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恐怖日和  作者: 黒駒臣
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情事の結末

  

  

「やっと会えましたわ」

 えっ? と思った。こんなところに彼女が来るとは。

「あ、いや。どなたですか?」

 私は内心焦りながらも知らない振りをする。だがまっすぐ目を見られない。その不自然に逸らす視線が彼女を知人だと告げている。

「いやですわ。あんなに愛し合った仲ですのに」

 彼女――由美子は目を細め、艶めかしくぽってりとした唇を尖らせた。


 由美子とはいわゆる不倫の関係だった。

 彼女は独り身だったが、私には妻がいた。

 上司の娘と見合いをし、恋愛の熱に浮かされることはなかったが、出世の足掛かりとして結婚した。

 薄くとも多少の愛はあったし、妻も私を愛して尽くしもしてくれた。

 だが、数年経っても子宝に恵まれることなく、穏やかながらも変化のない毎日に妻への微かな愛も霧散してしまった。それでも出世街道を突き進んでいた私に離婚する気はなかった。

 そんな時、由美子と出会った。

 慎ましやかな妻とは違う、官能的な女。

 約束された人生はそのままに、情事のスリルを味わいながら魅惑の肢体を堪能していたが、やがて妻にばれた。

 いつか発覚するとわかってはいたが、実際ばれると修羅場がしんどかった。

 お互い冷め切った夫婦仲だと思っていたのに、なぜか妻の自分への執着は凄まじく、愛人の執着心も同じで、愛憎入り混じった恐ろしいものであった。

 そう、私を取り合う二人のバトルの激しさも然もありなん、妻からも愛人からも私は責めに責められたのだ。

 そしてそれに耐えられず、私は二人から逃れるべく自死を選んだ。

 沈む夕日の海にきらきらと反射するオレンジ色の光に照らされながら、私は岸壁からダイブした。尖った岩にぶち当たる激痛が心地よかった。これでやっとあの二人の責め苦から逃れられると――


 出世欲に駆られての結婚の挙句、妻を裏切り、愛人まで捨てた私なのに死後は天国にいた。

 確かに二人の女を不幸にしたが、生まれ持っていた前世からの徳が有効に働いたらしい。死を選ぶ程の責め苦にもあったので、それも情状酌量されたのかもしれない。

 天国はゆったりと時間が流れる白く美しい世界だった。いたるところに白い花々が咲き、そこに佇む人々は穏やかに微笑み、お互い譲り合う優しさしか存在しない。

 ただこう言ってはなんだが、何もしないゆったりした時の流れは、私には少し物足りなかった。

 だがこれも、あの責めに責められた日々の反動なのだろう。この穏やかな世界がいまだ信じられないのだ。なんて贅沢な悩みか――

 そう思っていたら、由美子が目の前に立ったのだ。


 見ず知らずを装うのを諦めて訊けば、私の後を追ったのだという。列車に飛び込んだらしい。

 しかし、由美子も天国だなんて査定はどうなっているのだろうか。彼女も徳を持っていたのか、それとも昔とは違い今時の不倫は罪深きものでなくなっているのか。

 せっかく女二人から逃げられたというのに迷惑だ。

 だが、本音を言うと少しだけ嬉しくもあった。

 責められた苦痛よりも、スリルと快楽を味わったあの日々のほうを思い出す。

 私の脳裏には彼女の艶めかしい姿態がありありと浮かび上がっていた。

「まさかあなたがここにいらっしゃるとは思いもしませんでしたわ。あんなにひどい人でしたのに……必ず行くと思った場所であちこち探し回って……大変でしたのよ。あまりに見つからないものだから、まさかと思いつつ何とかここまで来てみたんですけど」

