一
沢木葵はぼんやりと窓から空を見ていた。
少しだけ焦点をずらし、わざとはっきり景色を見ないのが昔からの癖になっている。いつからそんなふうになったのかは自分でもわからない。しかし、それには理由があるのだ。
葵の視界には、しばしばおかしなものが映り込む。それを直視したくなくて、うやむやなままにしておきたくて、ぼんやりと景色を捉えるようになったのだ。
静まり返った学校の廊下に立っているのは葵だけ。いまはホームルームの時間で、他の生徒たちは教室でおとなしく席に着いている。
葵は今日、この学校に転入してきたばかりだった。担任の教師が転入生徒として紹介するまでここで待っていて欲しいと言ったので、葵はこうして廊下でひとり立っているのだ。
もうすぐ呼ばれるだろうか。今度も上手く馴染めなかったら、嫌だなあ。そんなことを考えながら、教室から漏れ聞こえてくる教師の声に耳を傾ける。
「今日は転入生を紹介する。東京から来たそうだ――沢木、簡単でいいから自己紹介してくれ」
葵の名前をデカデカと黒板に書いた教師は、そう言って葵に向かって手招きをする。
葵が教室に入った瞬間、クラスが一気にどよめいた。どうやら、新しい生徒が来るという情報は前もって流れていなかったらしい。
歓声なのか悲鳴なのか、よくわからない声を浴びながら、葵は教壇に立った。
「沢木葵です。清世高校から来ました。まだ制服が届いていないのでこの格好ですが、学校に早く慣れたいと思っています。……よろしくお願いします」
濃紺のブレザーに同じ色の膝上プリーツスカート。胸元には青いストライプのリボンを飾った制服を着ているのは葵だけだ。周りの生徒はみんな真っ黒な学ランと、同じく黒いセーラー服に赤いリボンを結わえている。
葵はそれだけ言って視線をさ迷わせた。転校は初めてではない。父親の仕事の都合で、何度もこういった経験はしている。しかし、この自己紹介というのが葵は苦手だった。
転校生という存在はとにかく目立つ。それなのに、服装まで違ってしまえば、もう気分は動物園のパンダだ。
「沢木の席は端っこの、あそこな」
ジャージを着た教師は窓際の一番後ろを指差した。一番後ろの席はありがたい。誰からの視線も気にしなくても良い席だ。葵は自分に熱心に注がれている視線を感じながら、そそくさと席に座った。
葵が腰を下ろしたのを確認した教師は、ざわつく生徒たちを叱りながら朝のホームルームを再開する。
葵は後ろの席から新しいクラスメイトたちを観察していた。生徒の数は二十人弱。ずいぶん少ない。今までいた高校では三十五人クラスメイトがいたので、教室の中はスカスカに見えた。
それに、全体的に黒い色をしている。制服が黒いせいもあるのだが、髪を染めている生徒がとても少ないのだ。大半の生徒は真っ黒な髪をしていて、ひとりかふたり、金色に近い髪をした生徒がいるだけだ。
極端だな。と葵は思った。今の自分の髪色では、この先教師に目を付けられるかもしれない。決して派手な色ではないが、この真っ黒な集団の中では、葵は少し浮いている。
「沢木さん、もう授業始まってるよ」
抑えた声で話しかけられて我に返った。声をかけてきたのは、隣の席の男子だった。黒縁の眼鏡をかけた色の白い生徒で、髪も瞳の色も真っ黒い色をしている。そのせいで、余計に肌の白さが目立った。
「教科書、五十八ページからだよ」
「ありがとう」
葵は礼を言った。よく見ると、彼は鼻筋の整った彫の深い顔をしている。ついつい視線が引き寄せられてしまった葵だったが、彼の肩の辺りがゆらめいて、そこから真っ白い煙が立ちのぼった気がした。
「あの、どうかした?」
じっと凝視されているのを感じて、隣の席の男子はおどおどしながら葵を見返す。
「なんでもない。名前、教えてくれる?」
「巳神一彦。よろしく」
小声でそう言って巳神は、はにかんだ笑顔を見せた。
もう彼の後ろに煙は見えない。葵は「よろしく」と答えて、前を向いて黒板の内容をノートに写し始めた。巳神の後ろから立ち上った煙を見なかったことにしたかった。
