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恐怖日和  作者: 黒駒臣
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遠景

  

  

 建築中ビルの四階足場に立った守は現場シートの向こうに透けて見える景色を眺めていた。

 蒸し暑い日々が続いているが、足場を抜けていく風に吹かれていると心地いい。


 紗がかかった下界の道路には様々な車の走るのが見え、自転車に乗った主婦やバイクの配達員、乳母車を押す母親に犬の散歩をする老人もいる。


 園児たちの赤い帽子の列が十数メートル先にある木の密集する場所――たぶん公園だろう――に向かっていた。


 蟻みたいだな。

 守はくすっと笑った。


 重なり合う住宅の屋根の向こうには通りがあり、電気屋やパン屋などが並んだ店舗が見えた。

 パン屋の二軒隣は花屋だ。その店先で、女性が二人立ち働いていた。顔は見えないが服装でそうだとわかる。

 一人が水色のシャツに白いパンツ。もう一人がピンクのワンピースを着ていた。ともにストライプのエプロンをつけている。

 一生懸命働いている姿が守には眩しく美しく感じた。


「きょうも暑いなあ」


 カチャカチャと安全帯の金属音を立てながら先輩鳶の遠藤が近づいてきて、にやりと笑った。


「なんですか?」


「ふっふーん。まもるちゃーん、サボって何見てんの?」


「サボってませんよ。ちょっと風に吹かれてただけで――」


「んなこと言ってぇ。わかってんだぞ。あそこの花屋の女子たち見てただろ?」


 どきっとして目をそらす。


「み、見てませんよ。シートかかってるし、それにあんな遠くちゃ何も見えません」


 日頃から鈍感なくせにこんなとこだけ鋭いんだから――


「おっ、そんなこと言って顔が赤いぞ」


「赤いも何も、見てませんったら」


「ははは、ヨダレも出てんぞ」


「やめてくださいよ、もうっ」

 マジうぜぇと思ったものの、


「そこで提案。昼休憩にあそこまで行って彼女らを今夜飲みに誘ってきて」


 なんだよ。自分があの娘らにチェック入れてたんじゃんか。


「いやです。そんなことできません。やったことないし」


「まあまあそんなこと言わず、俺のスクーター貸すからさ、ぜってー行って来いよ」


 先輩は下卑た笑いを浮かべたまま自分の持ち場へ戻っていった。


 嘘だろ。無理。絶対無理。女子誘う勇気なんかないってーの。そんなこと出来るくらいなら、とっくに彼女作ってるし。

 どうしよう――うん。忘れっぽい先輩のことだ。昼までには忘れちゃってるだろう。うん。きっと大丈夫だ。

 守は自分を慰めながら、何気なくシートの向こうに視線を戻した。


「あっ」


 水色のシャツの女性がこっちを見ている――ような気がした――メッシュの紗がかかってはっきりそうだと言えない。だが、条件は向こうも同じはずだ。なのにまるでそっちを窺っていたことを知っているかのようにこちらをじっと見つめている。


