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恐怖日和  作者: 黒駒臣
116/132

風の哭く夜

注意・残酷なシーンがあります。

  

  

 ひゅぃぃぃぃと、風の音がした。同時に窓ガラスががたがたと揺れる。

「怖いわ。女性の悲鳴みたい」

 フレイアが紅茶のカップから顔を上げ、まだ微かに揺れている窓をじっと見つめる。

 外は月も星もない真っ暗な闇夜。

「ね、この敷地内のどこかで女の人が泣いているのではないかしら?」

「まさか。泣くような女性も泣かせるような輩もここにはいないだろ? 空耳だよ。本当に繊細なんだな僕の奥さんは」

 ソファの向かいに座るカーロイがワインのグラスを傾けながらくすりと笑う。

 再び風が哭く。先ほどよりもより女性の悲鳴じみた音に、フレイアは震える自分の腕を抱いた。

 カーロイは立ち上がってフレイアの隣に座ると、その華奢な肩を優しく抱いて引き寄せた。

「大丈夫だよ。ただの風の音だ」

 なぜこんなに不安がるのだろう。伯爵位を継いだ時は明るくて気丈な女当主だったというのに。

 カーロイは甘やかな香りがする彼女のブルネットの髪にキスを落とした。

 フレイアは伝わる温もりに安心したのか、ゆっくり体重を預けてきた。軽い上にさらに軽くなった妻の小さな身体にカーロイは彼女に圧し掛かっている当主の重責を思う。

 明らかにフレイアの精神は弱くなっていた。まさしく風の音に怯えるほど。女の悲鳴というのは自分自身の心の叫びなのかもしれない。

 だが、彼女はそういう不安感を覗かせるものの、当主としての執務はきっちりと(こな)している。まだ不慣れで、カーロイの補佐はもちろんのこと、執事の助けを必要としてはいるが。

 それに茶会や夜会などで、人々の噂に上るような失態を犯すほど精神は破壊されてはいない。

 なので、今はまだカーロイにとって、それは心配の種ではなかった。

 頬を自分の胸に擦り寄せ、身を預けて寛ぐフレイアの肩を抱いたまま、カーロイの想いは別の方へと向いた。

 私のかわいいアリー……

 フレイアとの結婚一週間前、ふざけた悪友たちに連れられて行った娼館で出会った女。

 プラチナブロンドの長い髪に白い肌、豊かな胸に細い腰。商売柄濃い化粧をしていたものの、大きな青い眼の幼い子供のような顔が艶めかしい身体と相まって目が離せなくなり、娼婦だと頭では理解しているのに、カーロイは一目で恋に落ちた。

 さすがに結婚式の当日は無理だったが、それまでの独身残りの日々、フレイアや両親たちなど周囲の人間にばれないように娼館に通い詰めた。

 新妻のことは婚約時代を含め、不満を持ってはいない。入り婿という立場にも何ら文句はない。いや、伯爵の三男坊という立場では文句どころか感謝しなければならないのだ。

 だが、アリーを忘れることはできなかった。

 ばれたら自分の有責で即離婚、実家からも見限られる、そのことがわかっていたとしても。

 新婚生活が(つつが)なく過ぎ、フレイアが執務、カーロイがその補佐に就き日常が落ち着いて来た頃、彼は細心の注意を払いながらアリーを娼館から身請けし、小さな安アパートを借りてそこに住まわせた。

 もっと大切に扱ってやりたかったが、己の身バレを避けるためにあまり大事(おおごと)にしたくなかった。

 カーロイは週に二回ほど、補佐の一環で外回りの仕事に出るが、その際にアリーとの逢瀬を楽しんだ。

 当然外泊はできない。帰宅の時間が迫ると二人離れ難く、時間が許すまでキスと抱擁を続けた。

 ところが先週、所用で留守にするという手紙を残し、そのままアリーが帰って来なくなった。

 貧しさで身を売り、幼い弟妹と病弱な母親がいると言っていたので、その家族に何かあったに違いないとカーロイは考え、彼女の実家に訪ねてみようとした。

 だが、実家の場所を訊いていなかったので訪ねようがなかった。

 市場など彼女の主な行先で無闇矢鱈(むやみやたら)に訊いて回ることも出来ず、一体いつ帰ってくるのかという心配に気を取られ、フレイアが上目遣いでじっと見つめていることに、カーロイは全く気付いていなかった。



