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恐怖日和  作者: 黒駒臣
105/132

ふぁいなる・がーる

残酷描写あり閲覧注意


  

  

 重く引き()る足音がだんだんと近づいてくる。

 廃納屋の中、ささくれた板壁と壊れて放置されたままのトラクターの間に身を潜めていたアマンダは恐怖を押さえ、じっと我慢した。

 今にも崩れそうな納屋の板壁は隙間だらけで、あちこちから満月の光が差し込んで薄明るい。今彼女の隠れている場所だけが辛うじて濃い影が溜まっていた。

 その領域からはみ出ないよう、さらに身を縮め、アマンダは闇と同化した。

 じゃりっと小石の踏む音が間近に聞こえたと同時に、頭上の隙間から差し込んでいた光が遮られた。

 汗と脂の饐えた(にお)いに混じって、生臭い血臭も漂って来る。


 ――あいつが覗いている。どうか見つかりませんように。


 アマンダはぎゅっと目を閉じて祈った。



 マイケルの白いバンは砂埃の舞う道路をミラーレイクキャンプ場に向かってひた走っていた。

 山深い針葉樹の森にあるミラー湖の(ほとり)は今若者の間で話題になっているキャンプ場だった

 バンの運転席にはマイケル、助手席にはメアリーが座し、後部座席にはトムとケート、最後部席にはアマンダとジョシュが乗っていた。

 メアリーからキャンプに誘われた時、アマンダはふと残酷な殺人鬼の登場するホラー映画を思い出した。

 若い男女、恋愛、キャンプといえばホラーの鉄則。


 ――でも映画は映画、あんなのただの作り物。


 なので、参加を断った理由はそれではない。

 ただ面倒臭かっただけ、そしてもう一つ理由が――

 だが、結局メアリーに強引に参加させられた。

 キャンプの計画はトムに片思い中のケートの想いを成就させるためにメアリーとマイケルが画策したものらしい。

 明るくてお節介焼きのメアリーはアマンダの幼なじみで、親友だった。

 でもそう思っているのはメアリーだけ。


 ――幼なじみは事実だけど、わたしは彼女を親友だなんて一度も思ったことない。むしろ大っ嫌いだ!


 それが誘いを断ったもう一つの理由。

 メアリーは幼い頃からアマンダの持っているものを片っ端から横取りした。

 絵本にぬいぐるみ、本屋CD、洋服に靴にバッグにコスメ。物だけじゃない。子どもの頃からの歴代ボーイフレンドまでもすべて横取りした。


 ――ま、別にいいんだけどね。すぐ寝返る男子なんてこっちからお断りだし。


 そんなメアリーだが、アマンダに対して悪意を持っているわけではなかった。どういう心理が働いて横取りするのかわからないが、二人が親友同士だと心底思っているらしく、それがよけいに腹立たしかった。

 今までに何度も彼女と距離を置こうとしたが、うまくいった試しがない。

 メアリーが嫌悪するような女子と友人になってみたりもして距離を取っても、いつの間にかその子が離れ、メアリーがそばに戻っていた。


 ――彼女が自分の意志でわたしの前からいなくならない限り、これからもずっと一緒なんだわ。


 アマンダはマイケルの後頭部を睨んだ。


 ――あんたがしっかりメアリーをものにしないからいつまでもわたしから離れないのよ。この筋肉バカ! 


 マイケルとメアリーの関係はいまだ友達以上恋人未満なのだという。


 ――は? 信じられないんですけど? あのメアリーがまだマイケルと寝てないなんて。よほど本気なのか、逆に大嫌いなのか。とにかく彼に頑張ってもらってわたしから離してもらわなきゃ。


「――ってわけなの、うふふ」


 ケートの甘ったるい声が耳に届いて、アマンダは我に返った。いつもとは明らかに違う、恋する乙女の声だ。


 ――クラスで成績がナンバーワンのケートでもこんな声出すんだね。


 アマンダはケートとトムの様子を交互に見ていたが、話しているのは彼女ばかりで、トムはまったく興味がなさそうに窓外を眺めていた。


 ――彼ってすごくハンサムなんだけど、無表情だと冷たい感じがして怖いわ。ケートのメンタル大丈夫かしら? ひやひやしちゃうわ。マイケルもメアリーも助けてあげればいいのに。


 何度話しかけても振り向かないトムに、ケートは目を伏せて座席に沈み込んだ。


 ――ちょっとぉ、二人ともここまでお節介焼いたんだから、もう少しフォローしてあげなよ。


 アマンダはメアリーに視線を送ったが、スマホに夢中で後部座席の状態に気づいていない。


 ――わたしがフォローできればいいんだけど、こういうの苦手だし。


 メアリーの話だとトムは最後までこのキャンプ行きを断っていたらしい。ケートを紹介すると言ってもなおだったという。

 結局来たのはマイケルがやけにしつこく説得したからだとメアリーが笑っていた。

 トムが来なければキャンプの計画が頓挫する。きっとマイケルはメアリーとの距離を一気に縮めるため、どうしてもキャンプに行きたかったのだろう。

 ところで、アマンダには一つ疑問があった。


 ――なぜ自分が参加させられたのか?