 守は慌てて顔をそらせた。あまりのことに驚き、心臓が破裂しそうに痛い。

 もしここに立っていることがわかったとしても、視線がどこを向いてるかまでは把握できるわけないじゃないか。

 そう自意識過剰な自分を嗤いながらも、ちょっとは意識して欲しいかもと期待している自分もいた。


                 *


 あのまま忘れてしまえばいいのに昼食の後、先輩はきっちりスクーターのキーを持ってきた。

 何度も断ったが、無理やり駐車場まで引きずってこられ、フルフェイスのヘルメットをすっぽりかぶせられた。


「早く行って来いよ。休憩時間終わっちまうぞ」


 怖い表情で、若干脅しの口調だ。

 こうなったら行かないわけにはいかない。


 仕方なく、先輩が言うから仕方なく行くんだ。

 スクーターにまたがり、汗臭いヘルメットの中で守は独り言ちた。


 花屋の周辺に近づくと、ときとき心臓が高鳴り始めた。

 行けっ、がんばれっ。オレ。

 初めての経験に自分を奪い立たせ、少し離れた場所にスクーターを止める。


 よしっ、行くぞ。

 ヘルメットを置いて、花屋に向かい、さりげなく周辺をうろついた。

 休憩中なのか、店先に二人の姿は見えない。


 まさかあの上からしか見えない幽霊だったりして。それじゃ誘えなくても仕方ないから先輩に文句言われないな。

 ありえない想像で期待してみるも、真っ昼間に幽霊なんかいないかとすぐ思い直し苦笑いした。


 守はさりげなさを装って行ったり来たりを繰り返したが、どう見ても挙動不審者だ。そう自覚しつつも店内のチラ見を何度も繰り返した。


 数分後、店の奥から水色の服が見え、守の心臓が躍り出した。


「こんにちはぁ、いらっしゃいませぇ」


 後ろ手でエプロンの紐を結びながら店先に出て来た小柄な女が鼻にかかった甘い声を出す。真っ赤に塗った唇がにっと持ち上がった。


 守はまだ一言も発していなかったが、その笑顔を見て、自分がナンパしに来たことを見透かされている気がした。

 それだけではない。誘いに応える気満々の雰囲気も醸し出している。


 さっきあそこで見ていたことに気付いてたのか――まさか、こんな遠いところから?

 守は自分の顔が真っ赤に染まっていくのがわかった。

 無理だ。無理だ。やっぱりオレには無理だ。


 ピンクのワンピースも店先に出て来る。こっちも小柄で、化粧をばっちりと施した熱っぽい視線で守を見つめてくる。


「何か用?」


「あー、いえ、えっとぉ――」


 直視できず目を伏せた守はそのままその場から逃げようとした。だが水色の女に手首をつかまれた。

 白くて冷たい手だった。華奢な指をしているのに、ものすごい力で握りしめられ振りほどくことができない。


「何か用があるから来たんでしょう?」


 ねっとりと舐められるような声に守の身体が震えた。


「は、はい――いえ――あ、はい――せ、先輩が――先輩が今夜飲みに行きませんかって――誘ってこいって頼まれて――」


「あなたの隣にいたガタイのいい人?」


「あ、はいそうです」

 やっぱり気付いてたんだと思いながら守は答えた。


 二人は嬉しそうにお互いの顔を見合わせている。

 手首をつかむ力が緩んだので「それじゃ、確かに伝えました」と、守はその場から離れた。


「後で行くわぁって、先輩に伝えておいてぇ」


 振り向くとピンクの女が手を振っている。振り返すことなくスクーターの位置にまで急いで戻り、猛スピードで現場まで戻った。


 駐車場で待ち構えていた先輩にヘルメットを突き返した。


「うまく誘えたか?」


「後でここに来るそうです」


「へえ。お前、なかなかやるな。はっはっはっ、褒めてつかわすぞ。

 だけどよ、せっかく頑張ってくれたんだけどさ、お前は今夜遠慮してくれ。こいつと二対二で行くから」


 親指でもう一人の先輩を指し「この埋め合わせはするからさ」と守の肩を軽く叩いた。


「わかりました。でも別に気を遣ってくれなくてもいいですよ」

 そう返事すると、


「物わかりの良いかわいい後輩君だねぇ」

 先輩二人は笑って作業場へと戻っていった。



 終業時間になり、守は帰り支度をしていた。


「まもるっ。まもるはどこだぁ」


 先輩の叫び声が聞こえる。

 それを無視して自車の軽ワゴンを置いた駐車場に向かった。


「おいっ、まもるっ、これはいったいどういうことだぁ」


 守を見つけた先輩が血相を変えて追いかけてくる。腰には水色の女が縋りついていた。小柄過ぎて先輩を足止めすることができずにいるようだ。


「どういうことって、オレは先輩の頼みをちゃんと伝えただけですけど――」


「そうよぉ、この子ちゃあんとあなたの伝言つたえに来たわよ。ねぇ、そんなことよりぃ早く飲みに行きましょうよぉ。何なら今晩お持ち帰りしてくれてもいいのよぉ」


 水色の女は腰に腕を巻きつけながら手は先輩の股間をまさぐっている。


「やめろっ触るな、この皺くちゃババアっ」

 先輩が悲鳴に近い声を上げた。


 もう一人の先輩もピンクの女に抱きつかれ、引き剥がそうと難儀している。

 守はふっと鼻で嗤った。

 皺くちゃババア――

 そう、水色もピンクも文字通り皺くちゃババアだったのだ。

 しかも相当の――


「まもるぅ助けてくれぇ」


「知りませんよ。先輩が誘ったんだから」

 言い捨てると守はさっさと車に乗った。


 他の職人仲間たちは遠巻きに見物し、同情の眼差しを向けつつも大笑いしていた。


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