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恐怖日和  作者: 黒駒臣
18/132

赤いボール

『赤いボールの転がる先は』の短編版(6000字未満)です。

以前掲載し、下書きにしていたものを元に戻しました。

*『赤いボールの転がる先は』は『赤いボール』を加筆修正したものです。


  

  

 毎日が針の筵だった。

 姑の多永子からは子供ができないと嫌味を言われ、夫、圭司は愛人を作ったあげく妊娠させ、自分には非がないとばかりに態度がでかい。

 ここ最近、二人から離婚を仄めかされている。

 わたしは何も悪くない。まだ子供が授からないだけで、医者から「できない」と言われているわけではないのだ。

 なのに、なぜ家から追い出されなければならないの。

 花恵は唇を噛みしめ、ぜったい別れるもんかと日々耐え忍んでいた。


「お義姉さんも大変ね」

 ソファでくつろぎながら曜子がおもたせのケーキを頬張った。

 実家だから来るなとも言えず、毎日来ては時間を潰されるのに辟易していたが、彼女は花恵の唯一の味方だ。

「そうなのよ、でもわたしは別れたくないの」

 カップに紅茶を注ぎながらため息をつく。

「財産のため?」

 嫌なニュアンスを感じ取り、花恵は顔を上げた。

「ウソ、ウソ。ごめんなさい」

 曜子が笑ってごまかす。

 だが、花恵はピンときた。

 きっと多永子に離婚の説得を頼まれたのだ。

「わたしは今でも圭司さんを愛してるのよ」

 曜子の前に紅茶のカップを置くと向かいの席に着く。

「こんなに愛されているのに、お兄ちゃんは何で浮気するかなあ」

「子供が欲しいんでしょ。

 でもわたしだってできないわけじゃないのよ。

 圭司さんもお義母さんも何をそんなに焦っているのやら」

「お兄ちゃんもママも子供好きだからね。お義姉さんがお嫁に来たらすぐ赤ちゃんの顔が見れると思ったんじゃない?」

 そう言って曜子は紅茶を口に含む。

「わたしが妊娠するまで曜子ちゃんの赤ちゃんで我慢してくれたらいいのに」

 ケーキをほじくりながら花恵は曜子のだんだん大きくなっている腹に視線を送った。

「そう言えば、この間お兄ちゃんたち見たよ」

「たち?」

「お兄ちゃんと美土里さん。あの人のお腹まだ大きくなかったわ」

「そう」

 花恵のこめかみがずんっと痛んだ。

「お兄ちゃんあの胸とお尻にやられちゃったのね。バカみたいに大きいのよ。真面目なお兄ちゃんだったからせまられていちころだったんじゃない?