 出発直前までわからなかったが、答えは集合した時に出た。

 マイケルの親友ジョシュが参加していたからだ。

 メアリーたちはケートだけでなく、自分にもお節介を焼くつもりなのだ。

 ジョシュはトムと別の意味で窓外を眺めていた。

 違う意味というのは、カーブで身体が触れ合う度、耳まで真っ赤になる顔を見せまいとしているのがわかっていたから。


 ――ジョシュから熱い視線を送られていたことはまあまあ気づいていたわよ。でもね、メアリーがわたしの前からいなくなるまでボーイフレンドも恋人も作らないって決めてるの。


 こんな計画を立てておきながら、アマンダがジョシュとカップルになった途端、メアリーがマイケルを保留にし、ジョシュを奪いに来るのが目に見えていた。


 ――そういう女なのよ、彼女は。




 太陽が少し西に傾いた頃、ようやくミラーレイクキャンプ場に到着した。

 全員車から降り、深呼吸して身体を伸ばした。

 トムがジーンズの尻ポケットから、煙草とマッチを取り出したが、少し考えてもとに戻した。

 それほど空気が清々しくておいしい。女心を踏みにじる冷たい彼に不信感を持っていたアマンダだったが、喫煙しなかったことに感心した。


「あ、スマホ使えなくなった」


 メアリーが頬を膨らませる。


「だからここは電波が届かないって言っただろ。そんなもんなくても充分楽しめるさ」


 マイケルはニヤッと笑い、ベビーピンクのピチピチTシャツと白いホットパンツのナイスバディに視線を這わせた。だが、彼女がスマホを片付け、荷物の中から引っ張り出したフルジップのパーカーを羽織ると、あからさまに残念な表情を浮かべた。


 ――ああ~もう、見てらんないわ。


 アマンダは目を逸らせ、広大な湖の景色を眺めた。

 針葉樹に囲まれた湖面は名の通り鏡のようで、透き通る青空とそこに浮かぶ白い雲が映り込み、面白みのない現実を忘れさせてくれる輝きに満ちていた。

 嫌々参加したはずなのに、アマンダの心は早くもワクワクしていた。隣に立つジョシュの優しく熱い眼差しも高揚感に拍車をかける。

 メアリーが期待に満ちた笑みを浮かべ、こっちを見ていることに気づき、アマンダは目を伏せた。


 ――横取りなんてしなければ、ほんといい()なんだけど。でも、もしも、もしもよ、メアリーの悪い癖がすでに直っていたら? もしもマイケルに夢中になって、もうわたしに構わなくなったら? もしそうなったらわたし、ジョシュの熱い眼差しを受け取ってもいいんじゃないかな?


 アマンダの心にきゅんと甘酸っぱさが広がった。

 だが、それはほんのひと時の間だった。




 各々荷物を持って、駐車場からテント設営地まで300メートルほどの鬱蒼とした林道を進む間に悲劇が起こり始めた。

 まず、荷下ろしに手間取り、最後尾についたメアリーの凄まじい悲鳴が始まりだった。

 大型荷物を運ぶためマイケルとトムはすでに設営地に向かい、ケート、ジョシュ、アマンダの順で低木の茂みに挟まれた林道を進んでいたが、少し離れて前にいたアマンダでさえ何が起きたのかさっぱりわからなかった。

 悲鳴に三人が駆け戻ると、メアリーのいた場所には下草に飛び散る血飛沫と転がった薬指と小指があるのみで彼女の姿はなかった。

 メアリーの薬指だとわかったのは切断面のぎりぎり上にマイケルがプレゼントした指輪が残っていたからだ。


 ――後ろでいったいなにが起こったの?


 アマンダは悲鳴が漏れそうな口を両手で押さえた。傍らに立つジョシュが震える肩を抱きしめてくれた。


「なにがあった?」


 マイケルとトムが走って戻って来た。

 がたがたと震えるケートがトムの腕に(すが)りつく。

 その手を煩わしそうに引き離しながら、ふと何かに気づいたトムが「おい、あれ」と地面を指さした。

 下草を倒し、何かを引きずった血の跡が森の奥へと続いている。

 その何かとはメアリー?


 ――いなくなればいいって思ったけど、こんな形じゃない。どこに行ったの? 大丈夫なの?


「メアリーっメアリーっ」


 マイケルが半狂乱になって血の跡を追い始めた。


「行くなっ」


 トムが慌てて止めようとしたが、ケートが全身で(すが)りついてくるのですぐに動けず、その間にマイケルは森の奥に消えていった。

 ようやくケートを振り払い、後を追おうとしたが、マイケルの長い絶叫が聞こえた。

 咆哮のような叫びは急にぷつっと途切れ、辺りがしんとなった。

 なす(すべ)もなく、四人はじっと森を見つめていたが、木立の隙間からキャンプハットを目深に被ったアノラック姿の大男がこっちに向かって来ることに気づいた。

 ただのキャンパーかと思ったが、なぜか禍々しさを感じ、それは全身が湿ったような赤黒い色をしているからだとアマンダは思った。


 ――あれは返り血?


