第20話
筋肉痛を呼んだ追いかけっこから数日後、お昼を食べ終えたアシュリーは廊下を一人で歩いていた。オリエンテーションまでに痩せることばかり考えていたが、オリエンテーション後は学園での生活が始まる。いい加減、勉強にも力を入れないと、公爵家の令嬢に相応しくない醜態を晒すことになってしまう。それは避けたいアシュリーは、この後自主的に勉強をしようと考えながら、屋敷内の図書室へと向かう。
そんなアシュリーを後ろからフィルエンドが呼ぶ。振り返ると、そこには綿の手袋を持つフィルエンドが笑顔で立っていた。フィルエンドはアシュリーのところまで来ると、持っている手袋をアシュリーの手に乗せた。
「これ、ジェラルドが使っている手袋。そのまま持っていけば、スムーズに買い物ができると思うよ」
「お兄様、これは一体どうやって……」
受け取った手袋を凝視する。どんな手を使って入手したのだろうか。フィルエンドに視線を向けると、口元に人差し指を持ってきて、「秘密」としか言わなかった。気になるものの、フィルエンドからは全く答える気配を感じない。仕方が無いので、アシュリーは手袋を受け取ることにした。
正攻法で入手したのか、それとも怪しい方法で入手したのか分からない手袋をいつまでも持ちたくないアシュリーは、すぐに買い物へ出かけることにした。勉強をしようにも、手袋が気になって集中できないのは目に見えている。
カリスタは急な外出に嫌な顔をせず、むしろ嬉しそうに準備を始めた。あっという間に仕度は終わり、アシュリーはフィルエンドから教えてもらった店へと早速向かった。
店に入ると感じの良い男性の店員がアシュリーを出迎えてくれた。フィルエンドが事前に言ってくれていたのか、スムーズに進行していく。
この流れで商品の選択もすぐに終わればよかったのだが、身内とアルフレッド以外へのプレゼントが初めてのアシュリーは、悩みに悩んだ。革の種類に、色合い。どれなら長く使ってもらえるのか。考えれば考えるほど、アシュリーは混乱した。もはやプレゼントをすること自体が間違っているのではないか、などという根底を覆す発想に至っていたところ、店員が声をかけてくれた。押し付けがましくないアドバイスは、とても参考になり、彷徨っていたアシュリーの道しるべになった。
結局、耐久性のある革に決め、後日家に届けてもらうことになった。聖剣の日需要で忙しいところ、フィルエンドの口添えのおかげで、早めに仕上げて家に届けてくれるそうだ。あとでフィルエンドにお礼を言おう。そう思いながら、アシュリーは店を後にした。
わざわざ外出してきたので、ついでに百貨店にも寄る。そろそろ新作が入荷していても良いはずだった。アシュリーは他のフロアに寄り道せず、香水専門店へと向かう。
クラリッサはいつもと変わらず優美に微笑んで出迎えてくれた、かと思いきや、いきなり慌て始めた。いつもなら、すぐに奥の部屋へと案内してくれるというのに。彼女らしからぬ動きに、アシュリーは首を傾げる。
「クラリッサ、どうしたの?」
「あ、アシュリーお嬢様! いえ、何でもございません!」
どう考えても何かあるとしか思えない。が、本人が否定するのだから、それ以上聞いてはいけないように思えたので、アシュリーは用件をとりあえず告げることにした。
「そ、そうなの……。あの、今日はこの間お話に上がった新作を――――」
「新作はまだ入荷しておりません! 今後も未定です!」
最後まで言い切る前に、クラリッサが前のめり気味に入荷状況を伝えてくれた。しかしながら、どうもおかしい。クラリッサの背後に陳列されている商品は、今まで見たことの無いデザインで、新作のような気が……。
「あっ、あの、あなたの後ろにあるのって新作じゃ――――」
「違います」
「で、でも……」
「違います」
否定するたびに笑みが濃くなっていく。
有無を言わさずに否定してくるクラリッサを不審に思いながら見つめていると、彼女は深呼吸を一つし、いつもと同じ優美な表情に戻った。
「アシュリーお嬢様、本日はお越しいただいたにも関わらず大変申し訳ございませんが、私からアシュリーお嬢様にご提案できる新作はございません」
