聲
福引で当たった日帰り旅行なんて一人で参加するもんじゃないわね。
忍は観光バスの車窓から見える夕暮れを気怠そうに眺めながらそう思った。
もう後は帰るだけのバスは高速道路をひた走っている。まわりの乗客たちはそれぞれの家族や友人との会話にも飽き、ぐったりと眠っていた。
三年前に夫と死別し、ひとり息子も巣立った忍にはともに旅する家族はいない。友人を誘ってもよかったが、当選者以外の参加者には料金が発生する仕組みになっていたので誘う気になれなかった。賞品を放棄してもよかったが、貧乏性のせいかもったいない気がして、結局一人で来てしまった。
そろそろ最後のドライブインに立ち寄る頃だわ。
旅のメインは『のどかな山間の陶芸体験と秘境温泉』で、陶芸体験が済んだ後の昼食は施設内の食堂に用意された質素で冷たい幕の内弁当だけだった。忍はそれをお茶で流し込んで食べた。
時間制限の中で慌ただしく温泉に浸かる気にもなれず、他の乗客たちが入浴している間、施設内にあった喫茶店でケーキセットを食べた。香りも味もないコーヒーだったが飲み放題だったので三杯もお代わりしてしまった。
そのツケが今頃回ってきている。
バスに乗る前、ちゃんと用を済ませてきたのにまたしたくなるなんて――若い時はいくらでも我慢できたのに――それにしてもあのトイレちょっと気持ち悪かったわね。
忍はため息をついてさっき入ったトイレのことを思い返した――
乗車時間に集合した時、添乗員に促されほとんどの乗客がトイレに向かった。
忍もその中の一人だった。
施設内の女子トイレには個室が三つしかなく、別のツアーの団体もいたので長い列ができた。
発車時刻が刻一刻と迫ってくるのに、なかなか前に進まない。
列の後ろにいた忍は焦った。
ふと、林に囲まれた駐車場脇に『公衆便所』の矢印があったことを思い出した。
どうせ駐車場に戻るのだから、あそこに入ってもいいわよね。
列から離れ、足早に玄関を出る。
バスに戻る人々がちらほら駐車場を歩いていた。
早くしないと置いてかれるわ。
急いで見つけた矢印は植え込みに埋もれかけた細い道を指していた。
奥に入っていくと、鬱蒼とした木々に囲まれた古い公衆便所があった。外観の傷みが激しく、使用されているという感じがない。
忍はここに来たことを後悔した。いまさら施設内に戻る時間はない。
とりあえず女子トイレの入り口を覗いてみた。奥のほうは中が見えないほど暗い。窓はあったが木々の枝が邪魔をして十分な光が入ってこない。壁際にある電灯のスイッチは外され配線がむき出しになっていた。
立ち入り禁止とも使用不可とも書かれていなかったが、忍はあきらめて引き返そうとした。
その時、中から声がした。
「ちゃんと自分でできるの? ママ手伝うよ」
「いいもん。じぶんでできるもん」
個室のどこから聞こえてくるのかわからないが、幼い女の子と若いお母さんの会話だ。
「ほら、ここちゃんと持ってないと濡らしちゃうよ。ママが持っててあげるわ」
「いいのっ。できるのっ」
「でも、ほら――」
「できるのっ。はなしてっ」
聞いていて頬が緩んた。
女の子は自分でできると言い張っている。自我が芽生えた頃なのだろう。この時期の親は我慢とあきらめが大事だ。
忍は息子の幼い頃の日々を思い出した。
あの子も自分でやると言ってきかなかったっけ。急いでいる時なんか、ほんと困ったもんだったわ。でも子育ては楽しかった――
その息子も今は都市で働いている。
まだまだ予定はないけど結婚すればわたしにも孫ができる。また小さな子供と触れ合う時が来るかもしれないわね。
そんな想像をしていると自然と笑みがこぼれた。
忍の乗っているバスには子供連れがいなかったので、別のツアー客なのだと思った。
ちっちゃな子があの長い列に並んでいたらお漏らししちゃうもんね。このお母さん、ここにあること気づいてたのね。
忍は使用してもいいのだと判断し、トイレの中へ一歩踏み出した。
コンクリートの床のひんやりとした空気が足元から這い上がってくる。頻繁には使用されていないのか公衆便所特有の臭気はないが、生臭さが微かに漂っているような気がした。
窓に映る木の葉の影が壁や床にまだら模様を作っている。わずかな木洩れ日だが思ったよりも暗くなくて安心した。
五つある個室の、手前から二番目の扉が閉まっているので、そこに母娘が入っているのだろう。
忍は一番手前のトイレに入った。
水洗の和式便器は黄ばんでいて、濁った水の中で枯葉が数枚浮いていた。一瞬躊躇したが、すでに尿意を我慢できなくなっていた忍は便器にまたがって用を足した。
ポケットティッシュを持っていたがここでは使用できず、わずかに残っていたしわくちゃのトイレットペーパーを不快に思いながらも仕方なく使う。不潔な感じはなかったが気持ちのいいものでもなかった。
ともかくすっきりとはした。そそくさと身繕いをして水洗のレバーを押す。ちょろちょろと細い水しか出てこない。
押し続けて汚水が流れ切るのを待っていると目の前の壁に何かを拭き取った赤黒い筋があることに気付いた。
これ何?