 近づいて来ると大男の手にしているものがはっきりと見えた。多量の血がこびりついた斧とマイケルの生首。生首からはまだ血が滴っている。


「いやああっ」


 ケートが悲鳴を上げて腰を抜かした。


「その()は頼んだぞっ」


 ジョシュがトムにそう叫ぶとアマンダの手を引いて駆け出した。

 現実を受け止めることができず、悲鳴を上げる間も腰が抜ける間もなく、ただ恐怖でぼんやりしていたアマンダは強く引っ張られて走っているうちに意識がはっきりしてきた。

 振り返るとケートに肩を貸しトムが後をついてきている。だが、スピードを上げることができないようだ。


「ねえジョシュ、手伝ったほうが――」


 そう話しかけても、ジョシュは止まらず、だんだん距離が開いていく。

 薄情だとは思うが、彼が止まらないことにアマンダは安堵した。


 ――だって怖すぎる。


 気になって、もう一度振り返ると、大男がトムたちに生首を投げつけているのが見えた。ケートが怯えてしゃがみ込んだところへ、すかさず斧が振り下ろされる。

 ケートの左半身が血飛沫と臓器をぶちまけながら地面に落ちた。断末魔が響き渡り、続いてトムの悲鳴も聞こえてきたが、彼がどうなったか木立に隠れてアマンダには見ることができなかった

 ジョシュは振り返ることも止まることもせず、握った手に力を込め、速度を上げた。

 荒い呼吸に混じって嗚咽が聞こえてきたが、それが自身の声だとアマンダはしばらく気づかなかった。




 逃げた先にテントの設営地が広がっていた。

 いくつかテントが張られてあったが、そこに生存者の姿はない。あたり一面が血に濡れ、異様なにおいを放ち、老若男女の死体が転がっていた。

 殆どが四肢や首を切断され、腹を裂かれ内臓を引きずり出されていた。

 濃厚な血と糞尿の臭いにアマンダは吐き気を催したが、吐き戻している時間などない。(くじ)けそうな気持ちを奪い立たせ、ジョシュの後に続いた。

 彼は隠れる場所を探していたが、ここには低木の茂みかテントぐらいしかない。早く隠れなければケートとトムを襲い終えた殺人鬼がすぐここにやって来る。


「いいもの見つけたぞ」


 ジョシュは首のない男の下敷きになっていた大きなサバイバルナイフを死体の下から引き抜いた。そしてアマンダをその真横にあるテントに「ここに隠れて」と押し込んだ。


「怖いと思うけど、ちょっと我慢してくれ」


 そう言うと入口の幕を閉め、あたかも初めからそうだったかのように首なし死体をその前に座らせた。

 これで殺人鬼を騙せるのかと不安に思いつつもアマンダは身を縮めた。 

 テントに映るジョシュの影が近づいて大きくなる。


「あなたも早く隠れて」

「いや、ぼくは囮になってやつをここから引き離す。うまく撒いて戻って来るから、絶対ここから出ないで。

 アマンダ、愛してる。君を絶対守るよ」


 影がすうっと小さく離れ、足音と共に遠ざかっていく。

 だが、1分も経たないうちにジョシュの悲鳴が聞こえてきた。

 何度も何度も何度も。そして静かになった。


 ――うそ、生き残ったのは、わたし一人? 


 こんなことなら、もっと逃走しやすい場所に隠れるべきだったとアマンダは後悔した。

 今発見され、テントの上から襲われたらひとたまりもない。かといってここから出ても、きっともう間に合わない。

 がさがさっと葉音が聞こえ、アマンダはひゅっと息を呑んだ。

 幕の隙間から外を窺うと、近くに殺人鬼が立っていた。アノラックがさっきよりももっと赤黒く染まっている。何度も返り血を浴びたせいなのか、自分で塗りつけたのかはわからないが、血濡れたキャンプハットの下にある赤い顔はホラーマスクを被っているように見えた。

 殺人鬼が斧を振り回してテントを順番に薙ぎ払い始めた。


 ――きっと私を探してるんだ。ここまで来たらもうおしまい。


 その時、車の走行音が駐車場のほうから聞こえた。エンジンが止まるとドアの開閉音、ポップな音楽や若者の楽しそうに騒ぐ声がした。

 何も知らないキャンパーたちがやって来たのだ。

 殺人鬼は斧を振る手を止め、ゆっくり林道を戻っていった。

 完全に姿が見えなくなってから、無意識に止めていた息を吐き、首なし死体を押しのけてテントを出た。




 殺人鬼の隙をつき、駐車場に戻ろうとしていたアマンダは、低木の茂みの中に身を潜めて周囲を窺っていた。枝がTシャツの上から肌を突き刺しても痛みを感じる余裕などない。

 救助が期待できないなら、ずっと隠れているだけなのは得策ではなく、奴から完全に逃げ切るにはやはりキャンプ場から遠く離れる、つまり車が必要だと考えたのだ。

 マイケルはいつも車に鍵をかけず、サンバイザーに挟んでいることをメアリーに聞いて知っていた。

 なので一刻も早く駐車場に戻りたかったが、今戻れば殺人鬼に見つかってしまう。


 ――とにかく見つからずに駐車場まで行ければ、きっと逃げられるわ。


 さっきからずっと男女の絶叫が聞こえてくる。自分だけ助かろうとしていることにアマンダは罪悪感を覚えた。

 だが、


 ――早くここから逃げ出して、この惨状を通報しなければ。あいつをこのまま野放しになんかしておけない。


 アマンダは殺人鬼が去るのを辛抱強く待ち続けた。

 日がだいぶ傾いた頃、足音がして殺人鬼が茂みの前を通り過ぎ、設営地のほうへと向かっていった。

 枝の隙間から少しだけ顔を出したアマンダは、やつの姿がないのを確かめると、茂みから飛び出して急いで駐車場に走った。




 林道の途中でジョシュがぶつ切りになって転がっていた。胴から頭部が切り離され、両腕、両脚もばらばらにされている。何度も悲鳴が聞こえていたのは生きながら切断されたのかもしれない。