 だからお義姉さん、あんなお兄ちゃんのことなんか忘れて慰謝料ふんだくって別れれば?」

 ほら来た。本題はこれだ。

「それはそうと曜子ちゃんはどうなの? 浩一さんはもう大丈夫?」

 少しレモンの効き過ぎた紅茶を飲み、花恵は話をはぐらかした。

 音を立ててカップを置くと曜子は身を乗り出した。

「うん。もう大丈夫みたい。昨日なんかわたしのお腹を擦って楽しみだって笑ったのよ」

「そう。悲しみは癒えたのね。ホントよかったわ」

 そう言うと曜子が満面の笑みを浮かべた。

 妻に先立たれた子持ち男と三か月前に籍を入れたばかりの曜子は多永子には交際当初から大反対されていた。

 母親にしてみれば溺愛する娘の結婚は完璧なものでなければならない。子連れの再婚やでき婚になるのはどうしても許せなかった。

 そのため母娘の仲がぎくしゃくするようにまでなっていたが、案じていた曜子の妊娠が逆に多永子の心を変えた。

 新しい命が宿ったと知ったとたん、子連れ、再婚、でき婚という多永子にとっての負のキーワードがきれいさっぱり頭から消え去ったのだ。

 だが、今度は浩一の幼い娘、由姫が曜子の前に立ちはだかった。「お姉ちゃん」と言って懐いているはずだったのに結婚話が進むにつれ、だんだん敵意を剥きだしてきたのだ。

 娘を説得するまで結婚に待ったがかかり、その頃の曜子はひどく落ち込み、花恵の目から見てもかわいそうなくらいだった。

 しばらくして由姫が事故で死んだ。

 浩一と遊びに行った近所の自然公園で、目を離したほんの一瞬に池に落ちて溺れ死んだのだ。

 浩一の悲しみはひどかった。自分も後を追って行きかねないくらいだったが、それを救ったのが曜子とそのお腹にいる子供だ。

 曜子は結婚式こそ上げられなかったが、浩一の妻となり彼を献身的に支えていた。

「ずうっと由姫、由姫って泣いてたの。寝言まで名前を呼ぶくらい。

 でもここ最近はわたしを労って家事も手伝ってくれるようになったし――」

 曜子は感極まり声を詰まらせる。

「で、昨日は赤ちゃんのこと楽しみだって笑ったのね。

 よかった。あなた本当によく頑張ったわ。もう大丈夫。うんと幸せになってね」

「お義姉さん、ありがとう」

 そう言って曜子が涙を拭く。

 どいつもこいつもなんで簡単に妊娠するんだろうと思いながら、とにかく話をはぐらかせてよかったと花恵はほっとした。


「せっかく曜子ちゃんが来たのに、結局お義母さん帰ってこなかったわね」

 花恵は曜子を門の外まで見送った。

「う、うん、いいの、いいの。お義姉さんと話がしたかっただけだから」

 本来の目的を思い出したのか、歯切れの悪い返事をしつつ「じゃまたね」と曜子が立ち去る。

「気を付けて」

 手を振って花恵は門扉を閉めようとした。

 門前を赤いボールがころころと転がっていく。

 花恵は門扉の上から首だけ出してボールとその転がって来た方向を確かめたが誰もいなかった。それどころか今見たはずのボールも消えてなくなり、いくら目を凝らしても遠ざかっていく曜子の背中が見えるだけだ。

「いやだわ。目の調子が悪いのかしら?」

 花恵は目を瞬かせながら中に戻った。


              *


「あら、いらっしゃい」

 再び多永子の不在中に曜子が来宅し、花恵はまた離婚の勧めだろうと思ったが、きょうは少し様子がおかしかった。

「どうしたの? 大丈夫? なんだかやつれたように見えるんだけど?」

「お義姉さん――わたし怖い」

「いったいどうしたっていうの?」

 寒くもないのに震えている曜子をソファに座らせると花恵は温かいミルクを目の前に置いた。

「捨てても捨てても家の中にあるの」

 一口飲んだ後で話し始めたが、花恵には何のことなのかさっぱりわからない。

 マタニティーブルーかしら?

 そう思いながら隣に腰かけて曜子の背中を優しく擦った。

「お義姉さんっ――」

 瞬きもせず顔を見つめる曜子の目から大粒の涙が零れ落ちた。

「どうしたの? 赤ちゃんのことなら心配いらないわよ。お義母さんもわたしもついてるんだから。

 それとも浩一さんに何かあったの?」

 その問いに、目を見開いたまま首を横に振る。

「じゃ、何か言われたの? 

 浩一さんはまだ情緒不安定なのよ。だから気にしなくていいわ」

 それにも首を振りながら、花恵の手を強く握る。

「赤いボールが家の中にあるの」

「赤い、ボール?」

 ふと記憶の端に引っかかりを感じたが、それが何なのかまだわからない。

「初めは外にあったの。門の前をころころ転がってきて――でも誰もいなくて、近所の子の忘れ物が風で転がってきたのかなって、門の端っこに置いておいたの」

 それで花恵はこの前見た――ような気がした――赤いボールを思い出した。

「だけど、それが門の中にあったの。

 まだ浩一さんは仕事から帰ってなかったから、前を通りがかった人がうちのだと思って中に入れたのかなって思ったの。ほら、由姫ちゃんがいたから――もう亡くなってるの知らないで――」

 花恵の手をつかんで離さない曜子がまたぶるぶる震えだす。

「由姫ちゃんのじゃないの? どこかに忘れていたのを誰かが持ってきてくれたとか?」

 曜子が首を強く横に振る。

「全部捨てたから。わたし全部捨てたから――」

「わ、わかったわ。それでその赤いボールをどうしたの?」

「うちのじゃないからまた外に戻したわ。

 だけど数日経ってから、今度は玄関先に置いてあるのに気付いたの。わたし腹が立って外に投げ捨ててやった――

 でもねお義姉さん――またあったの。今度は家の中――廊下の片隅に――わたし怖くなって、外のゴミバケツに放り込んで翌日のゴミの日に出したの。でもまた家の中に――今度はリビングの隅に――確かに、確かにゴミに出したのよ。袋の中の赤いボールをこの目で見たんだから」

「わ、わかったわ。家の中のはやっぱり由姫ちゃんのボールよ。浩一さんが形見にしてて、時々出しては由姫ちゃんを偲んでるってわけ。それを片づけ忘れただけよ。

 あなたに捨てられて慌ててゴミ袋から回収したんじゃない?

 で、外のボールは別のもの。ただの偶然。

 それをあなたが気味悪がってるだけ。

 にしても浩一さんも罪な人ね。曜子ちゃんの目に触れないよう注意してくれればいいのに。ただでさえ妊娠中は情緒不安定なんだから」

 曜子は再び大きく首を振った。

「違うっ――浩一さんは何も知らない。だってわたしもそう思って訊いたもの。あの赤いボール何なの? って。

 そしたら浩一さんは赤いボールなんてないって言うの。彼には見えてないのよ。

 わたしそれからも何度も何度も捨てたのっ。遠くのよそのゴミ置き場まで捨てに行ったのに必ず戻ってきて家の中に転がってるのよっ。

 お義姉さんっ、わたし怖いっ」

 ほぼ悲鳴のような叫びを上げ、曜子が花恵に抱きつく。

「大丈夫よ、大丈夫。

 きっと曜子ちゃん、マタニティーブルーよ。なんでもないことをそんなふうに妄想しちゃってるだけ。大丈夫。わたしがついてるから」

 背中をゆっくり擦り曜子を落ち着かせながら、もしそれが本当の話なら、これはきっと浩一の仕業に違いないと花恵は思った。

 娘を失くした浩一の心はまだ癒えてないのだ。どういうつもりなのかわからないが、娘に罪悪感を覚え、曜子とそして自分にも苦痛を与えようとしているのではないか、そう思えた。

