第8話
アシュリーの専属トレーナーはさっそくトレーニングメニューを用意した。トレーニングの基本的な流れは、週1回のトレーニング日にジェラルドが新しい課題をアシュリーに与え、それをアシュリーが毎日こなすというもの。基本のウォーキングに加え、ストレッチや簡単な運動が主な課題の内容だった。
「アシュリーちゃん、今週は階段での足踏み運動に挑戦してみようか。まずは朝昼晩10回ずつ頑張ってみよう」
ジェラルドは簡単に乗り越えられる課題を最初に用意する。流石のアシュリーも出来なければまずい内容のため、ちゃんと実行する。すると、10回だった回数が20回に増え、次は30回。徐々に回数が増え、一定の回数になると、それに加えてまた別の課題が与えられた。つまり、どんどんトレーニングの時間が増えていくのである。
今まで自堕落に過ごしていたアシュリーはだんだんとトレーニング日が来ることを恐れるようになったが、課題をクリアすると渡されるキャラメルが大変美味しいので、そのご褒美を支えに頑張った。
それに本当に出来なかった時は正直に伝えると、ジェラルドは何がきつかったのかをアシュリーから聞き出し、メニューを見直してくれるので、トレーニング自体を拒絶することはなかった。
食事の量を見直しつつ日々のトレーニングをこなす。
――――殿下。逆ハー。断罪。
いつものフレーズを心の中で呟く。時には声に出して決意を新たにし、鏡に映る自分にエールを送りながら日々を過ごした。
少しだけ、ほんの少しだけ、身体を動かすのが楽になってきたある日の朝食。執事から手紙を受け取ったフィルエンドがつまらなさそうな顔をしながらそれを読んでいたかと思うと、アシュリーに声をかけてきた。
「アシュリー、明日の夜は何か予定でも?」
「明日はジェラルド様とトレーニングする以外特にありませんが……」
今週の課題はランニング10分。最初はランニングだなんてできないと思ったが、継続して身体を動かすようになったからか、無事に終えられた。しかしながら、安堵はできない。これまでと同様時間が伸びて行くのは容易に推測できた。ため息が出そうになるものの、自分が決めたこと。明日も頑張らないと。……明日だけで終わらないが。
終わりが見えないトレーニングに思いを馳せた結果、無表情になってしまったアシュリーにフィルエンドは心配そうに眉を曇らせた。
「アシュリー、やはり辛いならジェラルドに言って中止を……」
「大丈夫です。お兄様はお気になさらないで」
フィルエンドの言葉を遠慮なく遮る。フィルエンドは寂しそうな顔をしながら小さな声で「やめたかったらいつでも言うんだよ」と言った。兄には早急に好みの体型の女性を見つけてもらわなければいけないようだ。
「それで、どうなされたのですか。お誘いでもあったのですか」
「ランドーガ家から夜会の誘いが届いたよ。早咲きの薔薇を愛でる会、だそうだ」
「お兄様、ランドーガ家とご縁があったのですね」
ランドーガ家は簡単に言ってしまえば新興勢力、成金だ。たまたま所有していた山から金銀を採掘することができると分かり、一気に社交界の世界へ。派手にお金を使うため、一部からは顰蹙を買っている。
「騎士時代に少しね。よければ行ってみないかい。僕はもう他のパーティーに出席すると連絡しているから参加できないけど、ジェラルドは参加すると思うよ」
「ジェラルド様もですか。でもお兄様が参加されないのなら、私も……」
ランドーガ家にはアシュリーと同い年の娘が一人いるが、テンプレートな成金の娘であった。ゲームにも出演しており、ゲーム開始直後に仲間二人と一緒になってヒロインを囲んで嫌みをぶつけている。女子生徒1、2、3のような形で出演を果たしていたが、助けに現れたアルフレッドに撃退される際、ランドーガ家の名前が登場するのだ。
序盤だけの活躍とはいえ、悪役っぷりならアシュリーよりランドーガ家令嬢の方が格上だ。そんな人がいるパーティーなんて行きたくない。それにジェラルドが自分を相手にすると思えなかった。
「ランドーガ家は食事に力を入れていて豪華だから楽しめると思うんだけどなぁ」
