お嬢様学校のヒーロー用務員
少女が見上げた空は、黒煙に満ちていた。
逃げ惑う人々の叫び。激しく行き交う車。誰もが、この一瞬を懸命に生きている。戦っている。
これは死者が絶えない戦争でも、人類の終末でもない。単なる、デパートで起きた火災だ。
確かにただならぬ事態ではあるが……車への引火、誘爆が連発して大火災に発展した――という程度が違うに過ぎない。あくまで人類に降りかかる災厄としては、単なる「火事」だ。
だが、その程度でも人は死ぬ。焼かれるより先に煙に巻かれ。煙から逃れようと、窓から飛び降りて。
少女の目の前に頭から落ち、弾けるように頭部を失った犠牲者も、そんな内の一人だ。
幼気な少女はそんな惨劇に震えながらも生きることだけは捨てまいと、ひた走る。だが、彼女の頭上にも「悲劇」は迫っていた。
設計の想定から外れた衝撃、即ち爆発を受け、変形した天井に亀裂が走ったのだ。やっとの思いで愛娘を見つけた両親は、眼前に迫る娘の「死」に絶叫する。
その声は、まるで宣告のようであった。直後に天井が崩れ、少女の全身をその影で覆い尽くす。黒煙でも火でもない「何か」に視界を埋められ、少女の思考は停止した。
しかし。少女の思考は、再び動き出した。そこに待っていたのは永遠の眠りではなく。
知らない顔の、男性。
だが、その男性の白い服に、少女は見覚えがあった。
(消防士、さん……!)
その時。少女の身体が、自らの意思に寄らない力に突き動かされた。
少女を庇い、その背で天井の崩落を受けた男性は、血だるまになりながら、それでも。小さな背を押し、両親の元へと送り届けたのだった。
「……もう、大丈夫だ」
それが。少女が聞いた、最初で最後の男性の声。消防士、鳶口纏衛の最期だった。
◇
その消防士の葬儀は事態の終息後、彼の仲間達の間でひっそりと行われた。両親も妻も既に亡くしていた彼の遺族は、一人息子だけであり、この少年もまた、父だけが拠り所だった。
ただ一人の肉親であり、家族であった父を喪った息子は誰からも距離を置き、葬儀場の端で膝を抱えていた。
あの火災で纏衛に命を救われた少女――佐々波真里の一家が、喪に服してその場に現れた時。幼い少女の瞳に、少年の後ろ姿が映された。
(わたしが……わたしが、なくしたんだ。あの子の、たいせつな人を。たいせつな、全てを……)
幼心に、少女は自らの罪を悟り、幼心にその痛みに胸を痛める。小さな胸元を握る手は、その苦痛に耐えようとするかのように震えていた。
両親が涙ながらに、纏衛の骸に賛辞を送る中。真里の瞳は、自分自身の罪の象徴とも云うべき少年の背を、貫いていた。
そして。
(あの子は……)
全てを喪った少年も、また。葬儀を終え、去り行く少女を見つめていた。
「幸人君。少し、いいかな」
「……はい」
ふと、少年の前に壮年の男性が現れる。黒スーツの上からもわかる、筋肉質な体躯の持ち主である彼を、少年はよく知っていた。父の親友である科学者、才羽誠之助である。
父は生前から、彼が開発する強化服のテストに協力していた。完成すれば、より多くの人命を救えるようになる、と。
そんな彼が、真摯な眼差しで自分を見下ろしている。彼の目を見つめる少年はすでに。彼の用件を、概ね察していた。
「……ねえ、パパ。ママ」
「どうしたんだ、真里」
その頃。葬儀場を去り、帰路についていた真里は。車の後部座席から喪服の消防士達を見つめながら、呟く。
運転していた父は娘を労わるように、優しく声を掛けた。この一件で傷心した愛娘への、気遣いが感じられる。
そんな父に。少女は一拍置いて、己が使命を語った。
「わたしね……お医者さまに、なる。お医者さまになって……どんなケガをした人も、みんな治してあげるの。誰も……誰も泣かないように」
「真里ちゃん……」
「……わかった。思うままに、やってみなさい」
「……うん」
幼くも力強く、そう宣言する娘に助手席の母が心配げに見つめる。だが父は、強い目標を抱いた娘の背中を押すことに決め、娘の決断を支持するのだった。
◇
――それから、七年。
二◯三五年の四月に高校生となり、上流階級の子女しか通えない、と言われる「聖フロリアヌス女学院」へ特別成績優秀枠で入学を果たした彼女は。
「見て、あの子よ! 庶民の子なのに、特別成績優秀枠で入学を許されたっていう……!」
「綺麗ね……庶民の家の子だなんて、信じられない……」
他の入学生から羨望を集めるアイドル的存在となっていた。
上流階級で英才教育を受けてきた令嬢ですら、一握りの天才でなければ辿り着けないという特別成績優秀枠。それに一般家庭の少女が合格したという事実が、彼女に注目が集まる所以なのだ。
生徒だけでなく教員達の間でも、佐々波真里の名は有名であった。それほどまでの偉業を、彼女は齢十五にして成し遂げたのである。
春風に靡く、艶やかなセミロングの黒髪。雪のように白く、瑞々しい柔肌。薄い桜色の唇。少女という歳でありながら、「大人」への成長を感じさせる、均整の取れたプロポーション。
そのスタイルの良さと美貌も、彼女が注目を集める理由の一つだった。彼女と共にこの超お嬢様学校への入学を果たした同級生達は、自分達より(相対的に見て)遥かに貧しい家柄でありながら、努力を重ねて特別枠を勝ち取った彼女に深い尊敬と好意を寄せていた。
しかし。
「ちっ……先生方も他の下級生達も……どいつもこいつも、あの小娘の話ばっかり。何よあんなの、ただちょっとそこらの庶民より頭がいいだけの芋女じゃない」
「だいたい、あんな田舎娘がこの聖フロリアヌス女学院に入学できる今の制度がおかしいのよ。この女学院は由緒正しき子女しか入れないはずよ! それを、いくら成績が飛び抜けて優秀だからって!」
「そうよ……! 学園長も何をお考えなのかしら! より優れた者を上流階級として取り立てるなんて……下々が付け上がるだけなのに!」
真里を含む新入生達を遠巻きに睨む上級生達はその殆どが、強烈な嫉妬心を滾らせていた。
元々、聖フロリアヌス女学院は家柄が裕福な名家でしか入れない。だが、家柄にあぐらをかいて学業を疎かにする学生への戒めとして、近年から一般家庭からの受験を受け付けるようになっていた。
「名家に恥じぬ努力をせねば、一般庶民に出し抜かれるぞ」という、一種の脅しとして。
だが、今年に入るまではその難易度と門の狭さから、一般家庭からの合格者は一人も出ていなかった。それが余計に在学生達を増長させていたのだが。
「佐々波真里……! あの思い上がり娘めっ……!」
「許せないわ、この私達を差し押いて特別成績優秀枠だなんて……!」
初の一般家庭からの合格者である上に、ただ一人の特別成績優秀枠。
その衝撃的なデビューに、誰もが注目を注ぐようになってしまった。
彼女の存在は、単に「庶民のくせにこの女学院に通うことが許せない」という者達だけでは収まらず。特別成績優秀枠を狙えた才女でありながら、「自分達を差し押いて特別成績優秀枠という頂点を庶民に取られた」という者達からも疎まれる結果となっていた。
「なによあの小娘、涼しい顔なんかして……! ちょっと栄えある先輩としてお灸を据えてっ……」
「何をしていらっしゃるの? あなた方」
「……っ!? 琴海様!?」
そんな彼女達の一人が、真里に物申すべく一歩踏み出した時。澄んだ声が彼女達に響き渡り上級生達の視線が、その声の主に集まった。
その人物、文村琴海は、日本人離れした亜麻色の長髪を靡かせ、豊満な胸に乗る金色のペンダントを揺らし、自身の取り巻きの一人である二年生を睨む。三年生の生徒会長という絶対の存在に見つめられ、二年生は緊張のあまり膝を震わせた。
「感心しませんわね。名家の淑女ともあろう者が、嫉妬を露わに陰口など」
「しかし……! あのような下賤な庶民がこの女学院を闊歩するなど、私達には耐え難い苦痛で……!」
「耐え難いのなら簡単なこと。この女学院を去ればよいのです。あなた方が真に彼女に勝る存在であるならば、学校側が引き留めるかも知れませんが」
「……っ!」
白い氷原を彷彿させる白い肌と、豊満に飛び出した胸や臀部を持ち、切れ目の艶やかな瞳を煌めかせる、氷雪の女神を彷彿させる妖艶な美女。
そんな絶対的な美貌の前に、二年生である吾野美夕は反論すら許されないほどに圧倒され、同時に、魅了されてしまった。
「……失礼しました」
「よろしい。素直なあなたが、わたくしは好きですわ」
そんな彼女を見つめる琴海の眼差しが、ふっと柔らかくなる。その変化に翻弄されながら、美夕は情熱的な瞳で琴海の美貌を見遣った。
美夕の琴海に対する敬意は崇拝の域にも達しており、彼女が微笑を浮かべるだけで、美夕は一瞬ながら真里への敵意すら忘れかけてしまう。
「では、わたくしも生徒会長として一言挨拶に伺おうかしら」
「なっ……!」
だが、次に飛び出した琴海の発言で我に帰されてしまった。目の前の状況を脳が把握し「琴海様があのような下々に」といきり立つより早く、彼女は悠然とした足取りで真里の方へと歩んで行ってしまう。
暫し呆然と、その後ろ姿を見送っていた彼女は、やがて煮え滾る憎しみの視線を、何も知らない真里に叩きつけた。
「あいつが、あいつがッ……!」
◇
「しっかし、やっぱウチに来たんだなぁ真里。いや、お前が落ちるだなんて思っちゃいなかったんだけどさ。まさか特別成績優秀枠なんてモンに食い込むたぁな」
「えへへ、ありがとう。でも、恵がいてくれてよかった……。誰も知り合いがいなかったら、不安だったんだ」
「そうかい? アタシとしちゃあ、一般の高校が良かったんだけどなぁ。『軟弱な庶民の学校に通うなど許さん! それでも玄蕃家の娘か!』って親父がうるさくってよ」
「あはは……」
風が桜を運ぶ校庭の中で、真里は隣を歩く少女と親しげに言葉を交わす。
焦げ茶色のシャギーショートをふわりと揺らす、長身の美少女――玄蕃恵は、色白のしなやかな肢体の持ち主。切れ目の鋭い目つきからは、お嬢様らしからぬ強気な雰囲気が漂っている。
さらにそのスレンダーな体型に反して、出自は日本武道の頂点と謳われる玄蕃家の娘であり、彼女自身も空手の世界選手権で活躍するほどの達人である。
だが、それほどの名家の生まれでありながら。
恵は幼い頃から、東京の街に飛び出しては一般家庭の子供達と遊ぶ変わり者でもあった。東京の住宅地で生まれ育った真里とは、その頃からの幼馴染である。
「悪口のつもりじゃないんだけど……やっぱり恵って、お嬢様って感じじゃないよね」
「アタシに限った話じゃねぇさ。姉貴も家飛び出して女子アナやってるし。玄蕃家にまともなお嬢様なんざいねぇよ」
「あはは、そんなこと……あれ?」
「あん? どした真里」
その時。真里の視界に、カーキ色の作業着に袖を通し芝刈りや箒がけに勤しむ男達の姿が入り込んできた。
「こういうお嬢様学校にも、男の用務員さんっているんだ。がっちがちの男子禁制って聞いてたけど……」
「ん? まぁ、女子の用務員が嫌がるような野外の汗くせえ仕事もやってくれるしな。人件費も安いし、例外なんだよ。ただまぁ、庶民の男っつー理由で生徒達からは白い目で見られてるし、役得って感じはねーんじゃねぇか? ま、アタシは庶民も男もカンケーないけどさ」
「ふぅん……よし」
この女学院にも男子用務員がいると知り、同時にここの性質ゆえに肩身の狭い思いをしている、ということも聞いた彼女は僅かな逡巡を経て、ぱたぱたと走り出す。
そんな彼女の行動パターンを読んでいた恵は、「仕方ないな」と溜息混じりに笑いながらゆっくり後を追った。
「用務員さん。いつも校舎を綺麗にしてくださり、ありがとうございます」
「……」
無表情で掃き掃除をしていた、白マフラーを巻いている用務員の一人に、真里は恭しく笑顔でお礼を口にする。声を掛けられた用務員は、一瞬驚いたように目を見開きながらも、すぐさま応じるように頭を下げた。
「いえ、仕事ですから。こちらこそ、私達のような下々に目をかけて下さり、感謝の言葉もありません」
「えっ……や、やだ、わたし一般家庭の出なんです! お嬢様じゃないんです!」
「存じております。ですが、この女学院の生徒様であることには変わりありません」
「で、でも……」
お嬢様学校に通っているのであって、お嬢様というわけではない。その後ろめたさから、真里は眼前の用務員が深々と頭を下げていることに順応できずにいた。
(……あれ?)
