ふくろのねずみ
支笏湖の南には国道が延びている。
ここはダブルナンバーの国道で276号と453号である。これは支笏湖の西端で苫小牧に向かう276号と支笏湖北側を抜けて札幌方面に向かう453号に分岐している。また支笏湖西端にはユースホステルやキャンプ場や観光施設が点在している。そのため、道路は一本ではない。他の通過点から比べれば複雑に入り組んでいる。
阿部は予告通り9分後には分岐地点に到達していた。そこで位置情報の発信を待って札幌方面に向かった。しばらくすると支笏湖の水面が見えてきた。
「きれいな湖ね」
マリアはつぶやいた。スープラは速度を落としていた。確実に位置情報を追跡者に伝えなければならなかった。
「あ、船」
「観光船だよ、マリア」
透き通った湖に静かに波紋を立てながら小型のフェリーのような観光船が浮かんでいた。再び位置情報の発信があった。阿部はスープラを停車させるとUターンして、今度は猛スピードで運転し始めた。
「どうするね?特攻するか?」
「バカ、するか、そんなこと」
わき道へ飛び込むとさらに加速した。道路の上には落ち葉や枯れ枝が散乱していて路面はスリッピーだ。
「あ、あぶない」
マリアが叫ぶ。そこにはキタキツネがいた。阿部は素早いステアリングで、それを避けた。スープラの右リアが道路から落ちかけて一瞬、横滑りを始めたが絶妙なカウンターを阿部は当てて道路上へと復帰した。
慌ててマリアが振り向くと、キタキツネは道路脇の茂みへと逃げ込んだところだった。
「良かった。アベさん、いい人ね」
「無駄な殺生はしたくない。クルマを飛ばしているのも俺たちの勝手だからな」
「高浜さんの未来がかかっているけどね」
「だとしても、他の命を犠牲にしてもいいということにはならんのだ」
「散々パトカーを破壊した人の言うセリフとは思えないね」
位置情報の発信から5分後、阿部は支笏湖西端で小さな周回コースを回って再び分岐点へ到達しつつあった。最初からなら19分後、ということになる。苫小牧からの警察隊は既に通過しているはずだった。あらためて阿部は苫小牧方面に進路を取った。その時、バックミラーに一台のパトカーが写った。GT-Rだった。
黒い旧式のスープラに逃げられてから、田尻は不安に付きまとわれていた。
助手席の本庁から来た警部だとか言う中年男はひっきりなしに電話をかけたりパソコンで情報のやりとりをしていた。一体、そんなにまでして扱う情報とは、どんなに膨大で重要なのか、一人の高速機動隊員である田尻にはわからなかった。だが、その名も名乗らぬ警部が電話に向かって話す内容から、国家レベルの機密が関わっているような気がしていた。ターゲットの位置から予想進路を割り出しているのは、田尻には設置されている場所すら教えてもらえない本部らしい。その本部とやらは、どうして位置まで知っていて捕捉が出来ないのか、田尻にはわからなかった。
それでも、田尻はついに、あのスープラに追いついたのだ。
こうなってしまったのなら、田尻はスープラに体当たりしてでも停めなくてはならない、と覚悟を決めた。一度目の経験から、おそらく超高速の追跡になるのは間違いない。そんな速度域で車同士の接触なんていうことになれば、いかに訓練を積んでいるとはいえ、田尻の方だって無事に済むとは限らなかった。
「いきますよ、警部殿」
そう田尻は宣言すると、猛スピードで失踪するGTRパトカーの中で冷静さを保っていた男は、さすがに身を硬くした。
「ああ、体当たりしてでも停めるんだ。これには国家の安全がかかっているんだ」
国家の安全、と心の中で田尻はつぶやいた。それは妙にくすぐったい感触で脳内をリフレインした。警官になろうと決意した日、田尻もやはり正義感に燃えていた。それは実際に警察官になった後、理想と現実のギャップの中で、心の奥底に仕舞い込まれていた。
