がある。
組合の方針を一言で言い現わすと、来るもの拒まず去る者追わず。
質もピンキリで、中には野盗同然の人間もいるせいか、冒険者という職業自体が忌避されることも少なくはない。
だが本来は生物や魔物、植物などへの広範な知識や、有事の際に決して膝をつくことなく、戦い続けるだけの身体能力の高さを要求される。
ごく一部の人間のみに許された職業といっても、過言ではない。
当然意識の高い人物とそうでない人物の間には、諍いが発生する。
彼も望まずして、冒険者となったのだろうか。
だとすれば嫌悪していても、不思議ではない。
事情を何一つ知らないヘンリーは、黙り込んでしまう。
「ケッ、面白くねぇな。何とか言えよ、坊主」
「リチャード、急にどうしたのよ……。私たち、何か怒らせるようなことした」
「いったろう、テメェらみたいのが気に食わないってよ。それ以上でも以下でもない」
シェリルが宥めても、一向に彼の機嫌はよくならない。
寧ろ仲裁に入った彼女が叫ぶ度に、リチャードの碧眼の鈍い輝きは徐々に増していった。
「喧嘩でも売ってるのか。でも俺は買わないぜ。冒険前に疲弊してちゃ、しょうがないからな」
興奮冷めやらぬリチャードに、ヘンリーは唇の両端を吊り上げ、余裕の笑みを見せた。
暫しの間、両者ともに目線を動かすことなく、見つめ合う。
縄張りに侵入した猫へ、ここは俺の居場所だと主張するかのように。
一触即発の雰囲気を感じ取ったシェリルも、沈黙を貫く。
数分にも思える濃密な時間が流れた後、先に折れたのはリチャードだった。
乗り気ではない彼の対応に興が覚めたのだろう。
煙草の煙を吐くように、すぼめた口で息をつくと、彼に背を向ける。
少年は、内心穏やかではなかった。
これまでも少年は意図せず失言をした時、即座に謝って場を収めた。
何故今更になって、また怒り出すのだろう。
そもそも会ったばかりの赤の他人に、罵詈雑言を浴びせられなければいけないのか。
元々気の長い方ではない彼の堪忍袋の緒が切れるのも、もはや時間の問題だった。
「本当にタマついてんのかい、お前さん。去勢した犬っころの方が、よほど凶暴だぜ」
振り返りざまに吐き捨てる。
「ちょっと! 私の大事な人を馬鹿にしないでよ!」
これまでの彼の言動は、世間への愚痴や嫌味が多かった。
生きていれば、国に対して多少の不平不満があるのは、当たり前だ。
鬱陶しいと感じることはあれど、別段咎めるようなものでもなく、彼女は聞き流せた。
しかし少年への悪意を込めた発言を、正義感の強い彼女は無視はできなかった。
「これだけ言われても、何とも思わないの!」
激高したシェリルは、ヘンリーを焚きつける。
少年とて、怒りを覚えないわけではない。
唐突に憤りをぶつけられたせいで、感情が追いつかず、喋ることすらままならなかったのだ。
理由こそ判明しないが、悪意があるのだけははっきりしている。
一方的に罵られるのをよしとするほど、彼は大人ではない。
数々の暴言に耐えかねたヘンリーは、ついに重い口を開いた。
「……どんな事情があるのか知らないけどさ。そこまで嫌なら、辞めればいいじゃないか。なんで怒ってるのかは知らないけど、俺に絡んでこないでくれよ」
難癖に気分を害したヘンリーが、何の気なしに言い放つ。
彼とて言うべきではないことを、心の中に留めておく思慮がない訳ではなかった。
売り言葉に買い言葉で、つい思ったことを、そのまま口にしてしまったのだ。
互いに放言を言い合うだけでは、会話とは呼べない。
だが少年は、それでも構わなかった。
彼の胸に、リチャードと関わりたくないという、拒絶の意思が芽生えたからだった。
「痛い所を突くガキだな。だが親父に目に物を見せてやるまで、俺は冒険者を辞めるつもりはない。親父はあの世にいるかもしれんがな」
「……リチャードの親父さん、死んでるのか。分かるような、分からないような、複雑な気分だな」
父親の死を口にしたリチャードに対し、ヘンリーは曖昧な返事で同情を示す。
少年の反応に、言うつもりのない発言したことに気がついた彼は、慌てた様子で直立した。
「おおっと、口が滑っちまった。人には秘密くらいある。俺もお前の隠し事を探ろうとはしなかったんだ、余計な勘繰りはしてくるな」
リチャードは少年を見据えた。
金で繋がっているだけの乾いた関係。
互いに深入りすべきではない。
有無を言わさぬ眼力に、少年たちは同意せざるを得なかった。
「最終警告だ。洞窟の中で泣き喚いても、誰も助けにきやしねぇぞ。腹を括れ」
三度に渡る注意に若干うんざりしながらも、二人は無言のまま、こくりと頷く。