 一撃でとどめを刺されたのではなく、斧を打ちつけられる度に味わったジョシュの恐怖と痛みを思うと涙が零れた。

 だが、アマンダは涙を拭い、ジョシュが持っていたサバイバルナイフを探した。上手く扱う自信はないが持っているだけで心強い。

 だが、どこを探してもなかった。


 ――きっと殺人鬼が取っていったんだわ。


 アマンダはナイフをあきらめ、先を急いだ。

 駐車場には新しいばらばら死体が転がっていた。

 次に誰かがキャンプに来たら、ここで惨劇が起こっていることに気付いて通報してくれるに違いない。

 そう期待したが、来る保証はないし、それを待っている時間もない。

 マイケルの車に急いで駆け寄ったアマンダは、タイヤがすべて切り裂かれていることに気付いて呆然となった。

 他の車もすべてタイヤが切り裂かれ、逃げることができなくなっていた。

 このキャンプ場で殺人鬼とかくれんぼを続けなければいけないのか。いつ助けが来るとも知れない中で。


 ――いやだいやだいやだ、たった一人でなんて、そのうちきっと頭がおかしくなる、いやだこわいこわいこわいっ


 パニックになりかけたアマンダは背後に殺人鬼が迫っていることに気付かなかった。


「ふうううふうううう」


 (くさ)い息遣いに、はっと振り向いた時にはすでに斧が頭上に振り上げられていた。


「きゃあああああああ」


 だが、殺人鬼が横に吹っ飛んだ。斧が音を立てて地面に落ちる。

 倒れ込んだ殺人鬼の上にトムが()しかっていた。

 一瞬何が起こったのかわからなかったが、トムが生きていて、さらに自分を救ってくれたのはわかった。

 しかも、ジョシュの持っていたサバイバルナイフで殺人鬼の脇腹を突き刺している。

 トムは暴れる殺人鬼に振り落とされないようしがみついて、肉を抉るようにナイフを(ひね)り、それを何度も繰り返した。

 殺人鬼の動きが徐々に弱まり、やがて静止した。

 トムがとどめとばかりにナイフを深々と刺し、それをゆっくり引き抜く。傷口から粘り気のあるどす黒い血が溢れた。

 俊敏な動きで立ち上がったトムはナイフをベルトに差すとアマンダの手を引いて走り出した。


「これから暗くなる。設営地の奥に廃農場があったからそこで夜を明かそう」


 アマンダは頬に流れる安堵の涙を拭いながらうなずいた。

                           

         


 地獄のような設営地を抜け林道の奥に入っていくと、廃屋と廃納屋が並んで立っていた。農場だったところは丈高い雑草が蔓延っただだっ広い草原(くさはら)に変わり果て、朽ちかけた柵だけがかつての面影を残している。

 夕日を浴びながら廃屋へと近づいていく。


「そこ大丈夫?」


 アマンダはトムの側頭部を指さした。髪と皮膚が薄く()がれ、じくじくと出血している。


「ああ。痛みはあるけど」

「それさっきケートと襲われた時に?」


 アマンダの問いにトムはうなずいた。


「危うく頭をかち割られそうになったけど、何とかかわして森に逃げた。で、森の中を抜けてここを見つけたんだ。中がどうなってるかまでは確認してない――君とジョシュを探そうと戻ったから。ジョシュはすでに殺られてしまってたけど」

「わたしたちは見捨てて逃げたのに――ごめんね」

「いや、気にしてないよ」


 トムが微笑む。

 アマンダはトムの微笑みを初めて見た気がした。

 廃屋の前まで来ると、ここでも惨劇があったのだとわかった。

 外れかけてぶら下がった扉や網戸には血飛沫が飛び、玄関ホールから流れ出る大量の血液はポーチまで広がってすでに変色していた。

 無数の蠅がポーチと玄関ホールの間を、羽音を立てて飛び回っている。


「どうする? 一応入ってみるか?」


 トムの問いに、アマンダはうなずいた。

 手で蠅を払いながら、なるべく血溜まりを避けて中に入った二人はゆっくり奥へと歩を進めた。

 ここも設営地と同じだった。異臭が充満し、腕や脚を切り落とされ内臓を引きずり出された人々が玄関ホールだけではなく、廊下にまで転がっている。

 飛び回る蠅の数が増してくるのは、腐敗度の高い死体やほぼ白骨化した死体があるからだと気づいた。キャンプ場でも蠅が飛び交っていたものの、まだ死体は新しいものが多かった。


「これ全部あいつが? 一体いつから?」


 腐肉を覆う蛆虫が波打つように蠢くのを見て、アマンダは嘔吐(えず)きながら鼻と口を押えた。

 二人とも沈黙したまま、古い写真の飾られた汚れた壁を左に曲がった。そこは壁も床もぼろぼろになったダイニングルームで、右奥に同じくぼろぼろのキッチンが見えた。

 ダイニングの窓扉はすべてはずれ落ち、開けっ放しの窓から夕焼け空を背景に廃納屋が見えていた。

 暮れゆく空のオレンジ色と納屋の黒いシルエットに思わず郷愁を誘われそうだが、テーブルに料理途中かのような全裸男性の切断された死体が載せられているのを見て、現実に引き戻される。


