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ぷちぷち

  

  

                 1


「ああ、疲れた」


 卯木(うつぎ)まさしは弁当と缶ビールの入ったコンビニの袋をちゃぶ台の上に置き、ネクタイを外しながらテレビをつけた。


 玄関のチャイムが鳴る。


 夜の十時、こんな時間にいったい誰が? とドアスコープを覗いた。

 アパートの一階に住む大家の顔が見える。


 家賃の催促?


 支払い日にはまだ間があるのにと思いつつ、まさしはドアを開けた。


「こんばんは。宅配便預かってるよ。お母さんからみたいだ。

 優しいお母さんだねえ」


 一人暮らしの気難しい老人は他の店子よりまさしに優しい。年に一、二回、このアパートを訪ねてくるまさしの母親に気があるのかもしれない。


「大家さんに面倒かけるから送ってくんなって言ってんのに――いつもすみません」


 大家から段ボール箱を受け取り、ぺこりと頭を下げる。


「何言ってんだ。お母さんの優しさを無碍(むげ)にするんじゃないぞ。荷物を預かるくらい、わしはいっこうに構わないんだから」

「ありがとうございます。助かります」


 まさしは段ボール箱を素早く開けて、小分けされ梱包材のぷちぷちに包まれたキュウリやナスなどの野菜をいくつか大家に差し出した。


「いいよ。いいよ。せっかくお母さんが送ってくれたものを」


 大家が手を横に振る。


「いいんです。こんなにいっぱいあっても腐らせてしまうだけですから。大家さんにおすそ分けしてねって、母さんにも言われてますし」


 そんなことは一言も言われていないが、大家に媚びへつらっておく。


「ええっ? お母さんがそんなことを? そ、そうかいお母さんがねえ……それじゃあ、お言葉に甘えていただいておこうかね」


 大家はいそいそと包みを受け取った。


 どうせみんな捨てるものだし。

 まさしは笑顔の下で呟いた。



 大家が上機嫌で帰った後、段ボール箱の中身を床に広げた。

 野菜だけでなく、手作りジャムや梅干しの瓶詰もぷちぷちに保護され入っていた。

 全部故郷の村で取れる野菜や果物だ。


 はあああ。

 深い溜息を吐いた。


 母親はまさしをあの村に連れ戻すことをまだ諦めていないのだ。


 いったいどうやったら母さんはオレを諦めてくれるのだろう。


 緑深い山々に囲まれた故郷を思い出す。

 土着の神を崇拝し、因習にとらわれている自分の村がまさしは大嫌いだった。


 小学校は分校で村から出ることはなかったが、中学高校は山を越えた隣町に通い村外を知ったことで、自分たちの村――卯木家当主(村の長)の母や村民たちの考えはやはりおかしいのだと再認した。


 同じく町の学校に通っていた数人の幼馴染も、未成年故まだ卯木家の秘密を知らずにいたが、辺鄙で閉鎖的な村を出るというまさしの意見に賛同し、高校卒業後はともに離村を誓い合っていた。