よせばいいのによく見ようと顔を近づけた。
え? これってもしかして――
忍にはそれが血を拭いた跡のように思えた。周囲を見回すと飛沫が点々と残っている。
やだ、ここ、なんか気持ち悪い。
鳥肌が立つ腕を擦りながら便器の確認もそこそこに個室を出た。
あら、そう言えばお隣はどうしたのかしら。あれから声が聞こえないわ。水洗の音も出て行った気配もなかったからまだ中にいるのよね?
洗面台の蛇口をひねり申しわけ程度に出てくる細い水で手を洗いながら二番目の個室を振り返った。
扉の細い隙間から黒い人影がこっちを覗いている。
ぞっとして慌てて公衆便所を飛び出した――
あの時本当に気持ち悪かったわ。ああそれにしてもまだかしら。お願いっ、早くドライブインに着いてっ。
ますますきつくなってくる尿意に忍は心の中で叫んだ。
*
ドライブインに到着すると車内が騒々しくなった。
「お疲れ様でしたー。お手洗い休憩はこちらで最後となりまーす」
バスガイドが声を張り上げている。
ほとんどの乗客が降りる準備をしていた。
後方にいる忍は、降りるだけでも時間がかかりそうだとうんざりした。さらにトイレの列に並ぶことを考えると漏らしてしまわないか不安になってくる。
降り口に立つガイドへの会釈もそこそこにトイレに駆け込んだ。
やはり人がごった返している。
忍は身近な個室の列に並んだ。幸いにも進みが早く、すぐに順番が回ってきた。中に飛び込みドアを閉め、下着を下ろすのももどかしく洋式便器に座る。
間に合ったことにほっとした。
もう歳なんだから水分に注意しなくちゃ。
「あら?」
急に周囲の喧騒が消えた。一瞬耳が聞こえなくなったのかと思うほどの静寂だった。
え、もうみんな行っちゃったの? まさか。まだたくさん人が並んでたわよね。わたしの後ろにもいたし――
いやだわ。何かあったのかしら?
慌てて衣服を整え、開錠しようとドアに手を伸ばした時、隣のトイレから声が聞こえてきた。
「ちゃんと自分でできるの? ママ手伝うよ」
「いいもん。じぶんでできるもん」
「ほら、ここちゃんと持ってないと濡らしちゃうよ。ママが持っててあげるわ」
「いいのっ。できるのっ」
「でも、ほら――」
「できるのっ。はなしてっ」
聞いた事のある会話に思わず息を潜め、耳をそばだてる。
古い公衆便所にいた母娘?
そう思った途端に二の腕が粟立った。冷たい空気が足元から這い上がってくる。
は、早く出なくちゃ。
気付かれないよう音に注意してスライド式の鍵をそっと引く。
「ちゃんとしないと隣のおばちゃんに笑われるよ」
突然、母親がそう言った。
忍は悲鳴を呑みこんで個室から飛び出した。だが、そこはドライブインのトイレではなく、あの古い公衆便所の洗面台の前だった。
なんでっ、なんでっ。
戸惑いながら振り返ると二番目の扉の隙間から黒い人影が覗いていた。その隙間が少しずつ開いてくる。
忍はついに悲鳴を上げてしまった。
*
「奥さん。もう着きましたよ。奥さん」
肩を叩かれて目が覚めた。後ろの座席の女性が身支度を整えながらもう一度、「着きましたよ」とにっこりした。
「あ、ありがとうございます」
軽く会釈して背もたれから身を起こす。
窓の外は濃い夕闇で暗くなっていたが、到着場所が駅前だったので街灯やネオンで周囲は明るかった。
夢だったんだ――いやな夢。
どこまでが事実でどこから夢だったのか、まったくわからない。
だが、とにかく無事到着したのだ。
膝にかけていたジャケットを羽織り、荷物棚から土産の袋を下ろした。網ポケットに忘れ物がないか確認する。
乗客は座席に挟まれた通路に順番に立って降りる列を作っていた。
忍を起こしてくれた女性が連れと一緒に横をゆっくり通り過ぎていく。
支度が遅れた忍は通路に出るタイミングを失い、いっそ最後にしようと軽く腰掛けたまま待っていた。
最後尾にいたたくさんの土産物を持った女性が目の前を通過し、忍は立ち上がった。ゆっくり進むその女性の踵を蹴飛ばさないよう注意しながら少しずつ前へと移動する。
前方からは無事到着の礼を伝える客の声とそれに応答する運転手とバスガイドの声が入り乱れて聞こえてくる。
忍は前に何人待っているのか確認しようと首を傾けた。
立って待つのはあと数人だったが、まだ左側座席の四列目には人が座っていた。
だが、窓際にある後頭部になぜか違和感を覚えた。車内灯の加減かもしれないが、影のように真っ黒なのだ。降りるそぶりもなく前をじっとむいているのも奇妙に感じた。
横を通り過ぎる際にそっと盗み見る。
座っていたのは真っ黒い影そのものだった。隣の席には小さな影もいる。
憑いて来たんだ。
背筋に怖気が走る。
声に惹かれてあんなところへ足を踏み入れなければよかったと後悔したが後の祭りだ。
何もいない。気にしてはいけない。何もいない――
そう言い聞かせて無視し続けたが、自分の背後に二人が張り付いたのを忍ははっきりと感じた。