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スリップストリーム

 3秒、4秒、5秒・・・阿部はスイッチを切らなかった。振動で見難いバックミラーには後続車の姿は小さな点でしかなかったが、それでも16キロの直線で充分なマージンとは言い難い。16キロの直線は計算上4分以下で駆け抜けてしまうが、それでもたった5秒の加速では焼け石に水だった。水温計は、もはやレッドゾーンの入り口にあったし、油音も高すぎた。阿部は、冷却系のチューンで手を抜いたことを後悔した。10秒間のオーバーブーストで阿部はスイッチを切った。デジタルで表示されている速度は298キロになっていたが、オーバーブーストをカットした時点で数キロ降下してしまった。

「くそ、やっぱり水温が下がらないか」

 オーバーブーストで上がってしまうエンジンの熱が、フルスロットルのままでは下がってこなかったのだ。だからといってアクセルを抜くわけにはいかない。あとは後続のクルマが、どれほどの改造をされているかにかかっていた。どのクルマも、ノーマルで300キロも出るようには出来てはいない。特にランエボは加速を重視して低いギア比になっているはずだ。

 唐突に対向車が通り抜けて行った。

 対向する車線のクルマは100キロ程度の速度で走っているはずだったが、それでも相対速度は400キロ、という途方の無さなのだ。車種さえも確認できなかった。

 景色は後方へすっ飛んでいく。しかし速度に慣れてきた阿部の目は景色など見ていなかった。前方に車両がいないか、対向車は来ていないか。

「後ろは見ていてくれよ、マリア」

「わかってるね」

 答えたマリアの声も緊張していた。

「ストレートは、あと何キロ残っている?」

 マリアはモニターに目を移した。

「あと10キロ弱」

 エンジンが高回転で回っている。周期の速いバイブレーションが伝わってくるのと同時にダウンフォースと速度によって荒れた路面が突き上げる衝撃を吸収しきれずにスープラが跳ねる。安部は一瞬で進路を修正していく。

「ダメね、ステージアが来ているね」

 阿部もバックミラーに目を向けた。もう近い、としかわからなかった。バックミラーは振動していた。

「真後ろにくっつかれてるね。追い抜かれたらまずいね」

 ステージアは阿部のスープラの真後ろに付くと空気抵抗を減らして加速していた。スープラが押しのける空気抵抗の影に入り込み抵抗を軽減する。

「スリップストリームで前に出るつもりか」

 道路が軽い下り坂になってスープラは、ほんの少し加速した。阿部はそのままオーバーブーストをオンにする。エンジンは過熱したままだった。

「ダメね、オーバーヒート気味でパワーが上がらないね」

 マリアは悲鳴のような声を上げた。


 じりじりと、それでも速度が上がっていく。

 デジタルスピードメーターが330キロを表示する。もはや水温計はレッドゾーンに入ってしまっていた。阿部は、今にもエンジンがブローしてボンネットが吹き飛ぶような錯覚に襲われた。下り坂が終わると、今度は軽い上りに差し掛かる。対向車が来ていても、見えない死角が出来る。ステージアは、ここでは追い越しをかけないだろう、と阿部は期待を込めて思うが、だからといって加速を続けないわけにはいかなかった。じりじりと加速しているスープラだが、スリップストリームにいるステージアはぴったりとくっついたまま速度を上げてきた。

「逃げ切れないね」 

マリアが泣き声のような声を上げた。時速340キロ。上り坂が途切れる。ステージアが車線を変えて前に出ようとアクションを起こしかけた。

 阿部は咄嗟に妨害に出ようとステアリングを切りかけたとき、上り坂から下りへと変化する路面に、一瞬車体が浮きかけて、スープラはドスン、とフルボトムした。ギシ、と車体が軋む。阿部は思わず顔をしかめた。事実、予想にしなかった上下移動で首に衝撃を感じていた。

 その時、マリアは信じられないものを見た。

 車体を軋ませるスープラのフロントグラス越しの真上にテールランプが見えたのだ。一瞬遅れて阿部も気づいた。阿部は咄嗟にステアリングしてわずかにスープラの進行方向を変えた。ステージアは浮き上がって宙を舞っていた。そのままスープラに覆いかぶさるように舞い上がり、縦に回転しながら道路の外へと飛んでいった。マリアはリアグラス越しに道路外へ落ちていくステージアと、すぐさまバラバラと吹き上がる部品や土煙を見た。

