恐怖との闘い
少年が洞窟に片足を突っ込むと、生暖かい感触が靴下越しから伝わった。
足を踏み入れた途端、まるで大雨が降ってぬかるんだ土の上を歩いているような錯覚を覚えた。
地面は所々凸凹しているにも関わらず、糞によって覆い隠されているせいで、形状は踏んでみるまで分からない。
どこが安全で、どこが危険か、まるで判断がつかない上に、つるつると滑って、とても戦いどころではなかった。
一瞬の隙が命取りになりかねない。
悪条件がどんどん積み重なっていった。
やはり先ほど洞窟で感じたものは間違ってはいなかったのだ。
ヘンリーは険しい表情を浮かべ、意気消沈する。
過酷な環境は、彼にこれから始まる冒険が、決して平坦な道のりではないことを予期させるに十分だった。
「危ないな、注意を引き締めないと。転びでもすれば……」
「魔物に襲われても、走って逃げるような真似はするなよ。冷静さを失った連中から真っ先に逝くからな」
「またまた、そうやって脅かそうとするんだから。私は貴方が一番怖いわよ」
場を和ませようとしたのか、或いは危険性に気がついていないのか。
シェリルは彼をからかうと、屈託のない笑みを見せたが、二人は返事すらしなかった。
これから死地に向かう道すがら、明るい気分にはなれなかったのである。
「俺の後についてこい。ついてこれないようなら置いていく」
雰囲気に飲まれて、茫然としたヘンリーに、リチャードは檄を飛ばすと二人を残して先に進んでいった。
一切振り向くことなく、足早に。
呆気に取られた少年たちは、ぼうっと洞窟を眺めていたが、彼の頭上の光が遠ざかっていくにつれ、急いで追いかけねばという気持ちが沸いた。
「置いていかれちゃったな。見失う前に追いかけよう」
「そ、そうだね。……怖いけど、頑張る」
この洞窟は、ありとあらゆる手段をもって、冒険者たちを陥れようとしている。
この先は魔物の跳梁する巣だが、ここまできて臆しては、周囲から冒険者失格の烙印を押されてしまう。
何よりも自分自身が許せなくなる。
大公の試練、真正面から受けて立ってやろうじゃないか。
ヘンリーが覚悟を決め、内部に入ると、びくびく震えていたシェリルも後に続いた。
進むにつれて、大人が思い切り両手を広げたら、岩壁に触れてしまいそうなほどに、洞窟の横幅は狭くなっていく。
圧迫感を感じた二人は、いつも以上に肌を密着させた。
転びそうになったら、条件反射で壁に手をついてしまいかねない。
疲れても、昆虫だらけの岩へ背をもたれるのは、流石に憚られた。
シェリルは平気だろうか。
少年がふと隣を見遣ると、横にいた彼女は背中を丸まらせ、縮こまっていた。
転倒しないように細心の注意を払っており、足を引き摺りつつ歩む姿は、さながら老婆のようだ。
傍から見れば可笑しな光景だが、少年は彼女を馬鹿にする気分にはなれなかった。
岩に張り付いた虫たちが飛び掛かってきやしないかという恐怖心を、理性で押し殺して、必死に前へいく。
そんな健気さが伝わっていたからである。
「シェリル、調子はどう」
「最悪よ。昆虫さえいなければ、私だって足手纏いにはならないのに」
「そうだよな。俺、シェリルの分まで頑張るからさ。とっとと終わらせようぜ」
「ありがとう、ウィル。絶対生きて帰ろうね!」
励ましあいながら、二人は視界の先にある光を追った。
暫くすると暗闇に眼が慣れ、幾分か平静さを取り戻したのだろう。
背筋を伸ばして、辺りを見渡すだけの余裕が生まれていた。
だがそんな二人でもコウモリの飛び交う羽音や、時折耳にする悲鳴とも叫びともつかない奇声には、神経を尖らせた。
否、耳を澄まさざるを得なかった。
視界が不明瞭な、聴覚だけが、たった一つの生命線だったのである。
いつ襲われるともしれない不安が、彼らの五感を冴え渡らせた。
そんな彼らの心配むなしく、特に何事もなく、二人はリチャードの元まで辿り着く。
「遅いぞ、お前ら。てっきり逃げ帰ったのかと思ったぜ」
「おいおい、リチャード。少しくらい、待ってくれてもいいじゃんか」
離れ離れになれば、その分魔物に襲われた際に、死亡のリスクが高まる。
一人絶命してしまえば、連鎖的に命を失いかねない。
雇い主と雇用者の関係とはいえ、死ぬも生きるも一蓮托生であるのに違いはなかった。
「……発破かけねぇと、いつまでも洞窟に入らなかったろうが。急かされるのが嫌なら、自分から行け」
「そう言われると言い返せないな……」
「仕方ないよ。冒険者としての覚悟が、私たちにはまだ足りてないのかも」
経験と、それに基づいた素早い判断。
自分に足りないものを持つリチャードの有難さを、シェリルの一言によって、少年は気づかされた。
最低限の言葉は交わすものの、彼は友好的な人物とは言い難く、少々とっつきにくい面がある。
だが手を借りねば、ここまで来れはしなかったのも、また事実。
「リチャード。アンタを選んで間違いはなかったよ」
「感謝されるようなことなんざしてねぇよ」
「もしかして照れてるの。本当に素直じゃないんだから」
「大人ってのは、ガキみたいに喜怒哀楽の感情表現をしねぇもんさ。お前らといると、調子が狂うんだよ」
そういうとリチャードは、苛立った様子で頭を掻きむしった。
照れ隠しで刺々しい反応を示す彼を、生暖かい目で見守る二人の表情は、暗闇の中でさえ喜色満面に輝きを放っていた。




