昨夜は大丈夫だった
同僚の山崎はひと月前、賃料の安さに惹かれて今住むアパートの一室を借りたという。
諸々の契約から引っ越しまで済ませたその晩に、殺された女の幽霊が出たことで、そこが事故物件だということを知った。
調べると、数年前に起こった殺人事件で、犯人は不実な夫、すでに逮捕されて現在服役中らしい。
店子が居つかない空部屋を埋めるために騙されたと山崎は憤慨していたが、よくよく聞けば、すでに告知義務の期間も終わっていて、相場より安価な家賃に疑問を抱かなかったおのれのミスだと認めるしかない。
久しぶりに集まったいつもの居酒屋でそれを聞いた俺たちは、確実に心霊体験が出来ると、「お前んちにお泊りしたい」と皆で訴えた。
「冗談じゃないんだ。ほんっとに出るんだぞ。毎晩毎晩、恨みつらみを耳元で呟かれて最後は自分が殺られたと同じように首を絞めてくる。それがワンセットで終わったら女は消える。でも、その時にはもう明け方だ。出勤時間まで眠れるだけ眠るけど、疲れなんて全然取れない……なんならしんどさが積もっていくだけだ……」
ひと月前より明らかに痩せた山崎の目の下には確かにどす黒い隈が目立っていた。
「君のこと、夫だと思って復讐しているってことか……」
同僚仲間の米沢が考察すると、
「いやそうじゃない。自分がどれだけ夫を愛し、尽くしていたか、なのに愛人を作られて蔑ろにされ、邪魔者だと罵られ、挙句の果て殺されたってことをオレが無関係だとわかってて延々語ってくるから」
「悔しい思いを聞いて欲しいんだね。じゃ、毎夜気が済むまで聞いてやれば、いつかは成仏するんじゃね?」
もう一人の仲間、田中が枝豆を摘まみ、ビールを飲み干してげっぷしながら言った。
「そんなのいつまでかかる? こっちの身が持たないよ」
「てゆーか、引っ越せよ」
山崎の泣き言に、俺は手っ取り早い解決法を提案し、米沢も田中も頷く。
だが、「ムリ……できるならやってる……もう金がないんだ」と山崎は泣き言を増やして項垂れる。
「じゃ、僕らの部屋、毎晩はしごすればいいんじゃね? その間に引っ越し費用貯めれば――」
「そんなの現実的じゃないね。いったいどれだけの日にちが掛かる? こっちも耐えられなくなる」
「それもそっか」
「彼女が来る日に来られても困るしな」
「久保田っち……彼女いねーじゃん」
「う、うるせえな」
などと、みなで言い合っていたら、
「ダメなんだよ……」
「え?」
山崎がテーブルに突っ伏した。
「そんなこと、とうに試そうとしたさ。けどダメだった。お前らんとこ行こうと足を向けても、気づいたら自分の部屋に帰ってるんだ」
「幽霊に惚れられたな?」
俺のふざけたような言葉に山崎は、
「わからん。わからんがこのまま取り殺されるんだろうなってことだけはわかる」
突っ伏したまま暗い声で嘆く。
米沢がふうと溜息を吐いた。
「僕らで出し合って引っ越し費用を貸してやるとするか?」
「そだな、それが一番だな。けどちゃんと返してくれよ」
俺も米沢の意見に賛成すると、潤んだ瞳で顔を上げた山崎に安堵の笑みが広がった。
そこへ田中が手を上げ、皆の視線を集める。
「ね、その前に幽霊見たくね?」
山崎の住む部屋は小綺麗な二階建てハイツ、一階の左端だった。
「もっとおどろおどろしい古いアパートってイメージしてたけど以外に普通じゃん」
玄関を入っていく山崎の後に続いて、あちこち見廻しながら田中が言った。
内装も綺麗で使い勝手のよさそうな2LDK。
「これで家賃……4万円だっけ? 曰く付きって気づかないほうが悪いよな」
