第30話
倒れたアシュリーがうっすらと意識を戻したのは、自身が誰かに運ばれている時だった。誰か、とは言いつつも、答えは分かっていた。こんな自分を支えてくれるのは、痩せる前も今も一人だけ。
揺れる身体から階段を上っていることが分かる。所謂お姫様抱っこで運ぶジェラルドのことが少し心配になる。程よく筋肉がついた腕は、アシュリーを難なく運んでいくが、重くはないだろうか。出会った頃と比べて痩せている自覚はあるが、それでも普通の女性よりはまだまだボリュームがある。
不安を覚えながらもジェラルドは迷うことなく進んでいく。階段を上りきったのか、揺れは落ち着いた。
そのままうとうとしていると、いつの間にかアシュリーは柔らかいベッドの上に寝かされていた。ジェラルドが誰かに指示を出している声が聞こえる。
横たわれたことで安堵したアシュリーの意識はまた遠のいていく。
――――気持ち切り替えて応援しなくちゃいけないのに。ほんと、俺ってまだまだ未熟だなぁ。
ジェラルドがぽつりと何か言ったような気がしたが、アシュリーの記憶には残らなかった。垂れた前髪を優しく直す手の感触を覚えながら、もう一度アシュリーは意識を手放した。
次にアシュリーが目覚めると、アシュリーの身体には温かな毛布が掛けられていた。毛布の手触りを感じながら、ゆっくりと起き上がる。少し落ち着いたようで、先程までとは違い頭はちゃんと回転していた。
部屋を見回し、自分が水色と白を基調とした美しいゲストルームにいることを理解する。植物の模様が施された壁が華やかさを演出していた。
ジェラルドはアシュリーのいるベッドから少し離れた一人用のソファに腰掛けていた。ベスト姿のままで、倒れる前に貸してくれたジャケットは、ソファの後ろにかけられていた。目の前には、茶色の液体が注がれた透明感のあるグラスが置いてあった。ウイスキーだろうか。
ジェラルドがお酒を飲むことに少し驚きながら、アシュリーは自分を運んでくれた人の顔を伺う。グラスに視線を注いだままで、どうやらまだこちらに気づいていないようだ。
と、思ったら、アシュリーの視線に気づいたのか、ゆっくりとこちらに視線を移した。ジェラルドはアシュリーを確認すると、栗色の髪をなびかせながら、すぐにアシュリーの方へと駆け寄ってくれた。
「アシュリーちゃん、気がついた? おはよう。顔色は……、大丈夫そうだね。よかった」
ほっとした表情を浮かべながら、ジェラルドは優しくアシュリーを労わる。近くにある水差しに手を伸ばしながら、ジェラルドは言葉を続けた。
「お水飲む? 水分補給したほうが良いと思うんだ」
「いただきたいです」
アシュリーの返事を聞くと、ジェラルドはすぐにコップに水を注いでくれた。ゆっくりと渡してくれたそのコップを両手で受け取り、さっそく一口いただく。何回かに分けて水を飲んでいくと、アシュリーの意識は次第にはっきりしていった。
そうだ、自分は劇の休憩中に倒れて……。慌てながらジェラルドに状況を確認する。
「げ、劇はどうなりましたか! 私ったら、大変失礼なことを……」
「そんな、気にしなくてもいいのに。劇は無事に終わったよ。アシュリーちゃんが俺の目の前で倒れたのは不幸中の幸いだったかな。騒ぎになら無いよう運ぶことが出来て良かった」
そう言うと、ジェラルドは微笑みながら、アシュリーが飲み終えたコップを回収する。
アシュリーは自身の失態を恥じ、手で顔を覆う。あまりにも情けなさ過ぎる。公爵令嬢に相応しくない失態だ。
「ジェラルド様には何から何まで、ご迷惑をおかけしたようで……。お手を煩わせてしまい申し訳ございません」
顔を上げジェラルドを見つめながら謝罪の言葉を口にすると、ジェラルドは少しつまらなさそうな顔をする。
「アシュリーちゃん、俺が聞きたい言葉、知ってるよね」
「あの……ありがとうございます」
「うん、どういたしまして」
ばつの悪そうな顔をしながらのお礼に、ジェラルドは満面の笑みを返してくれた。
「なんだか懐かしくなっちゃった。アシュリーちゃんと出会った時のこと。あの頃は、肩を貸すことしかできなかったのにね」
「あの時もジェラルド様の近くで倒れて……。それで助けていただきましたね」
あの時のことをアシュリーは今でも鮮明に思い出せた。優しくて、騎士道精神のある人で、動作が少し大げさで、キャラメルを分けてくれて……。そして、アシュリーの取り組みを初めて応援してくれた。どれも昨日のことのように思い出せてしまう。それぐらいアシュリーにとっては印象深い出来事だった。
――――アシュリーちゃんならきっと上手くいくよ。大丈夫。応援してるからね。
出会ってすぐだったにも関わらず、ジェラルドの言葉はアシュリーに深く響いた。当時は、アシュリー個人に直接語りかけてくれているからだとぼんやり思っていたが、今なら断言できる。ジェラルドはいつだって、アシュリーのことをしっかり見て、考えて、言葉を選び、行動に出してくれている。真摯なジェラルドだからこそ、アシュリーの胸に残ったのだ。
「私ったら、いつもジェラルド様に助けられてばかりで……。本当は今日、ジェラルド様のお役に立てるようにと気合を入れたのですが、でも、結果はこの通りで、空回りです」
気持ちはあるのに、どうも上手くいかない。苦笑いが思わず零れる。
「無理しなくていいのに。アシュリーちゃんは今のままで十分素敵だよ、本当に」
ジェラルドの言葉をアシュリーは困った顔をしながら受け止める。買いかぶり過ぎだ。今日のことを含め、まだまだ至らないところばかりなのに。
アシュリーは否定の言葉を口にしようとするも、ジェラルドの顔があまりにも真剣だったので、言葉を飲み込んでしまう。この言葉を否定すれば、同じようにジェラルドを否定するような気がした。
表情を和らげたジェラルドは、ゆっくりとアシュリーに語りかける。
「たぶん、気づいていないんだろうけど、俺はアシュリーちゃんに何度も助けられているんだよ。アシュリーちゃんが思っている以上にね。だから、何かお返しする必要があるとしたら、俺の方なんだ」
「そ、そうでしょうか……?」
自信をもって言える行動は聖剣の日の手袋しか思い当たらない。アシュリーは、流石にこの発言を受け止める気にはなれなかった。
「うん、そうだよ。そうなんだ」
ジェラルドはそう言うと、少し寂しそうに笑う。
あまりにもその表情が繊細だったので、アシュリーは思わず言葉を失うが、ジェラルドはいつの間にかいつもと変わらない笑みを浮かべていた。
「起きたばかりなのに、いっぱいお話しちゃったね。無理させちゃったかな。ごめんね」
「ジェラルド様との会話で元気になることはあっても、疲れることはありません! お話できてとても嬉しかったです」
「あはは、それならよかった。もう少し横になってても大丈夫だよ。今、フィルエンドを呼んでくるから」
ジェラルドはそう言いながら、アシュリーの背後にあるクッションを整える。言われた通り、アシュリーはベッドに身体を沈ませると、ジェラルドはキャラメル色の瞳を細めながら頭をなでた。
宣言通り、ジェラルドは部屋を出て行ってしまう。
クッションも毛布もあるというのに、ジェラルドがいなくなった部屋は、なんだか酷く寒く感じた。