 だが、同志たちは家族に懐柔され、村を出られたのはまさし一人だった。

 見聞を広めるため都会の大学に行きたいという理由は、卯木家の息子だからこそ受け入れられたのかもしれない。


 農家を継がねばならない幼馴染たちに申し訳なく思ったが、卯木家の秘密を聞きでもしたか、妬まれることはなかった。


 それはそうだろう。彼らには村で暮らすという以外に何も不都合がないのだから。家業さえ担っていれば一生安泰なのだ。


 当主の息子としていずれ『使命』を背負わなければならないまさしを同情とエールを込めた眼差しで元同志は見送ってくれた。



 それから数年経ち、大学を卒業してもまさしは村に帰らなかった。

 母親が説得に来ても何かと理由をつけ、まだ帰れないと粘り続けている。


 母親もしつこかったが、頻繁にど田舎から出て来ることなどできない。だからこうやって村で出来たものを送り付けてくるのだ。


 あの土地のものなど絶対口にするもんか。

 これを食えば最後、きっとあの村に戻らざるを得なくなる。


 まさしはもう一度深い溜息を吐いて、ちゃぶ台に戻った。

 汗の浮いた缶ビールを開け、焼肉弁当のふたを開ける。


 自炊が苦手なまさしはコンビニやスーパーで毎日弁当を買う。出来合いのものを食べていると母親の暖かい食事を懐かしく思うこともあった。


 だが、二度と帰るつもりはない。

 その決心は揺らぐことはなかった。


 冷えて固まりになった白飯を咀嚼しながら、明日はあの梅干しとジャムも大家に押し付けようと考えていた。


 あの人なら母さんの手作りだと言えば喜んで食べてくれる。

 捨ててもいいのだが、それはそれで何か障りがあってもいけない。押し付けを申し訳なく思うが、大家は部外者だから変な影響は出ないだろう。


 脂の浮いた焼肉をビールで流し込んでいると小さな音が聞こえてくるのに気付いた。


 ぷち、ぷち、ぷち――


 まさしは音のするほうへ振り向いた。


 瓶詰を巻いていたぷちぷちが勝手に解かれ、端から空気の粒が一つずつ潰れていく。


 ぷち。ぷち。ぷち。ぷち。ぷち。ぷち。ぷち。


 三度めのため息を吐いて、がくりと項垂れた。


 母さん、荷物と一緒に何を送ってきたんだよ。

 何をどうしかけてこようと、オレは絶対に村には戻らないからな。


 順番にぺたんこになっていくぷちぷちを睨みつけながら、明日アレも一緒に大家に押し付けてやろうと思った。


                 *


 意識が戻ったまさしは目の前が真っ暗で、一瞬自分の置かれている状況がわからなかった。


 ぷちぷちに包んだ瓶詰も野菜も、箱ごと大家の部屋に持って行ったのは覚えている。

 朝になるまでぷちぷちは全部潰れていたが、まだぷちぷち音が鳴っていた。それらすべてを無造作に箱へと戻し、一階に運んだ。

 チャイムを鳴らすと、気難しい顔で玄関に出て来た大家だったが、オレの顔を見て気色悪いくらい破顔した。

 これも召し上がってください、と箱を押し付け、母の手作りだという説明に、大家の鼻の下が伸びたのも覚えている。


 お茶でもと誘われ、部屋に上げてもらって、それから――


 ああ、そうだ。急に大家が襲ってきたんだ。避ける間もなく頭を殴られて。

 なぜだ? あんなに友好的だったのに……?

 それに一体ここはどこなんだ? この音と振動は車の、トランクの中か? どこへ行くんだ? 


 肘膝を曲げられ、まるで荷物のように頭と身体を梱包されている。腕や脚を伸ばそうとしても叶わず、藻掻けば藻掻くほど身体が締めつけられる。


 ぷち。ぷち。ぷち。ぷち。ぷち。ぷち。ぷち。


 耳のすぐそばで音がした。


 オレを包んでいるのはぷちぷち? 

