スカイラインGTR
交差点でサイドブレーキを引くとスープラは後輪を横にスライドさせて向きを変えた。阿部はブレーキを解除してアクセルを踏み込む。リアを沈み込ませて猛然とダッシュした。
道道573号線。すぐに線路を越えると高浜は右折を指示した。再びサイドブレーキで向きを変えた。GTRのパトカーは、派手なアクションで交差点を抜けていく黒いスープラを警戒して距離を取った。阿部達のスープラが入り込んだのは広域農道だった。高低差のあるコーナーが続く。
「しっかりつかまってナビしてくれよ」
阿部は、そう叫ぶとシフトを2速へ入れた。タコメーターの針は6000回転に張り付いていた。
「う、ああ、ああ」
高浜は悲鳴を上げた。物凄い速度でガードレールが迫ってくると、唐突に右に左にと体をもっていかれる。
「さん、三百メー、メートル先でT字路。さ、左折」
T字路へドリフトのまま進入する。斜めになったスープラの助手席の向こうに右方から走ってくるアコードが見えた。
「あ、阿部ちゃん、ぶつかる」
だが、阿部はアクセルを緩めずにT字路を抜けた。そのまま加速体制に移る。アコードは、あっという間に後方へと消え去った。GTRパトカーも、そのアコードを抜き去るとスープラを追う。派手なドリフト走行をする阿部を尻目にGTRは4WDのトラクションで、しっかりと道路を掴んで加速していく。一気に下る直線でスープラに追いついた。
「行かせるか」
阿部はバックミラーでGTRを確認すると、ヘアピンカーブへ進入した。力いっぱいブレーキを踏み込み、その同じ踵でアクセルペダルを煽る。1速へシフトダウンしたスープラがコーナー前半でパワーオンドリフトに入った。エンジンパワーで後輪を横へスライドさせながら、車全体がコーナーの内側のラインを軸に振り子のように回っていく。
高浜の目にはコーナーの内側が映っていた。高浜には今にもコーナー内側の谷へ転落していくような錯覚を起こしていた。
GTRのパトカーは、急ブレーキをかけたスープラを避けようとしてコーナー外側へ反射的にステアリングした。その一瞬の操作ミスが決定的な間違いとなった。コーナーの入り口で外側への動きを始めた重量級の車体が太いタイヤのグリップを超えた。すぐにステアリングを切り込んだが、もはや操作を受け付けなかった。そのままグリップを失った前輪が外側へと流れていく。慌ててステアリングを直進に戻しつつフルブレーキングするが、限界を超えた領域でABSが効いたとしてもグリップは復帰しなかった。コーナー内側を車体全体で弧を描いて走り抜けて行くスープラ、その外側を、さらに外側へ向けて流れる
GTR。コーナー後半で阿部はアクセルをコントロールしてグリップを取り戻し緩やかにスライドを止めてコーナーアウト側で立ち上がった。その時、既にGTRはその場所にいなかった。コーナーの外側は切り立った岩肌でGTRは左フロントからヒットした。その弾みで車体前方を内側に跳ね返されてスピンに陥りかけて今度は左リアをヒットした。左リアをヒットした時点で完全にスリップしていたGTRはリアをコーナー内側へ向けて振り出す形でコマのように回り始めた。スープラの阿部はヘアピンカーブの出口でアウト側のラインで加速しつつある時に、GTRの右側リアを見た気がした。
GTRはコーナーの出口でリアを進行方向に向けた形で停止していた。辺りにはタイヤの焼けた鼻をつく匂いが立ち込めていた。180度のスピンをしたGTRは、運良くコーナーのカーブに沿って回ったために、初めの二度を除いて、何処にもぶつからずに停止した。
GTRは、再びエンジンを始動すると安全が確保出来る直線まで移動して、再び停車した。
白と黒に塗り分けられたGTRパトカーからドライバーの警官が降りてきてヒットした左側面を確認した。助手席からも、もう一人が降りてきたが、そちらは私服を着ていた。濃紺のスーツ。私服の方が高速機動隊の制服を着たドライバーに向かって言った。
