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恐怖日和  作者: 黒駒臣
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白華園~はっかえん~





 朱鷺田(ときた)家の庭木はすべて白い花の咲くものだった。

 華族出身の母は資産家の父に強請(ねだ)って造っていただいたその庭を白華園(はっかえん)と名付け、たいそう自慢にしていた。

 白木蓮に辛夷(こぶし)、雪柳に小手毬、白沈丁花、梔子(くちなし)に白椿。広い池の周囲は白躑躅(つつじ)の植え込みが囲み、その傍らには白い桜の木が一本あった。

 それらの可憐な花々が春先から夏にかけて順に咲き乱れ、雪のような白が緑に映えた。

 白は白でもただの一色ではなく、黄緑や檸檬色がかったきりりとした白色や、まろやかな温かみのある薄い象牙色に近い白色もあった。



 私、朱鷺田耿陽(こうよう)は幼い頃から夜尿症が治らず、白華園の花々が咲き誇る頃にもよく布団を濡らした。

 庭から見える日当たりのいい二階の窓に、ばあやが私の布団を干した。湿って重くなった布団を一階に下ろし、裏庭の干し場に掛けることを厭うたためだ。

 黄ばんだ地図の描かれた布団は決して白華園に相応しいものではない。頓着がなく物忘れもひどいばあやは毎回母にひどく叱られ、私も尻を剥き出しにされ、竹尺でこっぴどく打たれた。

