手取川大吟醸
大抵のことは、他人がやっているのを見ていると簡単で楽しそうなものである。
計画を立てるというのも、それと同じで最初のプランは単純で難しいことなんて一つもないように思えるものだ。
阿部史人の場合も同じで、長距離ドライブをするだけで150万円という馬鹿みたいに「うまい話」に聞こえたのだ。距離としては、名古屋発札幌だから、決して楽ではないが、いずれにしたって途中には海もあることだし、風呂に入って寝られるぐらいの休みは与えられるはずだった。
だから、阿部は深く考えることもしないで頷いていた。
それに、阿部には選択の自由なんて無かったのだ。貯金は尽きていたし、アルバイトの面接には落ちたところ。今月の家賃どころか夕食に何を食うかさえ怪しい状態だったのだ。欲しいものはたくさんある。靴も服も車も夢も。共通して言えるのは、有り余るほどの金は必要無いが、最低限の資金は必要だと言うことだ。霞を食って生きていけるほどの修行は積んではいない。
「じゃあ、やってくれるんだね」
「ああ。任せておけ。札幌だろうが沖縄だろうが何処へだって連れていってやる」
阿部は「手取川大吟醸」を飲み干すと答えたものだ。居酒屋だった。もちろん、連れの奢りで、だ。
「連れていってくれなんて一言も言って無いよ。荷物を運んでくれればいいんだ」
「ああ、荷物だろうがなんだろうが運んでやる」
その連れとは阿部は十年来の友人だった。大学で同じサークルに属し、同じように馬鹿をやって、高浜は4年で卒業して大学院に進学し、一方阿部は6年で中途退学して社会に出たのだ。もっとも、阿部は未だかつてまともな仕事に就いたことが無かったのだが。
「いいんだね。報酬も150でいいんだね」
しつこいくらいに高浜は念を押した。
「ああ」
阿部ははっきり言って酔っ払っていた。ぐでんぐでんに酔っ払っていたと言っていい。
酒には強いほうだが、あまりにうまい酒で、つい飲み過ぎていたのだ。
しかたあるまい。阿部は貧乏でアルコールといえば発泡酒、せいぜい第三のビールと飲み比べてみるぐらいのもの。そういえば、しばらくスーパードライやラガーさえ口に入れて無いってほどなのだ。
「いくらか、前金で渡しておく?必要な物の手配もあるだろう?」
「ああ、そうだな」
そう答えたものの、阿部の頭の中には何かプランがあったわけじゃない。
「よし、じゃあ50万、用意する。それでいい?」
「ああ、いいよ。充分だろう」
繰り返すが、頭の中で何か計算があったわけじゃない。その時に阿部の頭に浮かんでいたのは自宅のベッドぐらい、とても眠くて仕方がなかったのだ。
「しかし、なんでまたそんな金を使って荷物を運びたいんだ?宅急便なら百分の一ぐらいで済むだろう」
「そうだ。でも宅急便では運べない代物なんだよ」
「ああ、そうか。まあどうだっていいか」
いずれにしても、そんな調子で、阿部はその仕事を引き受けたのだ。
次の日の昼には、阿部は昨日の夜のことなんてさっぱりと忘れていた。
飲み屋での話だ。酔った上での馬鹿話だ。そう思っていた。朝のうちは覚えていたのかというと、なんていうことはない。午前中には二日酔いでベッドから出られなかっただけのこと。
いずれにしたって、夜になるころには、電気代をけちってデスクスタンドの光でアルバイト情報誌をめくっていた。飲み屋での夢物語よりも、現実の生活のほうが急務だったのだ。
「居留守かな、就職浪人」
阿部は、慌ててアパートの玄関へ出た。
「うるさい。隣近所に迷惑だろう」
「迷惑なのは、阿部君だけだろう。胡散臭さが知れ渡るから」
薄笑いを浮かべて高浜は言った。
「ほうっておけ」
「それよりも、部屋に入れるのか入れないのか、はっきりしてくれないかな」
高浜は、玄関に立つ阿部の後ろを指差しながら言った。
「ああ、入れよ。そんなところで大声を立てられると迷惑だからな」