そんな中。彼女はふと、用務員の人相に気を取られてしまう。
切り揃えられた艶やかな黒髪。切れ目であり、冷たさを感じつつも端正に整った目鼻立ち。仏頂面でありながら、どこか美しさすら覚える顔の造形は、美少年と呼ぶに値するものだった。深く作業帽を被っているせいで、ほとんど隠れてしまっているが。
だが、彼女が気にしていたのは用務員らしからぬ美男子であることではない。彼の顔に、既視感を覚えたからだ。
「あ、あの……」
「はい」
「……どこかで、お会いしたこと、ありますか?」
今一つ自信なさげだが、気になって仕方がなかった。その好奇心ゆえか、彼女はおずおずと用務員に問い掛ける。
だが、彼は何も答えない。ただじっと、真里と視線を交わしていた。
やがてそこへ、歩いて追ってきた恵が合流するが。
「初めまして、佐々波真里さん。聖フロリアヌス女学院へようこそ」
「あっ……! あ、文村琴海生徒会長!? は、初めまして! 佐々波真里です!」
「あら、すでにわたくしをご存知でしたの。光栄ですわ佐々波さん」
それより一足早く。生徒会長の文村琴海が挨拶のために姿を現したのだった。
予期せぬ生徒会長との遭遇に、真里は緊張で固まりながらもなんとか言葉を絞り出す。そんな彼女に聖母のような微笑を送り、琴海は真里を歓迎する旨を伝えた。
周囲は今話題の新入生と、憧れの生徒会長とのツーショットを前に、大きくどよめいている。彼女達のフィルターには、二人の周囲に咲き乱れる百合の花が映っていた。無論、用務員達は林と同化している。
「中流階級からの初の合格者。それも特別成績優秀枠という泊も付いているあなたには、生徒会長として大変期待しておりますのよ。本校の模範としての、華々しい活躍を楽しみにしておりますわ」
「お、恐れ多いです模範なんて! わたしは、ただ医者になりたくて……」
「そうですわ。あなたのお話を伺った時から、そこが気掛かりでしたの。ただ医者になるだけなら、一般の高校からでも目指せるはず。なぜわざわざ、この女学院へ?」
「それは……」
そんな琴海の質問に、真里は僅かに言い淀む。聞いてはならないことだったか、と当たりをつけた琴海は話題を変えようと口を開くが、それより早く。
真里は意を決したように、声を絞る。
「……ただの医者じゃない。どんな怪我も治せる、最高の名医になりたいんです。普通の学校じゃ目指せない、医師の高みへ」
「……なるほど。並々ならぬ決意を感じますわ。そこまで自分を駆り立てる『何か』が、あなたにはありますのね」
「はい。……七年前、わたしを命懸けで火災から助けてくださった消防士様が、ひどい怪我を負って……亡くなられました。たった一人の、御子息を残して」
そこから語られた、佐々波真里がこの女学院まで登りつめたルーツ。近くでその一節を聞いた用務員の眉が、ぴくりと動く。
「あの時、医療技術がもっと進んでいれば……あの人を、鳶口纏衛様を助けられたら。あの子は、独りぼっちになんてならなかった。だから、わたしが医療界を進化させるんです。もう絶対、あんな思いをする子を出さないために」
「……そうだったのですか。わかりました。その願い、必ずや叶えなさい。その子と、あなた自身のために」
「はい!」
真里の真摯な瞳を前に、琴海も思うところがあったのか。差し出された彼女の手を、真里はしっかりと握り締める。
そんな友情が芽生えた瞬間を、恵や周囲は暖かく見守っていた。
「あの、会長。わたしも、一つお伺いしたいことがあるのですけど」
「あら、何かしら」
そんな時。真里からの質問に小首を傾げた琴海は、彼女が指差す方へ視線を移す。
その先には。
白いマフラーを首に巻き、頑強なプロテクターで身を固めたヒーローの像が飾られていた。
「……あの像、もしかして『ドラッヘンインパルサー』ですか?」
「そのっっっ通りっ! よくぞ触れてくださいましたわっ!」
「ひぃ!?」
刹那。琴海は豹変したように目を光らせ、先ほどまでの気品に溢れた佇まいからは想像もつかないテンションを見せた。
人格が変わったかのような叫び声を至近距離で聞かされ、真里は怯えたように短い悲鳴を上げる。一方、恵や周囲は「また始まった」と目を伏せていた。
「昨年の十二月に初めて姿を現して以降! 今日に至るまでの半年間に渡り! 東京やこの女学院の近辺で活躍している謎のヒーロー! 消防庁と協力してあらゆる火災現場に颯爽と駆け付け、多くの人命を助けては風のように去ってゆく! 人命救助用パワードスーツの最大手『救芽井エレクトロニクス』の新製品と噂されつつも、その正体は誰も知らない! そんな謎だらけのヒーローの名こそ! ドラッヘンインパルサー様なのですわ〜っ!」
「え、えっと……」
長々と、最近東京でも話題になっている謎のヒーロー「ドラッヘンインパルサー」の概要を熱弁する琴海。自分がテレビや新聞でしか知らない存在に、ここまで熱を上げる生徒会長の姿に、真里は困惑を隠せない。
そんな彼女をフォローすべく、恵がそっと耳打ちする。
「……この人はな。去年の十二月に起きた火災でドラッヘンインパルサーに助けられて以来、ずっとコレなんだ。あの銅像も、今年に入って会長権限で作らせたのさ。なんでも会長室には、あれのソフビ人形が山ほど飾られてるって話だぜ」
「そ、そうなんだ」
「しかもニュースによると最近、この辺でよく出没してるって話だから、もしかしたら生でまた会えるかもって息巻いてんのさ。滑稽に見えるだろうが、堪忍してやってくれ」
「あぁ……ドラッヘンインパルサー様……あなた様の勇姿の前では、わたくしの美貌など砂上の楼閣……。あなた様の堅牢な腕でもう一度抱かれてしまわれたら、わたくしはもう骨抜きに……ハッ」
琴海はその間も、恍惚とした表情でドラッヘンインパルサーの像を見つめていたが。
やがて新入生の前だということを思い出したのか、我に返ったように背筋を正した。そしてコホンと咳払いをしたのち、頬を赤らめながら凛々しい顔つきを作り出す。
「ま、まぁその、アレですわ。勉学も結構ですけれど、花の女子高生ですもの。恋の一つでも経験されてはいかがでしょう? きっとあなたをより成長させてくれますわ」
「あはは……そうですね」
そんな生徒会長が可愛らしく見えたのか。すっかり緊張がほぐれてしまった真里は、華やかな笑みを浮かべるのだった。
自分をジッと見据える、用務員の視線には気づかずに。
(……アイツ……)
だが。恵は、気づいていた。真里を見つめる用務員の眼に、普通とは違う「何か」を武道家の勘から感じたのだ。
そうして恵が、鋭い眼差しを用務員に送っていた頃。
「ねぇ、あなた達。佐々波真里と同じクラスでしょ?」
「は、はい……そう、ですけど」
「悪いけど。折り入って、頼みがあるのよ」
吾野美夕は、真里のクラスメート達に声をかけていた。そのえもいわれぬ凄みに、幼気な少女達はなす術もなく身を震わせる。「頼み」という言葉ではあるが、その語気には明らかな「強制力」があった。
そんな気迫に耐えられるほど、この女学院に集まる箱入り娘は精強ではない。「頼み」という名の「命令」に、従う他なかった。
反発する気配のない少女達をじろりと一瞥したのち。
美夕は、歪に口角を吊り上げた。
「敷地の端の旧校舎は知ってるわよね? ――あそこの最上階に、薪を用意してちょうだい」
◇
それから一ヶ月。ゴールデンウイークが終わり、季節が夏に向かい動き始める頃。
聖フロリアヌス女学院の高度な授業にも難無く適応し、そればかりか勉学に苦心するクラスメートを積極的に助けて行く真里の人望は、入学当初より高いものとなっていた。
現在では勉強を教わりたいと他クラスから訪問者が来るほどの人気者となり、当初は彼女を妬んでいた一部の生徒達も、徐々に彼女を認める傾向を見せている。
(恋の一つでも、か……)
ある一人の、二年生を除いて。
(……あ。才羽君、花壇の水やりしてくれてる。後でお礼言いに行こっと……)
そんな先輩がいるとは、露も知らない真里は。休み時間中、ふと窓際から校庭を見下ろし、白マフラーの用務員の姿を見つけていた。
相変わらずの仏頂面だが……その顔つきには似合わないほどに、丁寧に草花を扱う彼の様子を、真里は華やかな笑顔で見守っていた。
(あ、くしゃみしてる……かわいい)
「まーた才羽のこと見てんなお前」
「ふひゃあ!?」
その時。不意に至近距離から、前の席の恵に声をかけられ、真里は仰天するあまり可笑しな声を上げてしまう。その珍妙な悲鳴に注目する周囲に、彼女はひどく赤面した。
「……も、もう。なによ恵、いきなり」
「そっちこそなんだよ。入学式の日からずっと、暇さえあれば才羽のヤツのこと見てんじゃんお前。確かに用務員にしちゃあ珍しいイケメンだが、お前が惚れるほどのモンか?」
「ほ、惚れっ……そんなんじゃないってば!」
「そうかい。んじゃ、なんなんだ?」
「そ、それは……」
恵が言う通り、真里は入学式の日に出会って以来ずっと、ふとした時にあの仏頂面の用務員を見つめるようになっていた。
用務員の名は、才羽幸人。
十六歳……つまり真里達と同い年であり、昼は女学院で働き、夜に定時制学校に通っているという。
普段から無表情の仏頂面で、同い年の真里や恵に対しても敬語を崩さない。しかし女学院を彩る花々への手入れは丹精が込められた仕事ぶりであり、花を好む真里には非常に好印象だった。
『ねぇ、才羽君。トゥルシーの栽培とか出来ないかな?』
『トゥルシー……医学的効能のあるハーブの一種ですね。基本的に日本の土壌では一年草ですが、近年ではこちらの土壌に合わせた品種も開発されているとか。生徒の希望として、上に掛けあってみましょう』
『やったぁ、ありがとう!』
『いえ、これも仕事ですから』
そんな彼女は時間を見つけては彼に話し掛け、花の話題を咲かせており、彼の方も無表情ながら、真里の話にはいつも付き合っている。女学院の学生と男の用務員、という圧倒的な身分差がなければ、その様子は恋人同士のようにも窺えた。
実際。真里が、いつも花を大切に扱う彼に好意を持っていることは明らかだった。だが、幸人の方はまるでそんな兆候を見せない。
恵としては互いが好き合っているなら、身分差なんて気にせず付き合えばいい、というスタンスだが、大切な幼馴染がここまでアプローチしているのに眉一つ動かさない幸人の態度については、どうにも気に食わないのだ。
それだけに、幸人を気に掛ける真里に問い質しているのである。あの男のどこがいいのか、と。
「……なんて、言うのかな。うまく言えないけど……ぽかぽかするの。才羽君を見てると」
「はぁ? あいつ作業着に湯たんぽでも仕込んでやがるのか」
「も、もぉ違うよ。……中学の頃から今まで、わたしの近くに来る男の子って、みんな欲塗れっていうか下心っていうか……何か、イヤな感じの人ばかりだったんだ」
「……まぁ、お前のルックスで悪い男が寄らねぇはずがねぇしな。実際、悪い虫を近づけたくなかったから、親父さんもお前をここに通わせたんだろ?」
「うん……。でも、才羽君には、そういうイヤな感じが全然しないの。ちっとも女の子として見られてないってことかもだけど……それでも、安心して隣にいられる男の人って、才羽君が初めてなんだ」
「へぇ、『才羽君が初めて』かァ」
「ちょ、ちょっと恵! 変なとこ抽出しないでったら!」
恵のからかいに、真里はぼっと顔を赤くする。そんな幼馴染の様子を見遣りながら、彼女は無機質な表情で花壇の世話をしている幸人を見下ろす。
(……ちっ、いけすかねぇ顔つきでアタシの親友を振り回しやがって。ここは幼馴染として女の端くれとして、アタシがガツンと言ってやらなきゃな)
そして忌々しげに、その顔つきを睨むのだった。
◇
「つまり。私の煮え切らない態度が、佐々波様を困惑させている……と」
「そうだ! あんたは結局、真里とどうなりたいんだ? 付き合いたいならさっさと付き合え! その気がねぇならさっさと友達宣言しろ! ぬか喜びさせて真里を泣かせやがったら、このアタシがただじゃ置かねぇ!」
その日の放課後。真里がいないタイミングを見計らい校舎の外れにある花壇へ呼び出した恵は、彼を正座させていた。彼らのすぐ後ろでは生徒達が自宅や部活に向かっている。
幸人は全身から殺気を放つ恵の眼光を前に、眉一つ動かすことなく真摯な眼差しを送っている。多少腕に覚えのある武道家でも戦意を失い、並の男なら失禁するほどの威圧を真っ向から浴びせられて、なおも。
彼は視線を外すことなく、恵を瞳で射抜いていた。
(……こんだけ肝が据わってる、ってこたァ……アタシが怖くて正座してるわけでもねぇんだな。あくまで生徒様の指示だから付き合ってるだけってか)
凄もうが脅そうが、幸人は顔色一つ変わらない仏頂面のまま。微かな震えも怯えも見えない。
日本武道の頂点に長らく君臨している父親ですら構えさせるほどの自分の気迫を浴びておいて、ここまで無反応を貫かれた経験は、恵も「初めて」だった。
(なんっ、だよコイツ涼しい顔しやがって! 腹立つ〜っ!)