 母は私の尻が赤黒く腫れ上がっても打つのをやめなかった。それほど私の夜尿症は白華園にとって罪だったのだ。


 成長しても私の夜尿症は治らなかった。

 寝る前の水分摂取を押さえたり、したくなくても用を足してから布団に入ったりして注意していてもだめだった。

 特に春から夏、白華園の白い花が咲き誇る時期に、決して漏らしてはいけないと思えば思うほど、私は盛大に布団を濡らした。

 父は母に打たれ腫れた私の尻を見かね、「まさか、中等学校の入学まですることはあるまい。おおらかな目で見てやりなさい」と、母を(たしな)めてくれた。

 しかし、私の夜尿症は中等学校入学どころか十七になっても十八になっても治ることはなかった。

 その頃になると私はもう、自分はひどい欠陥人間なのだと理解し、夜尿症を治すことを諦めていた。

 布団を濡らす度、成長により角ばってきた生の尻を母の前に差し出す。

「これさえなければお前は美しく賢い完璧な跡取りなのですよ」

 そう言いながら、母は竹尺で何度も尻を打つ。

 折檻はいつも母の部屋で行われていたが、一度だけ壁際に置いた姿見の(おお)いが掛け忘れられていた時があった。

 その姿見に(みじ)めな姿の私が映っていた。

 ズボンと下穿きを下ろし、腰を曲げ、ひざに手を当て母の前に尻を差し出した自分。竹尺で叩かれる度に痛みのせいで自分(、、)が縮みあがっていくのも見えた。

 母の姿も姿見越しに見えた。

 竹尺を振りかざす母はうっすら汗をかいて目の周りを赤く染め、紅をさした上品な唇は笑っているように吊り上がっていた。

 途端に自分(、、)が疼き始める。

 母に気づかれないように、尻の痛さに我慢できないふりをして(うずくま)った。

 母は打つのを終えると、竹尺を縮緬(ちりめん)の布袋に大切にしまった。

 私は蹲ったまま、そっと顔を上げ、母の顔を窺った。そこには鏡に映っていたのとは別人の青白く冷たい母の顔があった。

「本当にあなたって人は……もっとお気を付けなさいっ」

 片方の眉を上げ、いつもと同じ小言を言い放つ。

 それが終わると箪笥の抽斗に布袋を片し、私を置いて部屋を出ていく。

 私は前を隠すのに苦労しながら下穿きとズボンを穿いた後、母の部屋を出たが、体の熱がなかなか引かず、その夜はひどく寝苦しかったのを今でも思い出す。

 それからも夜尿症を克服できなかった。

 白華園の満開の季節に一番回数が多いのも例年通りだった。

 父は何も言わなかったが、気づけば私を遠ざけていて、とうの昔に後継者の権利も剥奪されていた。

 後継は何事にも優秀な父方の私の従弟――とは隠れ蓑で、父と愛人との間にできた異母弟――が継ぐことに決定していた。

 しかし、私に不満はなかった。

 正妻()の抗議を避けるため、私の面倒を一生見ることが後継の条件に含まれていたからだ。それでも母はだいぶごねて父を辟易させていたが。

 従弟(、、)にとって、夜尿症だけで他に何ら瑕疵のない私――これ以上の瑕疵はないと思うが――は、別段世話のかかる厄介者ではないはずで、当主夫妻が亡くなった後は私の口座に生活費を振り込み、たまにご機嫌伺いに来れば、莫大な資産を産む事業を継げるのだから、こんな有難い話はないだろう。

 ご機嫌伺いの際、淫売から生まれた従弟(、、)に苦笑交じりの白い眼を向けられたとしても私は一向に気にならない。どんな瑕疵があっても私の身体には朱鷺田家の正統な血が流れているのだから。


 やがて、私の布団を干していたばあやが亡くなった。

 だからと言って、白華園の美景観を損なうおねしょ布団が消えてなくなるわけではない。

 汚布団は相変わらず二階に干されていた。そして、相変わらず私の尻も母に打ち叩かれていた。

 ばあやの代わりに新しく入ったばかりの女中みとが私付きになったが、女中頭に何度注意されても裏庭の物干しではなく二階窓に布団を干した。

 十五の少女だというのに地味な女中着を着、髪を無造作にひっつめ、大きな口を開けて品なく笑うみとは若く力もあるのに、ただ運ぶのを面倒がって『二階のほうが良く乾く』と、もっともらしい理由をつけ、上の者の命令を聞き入れなかった。

 そんな愚鈍かつ強かな田舎者のみとがなぜ私付きの女中になったのか――

 それは他の女中たちが陰で私の夜尿症を嘲笑っていたからだった。

 確かに欠陥息子ではあったが、使用人が主側を嘲笑するなど、当主夫人からすれば以ての外――だが、彼女らが他所で私のことを吹聴することを懸念したのか解雇には至らなかった。

 嫡男の瑕疵が広まれば家名に傷がつく。それを防止、()いては自分()の名誉のためというところか。

 さらに外出先で(さえず)らないように他より高い給金を頂いていると生前ばあやから聞いたこともある。

 口災いで信用を失くし、待遇の良い主家から追い出された者に次はない。なので彼女たちは家内で嗤いこそすれ、外では己のために口を固くした。

 みとには数人弟妹がいるらしく、幼い彼らの食い扶持を稼ぐために外に働きに出て来たという。

 愚鈍(ゆえ)か、二十歳を過ぎた大の男がおねしょをしていても、みとは私を弟たちと同様に思うのか蔑みはしなかった。

 濡れた布団を見て、「あれあれ」と仕方ないふうに苦笑を浮かべるだけだ。

「ぼっちゃん、ねしょんべんは尻っぺたにやいと(、、、)()えたらええ言うでぇ。いっぺんやってみたらどない?」

 主従関係無視でそんなことを平気で私に言った。

 悪意はないので私は叱らなかったが、口のきき方が成っていないと、母や女中頭の耳に入った時はひどく叱られていた。だが、みとはまったく気にせず、正すことはなかった。自分がなぜ叱られたのかわかっていないのかもしれない。