 潤んだ瞳の由美子が純白シャツの襟から覗く私の鎖骨に細い指先を這わせる。

「ああ――」

 久しぶりの感覚に胸が高鳴り、思わず声を漏らしてしまった。

 私も彼女の着ている白いドレスに手を伸ばそうとして――ふとそのドレスが、ここで支給されているシンプルだが高級な品質のものではないことに気付いて、手を止めた。

 彼女が身に着けているのは、白布を巻きつけたもの――古代ギリシャかローマ人の衣服のような――だけで、しかも全体が薄汚い。ここはすべてが真っ白だというのに。

 不審に思ったが、大きく開いた胸元の、豊かな谷間に意識が持っていかれる。

 その時、由美子の肩に巻かれていた布の先端がはらりと落ち、白い腕が丸見えになった。

 あの頃と変わらず吸いつきたくなるような柔らかそうな二の腕に、いったん止めていた手を再び伸ばした。

 恥ずかしそうに由美子が身を捩り、二の腕の内側がちらっと見えた。白い肌に赤黒く(ただ)れた跡があった。

 驚く私の視線に気付いて「ふふふ」と笑うと、布をすべて足元に落とした。

 隠されていた裸体が(あら)わになる。胸から下の肌が焼け焦げ、爛れ、じくじくと膿を孕んでいた。

「あなたの好きな手と顔とお胸を守るのが大変でした」

 そして涙を零し、

「でないと、わたしだとわかってもらえないと思って――」

 そう言うといきなり抱きついてきた。背伸びして私の耳元に唇を寄せ、

「わたし、地獄からあなたを探しに来ましたの」

 と熱い息で囁いた。

 立ち上って来る血生臭さと腐敗臭に辟易したが、押し付けられた豊満な弾力がシャツを通して感じられ、そんなことなどどうでもよくなり、由美子を抱きしめ口づけをした。

「こんなことだろうと思ったわ」

 突然聞こえた妻の声に私は慌てて由美子を離した。

 だが、声のするほうを見ても妻の姿はない。

 いるのは地獄にいるはずの獄卒。

「死んでまで密会するとはね」

「か、香苗?」

 妻に似ても似つかぬ獄卒の口から妻の声がした。

 由美子が私を後ろに庇い、獄卒に立ちはだかる。

「そうよ、わたしたちはこんなに愛し合っているんです――何なのいったい、わたしに負けまいと首吊ってまで追っかけて来たらしいじゃない。そんな姿になってわたしを罰するつもりなのでしょうけど、もういい加減諦めてよ」

「はっ、その言葉そのままお返しするわ。そんな身体になってまだ男を欲しがるなんて、お前こそいい加減諦めなさいよ」

「あーはは。鬼顔に言われたくないわっ」

 二人は大声で罵り合い出した。

 白い世界に禍々しい色合いの混じった光景は非常に目立った。

 私は二人の間に入って「まあまあ」と(なだ)めながら、これでは生きていた時と変わらないじゃないかと、苦々しく思った。

「大体あなたが浮気なんてするからでしょう」

「そ、それはそうだが――」

 私に向き直った鬼の香苗に文句を言われ、私はたじろいだ。

「浮気じゃありません、本気ですぅ」

 横から由美子が応酬する。

 火に油を注がないでくれ。

「わたしは妻です。お前は単なる浮気相手。

 あなたも死んでまで地獄に落ちた女を相手になさらなくても――」

「まあ。ごっつい鬼になった女に言われたくないわね。私はまだまだきれいだから愛され続けて当然。

 ですよね、あなた?」

「そんな焼け爛れた下半身で男を篭絡できるとでも? 浅まし過ぎて泣けてくるわ。

 あなたもはっきり『迷惑だ』と、この女に伝えてはいかがです? はあ……生きている間に決着をつけてくれていれば死を選ぶこともなかったんです。わたしだってあまりの恨みつらみにこんな姿になることもなかった……」

 妻は節くれだった大きな両手で顔を覆った。

「あら、いやだ。奥様、泣き落としですかぁ? 

 くすくす、いやねぇ哀れな女を前面に押し出しても、どう見ても男――いやゴリラ? あ、鬼だったわ」

 片眉を上げて嘲笑を浮かべる由美子に、鬼が吠える。

「お前はさっさと地獄に戻れっ」

「戻るのは奥様でしょっ、そんな姿はここには合いませんわっ」

 由美子も掴みかからんばかりに叫び、妻は応戦しようと太い腕を振り上げた。

 周囲に集まった人々が、天国を乱す我々を傍観していた。日頃から穏やかで優しくのんびりした人たち全員が今は顔を険しく歪め、天国にあるまじき表情をしている。

「もう、おやめなさい」

 人垣の中からひときわ白く輝く美しい男が現れた。天国の管理者である。

 穏やかな世界を騒がせた逃亡亡者と獄卒の追跡者は管理者の(めい)で、速やかに元居た場所へと戻されることになった。

 この騒動で天国が少し物足りないなどという考えが浅はかだったと気付かされ、やっと落ち着けると安堵したものの、騒動の一員として私も一緒に地獄に送られることになった。


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