「何が起きた・・・ね・・」

 マリアは信じられなかった。神様が、助けてくれたとしか、マリアには思えなった。

それは奇跡だとしか、思えなかった。

「スリップストリームでステージアのフロント周りには空気が当たらなかったんだ」

 阿部は、放心したような声を出した。


 マリアは阿部に振り返った。

「スープラの起こす空気の渦がステージアのフロント周りを包み込んでフロントのダウンフォースが減っているところに、さっきの上りから下りへとの変化があった。言ってみればジャンプ台のような地形になっていた。そこで一気に空気がステージアの車体の下へ流れこんで車体を巻き上げたんだ」

「そんなことって・・・」

「起きるさ、飛行機の離陸速度を遥かに超えているんだからな」

 阿部は思い出したかのようにオーバーブーストをカットした。時速350キロ、既に何もかもがレッドゾーンだった。エンジン回転数も、水温も油温も、何もかも異常値を指していた。このまま走っていれば、確実に壊れてしまう。

「あと、何キロだ?」

 マリアは我に返ったようにモニターに目を戻す。

「7キロ」

 もたない、と阿部は思った。アクセルを抜いてクールダウンしなくては・・・

「来た、パトカーとランサーエボ!」

 マリアが後ろを振り返って叫んだ。

「くそ!」

 阿部はヒーターを暖房の位置へ切り替えるとファンを全開にした。

「何するね?アベさん」

「エンジンの熱を逃がすんだ」

「そんなの効果あるね?」と、マリアはヒーターを指差した。

「やらないよりは、な」

 阿部はつぶやくような声で言った。エンジン熱を取り込んで暖房するヒーターだから、多少の効果はあるはずだった。しかし、もはやそんなレベルの発熱量ではなかったのだが。

速度計は250キロを指していた。オーバーブースト無しでは、それ以上の速度は維持できなかった。


 田尻巡査部長は、かなり前方だったが、急に空中に舞い上げられたステージアの姿を見た。それは同乗の警部の目にも見えていたようで、一体何が、とつぶやく声が聞こえた。

「飛んだんですよ、車が」

 田尻は、自分の心の動揺を悟られまいとして、わざと冷静な声で言った。

「ああいうことも起きるんです。それが超高速で走るってことなんです。まだ追跡しますか?」

 正直に言って、田尻は、これ以上の追跡は止めたかった。こんな速度は異常すぎる。いくら北海道だとはいえ、一般道を時速200キロ以上で走り続けるなんて有り得ない。そんなスピード域でクルマをコントロールできるヤツなんて本当はいないのだ。何か不測の事態が起きれば、すぐに大惨事になる。

「追跡せねばならないんだよ、田尻くん」

警部は青い顔で言った。田尻には、その顔が追い詰められた鼠か何かのように思えた。

「10年くらい前でしたか。ル・マンっていうフランスで開かれる自動車の24時間レースがあるんですよ。そこで、メルセデス・ベンツのレーシングカーが、さっきのステージアみたいに空を舞ったんですよ。トヨタのレーシングカーの真後ろを走行していたメルセデスが、なんの前触れも無くフロントから空中に舞い上がって縦に4回転ぐらいしてコースの外の雑木林に落ちたんです。クルマは20メートルぐらいの高さまで巻き上げられました。時速400キロ近い速度で走ることを想定したレーシングカーでさえ、そういうことは起きるんです。ものすごい集中力で自動車をコントロールできるレーサーが乗ってい

ても、そういうことは起きるんです」

「それでも、だよ、田尻くん」

 田尻はため息をついた。

「その事故が起きた後、メルセデスのレーシングチームはレースを続けていた最後のベンツをピットに戻して自らリタイヤしたんです。同じクルマである以上、同じ事故は再び起きる可能性があるからです」

「何が言いたいんだ、田尻くん」

「私は、パトカーを停めます。許可してください」

 田尻は、きっぱりと言った。先を走っていたステージアは、R33型のスカイラインをベースにワゴンにされた車だった。エンジンはGT-Rのものに換装されたオーテックバージョンというやつだ。こちらのパトカーとは型式は違う。でも、そんなことは関係が無い。一般車の空力性能なんていうものは、レーシングカーのそれに比べたら陳腐といってもいいくらい簡単なものなのだ。しかもパトカーである以上、異常なまでの車高の低下や大げさなエアロパーツを装着するわけにはいかない。

 警部は答えなかった。

 田尻は、大きく息を吐くとアクセルから足を離した。そうしてから無線を掴んだ。

「こちらスープラを追跡中のパトカー6号。エンジンのトラブルにより停車します。これ以上の追跡は不可能。繰り返します。追跡は不可能、以上」

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