無意識の選択
人は無意識のうちに選択をする。
高浜は、そのセリフを言った人物の名前を思い出そうとしていた。
地下鉄の車両に乗って数分後のことだった。もはや高浜は薄笑いを浮かべてさえいた。さっきまでの深刻さが表情から消え去っていた。
人は無意識のうちに選択をする。
いいセリフじゃないか、と高浜は思う。それを言った人物が有名人だったのか、どっかの酔っ払いだったのか、もうどうでも良くなってきていた。
高浜は乗り込む電車を間違えていた。真駒内方面行きは札幌には行かない。そのことに気が付いたのは降りようとした次の駅での事だった。そこに掲げてあるはずの駅名が「札幌」ではなくて「すすきの」だったからだ。高浜は、札幌駅は二つ目だったのか、と考えたが、すぐに逆方向の列車に乗り込んでしまったのだと気が付いた。
数分間は呆然と座席に座っていたが、何故か高浜は駅に降りなかった。
そうして、さっきのセリフが頭の中に浮かんできたのだ。
人は無意識のうちに選択をするものである。
案外、阿部あたりが言いそうな言葉だな、と高浜は思う。でも、はっきりと思い出せない。だが一つだけ言えることがあった。この電車に乗っている限り、高浜は兵器開発に手を染めることは無い。そう、もしも無意識の意思があるのなら、高浜は乗り込む電車を間違えるという無意識の行動で、兵器開発ではない道を選んだ、ということなのだ。
高浜は座席に座り、空いた車内を見渡した。
自由だ、と感じた。
もう、何もかもしなくていい。再び笑みが浮かんだ。正面に座っていた黒髪の長い女性が薄気味悪そうに目を逸らした。高浜は、その女性に自分の今の心境を説明したくなったが、それはしなかった。かわりに車内の広告に目を移す。週刊誌の広告にアイドルの入籍の記事が出ていた。高浜は、ああ幸せでいいね、と思うと目を閉じた。
もう何もしなくていいんだ。
この数ヶ月というもの、高浜は激務とプレッシャーの連続だった。
会社の目を盗んでコールドスリープ装置を盗み出す計画を立て、売り渡す組織との交渉をして、阿部には荷物の運搬を頼み込み、そのために必要なオンボードコンピュータのシステムを開発した。それなのに実際に動き出した計画はうまくいかず、途中で何度も計画の変更を迫られて、高浜の思い描いていた外国でののんびりした研究生活は霞み、先行きの不安ばかりが募っていた。
身の回りの整理だけでも大変なことだったのに、それなのに・・・
阿部を除いて、まともに相談できる人間はいなかった。当たり前だ。この計画自体が極秘でなければ成功率が極めて低くなってしまうのだ。阿部にだって最低限のことしか教えなかった。その点で高浜は完全主義者だった。必要最低限の情報の流出は仕方が無いことだとしても、最も重要なことは、高浜本人が口を閉ざしていることなのだ。
世間的にみても法律的にみても、高浜のやろうとしたことは犯罪なのだ。多くの犯罪が未然に暴露される時、早期に解決される時、多くの場合、犯罪者本人の口の軽さが原因なのだ。
だが、その重圧は想像を超えていた。
僕は、こんなにもすごい計画を立てているんだぞ、と言いたくて仕方が無かった。それを自己顕示欲だと言うのは容易い。でも、大きすぎる計画が高浜一人の肩にのしかかっていたのだ。もしかしたら、その計画にはほころびがあるのかも知れず、それを検証してくれる人はおらず、客観的になろうと思えば思うほどに高浜はストレスを感じた。自分自身のためにする行動を、完全に客観的に捉えることは、その本人には非常に難しいことなのだ。
高浜は目を開いた。
先ほどの女性がバッグから単行本を取り出して読み始めた。なにかの小説だ。そうか、この女性は遠くの駅まで行くんだな、と高浜は思った。小説に注意を払っている女性は、観察している高浜に気がついていなかった。年齢は・・・二十代の後半くらいかな。
髪の毛は長い。黒髪で小柄な女性だ。
小説を読むほどの距離を移動するのだから、きっとこの女性は一駅や二駅の移動のために地下鉄に乗ったのではないはずだ。高浜は、そう考える。だが、小説を読んでいる女性は、だからと言って、乗る駅の数によってコミックスか、雑誌か、小説かを選んだわけでは無いだろう。無意識のうちに、電車の中の時間を過ごすための方法として小説を選んだということが、結果的に過ごす時間と適合しているのだ。
再び高浜は考える。
人は無意識のうちに選択をする。
例えばカメラを買うと、人は旅に出たくなる。
せっかく買ったカメラで、きれいな景色を撮りたいと思うからだ。でも、そうなのだろうか?旅に出たいという無意識がカメラを買わせたのではないのだろうか。カメラを買ったから旅に出たくなったのではなくて、旅に出たいから無意識のうちにカメラ売り場に行ったのではないだろうか。
何かの行動には、何かの動機があるのだ。例えそれが間違いだったとしても、無意識はそれを偶然の間違いではなくて必然の間違いとして引き起こしたのかもしれないのだ。
高浜は再び目を閉じた。
じゃあ、僕は無意識のうちに逃亡することを選んだんだろうか。
たしかに、間違った方向の電車に乗ってしまったことに気が付いた時、高浜は気が楽になったような気がした。このまま正しい方向へ戻らなければ、高浜の本心に反する行動を取らなくて済むのだ。
でも、これからどうすればいいんだろう。
たった一人で、何処へ行けば、何をすればいいんだろう。
マリアは日勝峠でドアとシートにつかまりながら苦痛に耐えていた。
時折、景色がフロントガラスを横向きに流れていく。スープラは4輪ともに滑りながら向きを変えていた。バックミラーを見る余裕はあまり無かったのだが、それでもマリアは出来るだけ後ろを見ようとした。そうしていないと、あまりに恐ろしい景色が目に入ってきて悲鳴を上げそうになったからだ。後続のランサーエボリューションは、時々遠くのほうに見えることがあったが、その後ろから来るはずのGT-Rやステージアの姿は無かった。決して軽量級とはいえないスープラを、まるでラリーのビデオかアニメの映像みたいに滑らせてコントロールする阿部のテクニックは、間違いなく常軌を逸していた。
でも、とマリアは考えた。
位置情報を発信し続ける装置がスープラに搭載されている以上、直線の多い北海道の道路状況では、数百メートルのアドバンテージが、どれほどの役にたつのか。結局、長く続けていては、相手側のクルマにパワーがあるだけに勝ち目が薄い。
峠を越えて、ワインディングが無くなると景色が急速に開けた。
マリアは携帯電話を開く。着信は無い。そろそろ高浜を保護したという連絡が入ってもいいはずなのだけれど。機械のほうは完全にノーマークで輸送されていることが確認されている。そっちは心配ない。
窓ガラスにポツポツと水滴が当たった。空を見上げると、急速に雲が張り出してきているのが見えた。
「これから最高速ステージなのにな」
阿部がぼやいたように聞こえた。
「十勝16キロの直線、ね」
「そうだ。最後の最後だからな。ぎりぎりまでオーバーブーストを使う」
高速で走り続けてきたスープラのフロントウインドーには無数の虫の死骸や汚れが付着していた。雨は強くなりそうだった。
「前、見えないね。ワイパー使うね」
阿部は前方から目を逸らさずに、いや、と言った。
「フロントウインドーに付いた虫の死骸を塗りつけることになっちまう。洗い流すほどの
雨になれば別だがな、今の状況ではワイパーを使う方が自殺行為なんだよ」