馬鹿にしたわけではないが、米沢を見てそう言うと「確かに」と苦笑した。
そんな俺たちに山崎が情けない表情を浮かべる。
「それが全っ然、そんなこと考えもしなかった。とにかく安けりゃいいって思ってたから」
「ま、今度借りる時に気を付けりゃいいじゃん。さ、さ、早く寝よ」
心霊体験が出来るとわくわくしている田中の気持ちがこっちにも伝わってきた。
結論から言って、この夜、山崎以外は明確な心霊体験はできなかった。
山崎はいつもと同じく女の幽霊に耳元で恨みつらみを吐かれていたらしいが、米沢や田中は朝まで熟睡したという。
ただ雑魚寝で、山崎の隣に寝た俺は明け方まで続いた奴の魘される声に眠れず、しかも自分とやつとの間に何かがいる気配を感じていた。
「あ~あ、何も起らなかったね」
田中が勝手に作ったバタートーストをぱくつきながら不満を漏らす。
「逆にうちで眠るよりよく眠れた気がするよ」
米沢も勝手に冷蔵庫から玉子だのハムだのを取り出し朝食を作っている。
山崎は隈を深くして、布団の上でぼんやり座ったままだ。
そういう俺も上半身を起こし、いまだぼんやりしたままでいた。
「久保田っち、まだ眠いん?」
ハムエッグの皿を米沢から受け取り、テーブルに並べながら田中が訊いてくる。
「ずっと魘されている山崎の声、明け方まで聞いてたからな」
「ある意味、それ心霊体験じゃね?」
睡眠を邪魔されたのはともかく、気配だけでも感じたのは体験と言えば体験か――
そう思いながらテーブルに着き、眠た目を擦って米沢のしょっぱめのハムエッグを頬張った。
「お、久保田、ちょうど良かった」
いつもの居酒屋にいると山崎が来た。
約束していなかったが、誰でもいいから会いたくて順番に連絡したものの、田中は合コン、米沢は残業で都合がつかなかった。これから山崎に連絡しようかどうか考えていたところに本人が来た。
「昨夜は大丈夫だった」
山崎はとりあえずビールと注文した後、そう言って満面の笑みを浮かべた。
「え?」
「昨夜は大丈夫だったんだよ。おとといの夜お前ら泊っただろ? それがきっかけになったのかどうかわからんが、昨夜は出なかったんだ、あの女の霊――」
山崎は余程嬉しかったのか、やや興奮気味になぜ出なくなったのか独自の見解をいろいろ述べていたが、俺の頭に全く入ってこない。
「――ああでも、今夜また出たらどうしよう……おい、聞いてるのか、久保田」
「ああ、聞いてるよ」
上の空だったがそう返して、俺は温くなったビールを呷った。
そこから嬉しそうだった山崎の様子が一転し、これは取り殺される前兆なのかも、などと不安を口にし出した。
いやそれはもうないだろ。お前はもう大丈夫だ。うまくやれば安い賃料のまま、あのいい部屋で暮らせる。なぜなら――
俺は昨夜、俺のベッドの脇に立った女の霊を思い浮かべた。
山崎が経験したように、耳元で恨みつらみ、そして今でも引きずる重い愛を延々呟かれた。聞いた話と違うのは、山崎は女から第三者と認識されていたが、俺は加害者本人と思われていること。
容姿や匂いが似ていたのか、あるいは持っている雰囲気が似ていたのか、女の霊は山崎の部屋を離れ、俺自身に取り憑いてきたのだ。
恨みつらみを吐く濃さが、山崎から聞いていたそれとは比べ物にならないほど恐ろしい。
第三者の立場でもひと月あまりで憔悴させられたのだから、自分を殺した本人と思われているこの身が危険に晒されていることは誰でもわかる。
部屋に憑いているのなら、そこから離れればいい。だが、それより面倒臭い状況に陥った俺は、あの夜泊りに行かなければよかったと今更後悔したが、後の祭りである。