呪湖
とある山奥にダムの建設によって水に沈んだ村があった。
ダムが完成する数年前から村人は生まれ育った土地から別の土地へと移住をし始め、完成して貯水が始まる頃には村人の移住は完了していた。
生まれ育った家屋、代々守ってきた田畑、分校に村の診療所も兼ねていたサナトリウムなど――それらすべてがダム湖の底に沈んだ。
数十年後――
猛暑による異常気象に加え、続く旱魃で、ダム湖の水位が下がりに下がり、水底の泥が見え始めた。
ニュース映像で流れたダム底は熱に炙られた泥がかぴかぴに乾燥し、一面に不気味な罅割れが広がっている。
そんな泥に埋もれ、かつての村が現れていた。
木造の分校や一般家屋はその面影があるものの、朽ちて崩壊していたが、その中で二階建て鉄筋コンクリートのサナトリウムだけ、いまだに原形を保っている。
窓ガラスやドアがなく、外も内も乾いた泥土に塗れていた。
ダム湖になる以前、有識者の間では村のサナトリウムはよくない噂があると問題視され、調査対象となっていた。
だが、如何せん場所が山深い村。現在とは違い交通の便が悪い上、村民やサナトリウム利用者からも反発を食らい、さらにダム建設の対象地域となったことで完全に断念せざるを得なかった。
そして今回、成果は期待できないが水底から現れたこの機会を利用し、少しでも当時の状況を把握するべく調査が入ることとなった。
リーダーの内田を先頭に複数の調査員がサナトリウムに足を踏み入れた。
多量に残された医療器具や薬瓶が泥に埋もれている。泥土の水分を含み乾いて塊のようになったカルテの束も棚に放置されていた。
足元に注意しながら階段を上がる。
二階は療養所になっていた。
廊下を挟んで蝶番の跡だけ残したドアのない泥だらけの部屋が左右にずらっと並んでいる。
一番手前から覗くと錆びた枠が残ったベッドだけの狭小な内部で、内田たちは違和感を覚えお互い顔を見合わせた。
サナトリウムとは療養所である。ほぼベッドで埋まってしまうこの小さな部屋で養生していたというのか。
一階に戻り、カルテを判読しようと塊になったものを一枚一枚どうにかして剥がしてみたが、泥に染まりインクの滲んだ文字は判読不可能だった。
ただ、どのカルテにも押されている『返却拒否』という赤い判だけは色鮮やかに残っていた。
いったい何が返却拒否された?
内田が思考している間に、別の調査員が奥まった一画に金属扉を発見した。室名札がないので、何の部屋かはわからない。
錆びてはいたが、木製扉とは違い朽ちていないので開けてみることにした。
ノブはなく取っ手は埋め込み式で、それを引っ張るも錆びついているのか、なかなか開くことができない。
数人がかりでやっと開けた出入り口から泥水がどっと流れ出て来て、一同は慌てて身を引いた。
泥の流れが治まり、皆で覗き込んだ。ドアの内側には取っ手がなく、小窓すらない湿った真っ暗闇が広がっていた。
懐中電灯を当てると天井まで泥に汚れた十二畳くらいの内部が浮かび上がる。
壁の上部に通気口が見え、水の侵入路はここだろうと内田は推測した。
調査員の一人がまだ泥の溜まる床に懐中電灯を当て悲鳴を上げた。
光に浮かんだのは異様な死体の山だった。
内田たちが恐る恐る足を踏み入れ、間近でライトを当てる。
積み重なった死体はすべて死蝋化していて、数十年前のものとは思えないほど人の姿形は保っているものの、個人を特定できる相貌は失っていた。
どの顔も溶けかけの蝋燭のようにどろりと歪んでいた。
このサナトリウムは主に精神病患者が療養していたと記録が残されている。山深く人の往来が少ないのを利用し悪質な運営をしていると噂されていた。
あくまで噂の域を出ないが、人体実験をしていたという話もある。
ダム完成に向けて閉院が決定し、患者たちは転院もしくは家族の元に戻されたと記録されていた。
だが、あくまで推測だが、身寄りのない者、家族から拒否された者は逃げることもできないこの一室に閉じ込められ、そのまま沈められたのか――
赤い判の押されたカルテの量に背筋が凍るが、数十年経った今、真実は闇の中だ。
突然、調査員の一人がパニックに陥り、凄まじい悲鳴を上げて部屋を飛び出していった。
なにが起こったのかは分からない。だが、皆次々怯えが伝播し、がたがた震え悲鳴を上げて外へと逃げ出していく。
わけのわからない恐怖で震えながらも最後まで残った内田だったが、とうとう我慢できずに部屋から逃げて外へと飛び出た。
何かを見たわけではない。なのに、なぜか怖くてたまらなかった。
調査を断念し、一旦引き上げた後、遺体をどう処理するかを話し合った。
発見してしまったものを放置しておくわけにはいかず、然るべきところにも報告しなければならないが内田は躊躇した。皆も誰もがあれにはもう関わり合いたくなかった。
だが、逡巡している数日の間に大雨が降り、瞬く間に水位が回復し、村は再びダム湖に沈んだ。
こうなってはどうすることもできないと、内田たちはようやく安堵し、この件は黙秘することに決めた。
それにしてもあのぞぞっと背筋を這い上がり、そのまま頭から闇に飲み込まれてしまうような怖気はなんだったのだろうか――
いまだにあの恐怖が忘れられない。
あれはきっと見捨てられ、閉じ込められ、生きたままダム湖に沈められた患者たちの、水底に沈殿した怨念なのだ。
今となっては確かめることも出来ないが――
あのダム湖は元々知る人ぞ知る心霊スポットだったという。が、ここ最近特に有名になってきたらしい。
旱魃時のニュースを見たネット配信者たちが訪れ、顔の歪んだたくさんの人が湖面に立っているのを見たと騒ぎ始めたからだ。
それを知った時、内田はふと不安を覚え記憶を振り返った。
思わず逃げ出してしまったあの時、私はあの金属のドアを閉めただろうか――
どんなに記憶を辿っても閉めたかどうか思い出せない。
もし、今まで静かに沈殿していた怨念――だけでなく、死蝋化した遺体たちがあの部屋から解放されていたとしたら。
もし、それが大雨などで周囲の河川に放流されてしまったら。
身の毛立つほどの怨念が川を伝って広がっていく未来を想像した内田は、がたがた音が立つほどの身体の震えを止めることが出来なかった。