ここまで執拗に注意を促すのだろう。
ヘンリーには、リチャード自身が冒険に出るのを拒んでいるかのように映った。
自分も今後、彼のようにやさぐれて、大切な何かを失っていくのだろうか。
うらぶれた風貌の彼と関わっていく内に、少年の不安は徐々に増えていった。
冒険者として食いつないでいけるか、将来への懸念。
強大な魔物や魔女と交戦し、看取られることなく息絶えるかもしれない絶望。
胸の内に抱えていた負の感情が、空気を入れた風船の如く、次第に膨らんでいく。
出発前、前向きな心持ちで抑え込んでいたものが、怒涛の如く双肩に圧し掛かった。
何とかして、心に燻るものを鎮めなければ。
深呼吸すると生暖かい空気とともに、異臭が入り込み、少年は苦悶の表情を浮かべた。
「ゲホッ……。臭いな、本当に」
むせながらも、何度か繰り返すと、幾分か少年の気持ちは楽になっていった。
ダンジョンへ行く前から、プレッシャーに押し潰されていては話にならない。
唇をぎゅっと噛み締め、少年は毅然とした顔つきで立ち尽くした。
「脅しのつもりだったんだが、怖気つかないとは。とんだ命知らずだな。向いてるぜ、この仕事」
「へへ、ずっと旅するのが夢だったんだよ。俺のやりたいこと、誰にも否定させるもんか」
虚勢を張る彼を何も言わず、まじまじと見つめる。
一円でも安い品を見定める主婦のような、厳しい眼差しで。
「それに俺は一人じゃないからさ。頼りにしてるぜ、二人とも」
「ま、任しといて。な、なるべく頑張るから!」
強がる少女の声は上ずっていて、その場にいた二人にも、緊張しているのだと手に取るように分かった。
同じ家で育ったからか、二人の価値観は似通っている。
それでも得意なものや苦手なものは違って、互いの至らない点を埋め合い、生きてきたのだ。
「頼むよ、本当に。シェリルがいないと、俺は駄目な奴だから」
彼女の弱い部分を受け入れるように、ヘンリーはにこやかに微笑む。
「よっぽど嬢ちゃんが大事みてぇだな。……俺を案内役に選んだこと。後悔しても知らねぇぞ」
二人のやりとりを、間近で眺めていた彼は呟いた。
少年は彼意味深な台詞に言及はしなかったが、間を繋ごうと、辺りに目をやった。
すると、人一人乗れるくらいの台座が、入口付近に置かれていることに目を奪われた。
「あれは何だ」
「お前たちには話してなかったな。あいつと出くわした時に話しても遅いし、今の内に教えてやるか」
ヘンリーが聞くと、先輩風を吹かせたリチャードは、洞窟の歴史について語り出す。
「数十年前に、洞窟の魔物を退治しようとした貴族の娘がいたんだが、運悪く亡くなってな。これはその時、作られたものだ」
「……魔物に殺されたのか、不憫だな」
「いや、洞窟で頭を打って死んだんだよ。ったく、ドジだよな」
「えぇっっ! 話の流れからして、てっきり魔物の親玉にでもやられたのかと」
冒険者の死=即ち魔物に殺される。
そんな固定概念を抱いていたヘンリーにとって、彼の言葉は大きな衝撃だった。
動揺を隠せない少年に、彼はつらつらと冒険者たちの死の現実を語っていく。
「道端の野草を食ったせいで下半身不随になって引退した人間もいれば、錆びた鉄くずを踏んづけて、ぽっくり逝っちまった奴もいる」
「一国の英雄と謳われた男でも、くたばる時は呆気ないもんさ。俺もお前さんも、間抜けな死に方はしないように気をつけたいもんだな。はっはっは……」
言い終えると、リチャードは腹を抱え、気が触れたように笑い出す。
ヘンリーが横にいたシェリルに視線を向けると、彼女は私には分からないと言いたげに首を傾げた。
同調して笑うことも、かといって一緒になって馬鹿にするのも気が引ける。
二人は反応すべきか、困り果てていた。
「馬鹿でどうしようもない冒険者が死んでいっただけさ。嘆くこたぁねぇよ」
言い切る彼は、晴れやかな表情を見せた。
恨みを募らせていた冒険者が、死んだのだろうか。
彼が毒舌なのは、今に始まったことではない。
少年は口を尖らせて黙々と耳を傾けていたが、横にいた少女の眉間の皺は、彼が話す度に深く刻まれていった。
「そうやって馬鹿するなんて故人に失礼じゃない。リチャード」
たとえ面識のない人物への悪口であったとしても、聞いていて気持ちのいいものではない。
良識ある一言に
「そういうお前らだって、あいつに関わったら憐れむ気持ちも失せてくるだろうに。とっとと中に入ろうぜ」
彼は渋い表情を浮かべて云う。
いったいあいつというのが誰を指しているのか、二人には皆目見当もつかない。
だが彼の口振りから、あいつと呼ぶ者から何かされたのだろうと察するのは容易だった。