「食事は控えておりますから」
「アシュリー……」
気の毒そうに見るのをやめてほしい。
なんとかフィルエンドの誘いを断る。しかしながら、伏兵は意外なところに潜んでいた。
次の日、ジェラルドと一緒にトレーニングの一環として庭を散歩していた時だった。まだ咲いていない薔薇の前を通ると、ジェラルドが興味深げに薔薇を観察し始めた。
「アシュリーちゃんの家の薔薇はまだ咲いていないんだね」
「ええ、もう少し空気が冷えると咲き始めると庭師から聞いております。我が家の庭には、一般的な薔薇しか植えていませんので」
「薔薇にも色々あるんだね。アシュリーちゃん、詳しいね。勉強になったよ」
「庭師からの受け売りですから。でも、散歩をするようになって庭に意識を向けるようになりました。一度心が折れてからは庭師から話を聞くようになりました。こうなれたのも全て散歩がきっかけですし、ジェラルド様のおかげと言うべきかもしれませんね」
庭師との交流なんて、挨拶以上のことは一切なかった。こうやって使用人と会話をするきっかけが出来たのも散歩の良い影響かもしれない。
いつかジェラルドには色々なことを含めてお礼をしなければいけないとアシュリーは思った。
「あはは、それは違うと思うな。俺なんて散歩していても庭師から話を聞こうだなんて一切思わないよ。アシュリーちゃん自身の行動だよ。俺も見習わないと」
笑顔が眩しいだけでなく、相変わらず褒めるのが上手だ。この国の騎士がどこを目指しているのか全く見当がつかない。
一体どんな思考回路をしているのか。不思議に思いながらアシュリーは薔薇を観察するジェラルドを観察する。すると、ジェラルドは急にアシュリーへと顔を向けてきた。キャラメル色の瞳と視線が重なる。アシュリーはジェラルドを凝視していたことに気づかれてしまったのではないかと焦ったが、ジェラルドは特に何も思っていないようだ。人に見られることに慣れているのだろう。流石はイケメン。
「そういえば、アシュリーちゃんは今日の夜会に行くの?」
「ら、ランドーガ家の夜会のお話でしょうか」
焦りのため思わずどもってしまうが、ジェラルドは気にせずに大きく頷いた。
「そうそう! 薔薇を愛でる会という夜会だよ」
「ええ、招待を受けておりますが、遠慮しようかと……」
「ええっ、どうして!」
「兄はもう既に予定が入っていたようで参加しないのです。私一人で参加するのも心もとなくて」
アシュリーは基本夜会には参加したくなかった。美味しそうな食事には関心があるものの、ダンスや会話がメインになる夜会はアシュリーにとって苦行そのもの。よっぽどの理由がない限り参加はしない。
今、勢いのあるランドーガ家の料理には関心がある。しかしながら、今は痩せるために努力をしている最中。夜会に参加するメリットを一切感じられなかった。
「それなら俺と一緒に行こうよ」
「えっ」
アシュリーは思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。今、なんていった。
「一人で行こうと思っていたんだよ。よかったら、一緒にいかない?」
「私と、ですか」
どこかで聞き間違えているかもしれない。念には念をと思い、アシュリーは今一度確認をする。
いくら最近、身体を動かすのが少し楽になったからといって、劇的に体型が変わったわけではない。相変わらず、ぱっと見は横綱だ。横綱を誘う奇特な人がこの世に存在するとは思えなかった。
ジェラルドはそんなアシュリーの反応が面白かったのか、笑いながら「アシュリーちゃん以外にいないよ」と言った。
困惑したアシュリーは返事をどうするべきか悩んでいると、ジェラルドは左手を背にしながら、右手をアシュリーに差し出す。一体これはなにごとだ。思わずジェラルドの顔を見上げると、ウインクしながら茶目っ気のある笑みを浮かべていた。
「今夜は俺にエスコートさせてほしいな」
こんな誘われ方をして断れる方法があったら教えてほしいとアシュリーは心から思った。結局、アシュリーは夜会に参加することになった。