 ああ、なんてこった。

 オレへの仕掛けがまさか大家に影響していたとは……いや違う。影響したんじゃない。母さんはオレではなく、大家に仕掛けていたんだ。


 なんで気づかなかった。


 村の野菜や果物、村で作られたものすべて……いや、このぷちぷちのように母さんが呪したものすべてが村の神の眷属なのに……オレは母さんを侮り過ぎていた……

 この車の行先は谷乢(たにだわ)村だ。


 まさしは荷物として運ばれながら、生まれ故郷に連れ戻される自分の行く末をただ案じることしかできなかった。


                 2


 ぷちぷちに包まれているとはいえ、車がバウンドするたび、頭や身体が打ち付けられて痛かった。長時間ずっと同じ姿勢で首も腰も腕も脚も全部が痺れて痛い。


 さっきから揺れがひどくなってきたので、舗装されていない山道に入ったのかもしれない。


 大家は休憩もせず、ずっと走り続けている。

 アパートの駐車場に置かれたかなり古いセダンをまさしは思い浮かべた。


 故障でもして止まってしまえばいいのに。


 だが、願望とは裏腹に車は延々と走り続けた。

 諦めずに何度も身体を伸ばそうと藻掻いたが、やはりぷちぷちを解くことができず、逆に締めつけがきつくなり、とうとう精根尽きて身体の自由は諦めた。


 村に連れ戻したいほどの大事な息子に、よくこんな仕打ちができるな。


 そう思ったが、『大事』の本当の意味をまさしもわかっている。

 痛みに耐え、車の揺れに身を任せながら、初めて祖父に出会った時のことを思い起こした。


 村から逃げろと教えてくれたのは、その祖父だった――


                 *


 まさしの生まれた谷乢村は山深い谷の底にあった。

 春夏秋冬それぞれの景色に彩られた山々は常に美しく、日照時間は短かったが田畑の実りが豊富で村民の生活は潤っていた。


 屋敷から遠く離れた場所、村の入り口近くにある分校に通っていたまさしは、数人の幼馴染と一緒に山道を下校するのだが、みな途中で一人抜け二人抜けし、家路の最後はいつも一人だった。

 それほど卯木家は村の奥に存在していた。



 あれは小学一年になったばかりの頃だった。


 みなと別れ、一人でしばらく歩いていると道の脇で寂しそうに鳴いている野良の子猫を見つけた。


 動物が嫌いな母はもちろん飼うことを許してくれるはずもなく、使用人たちはみな母の命令しか聞かないので、まさしの味方は誰一人いない。


 唯一味方になってくれるであろう存在の父親は、まさしが生まれた時からいなかった。


 死別なのか、離婚したのか、一緒に住んでいないだけで存在しているのかなどなど、母から一言も聞いたことがない。


 足にまとわりつく子猫を無碍にもできず抱くと、ジャンパーのチャックを閉めて懐に収め、とぼとぼと屋敷まで帰って来た。


 ところが門に入ったところで、懐から子猫が飛び出し、庭の奥へと走り去ってしまった。


 母に見つかっては大事(おおごと)だと急いで追いかけ、庭園と言っても過言ない広い庭の植え込みの陰をくまなく探したが子猫は見つからない。


 庭の最奥に入ってはいけないという母との約束を忘れ、まさしは猫を探してどんどん奥へと入っていった。


 花盛りの小手毬の枝が行く手を阻むように邪魔しても、猫を探すことに夢中のまさしは忘れた約束を思い出しもしなかった。


 躑躅(つつじ)梔子(くちなし)の枝下を這い潜り、陰を覗き込みながらさらに奥へと進んで行く。


 ところが目の前に高い竹垣が現れた。生まれて初めて見る場所にようやくまさしは母との約束を思い出した。破れば母のきついお仕置きが待っている。今戻れば大丈夫だろうが、子猫を放ったままにしてもきっとお仕置きされる。


 逡巡していると竹垣の向こうからにゃあと聞こえてきた。垣と地面の間に隙間があるので潜り込んでしまったのだろう。


 まさしはどうしたものかと垣伝いにうろうろし、取っ手のような突起を見つけた。

 そこは同じ竹材ゆえ、垣に溶け込んでいるがよく見ると木戸になっていた。ダメもとで取っ手をそっと引っ張るときいと小さな音を立てて簡単に開いた。


 辺りを見回しながら鳴き声の方向に進んで行く。横に伸びた枝ぶりの良い黒松の木が現れ、その先に離れ屋敷の縁側が見えた。


 こんな場所があることもまさしは初めて知った。

 母屋よりも小さいが幼馴染のてつじの家より大きいなと思いながら、夕焼けに染まる縁側に近付いた。半分開いた障子の奥に見える座敷もオレンジ色に染まっている。


 その座敷の真ん中に清潔そうな布団が敷かれていた。

 立っている場所から障子が邪魔をして枕元は見えなかったが、掛け布団に膨らみがないので誰もいないと安心して少し気を抜いた。


 縁側の下から子猫の鳴き声が聞こえてくる。

 ち、ち、ちと舌を鳴らしながら縁側に向かって近づく。閉まっている側の障子の向こうに枕元が見え、まさしはぎょっとした。

 誰もいないと思っていたのに、そこには青白い顔の老人が眠っていた。


 自分の家なのに、この人が誰なのかわからない。今まで一度も見たことがない人だった。


 庭の奥に入ってはいけないという母の言葉を思い出し、まさしは見てはいけないものを見てしまったと、背中に冷や汗が流れた。


 誰にも見つからないうちに早く猫を連れ出し、ここから立ち去らねば。


 まさしは音を立てないように屈みこんで、そっと縁側の下を覗いた。見える範囲に猫はおらず、ひやりとした空気が流れ出て来る縁の奥は真っ暗で何も見えない。


 小さく、ちちちと舌を鳴らす。


「誰、や……?」


 弱々しい声が聞こえ、まさしは飛び上がった。


 ゆっくり視線を上げると、枕の上の顔がこちらを向いていた。薄い白髪頭の丸顔は柔和だが両眼は真っ白に濁っていた。機能しているのかどうかわからなかったが、じっとまさしを見つめている。


