トヨタ・スープラターボA
阿部はドライバーズシートに落ち着くとイグニッションを入れスターターを回した。重い回転音から、そのエンジンが一気に目覚めた。
高浜が慌てて振り向いた。
阿部は、マニュアルトランスミッションを1速へ。高浜は何か叫んでいるが、全然、聞こえない。ゆっくりとクラッチをつなぐと、一瞬、ストールしそうになって黒い車体が動き出した。
「心配するなって。周りが静か過ぎるのさ。こいつは並みのチューンドカーよりも静かだぜ」
そう、窓を開けて叫ぶと、阿部はアクセルを半分ほど踏み込んだ。濡れた路面に太いリアタイヤがズルっと横滑り。すぐにカウンターで進路を修正するのは一瞬の出来事で次の瞬間には、その低く滑らかな車は猛然とダッシュしていた。
トヨタ、スープラ3.0GTターボA。
グループAレースのために限定生産された80年代最後の頃のスポーツカー。排気量三千ccにターボを搭載する。カタログ出力は270馬力。
阿部は、須崎がデッドストックしていたレース仕様のエンジンへと換装した。そのエンジンはレース仕様時に500馬力を発生させていた。公道を走るためにチューンダウンしていても古い車体を軋ませるほどの出力は健在だった。
低いエキゾーストノートを響かせて夕暮れの雑木林の中、細く曲がりくねった道を猛然と走り抜けていく。阿部はヘッドライトをリトラクトさせた。まるで目を開けるかのようにスープラはヘッドライトを持ち上げて前方を照らし出す。ハイワッテージに換えられた
ハロゲンランプが薄暗くなり始めた木々の間に青白い光を投げかけた。
阿部は笑っていた。
声を出さずに、笑っていた。
その時、彼は、ただその胡散臭くて古いスポーツカーが自分の体の一部のような気がして、うれしくなっていたのだ。
その瞬間、彼は、これからのことなんて、これっぽっちも考えてはいなかった。
ただ、そうやって運転を始めたことがうれしかった。
そうやってアクセルさえ踏んでいれば、彼は、何処へでも行けるし何でも出来るような気がしていた。無駄にアクセルを踏み込んで高らかにエンジン音を響かせて走っていく。
そういうスープラの後ろを追走する須崎も、そのだいぶ後ろから追いかける高浜も、なんだか不安な気持ちに、なっていた。
小牧ジャンクションから中央道へ。
制限速度を少しだけオーバーした流れに乗って北上する。スープラのエンジンは低くうなっていた。FMラジオの音楽は、重低音寄りにセッティングされたイコライザーを通して8個のスピーカーから流れ出していた。阿部には、その音が、ベースドラムの音なのか、それともスープラの排気音なのか区別が付かなかった。
夕日がバックミラーの中で山合いに沈もうとしていた。ゆっくりとしたうねりのようなカーブをいくつも連ねて中央道は、少しづつ標高を増していく。交通量は多いが、高速道路の流れが遅くなるほどではない。徐々に周囲の車もヘッドライトを点け始めている。
阿部の黒いスープラの後ろには、夕日にボディーを真っ赤に燃やすフェラーリが追走している。バックミラーには、不満そうな須崎の顔が写っていた。阿部は、目がいいのだ。
「エンジンの慣らしのつもりなの?」
ハンズフリーキットを通して携帯電話の須崎が言った。
「高浜の指示なんだ。出来るだけ目立たないように、速度違反なんてしないように行けって書いてある」
鼻を鳴らすような須崎の声。
「そんなのつまんないよ、阿部ちゃん。阿部ちゃんのスープラにはレーダー探知機が載ってるじゃないカーロケ付きの」
「いいんだ。ゆっくりと流したい気分なんだ」
「ちぇ。つまんない。先に行くよ。何処で降りるの?」
「恵那山トンネルを抜けたら、すぐに」
その返事をした瞬間、バックミラーからフェラーリが消えた。すぐにラジオのナビゲーターの声をかき消すかのように高回転のV8サウンドが響く。須崎はスープラの真横に並んでいた。阿部がウインドーを下げると、左ハンドルの須崎もそうする。二人の間は1メートルとない。分厚いドアとフェラーリのサイドシルの分だけ。二台はくっつくようにコーナリングする。ケータイを通さずに須崎が叫んだ。
「飯田インターで待ってる」
阿部は、勝手にしろと叫ぶとウインドーを上げた。フェラーリは再びエンジンを一声鳴かせると尻を沈ませて加速していった。
須崎の赤いフェラーリを見送ると、再び世界は静かになった。
電波状況が悪くなってきたFMを切り、しばらくはエンジン音に耳をすませる。次に計器類をチェック。ワーニングは点灯していない。ターボ加給圧は低い。この回転数ではほとんどターボは効いていない。異常ではない。バッテリー充電圧も正常。TEMSをソフトに切り替える。サスペンションを快適クルーズモードに。
次に、高浜が渡していったカーナビに似たパソコンの電源を入れる。ダッシュボードに設置したモニターにウインドウズの起動画面が現われた。
「まさか運転しながらマウスを操作しろとかいうんじゃないだろうな」
阿部が、そうぼやくとウインドウズの画面が消えてプログラムが起動した。続いて現われたのは地図だった。現在位置が表示された地図。
「カーナビじゃねえか」
阿部は、ふん、と鼻で笑う。地図には一本の赤い線が引かれており、それが高浜の指示するルートだということは、すぐに知れた。それ以上の機能があるのか、それとも見かけ倒しのただのカーナビか、阿部には判断が出来なかった。それに阿部は、ほとんどカーナビを使ったことがなかった。そんなところに金が回るほど稼いでいなかったからだ。阿部にとってカーナビよりもガソリンのほうが正しい使い道なのだった。