「いったいなにがしたかったんだろう?」

「狂ってるんだ。意味なんてない」

「ねえ、わたしたち助かったんだよね」


 トムが力強くうなずく。

 アマンダはほっとすると、再び頬に零れ落ちた涙を拭きながら、


「メアリーもマイケルもケートもジョシュもなんでこんなことに――」

「だから来たくなかったんだ。俺たちみたいなやつが集まってキャンプなんて、ホラー映画じゃないか」


 それを聞いてアマンダはくすっと笑った。


「おんなじこと言うのね」

「えっ」

「わたしもそう思ったの。でも普通は映画みたいなこと起きるはずないのに――」


 アマンダは項垂れて「ファイナル・ガール――」とつぶやいた。


「えっ?」

「ホラー映画で最後まで生き残る女性のことをそう言うの。さっき自分がそうなってしまったと思って、すごく怖かった。助けてくれて本当にありがとう」


 トムははにかんだ笑顔で(うつむ)いたが「な、ジョシュが来るから参加したのか?」とアマンダを上目遣いで見た。


「え? 違うよ。集合するまでジョシュがいるなんて知らなかったし――実は最初は断ってたの。でもメアリーに強制的に参加させられて」

「そっか。あいつら一見いいヤツだけど、強引だからな」

「いえてる」

「俺も最初は断ってたんだ。でもマイケルがしつこく誘って来て」

「知ってる。ケートのことで、でしょ」

「ああ。よけいなお世話だってんだ」

「で、根負けして来たわけね」

「いや――君が来るって、聞いたから」

「えっ?」


 アマンダは戸惑った。


「こんなひどい状況下で伝えることじゃないけど、俺はずっと君が好きだったんだ」


 それを聞き、ケートを完全無視していたトムを思い出す。


「俺とつきあって欲しい」

「え? あ、え? そんなこと今言われても――」


 焦っているとトムがふっと笑った。


「すぐに返事はいらないよ。無事家に戻ってからでいい。おいしいもの食べて、お風呂入って、ゆっくり休んで、それからじっくり考えて、付き合ってやってもいいって思えたらでいい。何日でも何週間でも何か月でも俺は待ってる」


