犯罪者
視界の右手に奥尻島が見えていた。
すぐにトンネルに入った。ヘッドライトを持ち上げると空気の抵抗で速度が5キロほど下がった。トンネルを抜けても阿部はヘッドライトを下げなかった。
「阿部ちゃん、ライト・・・」
高浜が言いかけた。
「わかっている。だがライトを上げているとエンジンの冷却が少し早いんだ」
「冷却?」
「ああ、水温計を見てみろ」
高浜は阿部が指差したメーターを見た。ダッシュボードに後から取って付けたようなメーターがあった。
「赤いところにあるね」
「ああ、このままならオーバーヒートする。さっきのオーバーブーストで一気に水温が上がった。上がったきり、この高速では落ちてこない」
「どういうこと?」
「エンジンに負担が掛かりすぎたのさ。たぶん、あと数秒オーバーブーストを掛けていたらブローしただろう」
「ブローって?」
「要するにエンジンがぶっ壊れるってことだ」
流れ去る景色は、先ほどと変わらず飛ぶ様に後方へ消えていく。ときおり時速200キロを超えている。
「それでヘッドライトと何の関係があるの?」
「ライトを上げると隙間風がエンジンルームに流れ込むんだ。エンジンルームの換気が早い」
ちょっとした町へ差し掛かり、阿部はスロットルを緩めた。注意深くわき道に視線を配りながら、それでもハイペースを保つが、一般車両に道を塞がれた。地元ナンバーのアコードだった。速度は70キロにまで落ちた。
「どうする?このまま国道を直進するか?それとも県道へ逸れるか?」
「国道で行こう、阿部ちゃん。恵山方面だよ」
助手席でナビ画面にしたオンボードコンピュータを見ながら高浜が直進を勧めた。阿部はライトを下げた。一時的にペースが落ちたのが良かったのか、水温計はノーマルの位置まで下がってきていた。
町を抜けると、再びアクセルを床まで踏み込んだ。
須崎は阿部とは逆周りで国道227号線から229号線へと抜けていた。
助手席のマリアは携帯電話で連絡を取り続けていた。阿部たちの予定ルートに障害が無いか、こちらの情報は敵側に漏れていないかを確認していた。須崎はフェラーリを安全に速く走らせるのが仕事だった。
「ねえ、マリアちゃん」
須崎はじれったそうに言った。
「なあに?スザキさん」
「メイは何処へ行ったの?」
「おうちに帰ったね」
「そうか」
須崎は残念そうに言った。メイとはいい友達になれそうだったのに、と思っていた。フェラーリのミッションをカチリとシフトする。素晴らしく悩ましげにエンジンが吼えた。クルマは速ければいいってもんじゃない、と須崎は思った。運転する操作の一つ一つが、その操作に反応する音や加速感が大切だ。
フェラーリよりも速い車はいくらでもある。でも、これよりも気持ちのいいクルマは、そう滅多にはない。須崎はそう考えてマリアを盗み見た。
相変わらずマリアは電話をしていた。須崎は、ふうっとため息をついた。せっかく気持ちよく運転しているのにな、と思っていた。
スープラは峠を越えて再び海岸線の国道へ戻ってきていた。
連続してスノー・ロックシェルターが続く。要するに雪崩から道路を守るトンネルだ。
海岸線にそってコーナリングが続く。平均速度は上がらない。直線で150が限界だった。
高浜はオンボードコンピュータでデータを集めていたが、左右に振られる車内で気持ちが悪くなっていた。それでも、警察の動きを追うのはやめていなかった。
「このまま国道278号線を走っていくと1時間ほどで砂崎というところを通過する、その先国道5号線へ合流するのだけど、その手前で警察が非常線を張っている。近付いたらナビするから回避しよう」
「わかった。頼んだぞ、高浜」
「それからマリアちゃんからメールが来ていたよ。テロリストの動きだけど、このまま行くと丁度長万部のあたりで遭遇することになりそうだそうだよ。須崎くんとのコンタクトは先延ばしにするかもしれないって」
「了解した」
高浜はモニターを地図に切り替えるとバケットシートに体重を預けた。相変わらず阿部の運転は高浜の気分を悪くさせていたが、シートで支えられていると、まだマシに感じられた。
「阿部ちゃん」
「なんだよ?」
「ありがとう」
「どうした、急に」
高浜は目を閉じていた。
「迷惑かけちゃったね、僕のせいで。阿部ちゃんも犯罪者になっちゃった」
阿部は鼻で笑った。
「もともと犯罪者みたいなものだったさ。それが正真正銘のおたずね者になっただけだ」
「みたいなものと、犯罪者そのものは違うよ。みたいなもの、は逮捕されない」
「そうかもな。でも俺としては一緒のことだ。どうせ警察なんてハナっから信用していない」
「なんで?」
高浜はつらそうに言った。気持ちが悪くて深く物事を考えられなかった。阿部の方もスープラの運転が忙しくて深くは考えずに言葉が出た。
「俺は取調べっていうの受けたことがあるんだよ。その時に思ったのは、警察っていうの
は公務員だってことだ」
「なあに、それ」
「とにかく仕事は少ない方がいい。事件は少ない方がいい。問題が無かったことに出来るなら無かったことにしたい」
バックミラーに写るのは水色に透き通る空と色褪せたアスファルトが一筋。暖かな日差しがあるのに、どこか寒々しい海岸の岩に砕け散る波しぶき。通り過ぎた景色は、ゆっくりと流れ去っていく。目の前の景色は恐ろしい速度ですっ飛んでいくのに、バックミラーの中の景色は平穏だった。
「学校の先生っていうのと警察の人間というのには共通点があるんだ。どっちも公務員だっていう共通点がな」
「それがなんだっていうの?」
「俺は学校でも浮いていたし、今もマトモな仕事に就いてない。だから客観的になれる。
警察のことはわからなくても、学校の先生なら記憶にあるだろう?」
「うん、あるけど一緒だっていうのは納得できないよ」
「それは後で納得すればいい」
「そんな無茶な」
阿部は、ふん、と息を吐いた。
「世の中に犯罪の数は少ない方がいいよな?」
「それはそうだよ。犯罪に巻き込まれたくは無いもの」
「じゃあ犯罪って何だと思う?」
「何言ってるの?誰かが嫌な思いをしたり、盗みがあったり、殺されたりじゃないか」
阿部は薄ら笑いで首を振った。
「違うな。警察にとっての犯罪っていうのは検事局に提出される書類のことだ。データとして犯罪が多くなると、その警察は能力が低い、と世の中から評価されることになる。だが、その犯罪を犯罪として記録を作るのも警察の仕事なんだ。極端な話、警察は無能であればあるほど犯罪は少なくなる」
「そんなことって・・・でも誰かが殺されたり、誰かが盗難にあったりすれば・・・」
「自殺だったり置き忘れだったりすれば犯罪じゃないさ」
「そんな滅茶苦茶だよ。阿部ちゃん、おかしいよ」
高浜は吐き気を感じて目を開いた。阿部は、じっと前を向いて運転していた。その表情には、どんな感情も浮かんではいないように見えた。