葵にはたまに不思議なものが見える。時折、家の中を横切る黒い影や、横断歩道の真ん中でずっと佇んでいる人の姿。
初めのうちは恐ろしくて色々な人に相談していたが、そのうち葵自身も気味悪がられるようになったので、なにも見えないふりをする事にした。実際に危害を加えられたことはないし、見えないふりをしていれば、向こうも葵に気付くことはなかった。
+ + + +
「ねぇねぇ、沢木さん東京から来たんでしょ? あの有名なパンケーキ屋さんに並んだことある?」
「俺はマンゴーのカキ氷食ってみたいんだよね! 本当にあんなふわふわしてるの?」
「それよりさぁ、道歩いてたら芸能人に会ったりするんでしょ。どんな人に会ったことあるの?」
休み時間になると、葵はたちまちクラスメイトたちに囲まれた。みんな沢木葵という人物を知りたがっているというよりも、東京の様子を知りたいという気持ちの方が先走っているようだ。
葵は苦笑いした。東京のイメージとは、こんな風なのか……。
「ごめんね。私が住んでたのは二十三区外だから、そんなに芸能人とか歩いていなかったし、渋谷までバスと電車で二時間近くかかるから、そんなにしょっちゅう遊びに行ったりしなかったんだ」
そう答えると、葵を囲んでいた生徒たちはがっかりしたように「なんだぁ……」とため息を吐いた。
転校初日は、とにかく控えめに振舞うこと。それが葵の考え方だ。調子に乗ってペラペラと話をすると、鼻持ちならない奴だと思われてしまう。
それに葵自身、例のパンケーキもカキ氷も、並んでまで食べたいと思ったことはなかった。道を歩いているだけで芸能人に出くわしたという経験も、残念ながら一度もない。
葵の父親はとにかく転勤が多い。ここに居られるのも、どのくらいの期間になるのかさっぱり分からない。長くても三年、短いときなど半年で異動の命令が出たときもある。
限られたごく短い間、波風を立てないようにのんびり過ごせたらそれでいい。転校を繰り返すうちに、葵はそんな風に考えるようになった。
+ + + +
「それにしても、今日一日すごい質問の嵐だったね」
放課後、巳神が少し遠慮がちに笑いながら葵に声をかけてきた。
二十三区外でも構わないから、どんなことでも都内の情報を知りたいという生徒たちが、その後も休み時間ごとに押し寄せてきたのだ。
彼女たちの質問はたいてい、どんな服が流行っているのか? とか、どんな店でそろえるのか? ということだった。葵はその度に、友人たちの間で流行ってる物などを細かく説明した。
「まったくね。私、ほとんどの質問に答えられなかった……」
葵が肩を落とすと、巳神は困ったように笑った。そうすると、切れ長の目じりが綻んで人懐っこい顔になる。
「田舎者にとって東京は憧れの場所だからね。見ての通り、ここら辺には山と畑しかないからさ、高校卒業したら、それこそ上京する奴らは一杯いるよ」
「巳神君は? やっぱり都会に飛び出したい派?」
「いや。俺は長男だから地元に残ることを期待されてんだよ。それに、こっから離れられない事情もあるし……」
最後の言葉は、独り言のようにポツリと呟いた。
それがなんとなく寂しそうに聞こえて、葵は相槌を打つだけで深くは尋ねなかった。
「あ、沢木さん家どこ? ひとりで迷わずに帰れそう?」
「家は山浦の方なの。一応、何度か道を確かめておいたし、ひとりでも帰れると思う」
「そこなら俺んちの近くだから、良かったら案内してあげるよ」
巳神がそう提案して、鞄を手にして立ち上がる。
「でも、巳神君部活は? 放課後は予定とかあるんじゃないの?」
彼の申し出は正直ありがたい。しかし、転校初日から男子生徒とふたりきりで帰るのは、無用な人目を引いてしまうような気がした。
それに、巳神は実はモテるのではないかと葵は密かに思っている。彼はこれといって目立つタイプではないが、男子生徒特有の浮ついたところがない。年の割には落ち着いていて、清潔感もある。派手に告白を受けるタイプではないが、影から彼のことを見つめている女子はきっと多いだろう。
