ミュルサンヌストレート
温泉を出ると、阿部はスープラの鼻先を尾瀬方面へと向けた。国道145号線、通称日本ロマンチック街道を通り国道120号線へ。左手に尾瀬を通り過ぎ、金精峠を抜ける。
舞台は走り屋向けだが、時計は3時を過ぎて、それらしい車もいない。ほとんど交通量の無い道を二台のスポーツカーが飛ばしていく。
真っ暗な戦場が原。
「いったい何マイルでているね?」
マリアは目が覚めてうなった。温泉でマリアは疲れてしまった。ただのお湯だというのに、眠くなって仕方が無かった。ワインディングを飛ばすスープラは揺れたが、だからといって眠気が吹っ飛ぶほどではなかった。阿部は飛ばしてはいたがタイヤを滑らせるほどの勢いではなかった。最小限のアクセルワークとブレーキで車の姿勢変化を起こさせない。
一発の速さではなく、長距離の速さ。神経をすり減らさない程度に、だが退屈にならない程度に。おおよそ7,80キロ程度の速度をキープする。それでも平均速度にすれば5,60キロというところだろう。
「ミュルサンヌだからな」
阿部は床まで踏みつけたアクセルから少しだけ力を抜くと答えた。
真っ暗な戦場ヶ原は格好のストレートだった。
「ミュルサンヌ?」
「ル・マンだよ」
「ああ、24時間レースね」
よくそんなことを知っているな、と阿部は考えて、ふと思い出した。
「車屋の娘だったな」
「そうよ。キャリフォルニアでフォードを売ってるね」
「オレがアメリカに行った時には一台頼む」
コーナーが迫ってきて阿部はアクセルを抜く。シフトダウンで速度を落としブレーキは使わずに緩いコーナーを抜けた。
「キャリフォルニアに来るね?アベさん」
「さあな。行きたいとは思ってる」
「そっか。でもトヨタは無いね。うちはフォード」
「じゃあマスタングがいいなV8のやつを頼む」
「お金、もってるね?」
「いや、中古のポンコツでいい」
マリアは笑った。キャリフォルニアの店に中古は無い。来るのは金持ちばかり。ちょうど須崎さんのような客ばかり。
「きっと追い出されるね、アベさん」
「なんでだ?東洋人だからか?」
マリアは笑うのをやめた。
「貧乏人だからね。うちは新車しか扱わないね」
それからマリアはためらいながら続けた。
「それに、わたしも半分は東洋人ね」
戦場ヶ原を抜けると中禅寺湖へと出る。湖のほとりのホテルが湖面に光を落とす。
スピードを緩めて湖岸の道路を走っていく。もう1時間ほどで夜が明ける。昨日は夕方まで寝ていたから体は平気だった。だが、それも昼までくらいだろう。徹夜明けの太陽は目に痛い。
「マリアのパパは日本人なのか?」
マリアはためらった。
「違う」
「じゃあママが日本人?」
「フランス系ね」
「じゃあ・・・」
「本当のパパが日本人だったみたいね。パパはステップファーザー」
「そうか。じゃあ日本には父親を探しに来た?」
「まさか。そんなつもりじゃないね。わたしは自分のルーツに興味はあるけど、本当のパパなんてどうでもいいね。ママを捨てて帰ってしまったパパなんて」
「どこに住んでいるのか知っているのか?」
マリアは黙った。
本当の父親のことを調べた。それをするのにはお金が掛かった。でも、それをパパに頼むわけにはいかなかった。学費も生活費もパパが出してくれている。その上、本当の父親のことを調べたいから、とは言えなかった。
「知ってるね」
そう言うとマリアは顔をそらして窓の外を見た。別荘の明かりが後ろへと飛んでいった。
あとは林が続く。暗すぎて見えない。
「どうして?偶然に知ったわけじゃないだろう」
「そうよ。調べたの。福島っていうところでビジネスマンをしてるね。洋服を扱うビジネスマン」
阿部は少し考えた。
「会ってみたいか?」
「なんでそんなことを聞くね?」
「どっちにしても、高浜の指定ルートは福島県を通る。福島と一言で言っても広いが、場所によっては行けなくもない」
「そんな・・・別にいいね」
「遠慮することはないぜ」
「そんなこと・・・アベさんだって、本当はマリアを厄介払いしたいだけなんでしょ」
中禅寺湖を抜けると華厳の滝の案内を横目に「いろは坂」へ。
ヘアピンカーブの続く一方通行路だ。一台のインテグラがスープラとフェラーリを見て追いついてきた。須崎は、あっさりと前に行かせる。インテグラはパッシングしてスープラの真後ろへと付いた。
阿部はヘアピンで車体を流しながらドリフトで入る。インテグラはしっかりと速度を落とし鋭い旋回でインを付いてきた。やるな、と阿部は思いアクセルに力をこめる。ちらりとマリアを見ると彼女は怒ったような顔で阿部を見ていた。
「すまん」