まるで真里への煽りが自分に跳ね返ってきたようだった。その羞恥心から来る怒りが、恵の頬を赤く染める。
一方、幸人は何もしない内から怒り出した恵の様子に小首をかしげるのだった。
「……玄蕃様。もしやお身体の具合が悪いのでは」
「う、うるせぇ許可なく立つな! ……だいたい! お前のその『何言われてもどこ吹く風』って感じの態度が気に入らねぇんだ! 真里は辛いことがあったって前を向いて笑ってんのに、お前ときたら何もかもどうでもよさそーな顔しやがって!」
「返す言葉もありません」
「いや返せよそこは! アタシの気迫を浴びて平気なくらいの大物のクセして、なんでそんなに卑屈……」
幸人の心配を他所に、さらにいきり立つ恵。そんな彼女がさらに声を荒げた瞬間。
何かに気づいたように、彼女は説教を中断した。
そのまま振り返った先には、純白のテニスウェア姿の真里がいた。遠巻きに見つめているだけでも魅了されてしまいそうな、可憐な佇まいの彼女は、同じ部活の仲間達に笑顔で手を振りながら駆け寄っている。
真里の姿を遠目に見たことで、バツの悪さを感じたのだろう。恵は気まずそうに視線を逸らし、舌打ちする。
「……佐々波様、部活にも入られたのですね」
「医者やるにも体力は必要だから、ってな。聞いた話じゃ、一年なのにもうレギュラーの座は固いそうだ。何やらせても天才だなあいつ」
「ええ、全くその通りです」
「……お前、只者じゃねぇくせに嫌に卑屈だな。そういう実力以上に自分を下に見る奴には、安心して親友は任せねぇぞ」
「あなた方に比べれば私は凡人です」
「だからそういうところがアタシは気に食わなッ……!?」
またしても。彼女は、最後まで言い終えることが出来なかった。
幸人の肩越しに、信じ難い光景が現れたのだ。
屋上から、何かが落ちている。
あれは、植木鉢だ。
落ちる先は、
真里の、頭上。
「……真里ぃぃぃいいぃいっ!」
そこまで思考が追い付いた瞬間、恵は弾かれたように走り出していた。その叫びから僅かな間を置いて、周囲に悲鳴が広がる。
「えっ!?」
誰もが自分に注目し、叫んでいる。突然起きたその出来事に、真里は事態を飲み込めず、何が何だかわからないまま、ふと頭上を見上げた。
そして、理由に気づいた。
気づいたが、もはや目と鼻の先。
かわすことも防ぐことも、間に合わない。
「くそォォォッ!」
なんで、こんなことに。一体誰が、こんなことを。そんな当たり前の疑念すら、頭から吹き飛んでいた。
もう少し近くにいたら。幸人の説教なんてしていなければ。ひた走る彼女の脳裏は、一瞬にして後悔の色に飲み込まれた。
もう、間に合わない。
その時だった。
「え――」
誰もが。本人までもが。真里と頭上の植木鉢に注目していた時。それ以外のものになど、見向きもしていなかった瞬間。
間違いなく先に走り出していた自分を風のように抜き去り、疾走する幸人の背中が見えた。
上着を脱いでいた彼は、体にメタリックレッドに塗装された鋼鉄製の袈裟ベルトを巻いている。その物体と風に靡く白マフラーが、ある存在を連想させた。
その光景に、恵の頭脳が追いつく前に。
幸人は袈裟ベルトのバックル部分のカバーを開き、その中に、懐から引き抜いた漆黒のカードキーを装填する。
「――接触」
彼の声と共に。バックルのカバーが、閉じられた。
『Armour Contact!!』
その電子音声が響いた、次の瞬間。
幸人の顔と全身を、真紅の仮面とヒーロースーツが覆い隠した。
さらにその関節各部が、黒と黄色のプロテクターに固められて行く。
その自動装着が完了し、首に巻かれた白マフラーがふわりと揺れた時。
『Awaken!! Firefighter!!』
最後の電子音声と共に、ヒーローと化した幸人が地を蹴った。この瞬間は、彼の後ろにいた恵しか見ていない。
人間の域を逸脱した跳躍力が、すぐさま彼の体を紙切れのように吹き飛ばして行く。向かう先は、植木鉢。
だが、彼は植木鉢を破壊して颯爽と登場、という派手なアクションは見せなかった。
あくまで壊さないように。真里の頭上を走り幅跳びのように飛び越した彼は、そのまま両手で優しく包むように、植木鉢をさらっていた。
「……っぁ……」
やがて、幸人は、ドラッヘンインパルサーは、マフラーを揺らしてふわりと着地する。その後ろ姿を見つめ、真里は声にならない叫びを上げる。
そして真里の無事とドラッヘンインパルサーの登場に、ギャラリーの脳が追い付いたのは数秒後のことだった。
「きゃ、きゃあぁああ! ドッドド、ドラッヘンインパルサーよ!」
「な、なんでこんなところに!?」
「……だ、誰か会長を呼びなさい! きっと大喜びだわ!」
瞬く間に周囲を黄色い悲鳴が席巻する。幸人は無言のまま、ゆっくりと植木鉢を花壇のそばへ置き、素早く跳び上がってこの場から消え去ってしまった。
僅か一瞬、去り際に。恵と真里を、交互に見遣って。
「……う、そ」
理解が追いつかない。いや、追い付いたとして、受け入れられるだろうか。
呆然と立ち尽くして、恵はそう思案する。
「ドラッヘンインパルサー様〜!? キャ〜ッ、生インパルサー様よ〜ッ!」
知らせを聞いた残念な会長が、あちこち駆け回っているようだが、それを気にする暇もないほどの、衝撃だった。
才羽幸人が、ドラッヘンインパルサーだった。なぜ、彼なのか。なぜ、ここで用務員などやっているのか。
疑問は尽きず、彼が姿を消した方向へと視線を移しながら、ようやく彼女は歩き始めた。……見なかったことにはできない、と。
◇
「……なんだったんだよ、アレ」
「アレ、とは何でしょうか」
夕暮れ時になっても、幸人は休まず庭の整備を続けていた。そんな彼の背後に立つ恵の影が、夕日を受けて大きく伸びる。
あの後。
役員のビンタを受けて正気を取り戻した琴海は、生徒の頭上に植木鉢を落とし危害を加えようとした犯人を突き止めるべく捜査を開始。さらに緊急の全校集会で、被害者側である一年生に注意喚起を呼び掛けた。
自分が狙われていた、と知った真里はかなりのショックを受けたものの、学業を遅らせるわけには行かない、と琴海から勧められた自宅待機を拒否。生徒会に見守られながら、明日からも登校し続けることになった。
それほどの騒動の渦中にいた身でありながら、相変わらず素っ気ない幸人の態度に腹を立てつつ、それでもなお、恵は怒気を抑えて口を開く。
「とぼけんな。……お前がこそこそ用務員のフリして、ヒーローやってる理由。アタシが納得出来るよう説明しな」
「……」
「それとも企業秘密ってやつか? どのみち、こうして生徒に知られちまった以上は時間の問題じゃねーのか」
幸人の正面に回り込む恵は、強い眼差しで真っ向から彼を見上げる。体格では劣るものの、その姿勢から放たれる気迫は、少女の体躯からは掛け離れた大きさだった。
「もう日が沈みます。早くお帰りになられた方が……」
「アタシはな。あんたに、ちゃんと礼が言いたいんだ。あの誰の仕業がわからねぇ嫌がらせ……いや、『殺人未遂』から、真里を守ってくれたあんたに」
「……」
「そのためにも、ちゃんと知りたい。あんたに後ろ暗いところなんかない、真っ当なヒーローだってことを証明して欲しいんだよ」
もしかしたら真里を助けたのも演技か何かで、本当は悪い奴なのではないか。普段無口なのも、腹黒い本音を隠すためではないか。
全貌が不透明であるがゆえに生じる、不信感。それを取り払い、親友を救ってくれた恩人として誠意を込めて謝礼したい。それが、恵の意思だった。
得体の知れない振る舞いのために、親友の恩人を疑うようなことはしたくない。そんな彼女の心情を鑑み、幸人は暫し黙したまま彼女を見つめる。
「大切にされているのですね。佐々波様を」
「な、なんだよ。当たり前だろ」
「わかりました。佐々波様を大切にされている玄蕃様ならば、お話すべきなのかも知れません」
「……? なんだよそれ。お前がヒーローやってること、真里が関係してんのか?」
「私の役職との関係はありません。私の、個人的な問題です」
そしてようやく、恵は真相に近づく一歩を踏み出せたのだが。その言葉か意味するものを、この時はまだ察することは出来なかった。
◇
翌日。
授業を終えた恵は、真里に「送りたいのは山々だが、今日は大事な用事がある」と言い残して早々に教室を飛び出し、早退の準備をしていた幸人と合流する。
すでに周りの話題は昨日の一件で持ちきりであり、この近くにインパルサーが住んでいる、という噂も立つようになっていた。
「この分じゃ、あんたに当たりをつけられるのも時間の問題だな。……にしても、あの植木鉢落としたクソ野郎はどいつだぁ? ぜってぇ探し出してブチのめしてやる」
「玄蕃様。この女学院に、校舎内に立ち入れる男子用務員はおりません。教員も全て女性です。クソ野郎という形容詞は不適切であるかと」
「言葉の綾だ馬鹿野郎、いちいち訂正すんな!」
相変わらずの仏頂面と口調に、恵は苛立ちを募らせつつも隣を歩く。作業着のまま校門を出る彼と、絢爛な制服に身を包む恵の組み合わせは酷く不釣り合いだ。
「……あー、後で真里への言い訳考えとかなくちゃなぁ。コイツと一緒に下校したせいで、変な噂が立ちそうだ」
「確かに、一介の用務員と生徒様が必要以上に親しげにしていては、怪しまれるかも知れませんね」
「アタシが気にしてんのはそこじゃねー。……ったく、よくこんな鈍い奴に惚れたもんだ」
親友の男の趣味は、よくわからない。恵はそんな心境を渋い表情で顕しつつ、幸人の後を追う。
(……にしても、あのインパルサーがうちの女学院で用務員やってたなんて、な。あの会長が知ったら卒倒もんだ)
やがて二人は、女学院からやや離れた住宅街の一軒家に辿り着いた。そこで足を止めた幸人の横顔を見遣り、恵はここにドラッヘンインパルサーの秘密があるのだと確信する。
(さぁ、才羽。あんたがどういう奴なのか、今日こそ白黒付けてやろうじゃんか)
自分のことを何一つ明かさない、胡散臭さの塊。その靄を切り払い、本当に真里を守ってくれたヒーローだということを自分に証明するべく。
車庫のシャッターを開ける幸人の後を追い、恵はその敷地に一歩ずつ踏み出して行った。
「これって……」
そんな彼女の視界に飛び込んできたのは――スポーツカーを思わせる形状の、赤塗りの車体。その背部には、放水ポンプや梯子が折り畳まれて積載されていた。
バンパーの部分には、「SCARLET RANGER」と刻まれている。恐らく、この消防車の名前だ。
まさか、いきなり小型の消防車と対面することになるとは思わず、恵は暫し呆然とその車体を見つめていた。
そんな彼女をよそに、幸人は作業着の上着を脱いでTシャツ一枚になると、その胸に取り付けていた真紅の袈裟ベルトを外し、車庫の端に置かれたテーブルに乗せる。ゴトリ、という重量感に溢れた音が、その重みを物語っていた。
その時。
「おや、お帰り幸人。思いの外、早かったね」
白衣を纏う中年の男性が、別室と繋がる扉からぬうっと顔を出してくる。
「ああ。仕事の一区切りが予想より早くってさ。オレも、今帰ったとこ」
「……!」
そんな怪しさ全開の中年男性と言葉を交わす幸人の姿は、一ヶ月に渡る日々の中で恵が抱き続けてきた「才羽幸人」の印象を瓦解させるものだった。表情こそ普段通り仏頂面だが、その口調はかなり砕けている。
自分や真里の前では欠片も見せてこなかった、素の言葉遣いを見せる彼の佇まいに、恵は思わず目を剥いた。
「そうか。……その御令嬢が例の?」
「ああ、そうだ。……玄蕃様。こちらは私の育ての親であり、ドラッヘンインパルサーのスーツを開発された才羽誠之助博士です」