「ああ、全然気にしなくていいよ。俺部活入ってないし、いつも真っ直ぐ帰るだけだから」
おまけに、自己評価があまり高くなさそうなところが、なおさら好感が持てる。
「帰ろう。早くしないと、街灯少ない道もあるから危ないよ」
巳神はさり気なく葵を促す。その押し付けがましくない誘い方が、なんだか葵には新鮮だった。決して強引ではなかったのに、その気にさせるのが上手いなと葵は感心した。
「うちの学校はどう? やっていけそう?」
ふたりで並んで歩きながら、ポツポツと巳神が話しかける。
「そうだね……生徒が少ないから溶け込むのに時間はかかるかもしれないけど、みんな楽しそうないい人たちでよかった」
「沢木さんってさ、なんだか大人だね」
「そうかな?」
「うん。一歩引いてるっていうか――わざと自分を消して、個人として認識させないようにしてるっていうか……」
葵は驚いて立ち止まった。そんな事を言われたのは初めてだった。
巳神はじっと葵の目を見つめてくる。
「周囲に同化することで、うまくやり過ごそうとしているみたいだ。いま沢木さんが言った『溶け込む』とか、自己紹介のときに言ってた『慣れる』とかいう言葉を聞いてたらそんな気がしてきた」
巳神は少し考えるように顎に手を当てる。そして、額が触れそうなほど距離を詰めてきた。
真っ黒だと思っていた彼の瞳が、不思議な鉛色に輝いて見えた。
「危ないよ、そういう考え方。流されることに慣れると、本当に自分の意思を通したいときに踏ん張れなくなるから」
巳神の声は今まで聞いたことがないくらい低い。葵が面食らってなにも言えない事に気が付くと、巳神は顔を赤らめてから、さっと葵から離れていった。
「変なこと言ってごめん。じゃあ、俺はこっちの道だから。また明日ね」
巳神は落ち着かない様子で何度も眼鏡をずりあげながら、分かれ道を早足に歩いて行った。
葵は返事を返すことができずに、呆然としながら巳神を見送っていた。遠ざかっていく彼の背中がまた揺らめき、そこに白っぽい色をした長いものが巻きついているのが見えて、慌てて目を擦った。しかし、もう一度目を向けたときには彼の背中はもう見えなくなっていた。
+ + + +
次の日、葵は手紙をもらった。朝学校に来ると下駄箱の中にそれが入っていたのだ。封を開けてみると、さっそく巳神と一緒に帰ったことに対する抗議の内容だった。昨日、ふたりきりで帰ったことが失敗だったと改めて反省する。
過激な言葉はほとんど使われていないが、どれほど巳神を好きな女子が多いかということを知るには十分だった。
「私がよそ者だっていうのが、一番まずい原因なのかもなぁ」
隣の席をチラリと見る。もう二時間目なのに、巳神はまだ来ていない。昨日は元気そうに見えたが、案外体が弱いのかもしれない。
「巳神君って、今日は休みなの?」
前の席の女子に尋ねてみると、彼女は首を横に振った。
「どうだろう? でも巳神くんって、たまに遅れてくるんだよね。一ヶ月に二、三回くらいかな。たぶん今日もそのうち来るんじゃない?」
「そうなんだ」
サボり癖があるのだろうか。葵はなんとなくがっかりしたような気持ちになった。
昼休みになっても巳神は姿を現さなかった。
弁当を持ってきていない葵は、購買でパンを買って教室に戻るところだった。葵の母は料理を作るのがあまり得意ではない。今までの学校には学食があったので、そこで毎日昼食を食べていたが、この学校には学食がない。そうなると、自分で作るか購買でパンを買うかの二択になってしまう。自分で作るのは面倒だし、まだ荷物も碌に解いていないので、葵はパンを買うことにしたのだ。
葵はまだ、昼食を食べる特定の友人はいない。昨日は物珍しさから誘ってくれた子がいたけれど、今日声をかけてみたら、やんわりとお断りされた。
「ごめんね。今日は委員会があるから……」
