うつくしきゆめ
遠くの方で笑い声が聞こえた。甲高く、よく響く子供の声。その声を頼りにして歩く。歩を進めるたびに今度は水音がした。ふと、下を見下ろすと水面になっており、波紋が広がっていった。現実ではありえないこと。しかしここではありえること。なんら不思議ではないこと。
この「世界」では何もかもが存在しうる。だから何が起こっても驚いてはいけない。一歩一歩歩いてゆくと、目の前を様々なものが通過してゆく。色あせたテデイベア、ガラスでできた宝石箱。小さな望遠鏡。その一つ一つがこの世界の主の「思い出」なのだ。次に現れたのは人の身長の半分ほどしかない天体。天王星・月・火星・土星・・もちろん地球もある。透明なガラスの地球は触れれば壊れてしまいそうな危うさをはらんでいた。
くすくすくす・・・。
先ほど聞こえてきた声と同じ・・・。見上げれば、先ほどの天体の中でひときわ大きな三日月の上に西洋人の少女が座っていた。
年のころは7つといったところか。えくぼの愛らしい目鼻立ちの整った美しい容貌だが、あどけない表情で栗色の瞳をせわしなく動かしていた。
ベージュピンクのフリルやレースがふんだんにあしらってあるドレスを着て、ふんわりとしたスカートの裾からはぴかぴかに磨いてあるエナメルの赤い靴がのぞいていた。
「みつかっちゃった」
まるでかくれんぼをしていて見つかってしまった子供のように、はにかんだ笑みを見せこちらを見た。
「・・・下ろしてくださる?」
両手を広げ、こちらに体を預けてくる。少女はそのままふわりと水面に降りた。まるで綿菓子のように軽かった。
「お客様なんて始めてよ。とても綺麗な方ね。・・・日本の方?」
「ええ」
「英語がお上手ね」
「・・・『ここ』では言語など何の意味も持たないのですよ」
少女は弾かれたようにこちらを見て、細く息をついた。
「ねぇ、あそこで座ってお話しない?」
少女が指差したのは、宙を漂っている天体の中でひときわ大きい地球だった。
「あなたが先に上って。私はその後に上がるから」
地球はまるで少女の言うことを聞いているかのように、するすると目の前まで降りてきた。大きな水晶玉を見ている気分になる。頂上までよじ登ると今度は少女が飛び上がり胸の中に飛び込んできた。ふわふわとした栗色の髪が腕に触れた。
「・・・小さな頃は、こうしてよくロッキングチェアに父様と2人座っていたわ。まぁ、あなたみたいな美男子ではなかったけれど・・。」
少女は苦笑し、ぽつりぽつりと語り始めた。
「父様の話すことはもっぱら、星・・・天体のことばかりだった。天文学者だったのよ。屋根裏部屋に望遠鏡を設置して、2人してよく星を眺めたわ。休日も夕食の時も話すことも星の話ばかりで母様や妹のミッチェルは呆れていた。そんな父様の話を聞きたがったのは、家族中で同じく物好きな私ぐらいだったわ」
首をめぐらせ、少女はまわりの風景に見とれるかのようにしばらく言葉を発さなかった。
「だから私も父様みたいな将来は天文学者になるんだ、って大学も宇宙物理学を専攻して・・・。あの頃は毎日がきらきらして・・・、まぶしかった。当時はアメリカとソ連の宇宙開発競争が起こった時代で、テレビやラジオの話題も宇宙のことでいっぱいだった。私は大学で研究に没頭しながらそれに聞き入っていたわ。私の国籍はアメリカだけど、正直なところ有人宇宙飛行に成功するのならアメリカでもソビエトでもどちらでもかまわないと思っていた。1957年に初めての人工衛星スプートニクが打ち上げられたのはご存知かしら?」
「いえ」
「そう。ソ連が宇宙開発にうちこんだ最初の楔といえるものよ。あれが打ち上げられたと知った父様の動揺といったら・・」
”見たか!?人工衛星がついに打ち上がったぞ!これで人が宇宙にいける可能性が高まったんだ。見るだけじゃぁない、行くことのできる世界になったんだ!!”