「なんや、おくさん機嫌悪いでぇ。ぼっちゃんも気ぃつけなぁよぉ」

 けろりとした顔で言うので、毎回私は吹き出した。

 美しく厳しい母の前では未だに緊張する私なので、みとの頓着のなさが次第に心安らかなものへとなっていった。

 みとは決して美人ではなかった。醜いわけではないが、長じて美しくなる見通しもない容姿。

 だが、日焼けはしているものの、ぽっちゃりとした身体つきは健康そのもので、労働中やその後の仄かに汗ばむ肌には目を瞠るものがあり、襟足の後れ毛を上げる仕草が、日に日に私にとって眩しいものに変わっていった。

 ふと、あの()に尻を叩かれたらどんな気持ちになるのだろうと思った。

「みと、お前の弟がおねしょをしたら、お前の母さんはどのようにしてたんだい」

 私の部屋を掃除しに来たみとに本から顔を上げて訊いてみた。

「ぼっちゃん、これから掃除するで、どっか行って」

 言い終わる前に目の前ではたきをかけ始める。

 母に見つかったらまた叱られるだろうに、まったく学習能力のない娘だと笑いを堪えた。

 私は本を持ったまま長椅子から立ち上がり、邪魔にならないよう部屋の片隅に置かれた本棚の前に寄って先ほどの質問の返事を待った。

 みとははたきをかけながら、

「おかあは弟らがねしょんべんしたら、尻っぺたにやいと据えたで。こぉんな大きなもぐさ作って線香で火ぃつけるんよ」

 手を止めて、拳で大きな塊を作った。

「やいとか……きっと熱いだろうな」

「そらぁもう(あっつ)い、熱い。熱すぎて弟らみなちぢくって泣くよ。そやけど、やいとはねしょんべんによう効くけど、日にち経ったらあいつらまたちびるんよ。なんて言うん? 学習能力ない言うん?」