 伯爵家の屋敷には地下牢がある。

 厨房の隣の食糧庫のさらに奥にある壁に地下へと下る扉が隠されており、その存在を知るのは伯爵家当主と長く仕える優秀な執事に侍女長、忠実な主の侍女だけ。

 地下へと通じる隠し扉の鍵は代々の当主、つまり今代はフレイアが持っている。その鍵を使い、壁に溶け込んだ扉を開けると深く暗い穴へと下りる階段が現れ、下からぞっとするような陰鬱な冷気が吹き上げてくる。

 その長い階段を地下に下りると、さらに長い石造りの通路が続き、やがて寒々しい地下牢へと辿り着く。

 そこは古い時代から伯爵家に仇なす者を監禁、拷問、抹殺するための秘密の場所であった。

 フレイアが伯爵位を継承する何代目か前から、すでに鍵は継承されるのみで、祖父も父も地下牢を実際に目にすることはなかったという。隠し扉の場所さえも調べなかったらしい。

 フレイアも鍵を預かり、地下牢とはどんなところなのか興味はあれど、父たちと同じく実際に確認することはなかった。

 だが今は隠し扉の位置も、深く暗い穴も、恐ろしく急な階段や長い廊下も、その先にある陰惨な地下牢も、どんな感じで、どんなところなのか、なにがあるのか、すべて知っている。

 カーロイが仕事で外出した後、使用人たちの目を避けながらフレイアは隠し扉から地下へと下りた。

 何度来ても湿っぽい石壁の冷たさには慣れなかったが、心はわくわく躍っていた。

 地下牢に初めて行った時、牢の手前の物置場に様々な拷問器具が置かれているのを見てフレイアは今までにない感覚を覚えて身震いした。

 背面と座面にたくさんの棘が付いた椅子は焦げ茶色に変色し、背が三角に尖った木馬には黒い染みと何かわからないものがこびり付いていた。その傍らには火桶とそこに立てた幾本もの焼鏝(やきごて)や焼き印。

 フレイアの胸が高鳴った。

 獣の口を模した鋏やナイフ、内側に鋭い棘のある金属製の仮面など小型のものは棚に置かれ、古い皮鞭や鉈や(のこぎり)は直接壁に掛けられていた。どれも古く錆びついていたが、使用できるように執事のテリーが丹念に手入れをした。