だが、学校を一歩出れば……というわけではないらしい。彼は恵と向き合った途端に元の口調に戻ると、淡々とした口調で中年男性を紹介する。
あからさまにお姫様扱いを受けている感覚に、恵は顔をしかめる。さっきのような振る舞いを普段から垣間見せていれば、真里も好きな男に、もっと気兼ねなく近づいて行くことが出来たろうに、と。
「ご紹介に預かりました、救芽井エレクトロニクス研究開発班所属の才羽誠之助です。玄蕃恵様、うちの幸人が大変お世話になっているようで」
「……いいよそういうの。アタシは才羽の話を聞きに来たんだから」
不機嫌を滲ませた表情で、恵はじとりと幸人を見遣る。そんな彼女を一瞥する幸人は、恵のそばにスッと椅子を用意した。
長話になるから座れ、ということか。そう察した恵はドカッと乱暴に腰を下ろし、しなやかな白い足を組む。
「誠之助さん。よろしいですね」
「ああ。しかし、引退間近にバレた相手が選りに選って『彼女』の親友とはな」
「……?」
確認を取るように視線を移す幸人に対する、誠之助の言葉に、恵は引っかかるものを感じた。
引退間近、という話も十分気になるが。それ以上に、二人の間にある微妙な距離感が気掛かりだった。
苗字から、二人が親子であることは容易に推察出来る。開発者の息子であるならば、ドラッヘンインパルサーをやっていた理由も想像がつくというもの。
だが、彼らの間には親子と呼ぶには遠い溝を感じる。
無論親しい間柄であることは間違いないが「親子」にしては、何処か「遠い」のだ。
それは父の誠之助を名前で呼ぶ幸人の接し方のせいだろうか。
(いや、待て。確か才羽の奴、才羽博士のことは「育ての親」って言ってなかったか?)
そう当たりをつけた恵は、ふと幸人の言葉を思い出し、核心に至る。実の親子でないのなら、あの距離感も納得がいく。
なら、幸人の両親は……? そんな恵の疑問を氷解させる言葉が、幸人自身の口から飛び出してきた。
「まず何から話すべきか……。そう、ですね。まず私は、才羽誠之助の実の息子ではありません。才羽という姓は、彼の養子となる際に頂いたものです」
「……!」
「私の本名は、鳶口幸人。七年前の火災事故で殉職した消防士、鳶口纏衛の息子です」
「な……!」
◇
鳶口纏衛。その名を、恵はよく知っている。幼少期からの付き合いである真里を、かつて命懸けで救い出し、亡くなった消防士の名だ。
真里の家には、生前の彼を移した消防団の集合写真が飾られている。それは初めて彼女の家に遊びに来た日から、今までずっと変わっていない。
家族揃い、事故の日には当時の犠牲者だけでなく彼個人にまで祈りを捧げる習慣となっており、彼女の父が娘の男関係に厳しいのも、纏衛の殉職が原因だった。
彼が死を賭して守り抜いた命を、父として何としても幸せに導かなくてはならない。大恩人である纏衛に深い尊敬の念を抱く真里の父は、彼への敬意をさらなる娘への愛情へと昇華させていた。
その愛情ゆえ、娘を男の影から遠ざける目的で女子校へ通わせるつもりだった彼としては、聖フロリアヌス女学院への入学の話は天啓だったのだろう。
真里の幼馴染である恵も、その事情には精通している。養子の話に先約がなかったら、佐々波一家が纏衛の息子を引き取るつもりだった、ということも聞き及んでいた。
その纏衛の息子が、ヒーローとなって父と同様に娘を守ってくれたのだと知ったら、真里の父は何を思うのだろう。そんなことを思案しながら、恵は目線で話の続きを促した。
「……七年前の事故のあと。私は博士の養子となり、父に代わってインパルサーのテスト要員となるべく、訓練を受けました」
「他にも救芽井エレクトロニクスから派遣された候補者はいたが、最終的な審査の結果、テストは彼に任せることになった。元の鞘に収まった、と言うべきかも知れませんな」
それに応えるように、言葉を紡ぐ幸人。そんな彼の説明を、脇の誠之助が補足する。
恵はそこでようやく、真里が幼い日に別れた少年が辿った道の険しさを、知るに至った。
「確かに、インパルサーに選ばれるための訓練は熾烈でした。……が、私は父の遺志を継ぐつもりで、資格を勝ち取った」
「そっ……か。じゃあ、あんたはお父さんの分まで、みんなを助けるために……!」
「――いえ、違います」
「えっ?」
そして、父の想いを受け継ぎ、自分達を守るヒーローになったのだと恵は確信し、見直すように頬を緩ませる。やはり希望していた通り、彼には腹黒いところなどなかったのだ、と。
だが。それは幸人本人の口から、否定されてしまった。これで迷うことなく昨日の件で礼を言える、と喜ぶ恵を曇らせて。
「少なくとも、インパルサーになるまでは。私は、そのつもりでいました。父に代わり、人々を危難から救う立派なヒーローになる――と」
「だ、だったら」
「そうして資格を得るに至った時。……感じたのは、虚無感でした」
「……!?」
掌で小型消防車を撫でながら、そう語る幸人は、恵と目を合わさない。背を向けて言葉だけを紡ぐその姿は、恵にはどこか弱々しく映る。
「その時になって、ようやくわかりました。……私は……オレは。本当にヒーローになりたかったわけじゃない。人を助けたい、なんて純粋な気持ちがあったわけでもない。ただしゃにむにインパルサーの道に打ち込むことで、父さんを亡くした気持ちを、悲しみを。埋めようとしていたに過ぎなかったのだと」
「……私も、薄々は勘付いてはいましたが。なにぶん、才能だけは突出しておりましたからな。他の候補者より有用なデータが取れる人材であるなら、動機を問う意味もありません」
「私自身も、そこまで自分が矮小な人間だったとは気付きませんでした。泣いてばかりの弱い自分と決別する。そんな覚悟を決めた『つもり』で、名前まで変えたのに」
「そん、なの……」
椅子から立ち上がり、何かを言おうとしても、かける言葉が見つからない。そんなしみったれた理由でしか戦えないなんて、間違ってる。そう言いたくても、彼らにとってはそれに縋る他なかったのだから。
「……それからの半年は、戦う理由を探しながら義務感だけで走り回る毎日でした。どんな動機であれ、本当に心から人々を助けたい、と願った候補者達を蹴落としてインパルサーになった以上、勝手に投げ出すわけにも行きませんから」
「……」
初めて人々の前に姿を現した日から、ずっと。みんなのヒーローは、ドラッヘンインパルサーは。
人命救助への情熱などとは無縁な、機械的な義務感だけで戦っていた。あれほどインパルサーを尊敬していた琴海も、「義務だから仕方なく」拾った命でしかない。
言外に、そう言い放たれたように感じた恵は、視線を落として逡巡する。聞きたくはないが、聞かなくてはならない。
「真里も……真里も、あんたにとっちゃ、どうでもよかったのか? あんなに走って助けた命も……あんたからすれば、義務だから仕方なく拾ったものでしか、なかったのか?」
真里や琴海には劣る、小ぶりな胸の前で服を握る。不安に瞳を揺らして、それでも真実を求めて。
振り返り、そんな彼女を見据える幸人の眼は。
「それは、違います」
「……!」
はっきりと、それを否定した。
◇
半年前にようやく完成したインパルサーのスーツは、手探りの研究から生まれた試作品だった。その半ば偶然の産物であるスーツを基に、より完璧な完成品を造るためのデータを集める必要があったのだ。
そのための実戦データを集めるテスト要員になったのは、本来それに選ばれるはずだった鳶口纏衛の息子。
しかし彼はただ能力が高いだけで、本質的にはヒーローへの意欲はないに等しかった。それでも他者を排して資格者になった以上、約半年に渡るテスト期間を満了し、その責任を果たす義務がある。
才羽幸人が、そうして無気力なままヒーローとなってしまい、半年近くの月日を経た三月頃。テスト装着員としての任期満了が、二ヶ月に迫る時期。
聖フロリアヌス女学院の学園長から、ある依頼が舞い込んできた。用務員として女学院に潜伏し、生徒達の治安を守って欲しい、と。
一般家庭の出身である佐々波真里の入学は、この時点で確定しており、自分達のアイデンティティを脅かす新入生の到来に、当時の在学生達はすでに殺気立っていた。そのため、真里が何らかの危害を加えられる可能性が当時から見え隠れしていたのだ。
しかし、具体的な行動を起こされているわけではない以上、女学院側も迂闊には介入できない案件であり、「何か」が起きてからでしか対処できない以上、「何が起きても」大丈夫な人材を配置しておく必要があったのである。
そこで学園長が白羽の矢を立てたのが、当時世間の注目を集めていた噂のヒーロー・ドラッヘンインパルサーだった。
依頼の内容を聞きつけた幸人は、一も二もなく承諾し、カーキ色の作業服に袖を通すことになったのである。
それは無気力で、常に受け身でしか任務を引き受けてこなかった彼が初めて、積極的に動いた案件でもあった。
理由は無論、依頼内容に登場した「佐々波真里」の名前である。
あの日、父が命と引き換えに救い出した少女が。今も、無事に生きている。
それは父の殉職が無意味でなかったという何よりの証であり、消えていたはずの火を灯すきっかけになったのだ。
そうして彼が聖フロリアヌス女学院に勤務する用務員となり、一ヶ月。
四月の入学式の日。ついに幸人は、あの日の少女と再会し。彼女が自分を覚えていないことに安堵した。
覚えているのが自分だけなら、彼女に気を遣わせずに済む。そう思い、勘付かれる前に踵を返し、何も知らない、関係のない用務員として振る舞おう。
そう、しようとした時だった。
生徒会長と言葉を交わした彼女は、自分が女学院に来た目的を、幸人がいる前で口にした。
あの日の男の子が、いる前で。
その瞬間。
幸人は、しばし茫然と彼女を見つめ。
涙を悟られまいと。仕事に打ち込む様を装い、顔を背けた。
生きていてくれたばかりか。自分のために、この女学院に辿り着いたと言い切ってしまった彼女が。
空虚な理由でヒーローになった少年には、ただひたすらに眩しかった。
その日から、初めて。幸人は。
「誰かのために戦いたい」という、ヒーローなら持って然るべき気持ちを、知るに至ったのである。
ドラッヘンインパルサーのテスト要員の、任期満了。その瞬間を目前に控えた今になって、ようやく彼は。
ヒーローとして、戦う意義を見出したのだ。
「……オレは、彼女を。守りたい。それが、からっぽのオレに残された、たった一つの……」
その想いを、記憶を辿るように語る幸人。そんな彼がふと、話に聞き入る恵の顔を見た瞬間。我に返ったように咳払いし、再び背を向けてしまった。
いつものような余裕がなく、どこか子供っぽい彼の様子に、恵は微笑ましげな表情になる。
「……失礼しました。多分に私情を挟んだ話をしてしまったようです」
「いいよ。その私情を聞きたくて、ここまで来たんだからさ」
全ての枷が外れたような思いに、恵は頬を緩ませる。少なくとも真里は、本当に大切に思われていたことは間違いない。あの瞬間、彼女は純粋な想いから守られていた。
それが、恵にはただただ嬉しかった。才羽幸人は、ドラッヘンインパルサーは。悪人なんかではないのだと。
「散々隠してきたことは、謝罪せねばなりません。来週には任期満了となる身ですが……本来なら、それまでインパルサーとしての個人情報は公表できない規約ですから」
「心配すんな。お前の任期が終わった先も、アタシはベラベラ喋らねぇ。口の硬さには、自信がある」
「ご厚意に、感謝致します」