でも、これは本当の正義なのかもしれない。国家の安全のかかった大仕事なのだ。
アクセルを踏み込むと、GT-RのRB26ユニットが静かに押し殺したように吼えた。
腹の底に響くような低音で車内に共鳴を起こす。スープラに追いつくのはわけのない仕事のはずだった。舞台は樽前国道、ここは支笏湖から苫小牧まで、ほぼ直線の軽い下り坂になっているのだ。数時間前に逃げられた時のように狭いワインディングロードは存在しないのだ。
苫小牧まで、およそ20キロ。
モニタ画面で地図を見る限りわき道は無かった。後方にいたGT-Rのパトカーはパトライトを点滅させて追いすがってきていた。阿部はダッシュボードのスイッチに手を伸ばしかけてやめた。
「どうしたね?それ、使わないね?」
阿部は、バックミラーをちらっと確認した。さっきよりも近い。
「何か嫌な予感がするんだ。今度はエンジンを壊してしまうような気がする」
何か理由があるわけではなかったのだが、阿部にはそう思えた。無理に言えば、ほんのかすかなエンジン音の変化、振動、なのかもしれない。だが、決してそれは変化として阿部の認識できるレベルのことではなかった。
GT-Rは、さらに近付いた。
「アベさん、苫小牧からの警察隊も追跡に転じたね。それから別動隊が苫小牧方面から樽前国道を封鎖しているね」
そうか、と阿部は小さく頷いた。絶体絶命、というわけか。
「アベさん、封鎖されているということは対向車は来ないってことね。思いっきり行って
いいってことね」
どうせダメなら、と阿部は思った。再びダッシュボードへ手が伸びた。こいつを壊してしまったほうがいいのではないか。警察の手に落ちるくらいなら、その前に破壊してしまったほうが・・・ダッシュボードのスイッチに手を伸ばしかけた、その時、前方から走ってくるクルマが見えた。はっとして、阿部はスイッチから手を離した。阿部の動体視力は優れていた。相対速度300キロ以上で近付く、それは旧型のエスティマだった。色はグリーン。どこかで、それは要注意だ、と告げていた。
「テロリスト!」
阿部が叫んだ。マリアも、はっとして気が付いた。前方でエスティマが急ブレーキをかけた。道路を塞ぐつもりらしい。片側1車線の道路の真ん中で急ブレーキで停車しつつあった。阿部は、ぎりぎりのラインでかわすつもりだった。さらに加速させた。さっきから、ずっとアクセルは全開のままだったが、さらに力を加えた。じりじりと最高速度に近いスープラがスピードを上げる。その時、エスティマの後ろにシルバーのステージアがいた。エスティマをかわしても、ステージアと衝突してしまう。阿部はブレーキペダルに足を乗せ換えた。スープラも減速に入った。エスティマから5,60メートルほど離れた地点で
停車した。バックミラーにGT-Rパトカーも写っていた。そっちは阿部の背後、50メートルほどで後輪を流しながら道路に対して角度を付けながら停車した。
阿部は袋のねずみになった。だが、この袋、上蓋と下蓋の意思疎通は無い。阿部は、それに賭けるしかなかった。
「運転を代わってくれ」
阿部はシートベルトを外し、前席2つの間からリアシートの方へ移動した。マリアは慌ててシフトノブを乗り越えて運転席に滑り込む。
「あ、アベさん」
阿部はリアシートから手を伸ばし、カバーの無いトランクからアサルトライフルを引っ張り出すと装填済みのマガジンを銃身に差し込んだ。
「テロリストの方を警戒していてくれ。オレはパトカーを見てるから。何か動きがあったらすぐに伝えろ」
そう言うと、装填ボルトを引いて安全装置をかけた。万が一にも暴発させるわけにはいかないが、撃つべき時にはすぐに撃てる用意だけはしておきたかった。距離をおいたまま、パトカーもテロリストだというエスティマの方にも動きが無かった。三者が、そこに睨み合ったまま、辺りは静まり返っていた。