「そ、そうなのね。よく分からないけれど、あなたがそう言うのなら、きっとそうなのね」
アシュリーは無理矢理理解することにした。
アシュリーの返事に満足したクラリッサは、頷くと小さな声で呟いた。
「……アシュリーお嬢様が羨ましいわ」
ばっちり聞こえてしまったアシュリーは、その意図をクラリッサに聞いてみるものの、笑みを深くするだけで、答えてはくれなかった。
クラリッサにまた日を改めて訪問する旨を告げると、嬉しそうにお待ちしておりますと返してくれた。嫌われたわけでも、入店拒否リストに入ったわけでもなさそうなので安心したものの、気になるアシュリーはカリスタに先ほどのやりとりについて意見を聞いてみた。カリスタも唖然としながら「全く分かりません」と返し、二人の間に沈黙が降りた。
怒涛の展開に疲れたアシュリーは、お茶でも飲んで休憩することにした。どこで休憩しようかと彷徨っていると、以前アプロに怒られたお店が目に入った。今はお茶の時間帯らしく、過ごすにはちょうどよさそうだ。
店内に入ると、店員が愛想よく出迎えてくれた。
「ようこそ。2名様ですか」
「はい、そうです」
カリスタがアシュリーの代わりに返事をしてくれた。
「今、期間限定でテラスを開放しておりまして、よろしければそちらのお席はいかがでしょうか。ストーブを置いていますので、この季節でもテラスの開放感をお楽しみいただけます」
前回は奥の席に問答無用で案内されたが、今回は違うようだ。
「……お嬢様、いかがいたしましょう?」
「是非、テラスでお茶を楽しみたいわっ!」
憧れていたテラス席に思わず声が弾んでしまう。カリスタと店員はそんなアシュリーに、思わず頬を緩めた。
コートを預け、案内された席へと座る。テラス席は、この季節でも暖かく過ごせるように工夫されていたため、コート無しでも快適であった。眺めも良く、通行人の顔も良く見えた。何人かの通行人は、こちらに視線を向けており、アシュリーは自分も見られていることに気がついた。公爵令嬢だと知られているわけではないが、きちんとしたい。思わず、背筋が伸びる。
甘いものは頼まず、紅茶だけをいただく。カリスタもアシュリーと同じように紅茶だけ頼んだ。
「カリスタ、私に遠慮しなくてもいいのよ」
「いえ、お嬢様とお茶の席を共にできるだけで光栄ですから……!」
「ありがとう、カリスタ。でも、以前、私が断食紛いなことをした時、カリスタには本当に迷惑をかけたわね。気を使って、違う場所で食事を済ませてもらっちゃって……」
思い出すだけで申し訳なさでいっぱいになる。自分が周りを見ることができる人間であれば、カリスタはあのような形で食事に行かなくて済んだはずだ。
「お、お嬢様、気づかれていたのですか」
「その、パンのかけらが口の周りについてたから……」
「そう、でしたか。その、あの時はお嬢様が頑張っているにも関わらず、失礼いたしました」
カリスタは気づかれていないと思っていたようで、しょげていた。
「違うわ! 私がいけないのよ。私がもっと皆のことを考えていれば、カリスタだってあんな苦労をしなくて済んだんだもの。私、もう大切な人に迷惑をかけたくないわ。だから、遠慮しないで欲しいの」
「お嬢様……!」
アシュリーの気持ちが伝わったのか、沈んでいた表情は見る見る明るくなっていく。カリスタはゆっくりと、気持ちをこめてアシュリーに答えた。
「私、遠慮なんてしておりません。本当に大丈夫なんです。お気遣いありがとうございます。今は、お嬢様のお傍にいられるのが、とても嬉しくて、それだけで十分なんです。ですから、お嬢様、これからもお傍にいてもよろしいですか?」
「カリスタ……。ええっ、もちろんよ! よろしくね」
カリスタと主従を越えた絆を感じ、アシュリーは満面の笑みを浮かべた。カリスタもつられて笑う。今まで、傍にいてくれたカリスタ。ただの主従関係だったのに、あの夢を見てから、良い意味で友人のような関係になった。なんて幸せなのだろう。
心を許せる存在が近くにいる喜びを感じながら、飲む紅茶は格別だった。