「感謝しなきゃならないのは、アタシの方さ。……よかったよ。ちゃんと、話聞けて。それで、才羽はこれからどうすんだよ? この先もずっと、任期を終えても真里には何も話さないままなのか?」
「そのつもりです。私が鳶口纏衛の息子と知れば、今までのような気安い話もできなくなるでしょう。知らないほうがいいこともあります」
「……そっか」
「尤も、それは私個人の感覚に基づく判断でしかありません。私より遥かに彼女を理解しておられるであろうあなたが、話すべきであると断じるのであれば……」
「……そうかもね。でも、それは当分先に延ばした方がいいと思う。女学院に馴染む前にそんなこと知ったら、さすがにショックで学校辞めちまうかも知れねぇからな」
恵は親友の、繊細で優しい心をよく知っている。昨日の件で恐ろしい目に遭っても、「ちゃんとやった人と話し合えれば、解決できるかも知れない」と彼女は言っていた。親友でなければ気づけない程度に、肩を震わせながら。
そんな彼女が、自分が好意を寄せる相手が「自分が人生を壊してしまった少年」であることや「何もかも知っていた上で隠されていた」こと、「親子共々、自分の危難に巻き込んでしまった」ことまで知れば、さすがに心を折られてしまう。
そんな悪手を、この男に打たせてはならない。僅かな時間でそこまで逡巡した恵は、自分達だけで秘密を共有することに決めるのだった。
その旨を、言葉にして伝えた時。
「わかりました。……やはり、あなたに話してよかった」
「……!」
幸人は、ふっと口元を緩め。穏やかな笑みで、そう口にした。
刹那。
恵は、頭を鈍器で……それもフルスイングで殴られたような衝撃を受け、思わず足を組んだ姿勢のまま、倒れそうによろけてしまった。
そんな様子を訝しむ幸人は、再び元通りの仏頂面に戻ってしまったのだが。恵は、あまりのことに突っ込む余力もない。
(さ、さい、ばが……)
幸人が、笑った。
ほんの一瞬だが、笑っていた。それは、仏頂面しか見たことのなかった恵には、強烈なショックを与える現象だった。
(え? なに? あいつ、あんな風に笑えるの? あ、あた、アタシに、笑った……の……?)
もしかしたら、真里ですら見たことがないのではないか。素顔すら知らない生徒会長では、一生縁がないかも知れない。それほどの希少な一瞬に、思わぬタイミングで直面してしまった。
単に顔がいいだけで、何考えてるか見当つかない上、優しい親友を振り回すいけ好かない仏頂面男。それが、昨日までの自分の中の「才羽幸人」だったはず。
それなのに。そんな男が、ふと笑顔を向けただけで、心臓が爆発させられたような衝撃を受けてしまった。体が、顔が、熱い。焦げる。溶ける。思考が、はっきりしない。
これは、まずい。
好きに、なってしまう。
「ア、アタ、アタタタ!」
「……?」
「アタシ、アタタタシ! そろそろ帰らないと親父がうるさいし、おいとまするわ! ま、また明日な!」
「そうでしたか。長く付き合わせてしまい、返す言葉もありません。今車を用意しますので……」
「いやいい! ちょっと夜風に当たりたいから!」
「畏まりました。では私が送りますから……」
「いや無理! 今あんたと二人きりで夜歩いたらアタシの心臓が死ぬ!」
「では博士を呼びますので……」
「それこそ無理! あんな胡散臭いオッサンとなんか死んでも無理!」
あるはずのない、あってはならない考え。そこへ至ってしまった恵は熱暴走のあまり、お茶を出そうと席を外していた誠之助まで罵倒し、嵐のように走り去ってしまった。
あらゆる対応を跳ね除け、突然顔を真っ赤にして逃げ出してしまった恵。自分が対応を誤ってしまったのかと頭を悩ませた幸人は、誠之助が戻ってきても、暫し反応が出来ずにいた。
「おや、幸人。玄蕃様はもうお帰りか?」
「……オレが何をしたって言うんだ……?」
◇
茹で蛸のように赤い顔のまま、夜道を歩く恵は思案する。明日、どうやって顔を合わせよう、と。
(いやありえねぇ! だって才羽だぞ!? あのいけ好かねぇ仏頂面だぞ!? 真里の気持ちも弄んで……!)
あの一瞬。言い訳の余地すら許さないほどはっきりと、自分の中で芽生えてしまった感情。それを否定するため、恵は懸命に心にもない言葉で幸人を罵倒する。
だが。心にもなくとも、心の中だけでも、口にできない言葉があった。
(……いや、違う。あいつは、弄んじゃいなかった。むしろ、真剣過ぎるくらいに真里のことを考えて……深く近づき過ぎないようにしてたんだ。素っ気なく振る舞って、興味がない振りをして。何も知らないまま真里が離れていくように……)
今日知った、才羽幸人の本当の姿。鳶口の名も捨て、半生をインパルサーの道に賭け。それすらも空虚なものとなり、戦う理由すら見つからない。
そんな、生きているかも死んでいるかもわからない人生の中で、全てのきっかけと再会した彼は、どれほどの想いで彼女を守ろうとしたのだろう。彼女のことを思えば、何一つ明かせない中で。
途方もない想像だけが、彼女の頭に渦巻いている。
(真里……)
気づけば、恵は携帯を手に親友を呼び出していた。全てを告げることは叶わないが、ほんの少しでも同じ気持ちを分かち合いたかったのかも知れない。
同じ男を好きになってしまった、女として。
『もしもし、恵? どうしたのこんな時間に。用事、終わったんだ?』
「……あぁ、まぁな。そっちは、あれから変わりねぇか?」
『うん。文村会長が、色々気を遣って下さってて……今日もテニス部が終わるまで、生徒会の役員さんが待っててくれてたの。家まで送り迎えしてくださるなんて、色々申し訳ないんだけどね』
すでに部活を終え、帰宅した後なのだろう。電話の向こう側では、真里の両親が団欒している様子が窺い知れる。
事件の話を聞いた直後の彼らは、かなり慌てた様子で娘を保護しようとしていたが――琴海の厳戒態勢を目の当たりにして、任せることに決めたらしい。
彼女がここぞというところで発揮するカリスマ性は、御父兄にも通じる威力のようだ。
……インパルサーさえ絡まなければ、さぞかし完全無欠な会長になっていただろう。
「無理もねえ。あんなことがあった後だ、それくらい気ぃ張ってても足りねぇくらいさ」
『そう、かな……。やっぱり、植木鉢の人とは話し合いで……無理なのかな』
「誰にでも優し過ぎるのは、お前らしいしいいとこだけどな。世の中、そんな優しさを汲んでくれる奴ばかりじゃない。まぁ、汲み過ぎて自分を削る奴にも困ったもんだがな」
『え?』
「あ、やっ……こ、こっちの話さ」
不意に幸人のことを口に出してしまい、疑問の声を漏らした真里に過剰反応してしまう。
親友の前で、親友の想い人のことを考えてしまった。あの笑顔を、想像してしまった。
その後ろめたさ……もとい背徳感が、余計に恵の「いけない想像」を刺激する。もはや恵の思考は煙が上がりかねないほどにヒートアップしていた。
その時。恵は、ふと芽生えた疑問を口にする。
「えと、なぁ、その……あんま辛気臭ぇ話すんのも……難だし、話変えるけどよ。お前、才羽が笑ったところ、見たことあるか?」
『え? ど、どうしたの急に』
「い、いいから」
今度は真里の声まで上擦っている。この間までは、恵はそんな彼女をからかう側だったはずだが……すっかり、彼女のことを笑えないところまで来てしまった。
『う、うーん……。実は、ないんだ。才羽君、かっこいいんだから笑ったら素敵だと思うんだけど……。でも、笑ってなくても優しい人なのは、普段から見てれば伝わる。いつかは、見られたらいいな』
「そ、そっか……そうかもな……」
『……? 恵、なんだか様子が変だよ? どうかした?』
「へっ!? いい、いやどうもしてねぇよ!?」
いつもなら、ここで「ふーん、普段から見てんのかぁ」とニヤニヤしてからかうところだ。しかし、今の恵にはそんな余裕は欠片もない。
さすがにおかしいと思った真里は、心配げに声を掛けるのだが……安心させようと奮闘する恵の声は、上擦る一方だ。
「さ、さて! あんま長話させても悪いし、そろそろ切るわ! また明日な!」
『え? あ、うん。また明日ね……?』
このままでは気持ちがバレるかも知れない。それだけは何としても回避せねばならない。ある意味、幸人の秘密よりトップシークレット。
そんな焦りに苛まれた恵は、荒い呼吸のまま電話を切ってしまった。何も知らない真里も、様子が明らかにおかしい恵を案じながら、言われるままに通話を終える。
「……ったくもぉ。何勝手に振り回されてんだアタシはぁ。これも全部あいつのっ……!」
最後に残された、燃え上がるような羞恥心。そこから繋がり、生まれ出る怒りを、八つ当たり気味に幸人へぶつけようとした時。恵は振り上げた拳を、糸が切れた人形のように下ろした。
ある一つのことを、思い出したからだ。
「……明日こそは、ちゃんと……お礼、言わないとな……」
◇
それから、次の日。五月も終わりが近づき、世間では徐々に夏の予感が囁かれる時期だ。
(……もうすぐ、才羽のインパルサーとしての任期が終わる。任期が終わったら、あいつがここに居座る理由も……)
そんな中。恵の意識は授業中であっても、昨日の事柄だけに支配されていた。どこか惚けた表情で、ペンを回す彼女の目は、ここではないどこかを映している。
来週には、幸人はインパルサーのテスト要員の任期を満了し、事実上ヒーローから引退する。インパルサーのスーツは、次世代スーツを開発するための素体として解体される予定だ。
つまり、あと一週間後には才羽幸人が扮するドラッヘンインパルサーは、この世から消え去ることになる。真里の護衛も、他のヒーローが受け持つようだ。
彼は元々、真里の護衛のために雇われた身。インパルサーでなくなれば、わざわざ女学院に留まる理由もない。……なら、もう会うこともなくなる。
恵は昨日、幸人が任期を満了した後の身の振り方を尋ねなかった。否、出来なかった。
幸人の笑顔にやられ、頭からそのことを吹き飛ばされたのも理由の一つだが……やはり、聞くのが怖かったのだ。
彼を明確に意識する前から、尋ねるタイミングはいくらでもあった。だが結局、恵はその問いを先延ばしにして、何もわからないまま今日を迎えている。
無意識のうちに、彼にここにいて欲しい、という願望を抱いていたのかも知れない。知らず知らずのうちに、そのことを避けていたのだとすれば……。
(……いつから、なんだろうな。いや、いつからなんて、どうだっていい。肝心なのは、あいつが任期を終えたらどうなるか、だ。……礼を言うついでに、そこもハッキリ聞いておかねーと)
そこで一度思考を断ち切ろうと、頭を振る。その視線は、前の席で授業に集中する幼馴染に向かっていた。
(もし、いなくなっちまうのなら……真里は、悲しむだろうな)
せめて任期を満了するまでに、真里を狙った悪人には捕まって欲しい。それが無理でもせめてこの一週間は、何事もなく終わって欲しい。
それが、恵が願える精一杯だった。
◇
「佐々波さん、少しいいかしら?」
「え……? ど、どうしたんですか吾野先輩?」
その日の放課後。
部活開始までに、まだ時間に少し空きがあった真里は、幸人のところに足を運ぼうとしたのだが。いつも送り迎えを引き受けてくれる吾野美夕に唐突に声を掛けられ、固まってしまった。
「あなたの今後について、相談があるの。テニス部の練習までには、まだ少し時間があるでしょう? ちょっとだけ、付き合って欲しいの」
「……はい、わかりました」
ただならぬ神妙な面持ちで、こちらを見つめる美夕の眼差しから、かなり真剣な内容の話題であると察した真里は唇を結び、深く頷く。
(……あれ? 恵、どこ行ったんだろ? 才羽くんのところじゃ、ないよね?)