 みとの言葉に私は堪えきれず笑ってしまった。

「ぼっちゃんもおくさんに尻っぺた叩かれても治らんで、学習能力ないんやなぁ。ほんまいっぺん、やいと据えてもろたらええんちゃいますか?」

 そうか、私も学習能力がないのか。そう言えばそうだな。私はみとを笑うのをやめた。

「だけどね、みと。私にやいとは無理だ。怖くてたまらないよ。でも尻は叩かれても平気なんだ」

「そんなんやさかい治らんのや」

「そうだな。でも違う人に叩かれたらどうなのかな、って思わないかい? 例えばみとに叩かれるとか」

「うちがか? うちがぼっちゃんの尻っぺた叩くん?」

 みとは驚いてはたきを落としてしまった。

「うん。そのはたきで一度叩いてみてくれないかい」

「弟の尻っぺた、よう叩くで別にええけど……ぼっちゃん、泣かへんか? うちの叩く力ものすごいで。

 ぼっちゃん泣かしたらおくさんに怒られてしまうやん」

 みとはやはり私を小さな子供としか思っていないらしい。

「大丈夫だよ。泣かないよう我慢するから」

 私は本を机の上にぽんと放り投げ、みとに背を見せてズボンと下穿きを一気に下ろし、尻を突き出した。

 私の目前にある本棚には硝子扉がついてある。その硝子に私の尻に目を落としたまま動かないみとが映っていた。

「さあ、早く」

 成人した男の尻を見るのは初めてだったのだろう、振り向くと真っ赤に顔を染めたみとがぼんやりした目で私の顔を見た。

「さあ、早く」

 私はみとを急かした。誰かに見咎められてはいけない。

 みとは緩慢な動きではたきを拾い、その払布のほうをまとめて握り締めると、黒竹の柄で私の尻をびしりと一回打ち付けた。

「うっ」

 母の竹尺も痛いが、細い竹柄もひどく痛い。

「ぼっちゃん痛いですかぁ?」

「ああ痛い。痛くておねしょによく効きそうだ。もっと叩いてくれ」

 私の催促にみとは何度も尻を打った。

 そして本当に私はその夜から布団を濡らさなくなった。

 みとは自分が主のねしょんべんを治したのだと、鼻の穴を膨らませていた。

 愚鈍ゆえ軽率に吹聴するだろうと思っていたが、みとはなぜかそのことを口にすることなく、家内の誰にも気づかれなかった。

 母は急に治った私の夜尿症に怪訝な顔をしていたが、それ以上の関心は持たなかった。

 白華園の景観が第一なので、それさえ守られていれば、後継を外された私のことなど、もうどうでもいい存在なのだろう。

 ところがしばらくすると、私はまた布団に地図を描き始めた。

 みとはその布団を二階の窓に干さず、あれだけ(いと)うていた階下にわざわざ下ろし、裏庭でただの天日干しに見せかけ布団を干した。再発を母にばれないようにしているのだろう。

「ぼっちゃんのねしょんべんはうちが治すで……おくさんのやり方は効かんさけ」

 そう言って私の尻をはたきの柄でびしばし打った。一度治したという自信があるので、母に役目を返すのが嫌なのだろう――みとは濡れ布団を母の目から隠し、一生懸命私の尻に折檻を施した。

 主に対して遠慮しないみとに苦笑すれど、夜尿症を治してやろうという気持ちに、私はだんだん愛おしさを感じるようになってきた。

 力いっぱい腕を振るたび、「んっ、んっ」という(りき)むみとの声と痺れる尻の痛みとが相まって気持ちが高揚する。

「おくさんの、んっ、か細い腕の力やったら、んっ、ぼっちゃんのねしょんべん治らんで、んっ、んっ」

 そう言いながら思い切り腕を振ってくれていたが、夜尿症は再発して以降、治る兆しはなかった。


 秋の深まったその日は、誰もいないのかというくらい家内が静まりかえった日だった。

 窓から見える白華園は枝だけの木々ばかりで寒々しく、母は以前から春以外の季節でも白い花の咲く木を植樹する算段をしていた。

 きっとそうなればもっと見事な庭になるに違いなく、もう二度と二階に布団を干すことなど許してもらえないだろう。

 裏庭の干場に行っていたみとが部屋に戻って来たので、母の予定を訊くと何やら高貴な人の茶会に出かけたと言った。幾人かの使用人たちも用事を言いつかり外出していたり、休みを取っている者がいたり、そういうのが重なって、いつもより人が少ないらしい。