「田尻巡査部長、君は北海道警を代表する運転のうまい隊員だと聞いていたが」
田尻、と呼ばれた警官は露骨に嫌そうな顔をするとタイヤに干渉していたバンパーを引っ張った。
「全ての隊員は北海道警を代表しているつもりでやっております。別に私が最も運転がうまいというわけじゃない」
それからパトカーのトランクを開けると黒いガムテープを取り出して固定が壊れたバンパーをボディーに貼り付け始めた。
「それに容疑者のクルマは無謀な運転だった。あの場合、ああするより他に良い方法があったというのなら言ってください、警部殿」
警視庁から来たとか言う警部のことなんて、本心では関わりになりたくない、と思った。
ミスは確かに田尻がGTRのアンダーを出してしまったことにある。だが、自動車が限界領域でどう動くのかを知らない素人に、それがわかろうはずは無い、と田尻は思った。ああするより他に手は無かった、そう言えばそれで済む。このパトカーの始末書も、責任は警視庁の警部殿が被ることになる。田尻が危険だ、と言ったにも関わらず、この警部は追跡を指示したのだ。責任は田尻には無い。
「勘違いをしてもらっては困るが、田尻巡査部長」
30を超えたばかりの田尻に、その50近いと思われる警部は見下すような口調で言った。
「まだ終わってはいないんだよ。応急修理が済んだなら、早くクルマを出して追跡をするんだ。言っておくが、この件は国家の安全が関わっているんだよ。君一人のクビで済むような小さな事件では無いのだよ」
航空自衛隊の基地を見ながら阿部のスープラは八雲町で国道5号線へ復帰した。
長万部の手前の何も無い地点が須崎との待ち合わせ場所だった。目標物は何も無い。ただGPSの緯度と経度だけが地点を示しているに過ぎなかった。そういう何も無い場所なら待ち伏せされる可能性は低くなるし目撃される可能性も少ない。
驚いたことに、その場所には須崎のフェラーリが到着して待っていた。
「早かったな」
阿部が言うと須崎は、にっこりと笑った。
「阿部ちゃんが遅かったんだよね」
マリアが助手席から顔を出すと苦笑した。
「5分前に着いたばっかりね。二度ほどスピンしそうになって須崎さん、焦ってたね」
「それをばらさないでよ、マリアちゃん」
須崎は楽しそうに笑った。高浜は、スープラから疲労感を漂わせながら這い出ると須崎に頷いた。須崎は代弁するように言った。
「阿部ちゃんのクルマは、もっとしんどそうだったみたいだね」
「大したことは無いさ。銃を持った白人とGTRに乗った警官をぶっちぎってやっただけだ」
須崎は、おかしそうに笑った。
「またまた、大げさなんだから阿部ちゃんは」
阿部が何か言いかけたとき、マリアが間に入ってきて手で制した。
「そろそろ出発した方がいいね。5分間ごとに位置情報が発信されていることを忘れないで。こっちの居場所は敵に筒抜けね。高浜さんが須崎さんのフェラーリに乗り込むところを見られてしまったら、計画はパーになるね」
阿部は頷いた。須崎も仕方なさそうに頷く。高浜は阿部に振り向いた。
「阿部ちゃん、最後の頼みがある」
そう言うと高浜は手荷物のナップサックから封筒を取り出した。
「これを渡して欲しい人がいる。無事に逃げ切ったら、これを届けて欲しい」
わかった、と阿部は理由も聞かずに頷いた。何度か、その話は聞かされたことがあった。
高浜は、別れた恋人のことを忘れられずにいた。きっと、そのことだろう、と阿部は理解した。
「それから、もう一つ。もう手渡す機会が無いから。これ、今回の謝礼のお金だよ。約束してたやつ」
「ああ、そうだったな」
阿部は、それも受け取った。中身は確認しなかった。信用していたし、何よりも阿部は、もはや金がどうしたということが、どうでも良くなってきていたのだ。現実の世界に戻るまで、阿部はきっと金のことを忘れたままダッシュボードの中へ入れっぱなしにするだろう。