「あの……ぼく……まさしです」

「まさ、し?」


 老人は白い瞳を空間にさ迷わせた後、「そうか、まさし、か」と、かさかさで皺だらけの頬をくしゃっと歪めた。


 それが笑顔だとわかり、まさしはほっとした。


「あの……おじいさんは誰ですか?」

「わし、か? わし、は、お前の、お祖父ちゃん、や」


 祖父がいるなど、今まで母親から聞いた事がなく、これが祖父との生まれて初めての出会いだった。


「まさし、は、いくつに、なった、んや」

「むっつです」

「そう、か、もう、むっつ、か」


 祖父だという老人は深い息を吐いて目を瞑った。


 その時襖が開いて、年配の女性が座敷に入ってきた。吸い飲みを載せた小さなお盆を持っている。


「あらあらどこのお子が迷い込んで来たん? ここは卯木のお屋敷やし、庭の奥は特に入ってきたらあかんとこや、今やったら内緒にしといたげるで、はよ帰り」


 女性は優し気な眼差しでまさしを追い返そうとした。


「この、子……まさし、やて」

 なんて言い訳しようか迷っているうちに、祖父が紹介してくれる。


「え……」

 女性は戸惑った表情を浮かべたものの、見つめる優しい目はそのままで、

「そう……まさしくん……」

 盆を枕元に置くと、縁側まで来てそこに座った。


「うちはきみのお祖母ちゃんや。けどいろいろ事情あってね。二人とも表に出られへんし、まさしくんともほんまは()うたらあかんのよ。そやけ、はよ帰り。ほんで、ここへ来たこと誰にも言うたらあかんで」


 祖母だという女性は優しい眼差しに変化はなかったが、初めて孫と出会った割には淡々としていた。


 まさしも二人に戸惑いしか浮かばず、軽く頭を下げて踵を返そうとしたが、ここに入った目的を思い出し、

「あの……連れてきた子猫が逃げて縁の下に入り込んでしもて……」


「ああ、それでここまで来てしもたんやね。捕まえてちゃんと逃がしとくかい心配せんでええよ。けど、もう連れてきたらあかん。お母さん動物嫌いやよって、どうせ飼えやんかいね」


 まさしは黙ったまま頷いてから、今度こそ踵を返した。その時祖父のほうをちらっと見遣ったが、眠ってしまっているのか、静かに目を瞑っていた。



 まさしが去った後、老女は懐中電灯を持って、縁の下に入り込んだという子猫を探した。


 子猫は丁度夫が寝ている布団の真下になる辺りで死んでいたが、彼女はそれをまさしに伝えることはなかった。




 母親に対する恐怖より好奇心のほうが勝り、それからもまさしは、母や使用人の目を盗んで度々祖父の元を訪れた。


 竹垣の奥に入ってしまえば、祖母以外の目に留まることはなく、安心して祖父と他愛のない会話を楽しんだ。


 とは言っても、学校の話や通学途中で起きた小さな出来事など、まさしが話すことを祖父が穏やかな笑みで相槌を打つくらいだったのだが。


 時々祖母に見つかりやんわりと追い返されるが、竹垣の木戸に鍵が掛かってないということは、実は祖母も寝たきりの祖父の気分転換に、まさしの来訪を許していたのかもしれない。その証拠に母に言いつけられることはなかった。