まるで自分のことのように話す父に子供のようだ、と母は呆れ気味に苦笑しながらつぶやいていた。妹は付き合ってられない、とばかりにハイスクールを卒業してすぐに付き合っていた男性と結婚してあまり家によりつかなくなった。
「でも、そんな風に星のことしか考えてないからかしら。母様の病気にも気づけず、死に目にも会えなかった。そのとき私は生まれて初めて父を憎んだ」
少女はふと自分の掌を見つめ、天を仰いだ。
「私は父のようにはならない、そう決意したの」
「けれどあなたは、父親と同じ天文学者になった」
「意地悪ね」
ゆら、と腰まである長い栗色の髪が揺れた。
「その頃発表した論文が学会の目に留まって、ますます研究に没頭できたわ。いえ、正確に言えば父のことを忘れたかったのかもしれない。今思えば男でも、研究でもどちらでも良かった。現実から逃げられるのなら。でも、私には恋愛は不向きだったみたい。人を信じるのが怖かったのね」
恋をしなかったわけではない。人並みに付き合ってみたこともある。でも結局は自分自身をさらけ出すのが怖かった。自分は父親に似ている。良い部分も悪い部分も。父のように自分も人を知らず知らずの内に傷つけてしまうのではないか。
「自業自得ね。こうして結局自分自身の殻にこもることしかしてこなかった」
「後悔してますか?」
「さぁ・・どうかしら。でも私のたどってきた道を振り返るのであれば、この道でしか出会えない人もたくさんいた。この道でしか経験できないこともたくさんあったわ。そのどれも今の私につながってると思うから。『あのときこうしていれば』とは思わないようにしているの。現状に満足している人間なんていないわ」
一陣の風が吹き、少女は何かを悟ったように、地球から降り立った。そしてひときわ高く浮かび上がっていた満月を見上げつぶやいた。
「1969年7月20日・・・」
ざぁぁ・・とひときわ強い風が頬をなでた。
「アポロ11号が月面に着陸した日よ。・・・そして、父様の命日。・・どこまで星が大好きなのかしら」
「それは貴女も、でしょう?」
「それもそうね。今日は何日だったかしら」
「4月12日です」
「・・ソ連のボストーク号が始めて有人宇宙飛行に成功した日ね。私にはお誂えむき、といったところかしら・・」
少女は目の前にいる人物の目を見据え、柔らかく微笑んだ。
「夢から醒める時間なのね」
「・・・」
沈黙が肯定だった。
「短い間だったけど、こういう風に誰かとお話できて楽しかったわ。・・・お名前を教えていただけるかしら?」
「鏑木信、といいます」
「シノブ・・ありがとう私の最後のお話に付き合ってくれて」
「いえ、これも仕事ですから」
「しごと?」
「はい。夢守といいます」
自らを夢守と名乗った青年は、少女と目線を合わせた。彼女はしばらく呆然としていたがふと気づいたように首に手を回し頬に口接けた。
「・・・父様は死ぬ間際にしきりに母様の名前を呼んでいたわ。そのときに父様を憎む気持ちもなくなった。残ったのは自分に対するコンプレックス。私はこれまで沢山の人に支えられて生きてきた。けれど心はどこまでも一人であろうとした。人は考え方次第でどこまでも変わることのできる生き物なのね」
相手の返答を待たず、少女はもう一度、天を仰いだ。先ほどまで宙を漂っていた天体や人形などは無くなり、暗闇に染まっていた空間もまるで無に帰したかのように白く染まってゆく。そして少女もまた消えようとしていた。
「『向こう』で、もし父様に会えたら、もう一度心行くまで宇宙や天体の話をしたいわ。そして謝りたい」
少女の姿はかすんでゆき、青年はただそれを見守るだけだ。
「ありがとう、シノブ・・・」
何も存在しない『無』の空間に少女の鈴の音のような声がこだまして響いた。
「・・ぶ!・・のぶ!信ってば!!もう六限目終わったよ!」
甲高い少女の声で目が覚めた。机でうつぶせになって眠っていたせいか頬が痛い。
「燈乃・・・ごはんは?」
青年・・・いや正確に言うのであれば、少女は眠い目をこすりながら自分を起こしてくれた友人に問うた
「・・・それが起きぬけに親友に言う言葉かよ。授業中もぐーすか寝ちゃって・・・先生も呆れてたわ。もう起こす気力も無いみたい」
「・・・ごはん」
