8.
3人は、登山道まで黙々と歩いた。
誰も口を開こうとするものはいなかった。
椎名の冷ややかな態度と高頭の澄ました表情の間に挟まれて、並木はとても気まずい思いだった。
なんとかこの空気を変えようと、必死で話題を探すがなかなかその話題が見つからない。
生徒二人を前にして、本当に情けない思いで一杯だった。
椎名は、前を行く並木の背中とその右隣の高頭の背中を見ながら、二人についていく形となった。
どちらも同じくらい背が高く、広い背中だった。
高頭のほうが少し筋肉質で体のラインに丸みがあるが、広い肩幅と引き締まった腰で逆三角形を描いていた。
並木は、細身であったが、その骨ばった体つきが男らしかった。
それに比べ、椎名は自分の軟弱でひ弱な体を呪った。
色も生白く、背も小さく、手足も細い。体毛も薄く、髭なんてほぼ剃る必要のなくらいだった。
女の子より女のような自分が嫌いだった。
歩くのが早い二人に必死で椎名はついていった。
普段ほぼ運動をしない椎名にとっては、結構辛かった。
「大丈夫か?」
この日初めて、高頭が椎名を見て、声をかけた。
椎名は、返事をせず、すっと目をそらした。
並木がそれに気づき、声をかける。
「すまんすまん、ついいつものスピードで歩いてしまった。
もう少し、椎名のためにもゆっくりいかないとな。
登る前にばてたら、どうしようもないもんな」
並木が苦笑いしながら、椎名のほうを見る。
自分に向けられた優しさに椎名は、うれしくなり「はい」と笑った。
高頭は、そのやりとりをただただ苦々しく思いながら、眺めていた。
椎名の目には、並木しか映らない。
自分の入り込む余地のないことに、改めてひどく打ちのめされた。
高頭にとってもこの3人の時間は、地獄の時間になることがわかっていながら、どうしても二人きりにはしたくなくて、無理に一緒についていくことにした。
椎名の並木への想いの強さをみせつけられるだけだと十分承知していたが、二人にしてしまえば、さらに椎名が遠くへ行ってしまうようなそんな焦りがあった。
1か月の間、椎名への干渉をやめていたが、椎名への想いが途絶えることはなかった。
椎名はそんな高頭の想いなど全く気付くことなく、高頭がいないものとして、この登山を楽しもうと心に決めた。
並木との二人の時間を高頭に邪魔はされたくない。
この貴重な時間を最高の思い出としたい。
後にも先にももうこんなことはないだろうから。
ようやく、登山道の入口まで来た。
そこまで広くない山道が目の前に続いている。
うっそうと木が生い茂り、風になびく木々のざわめきが沈黙した3人の間に流れる。
重い空気の中、椎名が口を開く。
「先生は、よく登山されるんですか?」
答えやすい質問に、並木はほっとして「うんうん」とうなずく。
「山登ってるとなぁ、無心になれるんだよ。
すごい疲れるけど、なんていうか目の前のことに集中できるっていうかな。
日ごろの悩みとか小さいことが、どうでもよくなってくるんだ」
並木にとって、椎名の悩みなど小さいどうでもいいことなんだろうか。
山に登ったくらいで消し飛ぶようなそんなものだと思われているのだろうか。
椎名は、並木の言葉を前向きにとらえることができず、言葉の裏ばかり探ってしまう自分が悲しかった。
「椎名の悩みは、そんな軽いもんじゃないですよ」
高頭が、ぽつりとつぶやいた。
椎名は、思わず自分の心を読まれたかと思い、はっとした。
なぜ、高頭は椎名の想いが手に取るようにわかったのだろう。
並木よりはるかに自分を理解しているのが高頭のような気がして、椎名はなんとも複雑な気分になった。
並木が焦って、「すまんすまん」と謝っている。
「そんなつもりでいったわけではなかったんだが」と言って、口をつぐんでしまった。
また、3人に長い沈黙が訪れた。
何を言っても、空回りする3人。
かみ合わない歯車をガチガチ言わせながら、不器用に前に進んでいくようだった。
登山道は、どんどん狭くなり、ついにけものみちのようなとこにきた。
並木が、後ろを振り返り「ここからは、ちょっと道なき道になるから、気を付けるように」と声をかけた。
高頭も椎名も目で返事をした。
実際道は、険しく、本当にこれがピクニックと呼べるような代物なのかと疑いたくなるようなものだった。
急こう配の坂を上るたびに、足が滑りそうになる。
高い段差では、両手足を使って登らなければならない。
一生懸命、手足を踏ん張っても、足元を取られそうになる。
岩を飛び越え、小川を渡り、道なき道を進んでいく。
途中、椎名の胸の高さくらいある段差を超えていかなければいけなかった。
椎名が、躊躇しているとすっと高頭が両脇を抱えて、一気に持ち上げた。
「ほう~~、さすが高頭だな」と並木が感心する。
椎名は、礼も言わず、うつむいていた。