 その日も人目を盗んで庭の奥に入り込み、木戸を抜け祖父の寝ている座敷の縁側へ足音を忍ばせて進んだ。


 祖母がいて祖父の世話をしていた。

 掛布団をめくり、身体を清拭しているようだった。


 近づくごとに見えてくる、今まで見たことがない祖父の身体――優しい笑顔の好々爺の首から下は茶色に干からびたミイラだった。


「ひっ!」

 思わず声が出てまさしは口を押えた。


 だが、それに気づいた祖母が慌てて布団を掛け、

「まさしくん、それ以上来たらあかん!」

 いつにない厳しい口調を放つ。


 返事も出来ないまさしと祖父母との間に沈黙が降りる。


 それを破ったのは祖父だった。


「まあ、ええや、ないか。この際、ほんまの、こと、まさしに、教えとく……」

「そやけど、そんなことしたら当主様にえらい目に合わされるで」


 血相を変えた祖母が反対するも、「こっち、おい、で」と祖父がまさしに顔を向けた。

「お前に、係わりある、ことや、で……」


 まさしは恐る恐る近づいた。祖父に恐怖を感じているのではなく、自分に係わると言われたことが怖かった。


「わし、より、弓子、が、説明、し、たって……そのほう、が、聞き、やすい、やろ」


 祖父はそう言ってから、ふうと息を吐いて目を瞑った。だが眠ったわけではない。


 祖母は仕方ないとばかりに苦笑を浮かべ、まさしに向き直った。


「うちあんたのお祖母ちゃん言うたけど、ほんまは違うんよ。名前は弓子言います――うちは血繋がってないけど、この人はあんたのほんまのお祖父ちゃんや」


 そう言って、話し始めた。



 うちはあんたのお母さん――卯木家の当主様に村の中から選ばれたお祖父ちゃんの世話人や。

 結婚はしてないけど、まあ嫁さんみたいなもんやな……そやけあんたのお祖母ちゃんていうんもあながち間違うてはないなぁ、ふふふ。


 お祖父ちゃんはな、当主様のほんまの父親や。そやけど、父娘で()うたことは数えるほどしかない。


 この人は当主様を作るためだけの人間やから……まさしくんはこの谷乢村を守る神様のこと知ってる? そうか、まだ知らんか……


 深い山中で、ここへ村作ろて考えた先人らがな、ええ村出来るようにて、山の神さんに頼んだんよ。ここで住まわせてください、ええ村作らせてください、言うてな。


 それに『おくぼさま』いう神さんが応えてくれて、この谷乢村が出来たんよ。

 そやけど、いくら神さんでもただでは応えてくれへん。


 そや、生贄や、ようわかったね。まさしくん賢いなぁ。


 おくぼさまはな婿を欲しがったんよ。そやけ、村づくりに来てた男衆(おとこし)の中で一番若ぁて男前な(もん)一人選んでな、おくぼさまに差し出したんや。それが卯木家の始まり。


 婿を取ったおくぼさまは必ず女児を生む。それは言わば、おくぼさまの分身。

 その女児がこの村の、卯木家の当主になるんよ。


 反対に当主は男児を産む。その子がおくぼさまの次の婿になるんや。


 ほら、そこに襖あるやろ? お祖父ちゃんの足元のほうに。

 その襖の向こうは廊下が伸びてて、突き当たりにまた襖があるんやて。そこ開けると、今度は地下に続く階段があってな……下りたら座敷になってるんやて。

 そこがおくぼさまのおわすとこや。


 けどその襖は絶対開けたらあかん。廊下も階段も地下座敷も絶対行ったらあかん。


 そやけうちはおくぼさまにお目にかかったことないんよ。お目にかかれるんは婿の他は当主様だけや――



 そこでのどが渇いたのか、弓子は祖父の枕もとに置いていた吸い飲みの横に置いた湯呑みの茶を一口飲んだ。


「お、お祖父ちゃんの身体がミイラみたいになってるんは……?」


 その隙を狙ってまさしは一番知りたいことを震える声で訊いた。


「おくぼさまの婿はな、生贄やけど、命まで取られん。けど精を吸い取られるんや。その結果がこれや」


 弓子はそっと祖父の掛布団を捲った。


 テレビの特番などで見る即身仏のような褐色に干からびて縮んだ身体が確かにそこにある。


 ほぼミイラなのに、ミイラでないのは頭部もそうだが、下半身にオムツを穿いていることが証明していた。神に触れたからなのか、こんな姿になっても生者として機能しているのだ。


