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恐怖日和  作者: 黒駒臣
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幸福

  

  

 娘を幸せにしてやりたかった。

 でも、わたし一人の力では限度があった。

 貧乏生活はどうしようもなく、小さな菓子一つ満足に買ってやれない。

 娘の人生も含め、すべて諦めようとしたが、

「お母さんと一緒にいるだけで幸せよ」

 この子がそう言ってくれた。

 もう少し足掻いてみようと顔を上げたけれど、追い打ちをかけるように、わたしの身体に病魔が巣くった。

 娘を置いて死ななければいけない。

 まだ中学生、過酷な運命に負けず思いやりがあって、素直でよく気の付くいい子なのに、こんな頼りない母親の庇護でもなければ悪いやつらに利用されかねない。

 今でも貧乏人だのなんだのと虐めを受けているのに。

 もしも悪辣な施設に引き取られたら?

 もしも別れた夫に引き取られたら? 施設に引き取られるよりもその可能性のほうが高い。

 浮気したあげく、わたしと娘を捨てた男が、わたしの亡き後この子を守ってくれるとは到底思えない。

 不倫の果てに一緒になった現妻も責任を感じてこの子を庇護してくれるとも思えず、実子とともに苛め抜く未来しか見えない。

 幸せにできないだけでなく、この先も地獄しか見せられないなんて、わたしはなんてひどい母親なんだろう――




 わたしたち夫婦の娘は生まれた時から姑の手中にあった。わたしの産んだ子だというのに。

 資産家に嫁ぎ、何不自由なく暮らせてはいたものの、子育てだけは思い通りにはならなかった。

 嫁への嫌がらせなどという姑の思惑があったわけではない。子育てに責任を伴うことなく、ただただ祖母として孫を甘やかしたい放題にしたかっただけなのだ。

 幼い頃はまだよかった。我儘もかわいいうちに入る。

 だが、年齢を重ねるに従って娘は我が家の暴君となり果て、中学生になった頃には手の付けられない不良少女となっていた。

 あれだけ甘やかしてくれた姑が病に倒れ、入院しても見舞いにも来ない。

 わたしたちが家にいない間に家内を物色し、お金を盗んでいく。

 わたしたちはもう限界だった。




「真衣……」

 病院の待合室で会計待ちをしている間、娘を見かけた。

 不治の病とは告げていないものの、日に日に痩せ衰えるわたしを心配して、きょうは付き添うと言ってくれていたが、学業を優先してと断った。

 もしかして来てくれたのかと思ったが、見覚えのない派手な服を着て、ガラの悪い若者たちと人の迷惑も顧みず騒いでいるのを見て声をかけることが出来ない。あんな子、絶対真衣ではない。

「ほんとにここに来れば金あんの?」

「ばばぁの部屋にぜってーあるよ、見舞金とか」

「警戒されてもう家に置いてないもんなぁ現金」

「ったく、あのクソ親がっ」

 仲間と会話する娘に似た顔は悪意に満ちていて、真衣ではないとわかっていても、わたしは驚きを隠せなかった。




「可乃子?」

 病院のロビーで佇む娘を見かけた。

 少し雰囲気が違うのは、普段とは違う楚々とした衣服に身を包んでいるからか。

 そんな姿(なり)をして何か魂胆があるにしろ、やっと祖母の見舞いに来たかとほっとするとともに、警戒を解かないようにしなくてはと思った。

 誰かを探しているように辺りを見回す娘を注視し過ぎていて、小走りで来た人にぶつかり転んでしまった。

 ぶつかった人は慌てているのか、起こしてくれもせずに短い謝罪を残して行ってしまった。

「大丈夫ですか?」

 声をかけ近づいて来た人が手を差し伸べてくれる。

「ありがとう」と礼を言って顔を上げると可乃子だった。いや、可乃子に見えるが可乃子ではない。背格好も顔かたちもそっくりだが、優し気な目つきや物腰の柔らかさが全く違う。

 戸惑いながら立ち上がろうとしたが、足首を捻ったのか上手く立てない。

 可乃子に似た子は自分も用があるだろうに、わたしに寄り添い姑の病室まで連れて行ってくれた。

 少し認知症気味の姑はわたしの顔を見た途端泣き出した。

 病室に可乃子が来て、備えに置いてある床頭台の抽斗に入れていた現金を盗っていったのだという。

 罵倒はあっても労りの言葉一つもなかったらしい。

 おんおんと泣く姑の気持ちはわからなくもないが、ああいう娘にしてしまったのはあなただという思いが強かった。いや違う。過保護を止めなかったわたしや夫のほうに責任がある。

