第5話
風にそよぐ前髪からのぞくキャラメル色の瞳が心配そうに揺れる。アシュリーは一瞬、時が止まるのを感じた。
「アシュリーちゃん、だよね? ちょっと近くのベンチまで行こうか。本当は抱きかかえたいんだけど、俺、まだまだ訓練が足りなくて……。肩を貸すことしかできなくて、ごめんね」
そう言いながら、アシュリーの手を自身の肩にかける。片方の手はアシュリーの手を、もう片方の手はアシュリーの腰を支えた。安心感を与えるこの力強さにアシュリーは身をゆだねることにした。
ふらふらになりながら隣の顔を盗み見る。端正な顔立ちと本人の持つ優しさと上品さが混ざり合い、温厚な魅力を放っている。――――兄の友人であるディアンガー侯爵子息ジェラルドであった。
お礼を言おうと思うものの、今使えるエネルギーは全て足を動かすことに捧げているため、何も言えないままベンチに到着してしまう。そのまま流されるように腰をかける。
アシュリーをベンチに座らせたジェラルドは侍女に何やら色々と聞いているみたいだ。アシュリーは詳しく聞きたかったが、脳がそれを拒否した。どうやら想像以上にエネルギー不足のようだ。
侍女から何か聞き出すことに成功したジェラルドは、突然燕尾服の内ポケットから茶色の紙袋を取り出した。その中から白い紙に包まれた四角い物体を見つけ、自身の手のひらに乗っける。器用にその白い紙をはがすと、ジェラルドの瞳と同じ色が見えてくる。キャラメルだ。
「とにかく、糖分を補給しないと。簡単なもので申し訳ないけど、よかったらどうぞ」
そう言ってジェラルドは自身の手のひらをアシュリーに向ける。それを遠慮せずに受け取ったアシュリーはそのまま口に運んだ。優しい甘さが口に広がる。ああ、求めていたものはこれだったのか。
キャラメルの甘さに癒されたアシュリーはようやく脳が動くようになった。そして自身の醜態を恥じた。
「あ、あのジェラルド様、申し訳ございません。お兄様のご友人であられるジェラルド様のお手を煩わせてしまうだなんて……」
「体調を悪くしたご婦人を助けるのは騎士として当然の務めだから気にしなくていいよ。それに謝られるよりかは、お礼を言われたいかな」
そう言って暢気にジェラルドは笑う。ジェラルドは騎士団に所属している正式な騎士だ。勤務外でもその精神を忘れないだなんて、なんて立派な人なのだろう。
「ありがとうございます。ジェラルド様。お陰で怪我をせずに済みました」
「そうそう、やっぱりお礼を言われる方が良いな。それにしても、本当に怪我がなくてよかったよ。君に怪我一つでもさせたら、お兄様が怖い」
怪我一つでフィルエンドが取り乱すことはないと思いつつも、アシュリーはとりあえず笑っておいた。
「アシュリーちゃん、そもそもどうしてあんな状況になったんだい」
「……ちょっと食事を控えていたのです」
気まずいので小さな声になってしまう。意味が分からないジェラルドは首をかしげた。
「これまたどうして」
「それは、その……。痩せようと思いまして」
「痩せる? 痩せようと思って食事をしなかったの!?」
眉が大袈裟に動き、目も大きく開く。そんなに驚かなくてもいいのにと思うほどの驚きっぷりにアシュリーは逆に驚いてしまう。勢いに押されつつもアシュリーは小さく頷き肯定した。
「アシュリーちゃん、ダメだよそれは!」
ジェラルドは勢いよく否定し、信じられないという顔でアシュリーを見つめてきた。先ほどからせっかくの顔が台無しなほどのオーバーリアクションが繰り広げられる。なんて元気な人なんだろう。
「いい? アシュリーちゃんはね、まだ15歳なんだよ。これから綺麗な女性に変貌するためには、しっかり食事をとることが大事。食べないだなんて、あり得ない」
「で、でも、食べていたら更に太ってしまいますわ」
「適切な量の食事ならそんな簡単に太らないよ。アシュリーちゃんは極端過ぎ。この前のパーティーの時、正直結構食べてるなぁとは思ったし、あれは適量を越えてる気がしたよ」
何でも一口で食べていたあのシーン、見られていただなんて。アシュリーはショックを受けると共に恥ずかしくなった。顔を思わず逸らしてしまう。
「……その時に、同じようなことを違う方からご指摘いただきました。それで次の日は朝を抜いてみたのですが、お昼に結局食べ過ぎてしまったので、今日は朝と昼を抜いてみたのです」
「……アシュリーちゃん。食事の回数を減らすんじゃなくて、食事の量を見直そうよ」
ド直球の正論だ。
「……その、食べ始めたら止められる自信がなくて」
ものぐさなアシュリーが選択できることは「する」か、「しない」かのどちらかだけ。中間は存在しないのだ。
自分で言っててアシュリーは情けなくなる。
「アシュリーちゃん、素敵な女性になるためにも我慢を覚えておくとこれから楽だよ。せっかくだから、この機会に頑張ってみようよ」
それに、とジェラルドは続けて語る。
「本気で痩せたいなら運動をしないと。アシュリーちゃん、運動はしてる?」
うっ、とアシュリーは顔を歪ませる。淑女としての気品を投げ捨て、全力で顔を歪ませる。
「……しておりません」
アシュリーは正直に告白した。
なんとなく分かってはいた。自分の運動量の少なさを。ちょっと歩くだけで息はあがるし、汗もなかなかの量。どう考えてもおかしい。普通とはかけ離れている。
夢で見た前世の自分は年相応に動き回れていた。ところが今はどうだ。同い年だというのに、同じ動きは無理だ。走るだけで大事件に違いない。
運動量が足りていないこと、それは明白。でも、動きたくない。運動は面倒だ。故に、アシュリーはずれまくりの過激な行動に出ていた。
「食事を見直すことはとっても良いことだと思うよ。でもね、運動も大事。忘れないでね」
「……はい、ありがとうございます」
真っ直ぐな言葉はそのままアシュリーに刺さる。目を背けていた運動。ついに直視しなければならないようだ。
殿下。逆ハー。断罪。
本気で目指すなら運動をしなければならない。アシュリーの決意が揺らぐ。別にこのままの体型で、アルフレッドに迷惑をかけず、穏やかな学園生活を送ってもいいのではないだろうか。
痩せたところで見たい表情が見れるか分からない。逆ハーだって無理かもしれない。断罪できるヒロインなのか、そもそもそれ自体が分からない。
アシュリーが考え込んでいると暢気な声が聞こえてくる。
「アシュリーちゃんならきっと上手くいくよ。大丈夫。応援してるからね」
大して話をしたこともないのに、痩せようとしていると伝えてから僅かしか経っていないのに。なんて軽い言葉なのだろう。それでも何故だか不思議と頑張ろうかなとアシュリーは思えた。お世辞でもなく、公爵令嬢だからというわけでもなく、アシュリー個人に直接語りかけてくれている気がした。
「あの、頑張ります」
気がついたら前向きな言葉が出ていた。
ジェラルドはようやく端正な顔をいかした爽やかな笑みを浮かべる。アシュリーもつられて笑った。