そうして促されるままに、美夕の後ろを付いて教室を出て行く。親友の行き先に、女の勘を迸らせて。
そこへ一瞬、意識をそらしたせいで。彼女は見逃していた。
歪に口角を吊り上げた、邪悪な笑みで自分を一瞥する美夕の表情に。
それに気づいたクラスメートは、美夕の命令を思い出しながらも、恐怖のあまり何もできずにいた。
◇
「……」
その頃。校舎の中庭に移動していた恵は……物陰に隠れ、頬を染め、意中の男の背中を見つめていた。
話し掛けるタイミングを見つけられず、立ち往生に陥っているその姿は、さながら恋する乙女そのもの。普段の恵を知る者では、想像もつかない佇まいだった。
(……や、やばい。まともに顔も見れない。横顔チラッと見えただけで、体が……熱い。やばいってこれ、真里もこんな感じなのかな)
内側からの熱で体が火照る感覚に翻弄され、恵は目を回す。親友が抱いている感情を共有してしまった罪悪感や背徳感が、そこへ余計な「火」をくべていた。
このままでは一昨日の礼を言うことも、今後のことを尋ねることも出来ない。それ以前に、まともな話も無理だ。
そんな状況ゆえ、一旦出直そうか……と、踵を返した瞬間。
「玄蕃様、何か御用件でも?」
「はひゃあ!?」
くるりと振り返った幸人の言葉に、心臓が爆発するほどの衝撃を受け、動揺のあまり変な声が出てしまった。
思わず首をひねり、彼の方を見てしまう。つい先日まで、なんとも思わなかったはずの仏頂面が、今はなぜか……愛おしい。
(ま、真里……ごめん……)
そんな間違った感情は、早々に正さねばならない。だが、その実現はもうしばらく先になる。
自分の免疫のなさを痛感し、恵はそう結論付けるのだった。
◇
この広大な聖フロリアヌス女学院の敷地内には、近日中に取り壊し予定となっている旧校舎がある。
無人となり、静けさが支配する木造の校舎は、繊細な令嬢達には半ば恐怖の象徴として知られており、自分の意思で近づく者はほとんどいない、と言われている。
「あ、あの……どうして、こんなところまで……」
「あまり人通りの多いところでするべき話じゃないから、よ。あなたの場合は特にね」
それは普通の少女として生まれ育ってきた真里にとっても同様だ。元々、どちらかといえば内気で大人しい性格の真里も、こういった「いかにもお化けが出そうな場所」は苦手なのである。
なのであまり周囲を観察することはできず、悠々と軋む床を歩く美夕について行くしかなかった。ただひと気のないところに行くだけだというのに、階段を上がって最上階の五階まで登っている違和感にも、気づかないまま。
「え、えっと、それはどういう……」
「今、生徒会ではあなたを保護する目的で、役員として迎え入れる話が上がっているの」
「えっ!?」
「本当よ。それに、それだけが理由じゃない。一般家庭から進学してきた、初めての生徒であるあなたを立てることで、あなたを妬む上級生達に楔を打つ目的もある」
「……!」
「自分達を差し置いて、生徒会に入り込むあなたをよく思わない連中はいるでしょうけど……植木鉢の犯人のような奴でも、さすがに生徒会を敵に回せる愚か者ではないはずよ。曲がりなりにも、この女学院の生徒であるなら、ね」
振り返り、自信満々な笑みで美夕はそう言い切る。確かに現状、真里を保護できる有力な勢力は生徒会しかない。ここの生徒であるなら生徒会の威光に真っ向から立ち向かう愚かさもわかるはず。
真里を生徒会の正式な役員として取り込んでしまえば、いくら真里を憎んでいる連中でも、迂闊な手出しは出来なくなる。万一、彼女に手を出せば、全校生徒の頂点に立つ生徒会長、文村琴海を敵に回すことになるのだから。
「そ、そんな……ごめんなさい、吾野先輩……。先輩だけじゃなく生徒会長や生徒会の皆さんにも、わたしのせいでたくさんご迷惑を……」
「いいのよ、私達で決めたことなんだから。……ま、あなたが正式な役員になる前から、こんな話が漏れたら、何が起こるかわかったものじゃないからね。ちょっと辛気臭い場所だけど、許してちょうだい」
「い、いえそんな……」
美夕の言い分は尤もだ。
恐らく植木鉢の犯人の動機は、真里への嫉妬であるが……たったそれだけの理由で、殺人未遂手前の凶行に走るほどの激情家だとすれば。生徒会に入る、などという話を知れば、どんな手段で真里を潰しに来るかわからない。
そうなる前に、真里を安全に保護できるポジションに置くためには、他者を排した上で当人と話し合う必要があるだろう。
美夕の言葉から確かな気遣いを感じた真里は、そんな頼れる先輩の背中に、ほのかな憧れさえ抱くようになっていた。
その裏側に潜む、狂喜の貌など知る由もなく。
「ま……話の概要と、場所をここに選んだ理由はそんなところね。もう少し詳しい話を教室でするけど、テニス部が始まるまでには終わらせるから心配しないで」
「は、はい。本当にすみません、何から何まで」
「ふふふ、あんまりメソメソしないの。これからは、一緒に頑張る仲間なんだから。……さ、こっちよ」
そして、最上階の最奥の教室。
普通の生徒なら絶対に立ち入らない、その深淵の向こうへ。美夕は躊躇うことなく踏み込んで行く。
「はいっ、吾野先輩!」
もう少し冷静なら。もう少し、美夕の行動を疑っていれば。ここで違和感を覚え、適当な理由をつけて逃げることは出来ただろう。
だが、真里はいつも笑顔で送り迎えしてくれる上、こうして自分の時間を割いて気にかけてくれる美夕を、欠片も疑わず、教室に入ってしまった。
「……いらっしゃい。薄汚い庶民の小娘」
「え?」
◇
誰の声か、わからなかった。振り返り、美夕の口からその言葉が出たことを知り、受け入れられず。
思考が混乱し、停止してしまった。
その一瞬のうちに、扉がピシャリと閉められ。真里の体は、瞬く間に影から伸びてきた無数の手に囚われ、組み伏せられてしまった。
自身を見つめる美夕の表情が、憎悪と狂喜でブレンドされた悍ましい色に変貌していく。手足に感じる縛られた感覚が、この危機的状況を物理的な信号で、真里の神経に伝達していた。
理解を超えたその現象に、何が何だかわからないまま、真里は腰を抜かしてしまう。
「……!?」
その直後、自分を捕らえた無数の手……次々と見知った顔が、美夕と同じ色の貌で視界に現れてきた。彼女達は皆、真里を保護するために生徒会から遣わされてきた役員である。
あれほど優しく、事件を受けて傷心だった自分をケアしてくれた彼女達が。つい先ほどまで、あれほど気遣ってくれた先輩が。
なぜ、こんなことを。
この状況も彼女の貌も受け入れられず、目の前が明滅する感覚に襲われる真里。そんな彼女を見下ろす美夕は、裂けるほど歪に口元を吊り上げ、嘲笑する。
「あっ、はははは! 傑作、傑作だわ! まさかこんなに簡単に引っかかるなんてねぇ!」
「そ、んな、どうし、て」
恐怖と混乱で、口がうまく動かない。歯と歯がぶつかり、カチカチとおかしな音が鳴る。そんな状況の中、震えながら真里は問いかける。
「あの植木鉢がちゃんと当たっていれば、私達の気も早々に晴れたのに
ねぇ。まさか、ドラッヘンインパルサーの邪魔が入るとは思わなかったわ」
「……!? せ、先輩、がっ……!?」
「そうよ。今さら?」
「だ、騙してたんですか……!? 今日まで、ずっと……あぅっ!」
だが、返答の代わりに飛んできたのは言葉ではなく、足。腹を蹴られ、生まれて初めて受けた悪意の込もった「暴力」を味わい、真里はさらに震え上がる。
「失礼な上に生意気な小娘ね」
「かはっ、けほっ……」
「そもそも、私は嘘なんか一言も言ってないわ。琴海様があんたを招き入れて、保護しようと仰ったのは本当。あんたを狙ってる奴が、それを知ったら怒り狂うのも本当」
「……!」
「その狙ってる奴が、役員の私だった。それだけのことじゃない」
憎悪と怒り、狂気、嘲笑。負の感情の全てがかき混ぜられ、熟成され、彼女の貌を造っている。おおよそ、人間が出来る表情とは思えないほどの悍ましい何かが、真里の眼前に現れていた。
「……許せないわ。あんただけは許さない。琴海様の寵愛を奪っておきながら、報いも受けない。私達が、気が狂うほどの怒りに苛まれる日々の中。……薄汚い庶民のあんたが、満面の笑みで毎日を過ごしているッ! ……なんという不条理ッ! なんという理不尽ッ!」
「そん、な」
「許されない、絶対に許さない! どんな力に守られていようと、その全てを引き剥がし、掻い潜り、あんたを裁く! ……それが、一ヶ月の苦しみから私達が見つけ出した結論よ!」
「……さぁ、私達が苦しんできた痛みを、怒りを、わかりやすく教えてあげるわ。下賤な庶民の頭でも、理解できるようにね」
縛られ、身動きが取れない真里を完全に包囲する美夕達。暗闇に飲み込まれるような感覚に陥った真里は、瞼から雫を溢れさせながら、懸命に助けを呼ぶ。
「だ、誰か……誰かぁあぁあ!」
「アッハハハ! ここがどこだかわかってんの!? ただでさえ滅多に生徒が近づかない旧校舎の、最上階の最奥なのよ! 誰を呼んだって来やしないわ!」
だが、叫びは届かない。届かせるにはここは、あまりに遠すぎる。
孤立無援の状況に突如立たされ、絶望に打ちひしがれる真里を嘲笑う、美夕の叫びだけが、この空間に木霊していた。
◇
「いや、その……大した用じゃねぇんだ。ただちょっと……な」
その頃。中庭の整備を続けながら、恵が何かを話す時を待ち続けている幸人は、要領を得ない彼女の様子に、小首を傾げている。
そんな彼の顔色を伺いながら、恵は深呼吸を繰り返し、いざ言葉にして伝えるべく、彼と正面から向き合った。
「な、なぁ、才羽。一昨日のことなんだけどさ」
「はい。植木鉢の件のことですか?」
「そ、そうそう。あの時は、疑うようなこと言っちまって、済まなかった。……ありがとう。真里を、守ってくれて」
「そういうことでしたか。……当然のことをしたまでですよ。気にかけて頂き、こちらこそ感謝の言葉もありません」
何食わぬ顔で、幸人はいつも通りにそう言ってのける。確かにインパルサーの力を持つ彼にとっては、造作もないことだったのだろう。
だが、少なくとも。
「……当然、なんかじゃねぇよ。少なくとも、アタシにとっちゃ全然違う。危うくアタシは、一番大切な奴の笑顔を、失うところだった」
「……」
「なぁ……! アタシは、ずっとあいつの笑顔を守りたい! あんたもそうだってんなら、任期が終わってもずっと一緒に……!」
恵にとって、幼馴染の笑顔は本当にかけがえのないものだった。それが失われるようなことなど、決してあってはならない。
その想いに突き動かされるまま、恵は幸人の袖を掴む。まるで、何処かへ行ってしまいそうな彼を引き留めるように。
そんな彼女の必死な姿に何かを感じた幸人は、彼女の考えの全てを知らないまま、その真摯な瞳を見据え、言葉に耳を傾ける。
だが……その続きは、聞けなかった。
「……!?」
「な、なんだぁ!?」
突如鳴り出した警報。火災報知器の作動を意味する、そのサイレンが彼らの言葉と思考を断ち切ったのである。何事かと辺りを見渡す恵を一瞥し、幸人は一瞬で鋭い表情になると、迷うことなく中庭から飛び出して行く。
「あ、おい待てよ才羽! 待てったら!」
一拍遅れてから、その後に続く恵は――並外れた速さで「現場」に向かう幸人の背を追い、驚愕する。
彼が向かう先……敷地の外れの旧校舎から、火の手が上がっていた。
(防火設備が強化されているこの女学院の施設の中で、簡単に火災が起きる場所と言えばあそこしかない。……しかし、あそこで一体が何が……?)