 花恵の胸で泣く曜子の嗚咽が止まった。

「お義姉さん――妄想なんかじゃないの――わたし、由姫ちゃんを殺した――浩一さんが目を離した隙に、池に突き落とした――」

「え――」

「あの日――浩一さんとあの子が公園に散歩に行った日、内緒で後をつけたの。本当にわたしと結婚する気があるのか確かめたかったから。

 二人はとても仲良くて――親子だから当たり前なんだけど、わたしの入る余地なんてないって思った――だから由姫ちゃんさえいなければって。

 でないとこの子が不憫だもの」

 そう言って自分の腹を抱え大声で泣いた。

「曜子ちゃん。だめよ、もう言わないで。あれは事故なの。それでいいのよ」

「違う。わたしよ。わたしが殺したの。突き落とした瞬間にあの子わたしを見たの。だから復讐しに戻って来たのよ。あれはあの子のボールだわ。だってわたしがプレゼントしたものだものっ」

 泣き喚く曜子を花恵はただ見ているだけしかなかった。


 曜子は落ち着きを取り戻すと、送っていくという花恵を断り一人で帰った。

 この先の身の振りをよく考えると言う曜子に、あれは事故だと何度も言い聞かせた。

 浩一や多永子のことを考えてとは言ったものの、曜子の告白が妄想でなく真実ならこのまま許されることでないのはわかっていた。

 だからその後、天罰が下されたのだ。

 曜子が救急車で運ばれたと連絡を受け、多永子や圭司と病院に駆け付けた時は、母子ともに死亡が確認された後だった。

 仕事から帰宅した浩一が、二階から転げ落ち階段下で倒れていた曜子を発見したという。

 娘の亡骸にすがる多永子の絶叫を聞きながら花恵は病室を出た。

 廊下の暗がりで赤いボールが行ったり来たりを繰り返している。まるで小さな子供が両手を使って楽しそうに遊んでいるかのようだ。

 ボールが急に廊下を走り出し、花恵は後をつけた。

 行きついたのは暗い待合室で、浩一がひとり項垂れ泣いている。

 あっ――

 花恵は目を大きく見開いた。

 浩一の傍らに幼女が佇んでいる。

 会ったことはないが、きっとあの子が由姫ちゃんなのだろう。

 父親の顔を覗き込んでいた幼女が花恵を振り返った。


              *


「あらあら花恵さんったら気を付けて、もうあなた一人の身体じゃないんだから。洗濯物はわたしが干してくるわ」

「お義母さんったら大げさですよ。これくらいは運動のうちなんですから大丈夫です」

 洗濯カゴを持った花恵は慌ててそばに来る多永子に笑った。

「だめよ、両手がふさがったまま二階に上がっちゃ。どんなことが原因で落ちるか転ぶかわからないんですからね。

 あなたはそこでゆっくりお茶でも飲んでなさい」

 そう言ってカゴを花恵から受け取ると二階の干場へと向かう。

「じゃ、お言葉に甘えます」

 そう言いながらソファに深く腰掛け、多永子が入れてくれた妊婦用のハーブティーを飲む。

 あれからすべてが好転し、花恵は今とても幸せだった。

 曜子が亡くなってから多永子は美土里にマンションを買い与え、無事赤ん坊を出産させるため何不自由ない暮らしをさせた。

 だが、美土里は部屋で何かにつまずき激しく転んで結局流産してしまった。

 多永子の失望と憤りはいかほどのものだったのか。

 もともと品性も教養もなかった美土里を多永子は好ましく思っていなかった。マンションを手切れ金代わりにすぐ息子と別れさせ、弁護士を立てて不平不満を吐く美土里を黙らせた。

 圭司も毒気を抜かれ、何事もなかったように花恵のもとに戻って来た。

 その後、夫婦生活は順調で花恵は待望の妊娠をする。

「ありがとうございます、お義母さん」

 二階から下りてきた多永子に頭を下げる。

「いいの、いいの。お安い御用よ。花恵さんには元気な赤ちゃんを産んでもらわなきゃいけないもの」

 洗濯カゴを傍らに置いた多永子が隣に腰かけて、大きくなった花恵のお腹を擦る。

「大丈夫。立派に産んでみせます。

 だって、この子とってもいい子なんですから」

「まあ花恵さんったら、生まれる前から親バカね。

 さあさあ、お茶のお代わり入れましょう。おいしいお菓子もあるのよ」

 キッチンへ向かう多永子に微笑みながら、花恵はお腹に手を当ててささやいた。

「それに約束したもの。願いを叶えてくれたら、わたしがもう一度この世に産んであげるって」


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