「ふーん。そうか」

 返事をしつつズボンを下ろした私に、

「今日こそ、ねしょんべん治りますようにっ」

 そう意気込むと、ぶんぶん音を立てはたきの柄で尻を打ち始めた。

 十回ほど打ち、息を切らしたみとが手を止めた。

 家内があまりに静かすぎて、はあはあという彼女の荒い息が私の頭の中で大きく響く。

 私は突き出していたじんじん痛む尻を元に戻しまっすぐ立つと、ズボンも下履きも上げないまま彼女へと振り返った。

「え……ぼっちゃん……それ……どないしたん?……」

 みとは私の股間を指さし、目を丸くしている。

「みとは知らないの?」

 私はふっと笑って、戸惑っているみとを倒し覆い被さった。

「なんやっぼっちゃんっ」

 驚いたみとは初め手足をばたつかせたが、私を退かせられないと気づくとすぐ大人しくなり、苦悶の表情を浮かべて主のするがままに身を任せた――


「ごめんね」

 私の言葉にみとが首を横に振りながら身体を起こした。大きく(はだ)けた女中着の一部分が赤く染みになっているのに気づき、それを手で隠しながらぽろぽろ涙を零す。

「ほんとにごめん」

 みとの頭を撫でると何度も首を振りながら、「ぼっちゃんやし逆らえやん」と泣いた。

「そうだね。ごめん」

「けど……ぼっちゃんやからええよ」

 泣き笑いをするみとがとてもかわいらしく見えた。


 その後も夜尿症は治らず、みとに尻を叩かれ続けた。そしてその後決まって彼女を抱くようになった。

 お互い声も出さず密やかに、誰に知られることもなく回数を重ね、見る見るうちにみとの身体は女として反応するようになった。



 春の白華園は満開の白い花々に埋もれていた。

 重なる白色の美しさだけでなく、香しい匂いも充満している。

 開け放された二階の窓から、暖かい風と共にその香りが流れ込んでくる。

「今日はとても静かだね。母はお茶会かい?」

「はい。どっか偉いさんのお屋敷でお茶会やそうです」

「ふーん……使用人たちの声も聞こえないね」

「おくさんのお許しで、みな花見行きました。ぼっちゃんのお昼は花見弁当用意してるそうです。うちも誘われましたけど、布団干してる途中やったで断りました」

「そうか、それは悪かったね。じゃ、後で一緒に白華園を見ながら弁当を食べよう……それにしてもいい陽気だね。花の匂いも清々しい」

 窓に向かって胸一杯空気を吸い込む私をみとが睨んだ。

「……ぼっちゃん、そんなで時間稼いでもあきませんで。はいっ尻っぺた出して」

「今日は折檻はなしにして欲しいな」

「そやけどねしょんべんしたで、ちゃんと叩かな治らんよ」

 はたきを持ってぶんぶんと振るみとのまじめな顔に私はぷっと吹き出す。

「やっぱり今日はなしにしたいな」

 私の甘い懇願に、みとが唇を尖らして俯く。

「……けど、尻叩かな、ぼっちゃん、できんのやろ?」

「そんなことないよ……ほら」

 くすくす笑ってズボンと下穿きを下ろすと、それを繁々と眺めたみとが嬉しそうに顔を上気させた。

「誰もいないのなら今日は思い切り声を上げよう」

「いやや、そんなん恥ずかしわぁ」

 そう言いながら、みとはするりと着物を脱いだ。


 時折小鳥のさえずりが聞こえてくるだけで、屋敷はただただ静かだった。

 香りを含んだ仄暖かい二階の一室だけ、今まで抑えつけていたものを放つかのような私とみとの淫らな声が響いている。

「みと、みと、みと、みと」

 名を呼ぶ声に、私の頭を抱えるみとの腕に力が加わる。

「ぼっ、ちゃん……」

 自分たちの声だけしかない部屋の中、小さなかたんという音がした気がして、みとの胸に埋めていた顔を上げた。

 襖の細い隙間から、母の驚愕に見開いた目が覗いていた。

「あ……」

 身体を起こすのと同時に、すぱんっと襖が開いて、眉を吊り上げた母が入って来た。

「妙な声が聞こえると思ったら、お前たちなにをっ」

 私は母が怖い。脱ぎ散らかしたシャツとズボンを慌てて引き寄せると、それで前を隠して部屋の片隅に身を寄せた。

「ど、どうして……茶会にいったのでは……」

 私の戸惑いに母は、

「帯締めが気に入らなくて戻って来たのよ。それよりいつからこんなことにっ! この身の程知らずがっ」

 慌てて女中着に腕を通すみとに鬼の形相の母が近づき、乱れた彼女の髪を掴んで力いっぱい畳へと引き倒した。押し付けた頭を持ち上げては打ち付けてを繰り返し、しまいには足蹴にし始めた。

「痛いっ痛いっぼっちゃん、ぼっちゃん」

 みとが助けを求めて手を伸ばしてくるも、私は動くことができない。

 顔に思い切り蹴りを喰らったみとが気を失った。

 その華奢な身体のどこにそんな力があるのか、母はみとの髪を掴んで女中着を腕に引っ掛けただけの裸身を引き摺って部屋を出ていく。

 私は急いで衣服を身に纏い、後を追った。

 廊下の途中で意識を回復したみとが、「はなせはなせ」と、髪を掴む母の手に爪を立てていたが、乱暴に階段を引き摺り降ろされている途中で、再び気を失っていた。

 母はずるずるとみとを引き摺り、縁側から庭に出た。積雪しているかのような白く咲き乱れる花々の中を通り過ぎて裏庭の土蔵へと向かう。蔵というより物置に近い土蔵に鍵は掛けていない。