 優しい眼差しをしたトムがアマンダの頬に手を伸ばしかけた。だが、殺人鬼の血がこびりついているのに気づき「ごめん」と手を引っ込めた。


 ――別にかまわないのに、そんな汚れぐらい。


 ここには無惨な死体があり、蠅が飛び回り、信じられないくらいひどい異臭がしているのだ。もう血の汚れぐらい気にならない。

 突然、玄関で物音がし、驚いた二人は顔を見合わせ、慌てて廊下に顔を出した。


「ひっ」


 薄暮に沈む玄関ホールに生首が一つ増えていた。ジョシュだった。

 そこにもう一体、死体が投げ込まれた。

 ジョシュの首を弾き飛ばし落ちてきた死体はケートの半身だった。

 こんなことをするのは、あの殺人鬼しかいない。


「あいつまだ生きてるの?」


 アマンダは声を潜め、トムの腕に(すが)りついた。


「不死身なのかもしれない」

「まさか――でももしそうなら、いったいどうすればいいの」


 ポーチの床板を踏む重い足音が聞こえ、玄関に大きな黒い影が立った。影は足を引き摺りながら中に入って来た。トムに刺された影響なのか動きが鈍い。


「窓から逃げるぞ」


 アマンダはうなずくと同時に急いで窓に走り寄り、トムに助けられながら窓枠を越えて外に出た。

 続けてトムも出てきて、


「あそこに隠れよう」


 二人は急いで廃納屋に走った。




 今にも倒壊しそうなぼろぼろの納屋だが扉はついていて、そっと開けて中に忍び込んだ。

 扉を閉める前に背後を確認したが、まだ殺人鬼は追ってきていない。

 閉めた途端、一瞬真っ暗闇になった。

 だが、板壁の隙間から入ってくる夕暮れの仄かな明るさで、すぐ目が慣れてきた。

 ほぼゴミ同然の大小様々なものが、棚や床に捨て置かれていたが、幸い死体はなかった。


「アマンダこっち来て」


 辺りを調べていたトムに呼ばれて行くと、壁際に古いトラクターが置かれていた。長い期間放置されたままなのかひどい錆が浮いている。


「この間に入って隠れてるといい」


 トラクターと板壁の間をアマンダに指し示したトムは何かに気付いて納屋の片隅に走り寄った。


「いいものがあった」


 そう言って、転がっていた古いガソリンタンクを持ち上げる。まだいくらか残っているのだろう、たぽっと音がした。


「これでやつを焼き殺そう」

「ど、どうやって?」

「俺がやつをここまでおびき寄せる。トラクターを背後に立たせるようするから、君はここに隠れて、やつの後ろからこれをぶっかける」


 トムがタンクを掲げて見せ「で、これで火をつける」と、ポケットからマッチ箱を出して見せた。それをタンクと一緒に差し出す。


「無理よ。そんなうまくいくわけない」


 アマンダは拒否した。


「大丈夫。しっかり引き付けるから、君はそこにうまく隠れていて」


 アマンダは首を横に振り続けたが、トムはタンクとマッチを無理矢理手渡し、両手で彼女の頬を包んでキスをした。


「帰ったらデートしよう。どこに行くか君が決めてくれる? もちろんキャンプはなしだよ」


 ウィンクしながらトムが納屋を出た。笑顔でアマンダを振り返り、扉を閉めた。


 ――一発勝負だわ。火に巻き込まれないように気をつけなくちゃ。逃げながらマッチを擦って投げる? そんなうまくいくかしら、火がつく前に消えてしまうかもしれないし。


 だが悩んでいる暇はない。

 殺人鬼はその辺にいるはずだから、きっとトムはすぐ戻って来る。

 そう考えてアマンダは祈りを捧げるように手順を繰り返しつぶやいていたが、トムはなかなか戻って来なかった。

 暗がりに身を縮めてじっと待っていたが、あまりに遅いので、外の様子を確かめようと顔を上げ、板壁の隙間を覗いた。

 辺りはだいぶ暮れていたが、数メートル離れた場所に殺人鬼の姿が見えた。死体の片足を持って引き摺りながら狭い視界を横切っていく。

 死体は全裸にされていた。股から腹部まで無惨に裂かれている。もう片方の足は脱いだズボンのように(よじ)れ、零れ出た内臓と共に引き摺られている。薄暗さで血の赤や肉の生々しさが鮮明でないのがありがたかったが、アマンダは震えが止まらなかった


 ――トムはどこに行ったの? 何してるの?


 答えを考えたくない。

 殺人鬼が視界から消えると、引き摺られている上半身が視界に入ってきた。

 抉られた胸部、腕の付け根から切断された肩の丸い断面、顔の中心にナイフが突き立てられた頭部がずるずると横切っていく。

 薄暗くてよく見えないが、ナイフには見覚えがあった。

 ジョシュが見つけ、トムが持っていたサバイバルナイフ。


「ひっ――」


 慌てて悲鳴を押さえる。


 ――やっぱりトムも殺されていた。わたし、本当にファイナル・ガールになってしまったんだ。


 殺人鬼も死体もアマンダの視界からいなくなった。どこまで行ったのかしらないが、離れた場所なら今のうちにここから逃げ出せる。だが、すぐ近くにいるかもしれないと考えると、アマンダは今いる暗がりから出ることができなかった。



 板壁の隙間から満月の光が闇の中に差し込んでいる。

 あれからずっと同じ場所で身を潜めていたアマンダは脇に置いたタンクに視線を向けた。


 ――明るくなるまで隠れ続けても、結局助けが来ないなら一緒だ。やっぱりあいつを殺すしかない。


「わたしはファイナル・ガールなのよ」


 そうつぶやいてぎゅっと拳を握り締めた。

 離れたところから重く引き摺る足音が聞こえ、徐々に近づいてくる。


 ――きっとここへわたしを捜しに来たんだわ。間近に来るまで見つかるわけにはいかない。怖いけど我慢よ。焦ってはだめ。


 アマンダはさらに暗闇に身を縮めた。

 小石の踏む音が間近に聞こえ、さっき覗いた板壁の隙間から入る光が遮られた。

 汗と脂の饐えた(にお)いと血生臭さが隙間から()み込むように漂って来る。


 ――どうか今は見つかりませんように。


 アマンダはぎゅっと目を閉じて祈った。

 頭上の光が戻ると足音はゆっくりと納屋の入り口に進み出した。

 素通りして欲しい気持ちと、来るなら来いという気持ちがアマンダの中でせめぎ合っている。

 とりあえず、タンクの蓋を開け、すぐ擦れるようにマッチ箱は手に持ったままにした。

 果たして、納屋の扉が開いて殺人鬼が入って来た。

 斧を振り回し、板壁や棚を破壊し始める。動きは緩慢だが、斧を振る度に風を切る音がし、埃や木屑が荒々しく舞った。


 ――慌てないで。近くに来るまで待つのよ。


 アマンダはじっと殺人鬼を注視していたが、緊張のあまりもう少しでマッチを落としそうになった。

 そのほんのわずか目を離した隙に、殺人鬼が目の前に立っていた。


「っ」


 咄嗟にタンクをつかんで立ち上がったアマンダは殺人鬼の頭上めがけてガソリンをぶっかけた。

 全身ずぶ濡れとまでいかなかったが、ハットのつばから雫が垂れ、顔や胸元までは濡れた。

 すぐさまマッチを擦って放り投げる。

 ぼっと勢いよく上半身が燃え出し、持っていた斧を落とした。


「やったわ」


 後退りながらアマンダは身を隠していた陰から出た。

 殺人鬼は熱さに暴れ出すわけでもなく、苦しんで倒れ込むわけでもなく突っ立ったままだった。


 ――え? これくらいじゃダメなの?


 唖然としたアマンダは足元に転がっていたバケツに(つまず)き、音を立てて派手に転んでしまった。

 殺人鬼が炎を(まと)う顔をこちらに向けた。キャンプハットは燃え落ち、顔面の皮膚は焼け爛れ、両眼球は白く煮えている。なのに(くずお)れるどころか、まったく動じておらず、黒く焼けた両手を突き出し一歩一歩迫って来る。


「来ないで――」


 アマンダは焦りと恐怖で立ち上がれず、尻を引き摺って後退った。

 そのアマンダの上に、黒く(くすぶ)る殺人鬼が馬乗りになった。

 煙の立つ両手が目前に迫り、首を絞めてくる。親指が皮膚を突き破り、喉を左右に引き裂こうとしていた。

 激痛に叫びたくても、口から溢れ出るのは泡混じりの鮮血と笛の吹くような音ばかり。


 ――わたし、ファイナル・ガールのはずだよね。


 焼けた殺人鬼の映る視界が徐々に霞んでくる。


 ――もうだめ。


 アマンダはあきらめて目を閉じた。


 ――ジョシュもトムも待っててくれてるかな。ケートもマイケルも、メアリーも。


 遠くなる意識の中で仲間の顔が浮かんでは消えていく。


「うおぉぉぉっ」


 突然雄叫びが聞こえ、その瞬間、自身にかかる殺人鬼の重みが消えた。


 ――なにが起こったの? 


