酒場の争い
ルクス公国の酒場《ワタリガラスの止まり木》にて
「魔女をぶっ倒しゃ、このメシともおさらばだぁ」
皿に置かれたライ麦が原料の黒パンに目をやりつつ、大男が馬鹿でかい声で言い放つ。
普段であれば注意の一つや二つ受けるほどの声量だが、ここ最近は話が違った。
酒場は《破滅の魔女》討伐の為に訪れた冒険者たちで賑わっており、彼らも騒々しく騒いでいたからである。
それ故、彼らのやりとりに耳を貸す者はいなかった。
「いやいや、旦那。魔女ァ、俺の獲物ですから」
大男の大言壮語を下卑た笑顔で嘲笑いつつ、向かいに座るマッチ棒のように細い男が返事をする。
「なんだと、テメェ!」
「旦那の力は俺が一番よく知ってますからねぇ。アンタじゃ、魔女には敵いませんよ」
鼻がくっつきそうなほど二人が顔を近付けて、睨み合った。
互いの口振りから、それなりに長い付き合いだというのが、近くのテーブルに座っていた冒険者たちにも見て取れた。
長年関わっていれば過ごした年月の分だけ、情も、恨みも深くなっていくのが自然だろう。
二人の間に、並々ならぬ積もる思いがあったのか。
はたまた酒のせいで、タガが外れてしまっただけなのか。
火花が飛ばす大男に身震い一つせず、細身の男は血走った瞳を、大男へと向ける。
と
「おうおう。喧嘩なんてしねぇで、楽しくやろうや」
その様子を見て、鎧や甲冑を着込んだむさ苦しい男たちが肩を組み、杯を掲げ大笑しながら二人を宥めた。
彼らの手に持ったシードル(リンゴ酒)は、天井から吊るされたカンテラに照らされ、黄金色に輝いていた。
いつ喧嘩に発展してもおかしくない一触即発の雰囲気だったものの、酒に酔っているせいか、野次馬たちに深刻な表情をする者は、誰一人としていない。
ただ単に言い争いを見ながら飲む酒が不味いから、暴れられると迷惑だから。
止める理由としては、その程度のものだった。
その時である。
カンカン、ガチャ……。
ドアベルが鳴り、木製の扉が開く。
「おお、大盛況だな。想像通り、酔っぱらいしかいねぇな」
酒場にいた全員が、ドアの方へ視線を注いだ。
声の主は、俗にポールアックスとも呼ばれる長柄の斧を背中に背負った少年だった。
が、男たちの瞳は、少年に向けられてはいない。
その少年の背後に立つ、ローブに身を包む人間の姿に、酒場にいた誰もが目を奪われていたのである。
みるからに怪しげな風体に、彼らの冒険者としての本能が疼いた。
ダンジョンに落ちた宝箱を開ける時のように、彼らの心の中は、好奇心と高揚感で満たされていった。
「おい、そこの。暑苦しいフードなんか脱いだらどうだ」
喧嘩腰で、大男がローブの人間に突っ掛かかる。
「まぁまぁ、旦那。これでも飲んで落ち着いてくれよ」
少年は穏やかな口調で語り掛け、テーブルのエールが注がれたジョッキを、大男に握らせた。
荒々しい口調から彼が相当苛立っているのが、酒場に入ったばかりの少年にも察しがついた。
だからこそ周囲に飛び火する前に、火の粉を消そうとしたのである。
「なぁ、旦那。何があったのか知らねえけどさ。コイツを飲めば嫌なことなんて、全部忘れさせてくれるだろ?」
自分よりも年下の子どもをあやすような口振りに、大男は身体を震わせる。
少年に直接、侮辱された訳ではない。
少年は公共の場での目に余る行為を諭しただけであって、大男自身も彼が自分を馬鹿にするような意図はないように感じていた。
しかし周囲の反応は違う。
彼を時折横目で見やりつつ、ひそひそと話す常連に、逆に大男をいない者のように扱う人間たち。
大男は酒場にいる客たち全員が、自分を馬鹿にしているように思えてならなかった。
彼にも冒険者として積み上げてきた経験や誇りがある。
それ故に自分よりも未熟であろう少年が原因で、辱められるのは我慢ならなかった。
「るせぇんだよッ、ボウズ! 俺ァ、そこのそいつに聞いてんだ!」
大男は怒りのままに、ジョッキの中身を少年に浴びせる。
「……気は晴れたかい、旦那。怒っている理由は分からないけど、これで許してくれないか」
狼藉にも表情一つ変えず対応する少年に、大男は困惑した。
何故こいつは、怒らない。
今までは因縁をつけたら、温厚な人間であっても喧嘩を買ってきたのにも関わらず。
大男は怪しげな連れのいる少年に、今更ながら恐怖の感情が芽生えていた。
この二人はいったい何者なのだ。
頭上には疑問符が浮かぶ。
あれやこれや考えている内に酔いが覚め、興が削がれた大男が背中を向けると
「おい、でかいの。これ以上ウィルを愚弄したら、ただじゃおかないからな」
グラスを叩きつける音やガヤガヤ喋っている雑音の中でも、よく通る澄んだ声で、ローブの人間が彼に挑発を仕掛けた。
そしてその声を聴いて、酒をたらふく飲んでまどろんでいた意識は、八時間ほど睡眠を取った寝起きのように覚醒した。
フードで顔を隠した人間が女だったと、理解したからである。
喧嘩相手に、男も女もない。
全力を持って叩き潰す、それだけだ。
大男の表情が、自然と綻んだ。
「ほう、おもしれぇ。かかってこいよ、お嬢ちゃん」
「でかいの、受けて立ってやる」
「おいおい、まずいって……。目立ったらダメなんだから」
少年は止めに入るものの、二人はまるで聞く耳を持たなかった。
周りには、彼らの殴り合いを囃し立てる者さえいた。
酒場において流血沙汰はけして珍しいものではなく、それらも冒険者にとっては娯楽の一部だったのである。
中には争いを好まない善良で温厚な人物もいたものの、冒険者でごった返している酒場内で、注意を促せるのはよほどの命知らずが、一騎当千の猛者くらいなものであった。
少なくとも一般庶民には、その行く末を見守ることしかできなかった。
「こら、アンタたち! いい加減になさい!」
黄色のドレスに身を纏った女性が、二人に向かって声を荒げた。
彼女が叱責すると、先ほどまで騒がしかった酒場は、水をしんと打ったように静かになった。
「ここは酒を飲んで、日頃の疲れを憩う場所だよ。殴り合いがしたいなら、外でやりな」
毅然とした態度で、彼女は大男に詰め寄る。
夜闇に紛れて獲物を狙う獣のように鋭い眼光に、大男は思わずたじろいだ。