 母が何をするのか、一定の距離を開けて私は後を追い続けた。

 土蔵の重い扉を開けるため、いったんみとを離した母の手指には大量の髪の毛が纏わりついていた。それを取ることもせず、扉を開けるとみとを中へ引き摺り込んだ。

 開け放されたままの扉から私は静かに忍び込み、長持の陰に隠れて様子を窺った。

 母が父の愛用していた竹刀を持つのが見えた。

 少しでも逞しく育つようにと父が幼い私に譲ってくれた竹刀(もの)だが、私は早々に限界を感じて諦めてからは土蔵の肥やしになっていた。

 あの時、もっと頑張っていれば今の自分とは違っていたのだろうか。

 ふと考えるも、今はそれどころではない。

 母はその竹刀でみとの身体を打ち始めた。

「この身の程知らずっ! 田舎の猿娘がっ!」

 ばしっばしっという痛烈な音を聞きながら、暗がりに身を潜めた私はどうしてもその場を出て母を止めることができなかった。

「いたいいたい」とみとの泣き声がした。

 裸でここまで引き摺られた挙句に、竹刀で打たれ続けているのだ。痛みで逃げることもできないだろう。

(あるじ)を懐柔して何をするつもりかっ! 高価な装飾品でも強請(ねだ)ったのかっ!」

 息を切らしながらも母は打つ手を止めない。

(ちゃ)うわ。うちはぼっちゃんのねしょんべん治そ思ただけや。うちの叩き方が良かっただけや。そいでぼっちゃんは気持ちようなったんや」

 その言葉に母は手を止めた。きれいに整えていた髪を振り乱し、襟元も乱してはあはあと肩で息をして憎々し気にみとを見下ろしている。

 赤黒く顔を腫らしたみとは逆に母を睨み上げていた。

「生意気なっ!」

 ぶんっと音を立てて母の振る竹刀がみとの眉間を打った。

 凄まじい悲鳴を上げて身(もだ)えるみとの全身をさっきよりももっと強く激しく何度も竹刀で打ち据える。

「おく、さん、悔、しん、やろ……ぼっ、ちゃん、うち、に……気持ちええ……して、くださるで……うち……だけ……ほん、まは、あんた……も、して、ほし……んやろ、が……」