「おばあちゃんどうしたの?」

 あまりに泣いているので見かねたのか、可乃子に似た少女が姑の背を擦り慰めてくれた。

 可乃子に似ているので一瞬怯えの表情を浮かべたが、

「あら? 可乃子ちゃん。可乃子ちゃんね」

 姑は素直だった頃の孫を思い出したのか、にこにこと笑顔を浮かべた。

「可乃子ちゃん?」

 少女はわたしに視線を向け小首を傾げた。

「わたしの娘よ。あなたに似ているから間違えているのね――お義母さん、この子は可乃子じゃありませんよ」

「いいえ、可乃子ちゃんよ。こんなに優しくてかわいい顔した女の子は可乃子ちゃんしかいません」

 姑は少女の手を両手で包み込んで胸に抱いた。彼女は戸惑いながらもされるがままになっている。

 しばらく他愛もない話をしたり、歌を歌ったりして小一時間後、ようやく姑が眠り、少女は解放された。

 それまでの間、わたしは少女の名前やここに来た事情を訊いた。

 きょうこの病院に来たのは病気の母親の付き添いをするためだったという。学校があるので母親から断られていたものの、テスト日で午前中だったため、終わってすぐ駆けつけて来たらしい。

 誰かを探していたのはそういうわけだったのか。

 結局入れ違いになったのか、引き留めたせいで会えなかったのか、どちらにしても申し訳なく思った。

「じゃ、わたし帰ります」

「ごめんなさいね。真衣ちゃん」

「ううん。わたし、お祖母ちゃんがいないからとても楽しくて、嬉しかったです」

 なんていい子。この子が娘だったらどんなに輝きに満ちた毎日を送れるのか。

 詮無い事を考えても仕方ないけれど、思えば思うほど胸が苦しくなる。

「またおばあちゃんのお見舞いに来ていいですか?」

 真衣の言葉に涙が零れそうで、頷くだけで精いっぱいだった。




 真衣に似た子は夕方のいまだ賑やかな駅前の広場で仲間たちとたむろしていた。

 わたしは最寄りのATMで下ろしてきた結構な額の現金を自動ドアを出ながら、バッグに仕舞った。

 真衣に似た子に視線を向けると、こちらを見ていた目を逸らし、仲間たちと目配せを交わしていた。

 車を置いた駐車場へと人通りの少ない細い路地を進む。痩せこけてか細いわたしなどひったくりの餌食になりやすいだろうが、すぐ先に交番があるので不安はない。

 そう思っていたが、背後から複数の走る足音が近づくと肩に掛けたバッグを引ったくられそうになった。

 盗られないよう両手でバッグをしっかり握りしめ、わたしは可能な限り大声で助けを呼んだ。

 丁度見回りから戻ってきた巡査がそれに気づいて駆けつけてくれ、逃げかけた仲間の一人をタックルして捕まえた。後は散り散りになって逃げたが、仲間の口から身元が特定されすぐ補導されるに違いない。