「あーはいはい。もうHRも終わったし、早くしないと学食も席が埋まっちゃうわ。・・・まったく。こんなねぼすけが我が槇葉女学院のプリンスだなんて、世も末ね」
燈乃、と呼ばれた少女はちらり、と信のほうを見た。ショートカットの短い黒髪に何かを強く訴えようとしているかのような深い烏羽色の瞳、唇はほんのりと紅く、すらりとした背が彼女の容貌を際立たせていた。
「顔は文句なしなんだけどなぁ。・・・これで男だったら私も・・。」
少し頬を赤らめながら燈乃は吐き出すかのようにいった。信はもはやご飯の事しか頭に無いのか、急いで帰り支度を整えていた。日没が近いのかオレンジ色の夕日が教室を照らし、二つの長い影ができていた。
学食に入ると、隅のほうで食事をしていた中等部の学生が顔を赤らめて何やらひそひそと話し始めた。しかし当の信はそんなことには目もくれず(というか、気づいてさえいない)食券発券機のボタンを次々と押してゆく。
「・・・もう驚くのはやめたんだけど・・・。あんたどんだけ食べれば気が済むわけ?」
「さぁ・・」
「はぁ・・・あんだけ寝て、こんだけ食べてたら太らない方がおかしいわよ?」
「そうかな。でもおいしいものを食べてる時って幸せだし」
「・・・今、乙女の欲望をさらっと口にしたわね・・」
何度目か分からないため息をつきつつ、燈乃はB定食のボタンを押した。
信が学食の窓口に食券を渡したそのとき、ふと信の耳に、テレビのニュースが飛び込んできた。
「えー、たった今入ってきたニュースです。日本に来日していたの権威である、アメリカのキャロライン・カークウッド博士が心不全のため本日夕方都内の病院で亡くなりました。享年は68才でした。博士は明日K大学での講演を控えていましたが、急な発作のため昨日の夜救急車で運ばれ、意識不明の重体でした。博士は1960年にハーバード大学天文学部を卒業後、大学院に入り博士号を取得し・・・・」
アナウンサーのさらさらとした感情を極限まで抑えた声が食堂に響き渡る。
「ちょっと信!!カレーライスと中華そばとオニオングラタンとカツ丼が!!」
「あ・・・ごめん。・・・おばちゃんありがとう」
少しの間放心していた信は、湯気を立てて目の前に並んでいる料理を確認し、調理員に礼を言うと、なぜか親指を立ててくれた。どうやいつも沢山食べてくれる信のことを気に入っているらしい。彼女はのろのろとした動作でトレイ二枚に全部詰め込むと、それを両手で持ってふらふらと歩き出し適当に空いている席に座った。
「あー。いっつもここ混んでるよね。もうちょっと広くなんないかなぁ・・・っておい聞いているかね?」
後から来た燈乃のことなどお構いなしに信はがっつき始めた。
「あんたって寝た後ほどよーーく食べるわね。夢の中で超ハードな運動でもしてんのかしら」
もはや食事中の信にに何を言っても無駄であろうことは、長い付き合いで把握していた。
「あたしの他にあんたに付き合いきれる人っているのかしらね・・・」
そう一人ごちながら燈乃は自分の食事に手をつけはじめた。
「あー食べた食べた。そうだ、学校の敷地内だからって夜道には変わらないんだから、気を抜かずに帰るのよ」
夕食をすませた二人はいったん外に出た。ここは槇葉女学院の柊寮で、信はここから徒歩五分の楓寮に住んでいる。
「ん」
「いいわよねー寮の一人部屋なんて。私も来年申請してみようかなぁ」
「・・そうしてくれると、嬉しい」
「へ?」
「いつでも燈乃に会えるし」
「そ・・そういう台詞を言う相手はもっと他にいると思うけど・・・」
顔を赤らめながら応えると
「朝起こしてもらえるし」
「・・ってそっちかい!」
燈乃の、のりのいいつっこみに信は顔をうつむき口角を上げた。空を仰ぐと星が瞬いてみえた。見渡すばかりの満天の星空。月光が星光を一層引き立たせひんやりとした空気が心地よかった。
「今日は星が綺麗だね」
「え?・・・・ああ、ほんとだ。いつもはもやがかかってるみたいにぼんやりしてるのにね」
「あの人は、会えたかな」
「え?」
「ううん。おやすみ。また、明日」
そう言うと信は踵を返し、コツン、と靴の音をさせ燈乃と別れた。
はじめての投稿で、何かと拙い面はあるかと思いますが最後まで読んでいただいてありがとうございました。
恋愛は・・・後々でてきます(オイ)