 だが、それが何だというのか。いっそ命を取られたほうがましではないか、とまさしは思う。


「これ、は、お前の、使命、や」


 目を開いた祖父がまさしを見る。


「そんなカッコええもんやないよ。村のためのただの生贄や……有って無い人生や」


 弓子が悲し気な笑みを浮かべた。


「そや。そやさけ……まさし、村から、逃げ……今、は、まだ、無理やさけ、大き、なって、一人で、生き、て、行ける、ようなった、ら……村から、出、て行、くん、や。

 こん……な、ちんまい村……守った、とて、や。お、くぼさ、ま、に……見捨て、られて……やって、いかれん、村ら……()うなって、も、ええ、んや。

 そやさけ、まさ、し……逃げ、るんや……村から、出て……行くんや……」


 きっと祖父は逃げたくても逃げられなかったのだろう。

 まさしはその意志を継ごうと深く頷いた。


 そして、この機会にもうひとつ、今まで訊くに訊けなかったことを弓子に訊いてみた。


「お義祖母ちゃん、僕のお父さんって誰なん?」


 まだ幼い頃、幼馴染たちにはいる父親という存在が気になり、一度乳母に訊ねたことがあった。


 だが、いまいち要領の得ない答えではぐらかされたので、弓子や祖父なら知っているのでは? と期待した。


 かといって、知ってどうこうしたいわけではない。

 初めから自分にはいなかった父親のことをただ知りたいだけだ。


「……まさしくんの実父は正直わからんのよ。

 当主様はな、初潮が来た……身体が大人の女性になった後、村の男衆全員と交わるんよ……今のまさしくんには難し話やけど、子供つくる行為するってことや」

「え……?」

「一人もんも、嫁さんいてるもんも関係ない。老いも若きも毎晩()わる()わる、腹にお子が宿るまで……」


 子供のまさしには詳しいことはまだよくわからなかったが、自分の父親が村の誰かで、幼馴染たちの誰かと兄弟かもしれないということは何となくわかり、自分の出生は普通ではないのだと知って、背中がぞわりと泡立った。