 わずかに目蓋を上げると、(かすみ)のかかる視界の中で床に転がった殺人鬼とピッチフォークを構えて立つ女性が見えた。


 ――メアリー?


 泥と血に(まみ)れぼろぼろの姿をしているが、確かにメアリーだ。彼女はピッチフォークを何度も殺人鬼に突き刺し、その度にぐちゃぐちゃと肉の崩れる音が聞こえていた。


「こんだけやれば、もう起きてこないっしょ。ほら、アマンダ、見て」


 メアリーの左手には胴から千切り取った殺人鬼の生首がぶら下がり、それを瀕死のアマンダに掲げて見せた。


 ――あなた今までどこにいたのよ。


 声にしたいが、漏れ出るのは血泡と笛音のみ。


「こいつ、ほんとひどいよね。ほらっ」


 メアリーがピッチフォークを放り出して薬指と小指のない血のこびり付いた右手も掲げる。


「ホント痛かったんだから。あと、ここもね」


 そう言ってパーカーを逆腰巻きにして傷を保護しているらしい腹部を指さした。


「マジ死ぬかもって思ったし――」


 パーカーは痛々しいほど血に染まっていた。ベビーピンクのタンクトップと白いホットパンツも真っ赤で、満身創痍だ。


「でもね、うまく隙をついて逃げられたの。いったん森の中に隠れて、見つからないようにあちこち移動して。

 あ、トムがこいつを刺したの見たわよ。やったぁって思ったわ。あんたたちと合流しよって思ってたけど、しばらく様子見てたら、こいつが起き上がって来てさ、まさか不死身だったとはね」


 彼女は殺人鬼の身体を爪先で突きながら、ぺらぺらと話し続けていた。


 ――痛いよ、苦しいよ、喋ってないで、早く、何とか、して、


 声にしたわけではなかったが、メアリーが「あ、ごめんごめん」とアマンダを覗き込んだ。


「やだっ、すごい血。あんたヤバいんじゃない? どうしたらいいの。ここ電波ないし、ってスマホもないんだけど――

 ね、大丈夫? アマンダ?」


 ――だいじょうぶ、じゃない、


「空も明るくなってきたし、キャンプに来た人がきっと通報してくれるわ。それまで頑張って――

 でも、死体がいっぱいでびっくりするでしょうね。キャハハハ」


 ――なにが、おかしいの、


「あら? ほんとにサイレンが聞こえてきたわ。ね、助かるわよ、わたしたち」


 ――そんな気休め、いらない、わたしはもう、だめ、息ができ、ない、、


「アマンダっ、頑張るのよ。わたし、ここまで救急隊を呼んでくるからっ」


 踵を返し、彼女が納屋の入口へと駆けていく。

 アマンダにはもうその後ろ姿すら見えなかったが、


 ――ねえ、メアリー、、あんた、ファイナル・ガールまで、、わたしから横取りしてく、のね、、、


 と、皮肉った。

 サイレンはメアリーの気休めなどではなく、現実に鳴り響いていた。複数のパトカーがミラーレイクキャンプ場の駐車場に駆けつけていたが、それを知ることなく、アマンダの意識は暗闇の中へ落ちていった。




「無理させないようにお願いしますね」


 担当看護師がベッド脇に立つ男に睨みを利かせ、扉を開けっ放したまま二人部屋から出て行った。


「こんにちはアマンダさん。マーチンと言います。よろしく」


 クッションを背にして斜めに起きたアマンダに男は警察バッジを見せ、間仕切りカーテンを軽く引いて、傍らに置かれた椅子に腰かけた。

 青いドット柄の患者衣を着た彼女はうっすら微笑んだだけで、会釈も返事もしなかった。返したくても返せない。喉に負った深い傷は包帯に巻かれまだ治療中だし、声も出せないからだ。

 治療が終わっても大きな傷あとが残り、発声はリハビリ次第で少しは回復するかもしれないと言われたが期待はできない。


 ――命が助かったのは感謝してるけど、将来を考えたらそれがよかったのかどうか。


 暗い表情のアマンダに気づかず、マーチンはファイルを開いた。


「事件を思い出させてしまうが、協力お願いします」


 マーチンはドクターから許可が出たとして事情聴取に来たという。あの事件から二か月以上経っているので、今更? と内心ため息をついたが仕方のないことだ。




 あの朝、キャンプ場に駆けつけた緊急車両は殺人鬼から逃げ(おお)せた被害者のおかげだという。後から来て駐車場で殺されたキャンパーたちの仲間なのだろう。

 その人も大怪我を負ったものの徐々に回復しているらしい。


 ――それが幸か不幸かはともかく、お互い助かってよかった、と考えよう。


 前向きにならねばとアマンダは思った。

 前置きを話し終えたマーチンの聴取が始まった。

 聴取は彼が話す事件の内容をほぼ確認の意味で、『瞬き』で返答するだけのものだった。


 ――メアリーの事情聴取のおさらいみたいなものか。それはそうと、メアリーにはあの日以来会ってないな。


 殺人鬼を返り討ちにするだけのパワーがあったのだから、きっともう全快しているかもしれないと思った。



「お疲れでした」と、マーチンは資料のファイルを閉じ、眉間を揉んだ。


「しかし、この事件は不可解なことばかりだ。君たちが証言する廃納屋の殺人鬼の死体だが、我々が到着するちょっと前に殺したとメアリーは言っていたが、検視結果は死後五日ほど経ったものだった」


 ――不死身の正体は元から死体だったからってわけか。普通信じられないよね、こんなこと。


「さらにメアリーも――」


 ――メアリーも? 彼女が何?