一目散に急行する幸人は、突如火災が発生した「出火地点」である旧校舎の五階を見上げ、その不審火の出処を訝しむ……。
◇
僅かに時を遡ること、数分。
本性を露呈し、狂喜の笑みを浮かべた美夕の手には、火の灯る薪が握られていた。薄暗い教室の中で煌々と燃え上がる赤い輝きが、より深く彼女の怒りを表現している。
その火に怯える真里の涙が、その輝きを照り返していた。
「……で、アタシ達でじっくり考えたんだ。どうやったらあんたを、徹底的に潰せるか」
「や、やめ……やめて、ください……! こんなこと……どうか……!」
「思い上がった頭の中を、ちょっと小突いてやれば、とも思ったんだけどね。それだけじゃ足りない、って思ってさ。植木鉢が失敗する前から、こういうの用意してたんだ」
わざと脅すように、ちらちらと真里の眼前で炎を揺らす。その熱気と悪意に、真里の恐怖はさらに高まって行く。
「あ、ぁ……!」
「あんた、無駄に顔も体もいいでしょ? 仮にあんたを女学院から追い出せても、どっかで男引っ掛けて貢がせて行けそうじゃん。ビッチの素質、大アリって顔だし」
「それじゃあ、分相応な身分に落としただけ。潰したことにはならないわ」
「だからぁ。その顔を二度と見られないくらい、ズタズタに焼いちゃうことにしたんだ。女学院には来れないし、庶民の生活に帰ったって相手にする男もいない。もう最っ高!」
旧校舎という、普段足を踏み入れることのない空間にいること。女性同士の同調意識。「火」という明確な「力」を持ったという錯覚。共通の敵を持ったことで生まれた、迫害への連帯感。
それら全てが重なり合って生まれた優越感が、自分達が聖フロリアヌス女学院の栄えある生徒会役員である、という自意識すら曖昧なものに歪めていた。
もはや彼女達の理性は旧校舎の闇に溶かされ、攻撃性という剥き出しの本能だけに支配されている。そのケダモノ達が絢爛な制服に袖を通している、という「歪さ」が、より一層狂気的な印象を真里に与えていた。
「ひぁ、ぁああっ……!」
そして、ついに。
彼女の脳裏に渦巻く恐怖が、限界の壁を踏み砕く。
「あ、あ、ぁ」
下腹部が、暖かい。全身の力が抜け、魂が抜けたような感覚に陥る。恐怖が一周し、奇妙な浮遊感が真里を襲った。
そんな彼女の目に、液の広がりが映る。
「……ぎゃっははは! 傑作! マジ傑作! こいつ漏らしてるぅぅう!」
「ザマァないわ! 神聖なる敷地内を穢すなんて、まさに薄汚い庶民! 肥溜め以下だわ!」
「たまんないわ! アハハハハ! あんた最高!」
「……っ……!」
失禁を経たためか、真里の精神に正気が戻り……そのせいで、自分がしてしまったことを正確に認識してしまった。
真里は火が付いたように顔を赤らめ、羞恥の余り声にならない叫びを上げる。両手を縛られ顔を隠すことも出来ず、瞼を強く閉じ、口元を強く結ぶことが精一杯だった。
そんな彼女を、美夕達はさらに狂乱した笑みで嘲笑する。第三者が端から見れば、間違いなく狂っているようにしか見えない光景だが、この場にそれを指摘できる人間はいなかった。
そのため。
笑い転げるあまり、美夕が薪を取り落としていたことに。
そこから、木造の旧校舎に炎が広がっていたことに。
平静を欠いていた彼女達は、気づくことができなかった。
「えっ……」
「あっ」
辺り一面が、黒煙に飲まれるまで。狂気を覚ますほどに、煙の臭いが強まるまで。
「……き、きゃあぁあぁっ! か、火事、火事ぃぃい!」
「だ、誰か消しなさいよ誰かぁ!」
「ば、ばれる、みんなばれるっ!」
「悪くない! 私、何も悪くないぃっ!」
すでに教室内は煙に包まれ、あちこちから火の手が上がっていた。こうなってはもはや、誰にも隠し通すことはできない。
そこから導き出される、自分達の末路。彼女達の誰もが、すでにそれを予感していながら、口にする者は一人もいなかった。
やがて、彼女達は混乱する中で一つの結論を出す。それは。
「い、いやぁあぁ! パパぁ、ママぁあ! 助けてぇぇえ!」
「私悪くないの! 全部、全部庶民のせいなんだからぁあぁ!」
……逃走。
彼女達は恥も外聞もなく、喚き散らしながら教室から走り去って行く。
無論。そんな彼女達の中に、真里の縄を解こうという優しさを持つ者など一人もいない。
「ま……待って! 誰か、誰か縄を解いて! お願い、行かないで! 行かないでぇっ! いや、いやぁあぁああ!」
火災に苛まれた過去の記憶が、少女をさらに追い詰める。再び彼女の下腹から、暖かい液が流れ出た。
だが、もう。この場には、それを嗤う人間すらいなかった。
◇
「くそ、なんだってこんな……!」
「玄蕃様。ここは私に」
「ああ! ……済まねぇ、最後まで迷惑かける!」
そして、今。
旧校舎前に辿り着いた幸人と恵は、五階から噴き上がる炎に奇妙な視線を送っていた。突然あんなところから、なぜ……。
「いえ。――接触!」
だが、今はその疑問を解き明かしている場合ではない。幸人はマフラーを靡かせながら上着を脱ぎ捨て、隠された袈裟ベルトを露わにする。
そして、腰から引き抜いたカードをバックルに装填し、カバーを閉じた。
『Armour Contact!!』
電子音声と共に真紅のスーツが現れ、幸人の全身に張り付いて行く。さらにその各部を、黒と黄色のプロテクターが覆った。
首に巻かれた白いマフラーが、ふわりと宙に舞う。
『Awaken!! Firefighter!!』
そして、シークエンス完了を告げる電子音声が再び鳴り響く。ついに出動体勢を整えた幸人は、武運を祈るように頷く恵を一瞥し、旧校舎に突入する。
……寸前。
「ひぃあぁああ! ママぁああ! パパぁああ!」
「……!?」
「な……! こ、こいつら生徒会の!?」
インパルサーに扮する幸人を迎え撃つかのように、突入しようとした先から美夕達が飛び出してくる。咽び泣きながら、煤塗れになって転がり込んできた彼女達を、幸人は若干たじろぎながらも抱きとめた。
恵は、見知った顔の彼女達が現場から飛び出してきたことに驚きつつも……すぐさま、その現象の理由に感づき、般若の形相となる。
「……てめぇら! イイ年こいて火遊びたぁいい度胸じゃねぇか! ボヤ騒ぎが起きてもインパルサーが何とかしてくれますってか!? ざッけんなボケェ!」
「ひ、ひひぃい!」
「落ち着いて下さい玄蕃様、ここは私に任せて」
「だけど……!」
「……生徒会の方々ですね。警報を聞きつけて、こちらに参ったのですが、他に逃げ遅れた方は?」
「……!」
怒り狂う恵を片手で制しながら、インパルサーは片膝を着き、うずくまる美夕に目線を合わせながら問い掛ける。
赤い仮面のせいで表情が見えないことが、恐怖を煽ったせいか、彼女は酷く怯えた様子で、インパルサーを見ていた。
「わ、私じゃない。私のせいじゃない! あ、あの子が悪いのよ! 庶民のくせに、この女学院に来るから!」
「……!」
そして、半狂乱になりながら自己弁護を始める。その発言の一端を聞き取ったインパルサーはそこから、逃げ遅れた被災者が誰であるかを汲み取った。
「玄蕃様。暫し、彼女達をお願いします」
「あ、ああ!」
刹那、インパルサーは。幸人は。
はやる気持ちを懸命に抑えるような口調で、同じくショックを受けていた恵に美夕達を託すと超人的な走力で、旧校舎の中へと突撃していった。
そんな彼の背中を、憂いを帯びた眼差しで見送る恵は、親友の窮地を知ってさらに怒り、怒髪天を衝く勢いで美夕達を睨み付けた。
「てめぇら……まさか、こんなことしといてタダで済むと思っちゃいねぇだろうな。植木鉢の件もてめぇらの仕業か!」
「ひ、ひゃあぁあ!」
「だ、誰かこいつの口を封じなさい! い、今ならまだ……!」
「む、無理よぉ!」
「ああもう! どいつもこいつも使えないっ!」
だが、美夕はまだ諦めていないのか。旧校舎の破片の中から棒状の木材を拾い、恵の前で身構える。
そんな彼女をゴミを見るような目で冷ややかに見つめ、恵も空手の構えを取った。
「……つくづく。救いようのねぇ奴らだ」
「うるさい。うるさいうるさいうるさいっ! みんなあんた達が悪いのよ! あんた達のせいよぉぉおぉっ!」
そして悪い夢を振り払うように、がむしゃらに木材を振りかぶる。だが、そんなもので玄蕃家の武道家を止められるはずもなかった。
「あっ……!」
あまりにも速く。あまりにも鮮やかな。上段回し蹴りが、木材を天高く舞い上げて行く。
その光景を見上げるしかない美夕は、絶望に打ちひしがれ、両膝をつき、死んだ魚のような目で、地面を見つめた。
まるで目に映る景色だけは、現実から背けようとするかのように。
「……」
恵はそんな彼女と、自分に怯える他の役員達に侮蔑の視線を送った後。そこから目の色を一転させ、親友達を案ずる眼差しで旧校舎を見上げた。
(才羽……ごめん、ごめんな。つらい思いばっかりさせて、最後まで迷惑かけて。これで最後でいいから……もう一度だけ。アタシの、大切な幼馴染を……救ってください)
その時の彼女自身は、気づいていなかったが。
この瞬間の玄蕃恵の貌は、紛れもない、恋する乙女のそれであった。
◇
(……火の手はそこまでじゃないな。だが、煙がかなり出ている。彼女達が一酸化炭素中毒にならずに出て来れたのは、ラッキーだったな)
旧校舎の中を突き進む幸人は、バイザー越しに映る世界の惨状に、息を飲んでいた。暗視装置で視界は確保しているものの、ここが致死量の煙に汚染されていることには違いない。
もう少し、彼女達の脱出が遅れていたら。最悪、この道の途中で倒れ、そのまま覚めない眠りに落ちていたかも知れない。
ならば、事態は一刻を争う。出火地点の五階の教室に取り残された真里は、今頃火と煙に完全包囲されているはず。
(……からっぽのオレに、ヒーローとしての責任なんて語れる資格はない。それでもオレは、君を……!)