 なので、忌まわしい村から逃げたまさしは絶対帰りたくなかった。

 村にさえ戻らなければ大丈夫だと思っていた。

 村の作物を口にしなければ大丈夫だと思っていた。

 まさしは甘かった、甘過ぎた。


                 3


 車が大きくバウンドして身体が激しく打ち付けられた。


 大切な『婿』が怪我を負ったらどうするつもりだと気色ばんだが、ただ生きてさえいればそれでいいのだと、そうまさしは思い至った。


 祖父に真実を聞いてから、息子に愛情を持っているわけではないとわかってはいたが、いざこうやって無理矢理連れ戻されている現実に泣きそうになる。


 まさしは心のどこかで、もう村に戻って来なくていいと言ってくれる母に期待していたのかもしれない。




 その後も車は一度も停車することなく、逃げ出す機会もないまま、突然止まった。


 ざわざわと外から声が聞こえている。


 ドアの開閉音が響き、「まさしくんのお母ぁさ~ん」という大家の鼻の下が伸びた声が聞こえた。


「ご苦労様でした。大変助かりました」


 段々と近づいてくる母親の、大家を労う優しい声も聞こえる。


「いやいやこれぐらい。わしもあなたにお会いしたかったですからな」


 聞いたことのない大家のねっとりと媚びた声にまさしは怖気を振るった。


「お疲れでしょう? なにもない村ですが、ゆっくりしていってください。

 その方をもてなして差し上げて……」


 後の言葉は男衆に指示をしているのか、真上の位置から聞こえてくる母の声音が変化した。


「あのじじいをさっさと処分して――車もや」

「かしこまりました」


 ああ……

 まさしはさっきとは別の怖気に全身を震わせた。


 ここまで自分を連れてきた憎い大家であっても、村の因習に巻き込んでしまったのだと思うと、申し訳なさでいっぱいになった。

 だが、もうどうすることも出来ない。


 何も知らずにへらへら笑っている大家の声が遠ざかっていく。その時、ばかっとトランクリッドが開き、暗闇が一気に光に満たされる。


 ぷちぷちに覆われているので、眩しさに目をやられることはなかったが、白い視界の中で影が動く。


「おかえり。まさし」


 その声に反応したのか目の前のぷちぷちだけペらりと捲れると、空を背にまさしを覗き込む母親が見えた。

 その顔は微笑んでいたが、これまで見ていた母の笑顔とは違う、薄ら寒い冷たさを感じた。


 母は背後を振り返り、使用人たちに指示を出すと、再びまさしを見ることなくその場を去っていく。

 すぐに男衆たちが、ぷちぷちに拘束されたままのまさしをトランクから担ぎ出し、庭を抜け離れのほうへと運んだ。



 離れ座敷はあの頃と変わっていなかった。

 古びた襖の変色具合も、障子の茶色いシミも、日に焼けた縁側も、当時見た時より若干劣化が進んでいるものの、村を離れるまで見ていたのとほぼ変わっていなかった。


 座敷の真ん中に敷かれた布団の柄でさえ一緒だ。


 だがそこに祖父はいない。村の誰とも連絡を取っていなかったので、亡くなったなどの情報は入らず、たまに来た母からも聞いたことがなかったので、元気でいるとばかり思っていたが……


 義祖母(弓子)はいるのだろうか……? 今度はオレの世話をやらされる……?

 まさしは目だけ動かして座敷を窺った。


「あんたのお祖父ちゃんは半年前に()うなったで」


 襖がぱんっと開き、そう言いながら母親が座敷に入って来て、「弓子さんも一緒にな」と続けた。


 まさしは男衆の肩から降ろされ、ごろりとその身を座敷に転がされた。


「きょうからここがあんたの部屋や――ほんでこの娘があんたの(世話人)や」


 母に促され背後から水差しを持った若い女性が現れた。


弥子(やすこ)言います。よろしうお願いします」


 どう見ても垢抜けない田舎娘だが、純朴で大人しそうな――弓子に感じが似ているとまさしは思った。


 拘束されたまま、弥子に転がされながら布団の中に放り込まれる。

 それを確認して、母親は座敷を出て行った。


 まさしを連れてきた男衆もいつの間にかいなくなっている。


 枕元に座る弥子がにこやかな笑顔を浮かべた。


「お疲れでしょう? お水飲みますか?」


 頷くと傍らに置いた水差しの水をコップに注ぐ。

 ぱらりと口元を覆ったぷちぷちが剥がれた。


「君はいいんか? 一生こっから出られんぞ……まだ逃げれる。オレと一緒に行こ」


 ひりひりとかさついた声でまさしは弥子を説得した。


 弥子は微笑みながら、コップを口元に近づけて来る。


「当主様がうちを選んでくれたん嬉しかったです。

 まさしさんのこと一生懸命お世話させてもらいます、心込めて……」


 そう言って頬を染め、水が零れるのも構わずぐいぐいコップをまさしの口に押し付けた。




 何か音が聞こえ、まさしははっと目を覚ました。


 布団から顔を出すと、閉められた障子の向こうはすでに暗くなっていて、座敷に仄明るい行燈が灯されていた。


 トランクに積まれての旅に神経と体力を持っていかれ、知らぬ間に眠ってしまっていたようだ。


 意識がはっきりしてきて、聞こえている音はゆっくりと進んでくる足音だとわかった。


 弥子が来たのかと思ったが、普段出入りする襖とは違う、足元の襖の向こう側から聞こえていた。

 そこには長い廊下と地下に続く階段があると弓子に聞いたことを思い出す。地下座敷にはおくぼさまがおわして……


 もうそのおくぼさまが来たのか……? 


 顔のぷちぷちは剥がれていたが、手足のぷちぷちにはまだ拘束されている。身体を捩ってみたが逃げることは叶わない。


 湿り気を帯びた粘着質な足音が襖の手前で止み、しんと静寂が降る。


 が、いきなりがたがた襖が揺れ、その振動で徐々に隙間が開いてくる。

 人がぎりぎり通れるほど開いた隙間から、縦長の何かが入って来て、まさしの足元にどさりと倒れ込んだ。


 行燈光に浮かぶ畳に転がる何か――


 これがおくぼさま?