そう言うと阿部はハザードを点滅させてインテグラに道を譲った。
「厄介払いなんて思ってないよ」
マリアは依然として口を聞かない。
「ちょうど福島あたりで昼になる。オレは休憩と仮眠を取りたい。その間、マリアが何をしていても構わないが、一緒にいても暇なだけだろう、と思っただけなんだ」
「本当ね?」
「ああ。待ち合わせ場所と時間を決めてくれていい」
「絶対にわたしをおいていかないね?」
「ああ、おいていかない」
そう言うと、阿部はヘアピンを抜けアクセルを踏み込み、インテグラを追う体制に入った。
「絶対の絶対ね?」
「ああ、絶対の絶対だ」
夜が明けた。
高浜は、そのビジネスホテルの1室で目を覚ました。
眠った気がしなかった。それでもベッドから這い出たのは、それ以上眠れる自信が無かったからだ。テレビを点けてシャワーを浴びるために浴衣を脱ぐ。
熱めのお湯で気分をスッキリさせるとバスタオルで頭を拭きながら部屋に出た。
備え付けのポットで日本茶を煎れる。インスタントのお茶なんて、日本を離れたら絶対に飲めないのだろう。でも、別に惜しくなるほどのものでもない。
テレビでは交通事故のニュースをやっていた。パトカーが追尾中に事故を起こして警官が一人、死んでいた。同乗の警官も意識不明の重態だという。場所は長野の山奥。聞くとも無く聞いていた高浜だったが、アナウンサーの最後の言葉にひっかかりを感じた。警察は逃走した黒い乗用車を探している、という。
まさか・・・手元にパソコンがあれば検索して情報を確かめることも出来るのだけど。
チャンネルを変えてみるが、それ以上の情報は手に入らなかった。高浜は、急いで服を着た。出かけなくては。どこかで情報を手に入れないと。
夜が明けるまでに日光を通り抜け福島を目指す。
国道4号線は避けて今市で121号線へ左折する。須崎は携帯で連絡してきた。休憩を入れるから猪苗代湖で待つ、という。フェラーリは461号線で西那須野塩原インターから東北自動車道へ入る。スピードを上げ午前7時には会津若松の手前まで近づいていた。
そこから今度は国道118号線へ右折して郡山を目指す。マリアの実父が郡山に住んでいるからだ。またしても高浜の指定したルートから外れた。だが構うものか、と阿部は思う。
どうせわかるまい。結果的に無事に荷物を届ければいのだ。
「マリア、一緒についていこうか?」
阿部は信号待ちでアイドリングに震えるスープラの1速ギアを選ぶと言った。
「別にいいね。わたしは一人で大丈夫」
「そうか。気を使うなよ」
「違うね。アベさん寝ないと運転出来ないね。わたし無事に北海道、行きたいね」
阿部は口元だけで笑うと「じゃあ駅で降ろすよ」と左へウインカーを出した。
マリアは田舎の駅で電車を待っていた。
こういう駅は映画で見たことがある。日本の古い映画だ。変な太い腰ベルトを巻いた中年が日本のいろんなところへ出かけていく話だ。主人公の名前を聞いたら、日本の友達は、こう答えた。
「モービル・タイガー2」
別に英語に訳してくれとは言ってない。車虎次郎だと言えばいいのに。
お陰で、その田舎の駅でマリアはモービルタイガーのことを思い出していた。機械の虎が走ってきそうな気がした。
阿部はスープラを公園の日陰へ停めると窓を開けたまま眠ることにした。初夏の日差しは強い。すぐに車の中は蒸し風呂のようになった。たまらず阿部は車から降りる。窓を閉めドアにロックをすると近くのベンチで横になる。その方が随分と楽だった。
今頃マリアは何をしているだろう。
父親に会うといっても、今日はウィークデイだ。素直に会えるとは思えない。きっと落胆して帰ってくるに違いない。どうやって声を掛けてやればいいのだろう。
そんなことを考えながら、一方でどうしてそんなことを悩まなければならないんだ、と自分を責めていた。どうしてこの旅にハーフの女がついてきているのだ?
あれもこれも須崎が悪い。
あいつにとっては遊びだが、オレにとっては仕事なんだ。
そして高浜にとっては一生涯の問題に違いない。これが失敗すれば高浜は間違いなく犯罪者として警察に捕まるのだろう。その時は阿部も一緒かもしれない。だが須崎は逃げおおせるだろう。あいつはそういうやつだ。楽しいことには首を突っ込むが、ちゃんと保険は掛けてくる。マリアやメイは保険のための要員に過ぎない。
それならそれで阿部もマリアについて割り切れば良かったのかもしれない。あれはただの保険だ、と。旅を楽しくしてくれて、いざと言うときには嘘を本当にしてくれる保険。
でも、阿部はそんなに簡単に割り切れなかった。
そういう辺りが阿部の性格なのだった。