 目を上げたアマンダの視線に気づいたマーチンが「あ、いや、その――」と狼狽えた。

 視線を逸らさずにいると観念したように彼が口を開く。


「その――実はメアリー自身も不可解の対象なんだ。到着した我々に何があったのか説明してくれていたが、君と一緒に救急搬送された病院、つまりここで君と同じく瀕死の重体と診断された。自力で動けるのが信じられないほど腹部の損傷は重いものだったらしい。

 確かに彼女は自ら動き聴取も受けていた。だが、徐々に本来の重体患者のようになり、治療の甲斐なく昨日死亡した」


 ――ええっ? メアリーが死んだ?


 目を大きく見開いたアマンダにマーチンが頷く。


「この病室に来る前、地下の安置所で遺体を確かめて来た――」


 ここで少し声量を落とし、


「研究のためきょうこの後、遺体を特別施設に搬送するらしい。これから先のことは警察の管轄外で、もう私もこれ以上知ることはできない。事件は謎のままだ。

 はあ――」


 彼は深いため息をついて腕組みをした。

 胸騒ぎがした。

 殺した死体のすべてをばらばらにしていた殺人鬼は不死身ではなく動く死体で、メアリーに首を切り落とされて動きを止めた。

 メアリーはうまく逃れて助かった。だが死亡した。結果殺人鬼に()られて唯一ばらばらにされなかった死体になった。


 ――これは何を意味しているの? 


 自問の答えが今にも出そうだが、わかりたくない。



 突然女性の甲高い悲鳴が聞こえ、廊下が騒然となった。悲鳴と怒号、断末魔かのような叫び声が次々聞こえ、ドクターやナース、患者たちが廊下を()けつ(まろ)びつ逃げ惑う姿が開け放しの入口から見えた。


「なんだ?」


 マーチンが立ち上がり、確認しようと廊下に顔を出す。そこへ患者衣を着た一人の若者が勢いよく飛び込んで来た。マーチンは病室の真ん中まで突き飛ばされたがよろけつつも踏ん張った。

 息も荒く若者は急いで扉を閉め、鍵をかけた。


「君っ、なにするんだっ、危ないだろっ」


 憤慨したマーチンが若者の背中に怒鳴るも、彼は「しぃっ」と言って窓のついた扉から離れ、マーチンを引っ張ってアマンダのベッドエリアへ隠れるようにしてカーテンを閉めた。


「君、ウォルターくんじゃないか」


 マーチンが声をかけると若者が顔を上げた。端正な顔立ちの左半分は引き攣れた傷痕が占めている。

 マーチンがアマンダに目配せしたので、ウォルターと呼ばれたこの若者が助かったもう一人の被害者だとわかった。


「刑事さん! ちょうどよかった。あいつだ。あいつがまた来たんだ」

「あいつ?」

「殺人鬼だよ」

「やつはもう死んだ。君にも聴取の時に説明したはずだ」


 廊下でひときわ大きい叫び声がすると、扉のすりガラスの窓が血飛沫で赤く染まった。

 カーテンの隙間からそれを見たアマンダはあの日の惨劇が再び起こっているのだと知り、震えが止まらなかった。


「どういうことだ。何が起こってる?」


 同じものを目にしたマーチンの問いに、


「だからあいつが蘇ったんだ。姿を変えて」


 あの恐怖を思い出したのか、ウォルターが身を縮めて震え出した。


「なにを――言ってるんだ?」


 マーチンの表情に戸惑いの色が浮かんだ。


「今度は女の姿だ。消火斧で人を叩き殺してばらばらにしてる。もうそこまで来ている」


 アマンダはぎゅっと目を閉じた。自問の答えが目前に迫っている。


 ――メアリー。


 扉ががたがたっと激しく音を立てた。無理矢理こじ開けようとしているかのようだ。

 マーチンが扉に近寄ろうとしたが、「だめだっ」とスーツの裾を引っ張ってウォルターが止めた。

 幾筋もの血が垂れるすりガラスの向こうに立つ人影が映った。


「あーまーんだぁぁぁぁ、ごご開ーげでぇぇぇぇ、いるのわがっでるんだがらぁぁぁぁ」


 詰まった排水管から聞こえてくるような声と激しいノックの音がした。

 マーチンが二人を守るように銃を構え、扉の前に立ちふさがる。


 ――そんなものじゃだめ。首を切り落とすか、身体をばらばらにしないと。


 今すぐそう教えたいが、伝える(すべ)も時間もない。扉を破られたらもうおしまいだ。

 その時、怒号と数発の銃声が聞こえた。

 ガラスに映る人影は一瞬バランスを崩してふらついたが、すぐ体勢を戻し、執拗に扉を開けようとする。

 だが、立て続けに何発もの銃声が響き、ついに人影が逃げた。


絶対(ぜっだい)まだ()るがらぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 呪詛を吐くようなくぐもった声が徐々に遠ざかっていく。

 銃を撃つ警察官たちの影が、その後を追うのが見えた。

 やがて、辺りはしんと静まり返り、聞こえてくるのはマーチンの荒い息とウォルターのすすり泣く声だけになった。


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