そうやって部屋に招き入れると、高浜は我が物顔で部屋の真ん中に腰を下ろした。
「お茶ぐらい出してよ。僕は雇い主だ」
「なんの雇い主だよ」
呆れたように高浜は阿部の顔を覗き込む。
「忘れたの?昨日の話」
「だから、なんの話だ?」
「荷物の運び屋をやってくれるという話だよ」
ああ、と阿部はため息をついた。
「与太話では食えない」
「与太ではないよ」
「じゃあなんなんだ?そんなうまい話が転がっているわけがないだろう」
「だけど、あるんだ」
そう言うと、高浜は急に声を潜めた。
「もう既に金を持ってきているんだ」
高浜は、言うが早いか懐から封筒を取り出した。そしてそのままポンと投げてよこした。
「なんだ、これは」
「前金だよ」
阿部は、それを拾い上げると、糊付けされていない封筒を開いた。そこには数十枚の日本銀行券が入っていた。
「何の悪戯けだよ」
「悪戯けじゃあないよ。これは真剣な頼み事なんだ」
「じゃあ裏があるんだろう?」
高浜は頷いた。
「ある」
「やっぱり」
「だが、話せない」
「話せないだと?じゃあ引き受けられないな」
「割のいいバイトだと思って引き受けてくれないかな」
「割がいいかどうかは、話を聞かなくてはわからないだろう」
「そりゃあそうだが、要するに札幌まで荷物を運んでくれるだけでいいんだ。多少の条件はあるけど、基本的にそれだけのことなんだよ」
「それで150万か?有り得ないだろう」
「いや、そうじゃないんだよ。これは一世一代の賭けなんだ」
一世一代とは時代がかった言い回しだと、阿部は思った。
「なんだよ、それは亡命でもするつもりか?」
急に高浜の目が鋭くなって、阿部を睨んだ。
「なぜ、そう思う」
「なぜそう思うかって、思いついただけだが」
「人には言わないで欲しいな」
阿部は開いた口が塞がらない思いだった。
「馬鹿か?」
きっと睨む。
「馬鹿じゃない。もう随分と悩んできたんだよ。僕は亡命する」
「なんで、どうして?ここは日本だ。この平和な国からどこへ亡命するというんだ?」
「それは言えない」
「言えないことだらけだな。じゃあ、どうして亡命しなくてはならないんだ?」
「それは正当な評価を求めてだよ」
「誰の?」
「僕の、だよ。僕は今の会社から不当な扱いを受けているし、この国からも不当な扱いを受けている」
「意味がわからないんだが」
「わからなくていいんだよ。阿部君は阿部君らしく今のままでいて欲しい」
「なんだそりゃ」
「とにかく、頼まれてくれるんだよね」
阿部はため息をついた。目の前に喉から手が出るほど欲しい金があった。もう、生活さえ出来ないほどに困窮していたのだ。
「わかった。どうせ選択出来る身分じゃないんだ」
ほっとしたように高浜は息をついた。
「じゃあ、用意を開始してほしい。出発は一ヵ月後だ。計画については徐々に話すことに
なるけれど、まずは車の用意をして欲しい。阿部君の車は、きちんと整備されているよね?」
阿部は頷いた。
「当り前だ。車よりも大切なものなんてこの世には無いんだよ」
「うん、そうだったね。だから阿部君に頼むんだよ」
「でも、車検が切れている」
ぽかんと、高浜は口を開けた。
「それじゃあ困るよ」
「まあ、五十万もあれば、充分に車検なんか受けられるけどな」
「そうだね。あとは荷物を載せるスペースを作ってくれればいい。トランクに積んでいる工具を下ろして」
「あれを下ろすのか。置き場が無いなあ」
「仕方無いよ。大きい荷物なんだ。970ミリ×340ミリ」
「つまり1メートルぐらいのサイズか?無理だな」
「なんで?」
「オレの車は2シーターだ」
「なにそれ?」
「二人乗りってことだよ。MR2なんだから」
「乗らないってこと?」
「そうだ」
「困るよ、それは」
本当に困った顔で高浜は言った。
「そうだな。でもいい案があるんだ」