小諸~佐久~草津
若い警察官が小諸方面での待ち伏せを決めた時、阿部のスープラはビーナスラインとの分岐まで進み、折り返していた。待ち伏せポイントまでは5キロ。もちろん、そのことを阿部が知る由も無い。平均時速100キロなら3分の距離である。事実、阿部は思いっきり飛ばしていた。やがて峠道にさしかかり速度は落ちたものの5分後には警官の考えていたポイントに到達しつつあった。大型トラックが行く手を遮り、阿部は躊躇無く対向車線へ出て抜き去る。信号は青。阿部は踏み込んだアクセルに力を加えた。一瞬、交差する道路に信号待ちの車がいるのを見たが、それ以上は見えていなかった。それが、暗闇の中でパトライトを消したパトカーだとは気がついていなかった。
警官の方はスープラに気がついた。
赤信号を無視して交差点に飛び込んだ。助手席の年嵩の方が慌ててパトライトスイッチと無線に手を伸ばした。その瞬間、サイドウインドーから差し込む大型トラックのヘッドライトに目がくらんだ。あ、と声を出す暇も無かった。阿部に追い抜かれて苛立ったトラックのドライバーは時速100キロ以上の速度で交差点に進入していた。急ブレーキは間に合わなかった。急に飛び出してきたパトロールカーの右側へ左バンパーから衝突した。凄まじい大音響とともに火花が散り、パトカーはくの字に折れ曲がりコマのように回転して道路脇のガードレールへ後部から突っ込んだ。トラックは急ハンドルでバランスを崩し一度は吹き飛ばしたパトカーの正面へ向き合う形で、さらにもう一度突っ込んでいった。
若い警官の、最後の言葉は無かった。年嵩の警官は、運転席の同僚の命が無いことが確認するまでもなくわかった。長い警察官の仕事の中でも、それほどひどい死体は数えるほどしか見ていなかった。そうして気を失った。
阿部は、その事故には気がつかなかった。
道路はまっすぐではないし、スピードの出ていたスープラからは交差点など、すぐに視界の外になっていた。
だからマリアも見てはいなかった。
「スピードを出し過ぎていると思わないね?」
マリアは、少し不機嫌な声で言った。スリルがあるのはいい。でも無謀なのは嫌だ。
「そう、だな」
阿部も、ようやくアクセルを緩める気になっていた。真っ暗な県道には危険など無いように思えた。さっきのパトカーを振り切ってからは、追跡してくるものもいない。たぶん、あれは田舎の警官の気紛れだったんだろう。阿部は、そう考えることにした。
速度を緩め、計器類をチェックする。
ガソリン残量は4分の1ぐらい。そろそろ燃料給油をしなくてはならない。だが、山の中で真夜中である。そう簡単に見つかるとも思えない。たぶん、国道18号線あたりへ出ないと無いだろう。ちらっとモニターで地図を確認する。直線距離で20キロぐらい。おおよそ30キロというところか。国道18号線へ出たからといって、すぐに給油出来るわけでもないだろうから、50キロぐらいの移動は考えておかなくてはならないだろう。現在の燃料残量は、およそ15リッターぐらいだろうから、リッター4キロを割ってくるとやばい。これまでの走行の感じから、このスープラの燃費は飛ばしている時と、そうでない流している時とで倍以上の燃費変動がある気がしていた。
たぶん、相当に燃費に気を使って走れば、リッターあたり10キロ近くは行くかもしれない。相当に理想的な状況下で、だが。代わりに山道をタイヤを鳴かせて飛ばせば、リッター3キロを切るだろう。それはターボ車の宿命だ。ブーストの利かない状況と、フルパワーを引き出している状況とでは違う車になってしまう。
阿部の知っているやつなど、マークⅡのツアラーVで燃費走行をする。そういうクルマじゃない、とわかっていても、金が無いから仕方が無いのである。そうやって深夜の高速でリッター20キロだしたと自慢していた。本当かどうかはわからない。
ターボ車は、運転の仕方一つで燃費は、すぐに変わる。
ここは、速度を落としてガソリン消費を抑えるしかない。
グレーのスーツの男は携帯電話で話していた。
「つまり見失った、ということだな?」
もう一人のダークブルーのスーツの男は、その大型のBMWの運転をしていた。こんな場合には、情報を手に入れる人間は少ない方がよい。運転手は会社においてきていた。車の運転は好きではない。とくに日本の狭い道では。
若い頃、砂漠の中をダットサンの4WDで飛ばしたことがある。父親に買ってもらったその車は当時の最新型で、彼、ラビーブは恋人と砂漠へ一泊旅行に出かけたのだ。大きな大冒険をしているつもりだった。彼は、子供の頃から冒険が好きだった。それは今でも変わらない。
こうして日本の支社へと転勤になった今でも、ただの会社勤務は退屈だ。ラビーブには、会社役員という顔の他に、もう一つの顔があった。そのことを知る人間は少ない。
「もういい、わかった」
そう言って電話を切ると「役たたずめ」と悪態をついた。そういうグレーのスーツの男の育ちの悪さをラビーブは良く思ってはいない。
「申し訳ないが、君のコンピュータを借りなくてはならないようだよ」
グレーのスーツ、スフヤンが言う。コンピュータ、ね、とラビーブは思う。どうせ彼にはネットサーフィンとハッキングの差もわからないんだろうと思った。
国道142号線へ出たところで阿部は佐久へ抜けることにした。
しばらく走ると須崎と連絡がついた。携帯電話の通話可能エリアに戻ったからだ。
佐久で阿部は給油して北上、国道18号線へ軽井沢の手前で左折、すぐに須崎を見つけた。2台は前後に並んで走り、中軽井沢から国道146号線へ左折した。深夜の峠を上がり鬼押ハイウェイへ入った。深夜の料金所に人は無く通行料は取られなかった。
須崎はアクセルを踏み込む。まっすぐに続く真っ暗なルートで阿部のスープラを引き離しにかかった。阿部は、その須崎の意図を瞬時に感じ取り、すぐさま後を追う。あっという間にハイウェイ終点へ到着した。そこから万座ハイウェイには入らず、県道に入り草津方面へ阿部はハンドルを切った。
「阿部ちゃん、こっちじゃないんじゃないの?」
すぐさま須崎から携帯に電話があった。
「いいんだ。こっちで。ちょっと寄り道するんだから」
「何があるの?こんな真夜中に」
「まあ行けばわかるって」
阿部はオンボードコンピュータに目を戻した。白樺湖で予定ルートを外れてから、それはただの電子地図の役割しか果たしていなかった。あとで使い方を覚えないと、この先、何処へ行けばいいのかさえわからなくなる。この計画の唯一の立案者の高浜は、事前にルートも目的地も教えてくれなかった。唯一、最終目的地は北海道である、とだけ。
草津温泉の近くまで走ると、阿部は進路を東へ取った。道路は照明も無く舗装も悪い。
足回りを固めたスープラにもフェラーリにも快適な道路とはいいにくい。