そして、ついに目的地に辿り着いた。
「……ぁ……!」
涙も、何もかも。体から出るものは、枯れるまで出し尽くした……と言わんばかりに憔悴しきった表情の、黒髪の少女。
佐々波真里。間違いなく、いつも華やかな笑顔を振りまいていたはずの、彼女だった。
「……」
泣き腫らした顔で、それでもなお泣縋るように自分を見つめる少女。そんな痛ましい姿の彼女を、労わるように。
幸人は刺激しないようゆっくりと、歩み寄って行く。
だが。
「……ダメぇぇえぇぇえっ!」
「……ッ!」
老朽化していた旧校舎が、火に煽られたせいか。ひび割れた天井が、真里に近づいた幸人の頭上に、一気に降りかかってくる。
その光景に、あの日の瞬間を重ねた真里は枯れたはずの涙を奥深くから絞り出し、絶叫した。
だが。
幸人は、彼女が予感した運命を変えようとしていた。
「……ッ!」
崩れた天井が、迫る瞬間。
懐から現れた、白いカードキーが胸のバックルに装填される。そして、カバーが閉じられた。
『Shield Contact!!』
その電子音声と。天井の衝突音は、同時だった。
◇
(あんまりだよ……あんまりだよ、こんなのっ……!)
こんなことがあっていいのか。こんな残酷な話が、あるだろうか。
真里の心理は、耐え難い絶望の淵に立たされ、幼気な良心は現実という刃で絶え間無く切り刻まれていた。
七年前、鳶口纏衛は自分を庇い殉職し。みんなのヒーローだったドラッヘンインパルサーを、自分の至らなさがしに追いやってしまった。あれほど、尊敬する琴海が慕っていたインパルサーを。
なんという疫病神。なんという死神。
その呪縛から逃れようと、人々を救う医師を目指した果てが、この始末。
(こんなはずじゃ……こんなはずじゃなかった! わたしは、皆の……皆の役に、立ちたかっただけなのにっ!)
散々「死」を撒き散らした挙げ句、その命を糧とすることも叶わず自分も死ぬ。これほど、命を冒涜する女が自分以外にいるだろうか。
(ごめんなさい……鳶口様。ごめんなさい……インパルサーさん。わたしは、もう消えるから……どうか、どうか他のみんなだけは……お願い……!)
美夕達はあの後、無事に逃げられたのだろうか。そう逡巡する真里は、許しを乞うよいに涙を零す。
他人の命を犠牲にしておきながら、自分の命すら活かせない。その無力さに涙する彼女は、せめてもの思いで、自分を貶めた者達すら含む「全て」の幸せを願うのだった。
だが。
「ダアッ!」
「……っ!?」
そんな甘い白昼夢を抱いたまま逝くことは、真紅のヒーローが許さなかった。
崩落した天井を気合いと共に突き破り、真里の前に姿を現したインパルサー。その手には、消火銃「インパルス」と特殊合金製の盾を一体化させた専用装備「インパルス・シールド」が装着されていた。
あの一瞬で秘蔵の盾を転送した彼は、崩落してきた天井を防ぎ切っていたのである。
少女を苛む、悪夢のデジャヴを打ち破った彼はそのまま、何事もなかったように真里のそばへ歩み寄り、縄を引きちぎって行く。
そして、腰の抜けた彼女を抱きかかえ、囁くのだった。
「……もう、大丈夫だ」
「……ぁっ!」
それは、かつて幸人の父が殉職する瞬間に遺した言葉。だが、今この瞬間にそれを口にした彼は、まだ、生きている。
この瞬間。佐々波真里を蝕み続けていた鳶口纏衛のトラウマは。目の前を塞ぐ闇は。
その息子の手で、切り裂かれたのである。
◇
過去を乗り越え、その道へ誘ってくれたインパルサーにしがみつき、真里は紅い腕の中で涙ぐむ。
そんな彼女の鼻と口を、白マフラーで塞ぎつつ、彼は脱出を目指した。だが、窓に続く道は立ち昇る猛火に阻まれている。
「ハッ!」
だが、彼は消防能力に特化したドラッヘンインパルサー。いかに激しい炎であろうと、それ以上に強力な消火剤で押さえつけられては、人間を焼き殺すには至らない。
インパルス・シールドに内蔵されたインパルス消火銃の一閃が、灼熱を根元から吹き消して行く。
やがて熱気が消え去り阻むものが黒煙だけになると、インパルサーはマフラーで真里の気道を保護しながら、暗視装置を頼りに窓から飛び出して行った。
そして、壁に打ち込んだワイヤーを伝い、さながらターザンのように鮮やかに着地する。出迎えたのは、満面の笑顔を浮かべる恵だった。
「真里ぃぃぃいぃい! バッキャロォ、心配させやがって!」
「恵、恵ぃい……!」
「もう大丈夫、もう大丈夫だからな! ありがとう才……じゃねぇ、インパルサー! 本当に、本当に恩に着るっ!」
恵はインパルサーに抱き上げられたままの真里に泣きつき、身の安全を感じた真里もまた、緊張の糸が途切れたように大泣きしていた。
そんな彼女達を静かに見守るインパルサーこと幸人は、首を捻り火災が絶えない旧校舎を見上げた。
「……あは、あはは……。もう、泣きすぎだよ恵ったら」
「ははは……うるせー、泣いて何が悪いっ。……ん? 真里、なんかお前濡れてねぇ?」
「えっ……や、やだっ! インパルサーさん早く下ろしてくださいっ!」
羞恥に顔を赤らめる真里。そんな彼女を優しく下ろして、幸人は腕部に装着された機械のボタンを操作する。
『Scarlet Ranger!!』
その操作が終わり、腕部の機械から電子音声が響く……刹那。
「うわぁ! な、なにあれっ!」
「あ、あれは……!」
猛スピードで敷地内を疾走し、幸人達の前まで駆けつけてきた一台の車。運転席が無人の、その赤塗りの車に、恵は見覚えがあった。
一見すれば、スポーツカーのようにも見えるしなやかな車体だが、後方に設置された梯子やポンプらしきものは、紛れもなく消防車のものだった。
幸人は無言のまま、その車両……特殊小型消防車「スカーレット・レンジャー」に乗り込み、内部からの操作で車両後部のポンプから強烈な放水を開始する。
放たれている水そのものに特殊な消火剤が含まれているようであり、旧校舎を蝕んでいた炎は、素人目に見ても異常に感じるほどの速さで鎮火されていった。
「す、すごい……わたし、インパルサーさんの活躍、ちゃんと見るの初めてかも……」
「あ、ああ、確かにすげぇな。……つーかアイツ車乗ってるけど、免許あんのか?」
「え?」
「い、いや何でもねぇ」
「……?」
不思議そうに首を傾ける真里の隣で、恵は鎮火に勤しむインパルサーの、幸人の姿を、誇らしげに見つめていた。
うなだれる美夕達には目もくれず、その瞳は自分の心を射止めた男だけを、焼き付けている。
(……ありがとうな、才羽。真里のこと、ちゃんと守ってくれて……。やっぱアタシ、あんたのこと、好きだわ)
その気持ちには、もはや言い訳の余地はない。
救援に駆け付けた生徒会や有志の生徒達が、バケツリレーの消火活動を始めても。美夕達が他の生徒会役員達に連行されても。
鎮火が終わった途端、目をハートにして飛びついてきた琴海をかわし、スカーレット・レンジャーで走り去る瞬間まで。
恵の熱い眼差しは、インパルサーの、才羽幸人の勇姿だけを、映し続けていた。これで最後だと、頬に雫を伝わせて……。
◇
旧校舎の火災事故から、さらに一ヶ月。梅雨も明け、いよいよ夏本番、というこの季節の中。
「……で。なんでまだ、あんたがいるんだよ」
「……? 以前もお話ししましたが――学園長から、単純に用務員として有能だからここにいろ、と言われましたので」
「わかってるよそんなこと! あーもー! なんか腹立つ〜!」
「……?」
袈裟ベルトを外した才羽幸人が庭の整備に勤しむ傍らで、玄蕃恵は口先を尖らせていた。その頬は、夏の暑さとは無関係の熱を纏っている。
あの日、もう会えないと覚悟し流した涙は、すっかり無駄になってしまっていた。
あの火災事故の後。幸人は任期を満了し、インパルサーを引退。スーツは開発元の救芽井エレクトロニクスに引き渡され、解体が決定している。
現在ではパッタリと姿を消したドラッヘンインパルサーに代わり、蒼い装甲強化服で身を固めた量産型インパルサーが消防庁に配備され、あらゆる火災現場で活躍していた。
彼らのスーツを完成させた時点で、才羽幸人のヒーロー生命は終わったのである。
だが、ヒーローでなくなった今も、その仕事ぶりを理由に用務員を続行する運びとなり……こうして変わらず、恵や真里と平和な日々を送っている。
恵個人としては余計な心配で涙を流す羽目になったので、腑に落ちないところもあったのだが、この先も愛する男と共に過ごせる結末は、素直に喜ばしいものでもあった。
「才羽くん、恵! お待たせっ!」
「おせーぞ真里、三十分オーバーだ」
「ご、ごめんね恵。生徒会の仕事って、まだまだ全然慣れなくて……琴海先輩にも、迷惑かけっぱなしだし」
「いーんだよそれは。文村先輩なりのケジメって奴さ」
そこに、新たな生徒会長として選ばれた佐々波真里が、息を切らせて駆けつけてくる。
半月の療養を経て、すっかり回復した彼女は、文村琴海に代わる生徒会長として、テニス部を牽引するエースとして、多忙極まりない毎日を送っていた。
植木鉢の件の犯人が、生徒会に紛れ込んでいたこと。その犯人が、さらに真里に危害を加えたこと。
それら諸々の生徒会の不祥事の責任を被る形で、文村琴海は生徒会長の座を退くこととなり、彼女に次ぐ成績優秀者である真里が、その後継者となった。
この女学院の生徒達の頂点である生徒会長。その絶対的存在に、庶民の出が君臨する。その衝撃は女学院全体を震撼させ、前代未聞の事態となった。
だが、後見人となった琴海自身のサポートにより佐々波政権は徐々に人望を集め、今では琴海に次ぐ女学院の有力者としての地位を確立するに至っていた。
「それにどーせ遅れた理由はアレだろ? 文村先輩にインパルサーの話をせがまれ、そっから先輩のインパルサー講座が始まり、抜けるに抜け出せずってとこだろ」
「ぎく……」
「あのなぁ、先輩の顔を立てようってんだろーが……バレバレなんだっつーの。何年の付き合いだと思ってやがる」
「うう……ごめん」
「ま、そこがいいところになることも、たまーにあるけどさ」
恥ずかしそうに頭を掻く真里は、上目遣いで幸人を見上げ、舌先をぺろっと出す。
そんな彼女に対し、幸人は相変わらずの仏頂面の中に微かな笑みを滲ませ、首を振る。
「才羽くんもごめんね? お昼ご飯、一緒に食べる約束だったのに」
「いえ。こちらこそ、生徒会長の昼食に立ち会えることを許可して頂き、至極光栄に存じます」
「だ、だからぁ、そういう畏まった感じはやめてぇ! そもそも誘ったの私だし!」
「おーおぉ、赤くなっちゃって。こりゃほっといたらガキでも仕込みかねないなぁ」
「恵ぃぃい!」
「そうですか。しかし佐々波様は未だ学生の身。世継ぎのことをお考えならば計画的に……」
「才羽くんも乗らないでえぇ! 楽しんでるでしょ!? この状況楽しんでるでしょっ!?」
「はて、何のことでしょうか」
昼下がりの中庭を舞台に始まった、平和なひと時。そこから始まった遣り取りの中で、才羽幸人は確かに。
自分のヒーローとしての意義を、噛み締めるのだった。
(父さん。オレは、やっと……)
季節は夏。恋が始まるこの時の中で、新たな日々が幕を開けた。
ヒーローの物語は終わったけれど。才羽幸人の物語は。佐々波真里の物語は。玄蕃恵の物語は。まだ、終わらない。
この先もずっと。続いて行く。