 ぼんやりした橙色の明かりに浮かび上がる縦型の巨大な唇。それに手足が生えていて、畳の上でばたばたと藻掻いていた。

 いやただ藻掻くのではなく、まさしに近付こうとしている。


 骨ばった白く細い指が掛布団の端を掴んで勢いよく引っ張られると同時にぷちぷちの拘束が解け、まさしの無防備な全身が露わになった。


 拘束は解けたが、恐怖で動けず逃げることができない。


 足元まで這い寄ってきたおくぼさまの巨大な縦唇がぱかりと開いた。

 人の口内に見えるが歯列はない。代りに肉襞が幾重にも内を覆い、そこから粘液が溢れ滴って、ぽたぽたと畳に落ちていた。


 大きな口がまさしの両足を咥え込み、ぬめぬめと蠢く襞で包むように身体を呑み込み始めた。痛みは感じなかったが不快感に顔が歪む。


 ずぶずぶと肩まで身体が呑まれた途端、中身を吸い出すようにきつく締め付けられ激痛が全身を貫いた。


 体内のすべてを搾り取られる痛みの中で、不本意にも快感を覚え、まさしは恍惚に眉を緩めた。

 だが、それも一瞬で、すぐ激痛が戻り、耐えきれず視界が暗転した。



 意識が戻った時には何事もなかったかのように布団に寝ていた。


 開け放たれた障子の向こう見える庭には、早朝の淡い光と静謐な空気が満ちていた。

 枝から枝へ跳ねる楽し気な雀の鳴き声も聞こえてくる。


 まさしは寝ぼけ眼を(しばたた)かせながら、ぐるりと辺りを見回した。


 夢だったのか……? ひどい夢を見たものだ……


 そう思ってみたものの、ここに寝かされていること、首から下の感覚がないことで、あれが夢ではなく、運命から逃れられなかった現実だと納得もしていた。


「おはようございます」


 襖が開き、にこやかな笑顔の弥子が入ってきた。手には盆を持っている。煮物や焼魚の匂いがしているので朝食を持ってきてくれたのだろう。

昨夜(ゆうべ)はお疲れさまでした。これで谷乢村も卯木家も安泰やて当主様も喜んでました。

 これからはうちがしっかりお世話させてもらいますで、末永(すえなご)うよろしうお願いします」


 枕元に正座した弥子がまさしの頭を自分の膝に置き、木匙に掬ったかゆをふうふう吹いて、甲斐甲斐しく『夫』の口に朝食を運んだ。


          4


 数か月後、離れ座敷に当主(母親)が入ってきた。


 寝たきりのまさしは、巫女のような白装束を着た当主に目線だけ向けたが、彼女は息子を一顧すらすることなく、「おくぼさまの介添えをする」と弥子に告げて、足元の襖の奥へ消えた。


「おくぼさま、ようようご出産されるんやなぁ」

 弥子は祈るように胸元で両手を組んだ。


 どんな出産が行われるのか、まさしには知る由もないが、その日から耳を塞ぎたくなるほどの不協和音の叫び声が三日三晩続いた。

 四日目の朝、足元の襖が開き、お包みの赤子を抱いた当主が現れた。


 居住まいを正した弥子は畳に額をつけて、

「次期当主様のお誕生を心よりお祝い申し上げます」

 と平伏した。


 当主は一つ頷くと、そのままいつもの襖から出て行った。やはりまさしを顧みることなく、しかも彼の子でもある赤子を一目会わせることもなく――


 もう用なしか……


 子供の頃は厳しくもあったが、愛情を持って育てられていると感じていた。

 だがそれはまやかしだった。母は次代のための生贄を大事に育てていただけだったのだ。


 とうにわかっていたことだったが、やはり辛かった。


 ミイラ化した身体ではもう逃げることも叶わず、祖父のように寝たきりで、何十年もここでただ生きなければならない。


 村に戻らなければ大丈夫だと思っていたあの頃の愚かさを未だ痛感する。


 もしこの先、孫がここに迷い込んで来たとしたら、祖父と同じく自分もその子に進言してやろうと、まさしは誓った。


 ただ『逃げろ』ではなく、当主や眷属の、誰の手も届かない場所へ『逃げ(おお)せ』と――


 まさしは来たるべきその日に思いを巡らせ、声なく笑った。


                              了




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