 わたしは巡査が暴れる不良に手こずっている間に、真衣に似た子の手を引っ張り、走ってその場から離れた。

「おばさん、なんで?」

「捕まりたくないでしょ」

「まあそうだけど……」

 腑に落ちない表情の彼女を駐車場に止めてある軽自動車の助手席に押し込んだ。

「あなた、わたしの娘に似ているの」

「は? だから逃がしたと?」

「ふふ、そんなとこかな……あ、シートベルトつけてね」

「ちっ、めんどくさいな……」

 ぶつぶつ文句を垂れる真衣に似た子のベルトの装着を確認してから、自分もベルトつけて車を発進させた。

「なあ、娘に似てるってんならさ、さっき下ろして来た金お小遣いにくれよ。もちろん全部」

 真衣に似た子は鼻で嗤って、乗車する際に後部座席に投げたバッグに顎をしゃくる。

「いいわよ。その代わりドライブ付き合ってね」

 赤く空を染める夕日に向かって、わたしは車を走らせた。


 東の空が紫紺色に染まり出す頃、まだきらきらと夕日を映す海が見えてきた。

「おばさんどこまで行くの? 母娘ごっこもういいじゃん、早く金くれよ」

「もう少し待って――あなたのご両親からもらったお金だから、そんな慌てなくてもあなたのものよ」

「は? どういうこと?」 

 返事の代わりに、にこっと微笑みを返して岸壁のあるほうへとハンドルを切る。

 真衣が幼い頃、ここへ海を見に来たことがあった。

 波止まで歩き、ずらっと並んだ釣り人の釣果を見せてもらって、あの子はとても楽しそうに笑っていた。ただ来ただけで何もさせてあげられなかったのに。

 あの時の岸壁が目の前に広がっている。周囲に誰もおらず、波止に立つ数人の釣り人が夕日に照らされているだけだ。

 わたしはアクセルを思い切り踏んだ。

「おい、ちょっ、スピードっ、ちょっやめ――」

 勢いのついた軽自動車は車止めを飛び越えて海へダイブした。

 沈む前に運転席側の窓を開ける。大量の海水が侵入してきた。助手席側を開けなかったのは、万が一にもこの子が逃げ出さないようにだ。

 真衣に似た子はシートベルトを外そうとしていたが、パニックで指をもつれさせ、うまくバックルが外せない。

 わたしは彼女の手を押さえ込んで、その動きを止めた。

「なんでだよ……なんでだよ……」

 海水がどんどん侵入し、車は海に沈んだ――



 あの日――

 何となく気にかかったわたしは真衣に似た子の様子をずっと窺っていた。『ばばぁの部屋』からの盗みが成功したのだろう、意気揚々と病院を出た不良グループの後をつけ、遊びに興じるのを観察し、やがて一人彼女が帰路につくのを尾行した。

 真衣に似た子は、高級住宅街の一軒の邸宅前でそこから出てきた女性と口論し、再びどこへともなく行ってしまった。

 後を追いかけようとしたけれど、それは叶わなかった。門前に佇んだままの女性と目が合ってしまったからだ。

 わたしの姿が明らかに不審だったのだろう。

「あの……どちらさま?」

 訝し気な目で訊かれたわたしは何と答えればいいか悩み、

「今いた女の子が娘に似ていたものですから……」

 と、真実を告げた。

 だから後をつけるというのもおかしな話なのだが、女性は目を瞠って驚いた。

「もしかして真衣ちゃんのお母さま?」

「え? なんで知って――」



 これは運命の導きだと今でも思う。神様が授けてくれたチャンス。

 わたしは自分と真衣の境遇を女性に話し、女性は自分の境遇をわたしに話してくれた。

 そして結論を出した。

 娘たちを入れ替える――真衣は幸せになり、わたしは心置きなく旅立てる。不良少女を連れて行くから、その家族には平穏が訪れる。

 うまくいくかどうかはわからない。でもきっと神様はわたしたちに味方してくれる。だって今までずっと不幸に不幸を重ねてきたのだから――

 もう幸せになっていいよね――


 真衣に似た子は何とか逃げようと必死に抗っていたが、やがて絶命した。

 わたしも、もう息が




『真衣へ

 この手紙を読む頃にはお母さんはもうこの世にいません。

 もうすでにそちらのご両親から説明されていると思いますが、決して悲しまず、罪悪感も持たないでください。ようやくお母さんは楽になれるのです。

 もし心の痛みを感じても、その家で生きていくことはお母さんへの親孝行なのだと受け入れて苦しまないでください。

 可乃子ちゃんのこともです。

 彼女のことはご両親の問題で、あなたは何も考える必要はありません。

 ご両親やお祖母さまを大切にして、ただ家族で幸せになることだけを考えて生きてください。

                            お母さんより』




『W港の海に車が転落、無理心中か』

 8日午後6時45分ごろ、W市M6丁目のW港で「車が海に落ちた」と釣りをしていた男性から110番通報があった。

 W市消防局の隊員が海中の軽乗用車内から女性2人を発見、すぐ病院に搬送されたが、死亡が確認された。

 M署によると、死亡したのはW市Mに住むパート従業員女性(46)と中学2年の長女(14)。

 調べによると女性は不治の病で余命宣告を受けており、現場にはブレーキ痕がなかったことや、岸壁の車止めを乗り越えるスピードが出ていたという目撃者の証言などから、署は無理心中の可能性があるとみてさらに状況を調べている。


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