 牢内の壁には手枷、足枷が等間隔で並んでいて、その右端に裸の女が大の字に(はりつけ)られていた。

「ご機嫌いかが?」

 うふふと笑いながら、テリーの開けた鉄格子の扉を(くぐ)ったフレイアは、ぐったりと項垂れたままの女の前に立つ。

 肩より長かったプラチナブロンドの頭髪は虎刈りにされ、頭皮のあちこちには裂傷がいくつもあった。

 豊かな双丘の頂は焼鏝で焼かれて醜く爛れ、(ほと)も丹念に焼かれて真っ黒に焦げていた。

 右目は眼球が潰され粘液が乾いてこびり付き、唇は下だけ切り取られて上唇しかない。

 拘束された手足の指は左右どちらも幾本か切り取られて、その傷口は焼いて止血されていた。

 全身鞭打たれた肌は蚯蚓腫(みみずば)れが網の目のように走り、白い部分はどこにもない。

 既に火桶に火を熾し、焼鏝を深く差し込んで準備を進めていたテリーは、棚から取った獣を模した鋏を目の前に持って念入りに点検していた。

「ちゃんと通気口は開けている? 空気の循環は大切よ」

「はい、抜かりなく。

 さ、フレイア様、どうぞ」

 テリーが真っ赤に焼けた焼鏝をフレイアに差し出した。

 フレイアは笑顔でそれを受け取ると躊躇なく女の頬に当てた。

 凄まじい叫び声を上げ、手枷足枷から逃れようとするかのように女は身悶える。だが、年代物の枷は錆が浮いていても頑丈で壊れなかった。

「カーロイさまぁぁぁたすけてぇぇぇ」

「うるさいっ」

 フレイアは持ったままの焼鏝で女の頬を殴りつけた。焼け焦げた頬の肉が抉れる。

「ぎゃあああ」

 涎を滴らせ悲鳴を上げた女は荒い息を吐きながらフレイアを睨んだ。

「あたしのほうがあいされてるんだからぁぁぁおまえなんかただのおかざりなんだよぉぉぉ」

「喉を潰しますか?」

 女の罵りに、テリーが再び焼鏝を差し出す。

「いいえ、潰さないわ」

 フレイアはそれを受け取り、女の鼻先に押し当てながら、「だってこの憎まれ口を聞かないとやる気が出ないもの」

 肉を焼き熔かされる凄まじい悲鳴をうっとりと聞き入りながらフレイアは微笑み、先日焼いて黒く焦げた女の右耳に顔を近づけた。

「わたくしはお飾りなんかではなくてよ。だって昨夜もわたくしとカーロイは……ふふふ」

 そして耳を掴むと、すかさずテリーが手渡したナイフでそれを削いだ。切り取った黒い耳は火柱の立つ火桶の中にぽいと放り込んだ。

「テリー、きょうはこれくらいにするわ。止血と後始末頼むわね。死んでしまったらつまらないから、丁寧に処置してあげて」

「かしこまりました。お任せください」

「じゃ、またね」

 フレイアは女にひらひらと手を振り、鉄格子の扉を(くぐ)りかけたが後ろを振り返り、

「そうそう、昼間いないこともあるカーロイでも、夜は必ず屋敷にいるわ。泣いてばかりじゃなく、叫んで助けを乞いなさいな。いつか彼の耳に届くかも知れなくてよ」

 にっこり微笑んでそう言うと地下牢を後にした。



 今夜も風が哭いている。

「また悲鳴が聞こえるわ」

 フレイアが震えながらカーロイに縋りつく。

「怖がらなくても風の音だから」

 カーロイは優しく妻の頭を撫でて言い聞かせながら、今夜もアリーのことを考えていた。


 きょうもアパートに行ってみたが、やはり彼女は帰って来なかった。

 カーロイは二人が睦みあったベッドに腰かけ、窓から入る日が傾いて部屋がオレンジ色に染まるまでずっと待っていたが、結局無駄に終わった。

 カーロイの心はすでに諦めの境地に入っている。

 アリーは私のことが好きなわけではなかったのだ。本当の好いた相手がいて――もしかして結婚の約束をしていたのかもしれない――その男と一緒になるため私を利用し自由を手に入れたのだろう。今頃はそいつと手に手を取り、遠くに逃げてしまっているに違いない。

 だが、信じたくない。私といる時の彼女は確かに幸せそうだった。

 そうだ。明日もう一度アパートに行って彼女を待ってみよう。そして今日と同じなら、すべてを引き払い、何もかも忘れるのだ。

 カーロイはそう決心した。


 夫は相変わらず、あれを風の音だと信じている。

 フレイアはほくそ笑んだ。

 地下から地上に繋がる通気口は地下牢から悲鳴や叫び声を上げたとしても、隙間を吹き抜ける風の音に聞こえるような細工が施されていた。百数年前の建築は今でも健在なのだ。

 わたくしの肩を抱きながら上の空のこの人は今何を思っているのかしら。

 ふふ、きっと愛人のことね。

 あのふっくらとしていた赤い唇を思い出しているの? それとも柔らかで艶めかしかった乳房? それとも……

 でもそれらは、もうないわ。

 カーロイの横顔をこっそり見つめ、フレイアは楽し気な微笑みを浮かべた。


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