そう言っていた生徒の顔はどことなく後ろめたさを隠していた。やはり、今朝もらった手紙の中身が原因なのだろうか、と葵は考えた。教室に戻るのが億劫になってきた。
「あれ、沢木さんこんな所でなにやってるの?」
後ろから声をかけられて、葵は振り返った。そこには鞄を手にした巳神が立っていた。
「ああ、購買でパン買ってたのか」
葵が手にしているパンの包みを見て、彼は自分の質問に勝手に納得していた。
「巳神くんこそ、体調はもう大丈夫なの? 月に二、三回ぐらい調子崩すんでしょう?」
「まあね。ちょっと具合が悪くなるときがあるんだけど、今日はもう平気だよ」
そう言って笑う巳神の顔色は特に悪いようには見えないが、なにかを隠しているようなほんのりと嘘の気配がした。なんとなく彼が休んだのは仮病のような気がして、葵は巳神を非難するような目をしてしまった。
すると、巳神の体の上をずるずると白い煙が移動しているのが見えた。彼の体を這いまわるように長いものが巻きつき、締め上げている。
葵は目を剥いた。彼の体の上を這い回っていた煙は、いつの間にかはっきりとした色と形を持って葵の前に現れた。それは、胴体が成人男性の二の腕ほどもある巨大な蛇だった。模様はない真っ白な蛇だ。
そいつは葵に気が付くと、大きな鎌首をもたげて威嚇するように鋭い歯を見せてきた。
「へ、蛇!」
葵は腰を抜かした。蛇は長い牙を見せたままますます口を大きく開く。
『姿が見えるのか?』
葵は腰を抜かしたまま、口までぽかんと開いた。なんと、蛇が人の言葉を話したのだ。
「しゃ、しゃべった!」
「え? 沢木さん声も聞こえるの!」
巳神も驚いていた。しかし、すぐに思い出したように自分の体に巻きついている蛇をぎゅうっと両手で押さえつける。
「あ、これちょっとまずいかも……。沢木さん逃げて」
「え?」
「いいから走って! 俺から離れて」
『逃 が す か』
再び蛇が口を開き、その巨大な口内に並ぶ鋭い牙が光った。つぎの瞬間、蛇が葵の右手に噛み付いた。焼けるような痛みで目の前がチカチカした。蛇の牙を介して、得体の知れないなにかが葵の体に流れこんでくる。
巳神は必死に葵に巻きついた蛇を引き剥がそうとしているが、蛇の牙が腕に食い込んでなかなか離れない。
葵は気が遠くなった。必死な表情をしている巳神の顔だけが、目に焼きついて離れなかった。
+ + + +
気が付くと、葵はベッドの上にいた。固いマットレスに真っ白いシーツ。ここは保健室だった。
「ああ起きたね。具合はどう? 体でどこか辛いところはない?」
「……大丈夫です」
「貧血かしらねぇ。顔色は大分よくなったし、熱はどう?」
養護教諭と思われる中年の女性が、葵に体温計を渡してきた。葵は大人しくそれを脇に挟み、どうして保健室に運ばれたのかを思い出した。
噛まれたのだ。巳神の体に巻きついていた巨大な蛇に……。
「熱はなさそうね。気分がいいなら、もう教室に戻ってもいいよ。それとも、もうすぐ下校時刻だからここに鞄を運んでもらおうか?」
「いえ、教室に帰ります。ありがとうございます」
お礼を言って保健室を出ると、もう午後の授業は全て終わった後だった。葵は制服の袖をまくり、蛇に噛まれた箇所を確認する。あれだけ深く噛まれていれば、跡が残るかもしれないと思ったのだ。しかし、そこには傷一つ付いていなかった。
「なんで?」
葵は、夢でも見ていたのだろうかと考えたが、夢にしては噛まれた瞬間の事を生々しく記憶していた。腑に落ちないながらも教室に戻り、帰りのホームルームだけはきっちりと出席した。
隣の席の巳神に話しかけようとしたが、彼は下を向いたままこちらに目を向けようともしない。葵としては、さっきの出来事の詳細を聞いておきたかったのだが、彼が話したくないのなら仕方がない。
もう帰ろうと思って席を立つと、同じタイミングで巳神も立ち上がった。彼は今までにないくらい思いつめたような顔を葵に向けてくる。
「ちょっと、話したいんだけどいいかな?」
葵は頷く。
「じゃあ屋上へ行こう。他の人には聞かれたくないから」