 目も鼻も潰れ血濡れた顔からみとの言葉が結ばれる。

 私には聞き取りにくかったが、母には聞こえたのだろう。吊り上がった目が更に吊り上がり、恐ろしく面変わりした母はみとを叩き続けた。

 声がしなくなっても竹刀が折れても叩き続け、自身の力が尽きてしゃがみ込んだ時にはみとは動かなくなっていた。

「耿陽っ! 出てきなさいっ! そこにいるのでしょっ」

 息も絶え絶えの母は振り返りもせず、私を怒鳴りつけた。

 私は長持ちの陰から出ていった。

 母の足元でみとは死んでいた。

 呼吸や脈拍を確認するまでもなく、そうだとわかった。顔も身体も原型がわからないほど、でこぼこの肉塊になっていたからだ。

 身体の下の血溜りが大きく拡がっていく。

これ(、、)を埋めて、ここの掃除を、しておきなさい」

「どこに埋めれば……」

「白華園の、桜の下に」

(はっ)……いいのですか?」

「その辺に埋めれば、他の者が気づくでしょう? でも白華園はわたくしの許可がなければ入れないから……」

 母はそう言うと疲労にふらふら身体を揺らして土蔵を出て行った。

 私は長持ちの中にあった古い着物でみとを包み込み、庭師の置いてあった円匙(えんぴ)で、母の言いつけ通り桜の下に埋めた。

 本以外に重いものを持たず、労働したこともない私にはかなり堪える作業であったが、使用人たちが帰宅するまでにすべて片付けておかなければならない。

 そして私はそれを完遂させた。


 翌日、盗みを働いたみとを解雇、屋敷から放逐した、という母の報告を受けた使用人たちはそれを信じ、誰一人疑問視する者はいなかった。

 私とみとの関係を疑い、盗みよりそれで処分を受けたのだと憶測する女中もいたが、まさか折檻の末、殺されて桜の下に埋められているとは思いもしていないだろう。

 ただ老いた庭師だけが何か感づいているようにも思えたが、母の嫁入りの際付いてきた古参の者であったので不安はなかった。

 しばらくして、使用人を手配する世話人から朱鷺田家に問い合わせがあった。みとの実家から娘の仕送りが来なくなったと連絡が来たらしい。

 雇主に不義理を働き解雇したと家令が応対し、世話人は了解したものの、連絡のないみとに家族は納得しなかった。何度も問い合わせが来たが、窃盗に対する弁償を仄めかすとそれ以降連絡は途絶え、そのままみとの件は闇に葬られた。

 その後も母は堂々としていて自分の犯した罪を恐れもしなかった。

 一方私といえば、みとの()がいつ暴かれるのか毎日不安に思っていた。

 だがそれも戦争が始まったことで杞憂に終わった。


 みとの死後、夜尿症は完全に治まったが、幼い頃から病と称し、学校卒業後は外出もしなかった私は重篤な病があると判断されたのか、徴兵されることはなかった。

 従弟(異母弟)は早々に徴兵され、遠い地で戦死したと知らせが届き、後継ぎを失ったショックで父親は倒れてあっけなく死んだ。

 母もまた悪化してくる戦況に不安を感じて精神を病み、夢遊病のようにふらふらと屋敷内だけでなく白華園をも徘徊し、ある朝池に沈んでいるところを使用人に発見された。

 徘徊中、お経のように何かをぶつぶつ呟いていたが、何も知らない者には聞き取れなくとも、私にはみとの死の真相を口走っているのだとわかったので、亡くなったことは丁度良かったと思った。

 使用人も一人二人と疎開ついでに帰郷し、次第に屋敷の中は閑散となり――

 そして私は――



 老いさらばえたこの身を未だ放さず、過去を抱いたまま生に縋りついている。

「会長、春とはいえまだまだ冷えます。もうお車に戻りますか」

 車椅子に乗った私の肩に秘書がショールを掛けた。

「いや、まだもう少し……」

 囁くような小さな声を聞き取るために私の口元に耳を寄せていた秘書は心配げに眉を寄せつつも頷いた。

 私は高い塀を見上げた。

 住んでいた屋敷は戦火で燃え、広大な土地は戦後さらに発展した会社の敷地となってこの塀の向こうにある。

 白く咲き誇っていた白華園の木々も全部灰になった。

 あの白い桜の木も――

「戦前、この向こうには朱鷺田家の屋敷があってね。そこには白華園という母の愛した庭があったんだ。春になると白い花が、まるで雪が積もったように咲いて、それはそれは美しい景色だった」

 秘書が耳を寄せ、私の声を聞き取り、優しい微笑みを浮かべてうんうんと頷いてくれる。

 毎年春にはここに来て、何十回と繰り返す同じ昔話に嫌な顔一つせず。

 冷気を含む一陣の風が吹いた。

「会長、やはりお身体に障ります。お車に戻りましょう」

 返事を待たず、待機している車のほうへ向かって秘書が車椅子を押す。

 ぼっちゃぁぁん――

 今年も私を呼び止める微かなみとの声が塀の向こうから聞こえ、私の手の甲に桜が一片(ひとひら)舞い落ちてくる。

「あら」

 それに気づいた秘書が車椅子を止めて辺りを窺い、

「毎年桜の花びらが飛んできますけど、どこからでしょうか? でも……いつも一片だけですよね……」

 彼女はそう言うと、また車椅子を押し始める。

 ぼっちゃぁぁん――

 再びみとの声がした。

 だが何度呼ばれても、私には振り返るつもりはなかった。



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