高頭と椎名の間に流れるなんとも言えない冷たい空気を並木は察知してないわけではなかった。
やはり、いじめる側といじめられる側なんだろうか。
並木はどうしても高頭が、椎名をいじめているとは信じ切れなかった。
なぜなら、高頭はさきほどから椎名をずっと気遣い、常に椎名が怪我をしないように目をかけているのがわかったからだ。
それは演技ではなく、心から心配し、大事にしているようにしか見えなかった。
そんな高頭が、本当に椎名をいじめる主犯格なのか。
軽くため息をつき、また並木は歩き始めた。
そのあとを、高頭、椎名と続く。
あと少しで、頂上というところで、急勾配の坂にぶち当たった。
「ふんばれ!あと少しだ!」並木が二人を元気づけるように声掛けする。
椎名が、一瞬気を抜いたとき、ずるずると坂を滑り落ちそうになったのを高頭は素早く察知して、椎名の左手を右手でつかんで止めた。
椎名は、その手をふりほどきたかった。
もし、高頭がいなければ、並木がこの手をつかんでくれてたはずだ。
何もかも邪魔をする高頭に苛立ちを覚えていた。
「大丈夫か?」
登り切った並木が手を伸ばす。
椎名は右手でさっとその手をつかんだ。
高頭と並木の二人がかりで、引き上げてもらいながら坂を上りきった。
「よおーし、これでもうすぐそこが頂上だぞ!」
子供のようにはしゃぐ並木がほほえましく、椎名は息があがりながらも、そんな並木を見て笑みを浮かべた。
高頭は、何も言わず眺めていた。
微動だにせず、ただひたすらに椎名を見ていた。
椎名はそれに気づいていたが、無視して、高頭を置いて、並木の隣に並ぶ。
背中に高頭の視線を感じていたが、一切気にしないことにした。
この頂上の景色の中に、高頭を入れたくなかった。
すぐ隣に並木がいて、綺麗な景色が目の前に広がっている。
二人だけの世界を堪能したかったのだ。
高頭は、そんな椎名の想いを察したのか、となりに来ることはなかった。
ただ、寂しそうに椎名達とは違う方角を見て、想いにふけっていた。
「よし! 飯にしよう! かみさんが、今日のためにはりきって弁当作ってきてくれたんだ。
結構多めに作ってあるから、二人とも遠慮せずに食えよ」
かみさんという言葉に、椎名は少し引っかかりながら、並木が持ってきた弁当のおにぎりを口にした。
この人には、ちゃんと愛する人がいて、その人と結ばれて、家庭を築いてる。
きっとまもなく子供もできるんだろう。
自分に想いを寄せられていることなど、この人は全く気付いてない。
その鈍感さと裏のない澄み切った明るさと笑顔が、椎名にはつらかった。
高頭も黙々と弁当を食べていた。
すぐ隣に、この世で一番好きな相手がいて、目の前にこの世で最も憎むべき恋敵がおり、その恋敵の妻が作った弁当を食べている自分がいる。
この底抜けに明るく、さわやかで罪なくらい鈍い男は、椎名の想いも高頭の憎しみも何も知らずに笑っている。
皮肉で、滑稽な構図に高頭は、自嘲気味な笑いさえ生まれてきた。
誰も救われない。
決して交わることのない一方通行な思い。
もし、自分が想いを伝えれば、何か変わるんだろうか。
椎名の心を少しでも揺り動かすことができるんだろうか。
高頭は、想像していく端から虚しさが沸き起こった。
無駄だ。
こいつの心の中に、俺はいない。
高頭もまた、深いため息をついた。
並木だけが、楽しそうに山のことや、かみさんのことや、学校のことを話していた。
椎名と高頭は、それにただうなずいたり、相づちをうったりしながら、時間は過ぎて行った。
椎名は、楽しそうに話す並木を見ているだけで、幸せだった。
自分を好きになってくれなんて贅沢なことは言わない。
ただ、そばにいて、眺めることができたらいい。
高頭の存在は、余計だったが、今この時がずっと続けばいいのにと思っていた。
食事を終えて、3人は下山することになった。
登りより下りのほうが厳しかったが、少し体も慣れたのかだいぶ早く下ることができた。
途中、椎名が足を滑らせるたびに、高頭が支えた。
お互い何も言わず、目も合わせず。
この二人の不思議な関係に並木は、どうしたものかと首をかしげた。
15時近くには、S駅に到着した。
「いやー、楽しかった。あんまり話しはできなかったけど、俺としてはいい経験ができたと思ってる。
また、機会があったら登ろうな! 今後はクラス全員とかでもいいかもな!」
並木が無邪気に笑う。
「はい。そうですね」と椎名が笑顔で返事をする。
高頭は、何も言わなかった。「じゃ、俺はこれで」と一言残して去っていった。
椎名は、やっと高頭がいなくなり二人きりになれると思ったが、並木は帰る気満々だったので、引き留められず、その場で並木とも別れた。
ろくすっぽまともな会話はできなかったけど、これ以上の思い出が増えると高望みをしてしまいそうで、椎名は自分にセーブをかけるためにも、これでよかったのだと思うことにした。