表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

夫婦鷲

 航空自衛隊千歳基地。

 空自の基地の中で、この基地ほど知名度の高い基地も無いだろう。ソビエト連邦極東ロシア軍を指呼の間に臨む、北方の最前線基地として、幾度かメディアに紹介される事が多かったのが、その理由かもしれない。

 事実、年間を通して、那覇とともに最多スクランブル発進数を記録しているおり、この基地は常に緊張に包まれていた。

 ……ごく一部を除いて。


「よく降るな」


 猛烈に吹雪いている屋外に目をやり、風間かざま 裕也ゆうやは憂鬱そうに呟いた。

 季節は12月。北海道は冬真っ只中だ。

 航空自衛隊千歳基地には、F-15Jを装備する2個飛行隊、第208、209飛行隊が配備されている。

 裕也は、第209飛行隊所属の戦闘機パイロットだ。 若手の部類に入る裕也だが、技量の高さもあってか、既にエレメント・リーダー(編隊長)資格を有していた。

 裕也はもう一人の同僚と共に、航空自衛隊の任務の一つである、国籍不明の領空侵犯機に対する対処任務――アラート待機に就いているところだった。


「こんな時にスクランブルかかったら面倒だな。なあ?」


 同意を求めるように、ソファに座っている相棒に呼びかけた。だが、返事が無い。


「……?」


 不審に思い、振り返った裕也は、絶句した。


「くー……すー……」


 相棒は、ソファにもたれかかるようにして、安らかな寝息を立てていたからだ。

 女性だった。二十代に届いているのかどうか疑わしいほどに、あどけない、それでいて、髪型こそ男性のように短めだが、なかなか整った顔立ちをしていた。無骨なフライトスーツに身を包んでいる事からすると、彼女は裕也と同じパイロットのようだ。

 裕也は、十秒ほど唖然としていたが、やがて我に返ると女性の傍まで歩み寄り、容赦無く頭を引っ叩いた。


「うにゃ!?」


 寝息同様の可愛らしい悲鳴を上げ、女性は飛び起きた。


「何すんのよう!」


 目を覚ました彼女は、恨めしそうな上目遣いで裕也を見上げた。彼女の飛行服の左胸の辺りには、「N・KAZAMA」というネームタグが縫い付けられている。


「何すんのよ、だと!? お前こそ何してんだ!!」

「お昼寝」


 今度はグーで殴った。


「痛いぃ~」


 女性は、殴られた頭を抱えて蹲った。


「アラート待機中に昼寝とは余裕だな、奈美なみ


 裕也は低い声で言った。声音こそ冷静だったが、よく見ると、こめかみの辺りに青筋が浮かんでいる。


「ぶった…ぶったね!? しかも、グーで! 親父にさえ、ぶたれた事ないのに!」

「あのなぁ……」

「盲目的女権団体に訴えてやる! 「夫が些細な事で暴力をふるうんです」って!」


 奈美は、口をへの字に引き結び、今にも泣き出しそうな目で、裕也を睨みつけた。


「……もういい」


 裕也は疲れたように呟くと、奈美の正面にあるソファに腰を下ろした。


(ったく…なんで、こんな奴が空自にいるんだ?)


 彼女――風間 奈美は、航空学生時代からの裕也の同期生で、裕也と同じ209飛行隊の戦闘機パイロットだ。各国の空軍でもそれほど多くは無い、女性戦闘機パイロットだ。もちろん、航空自衛隊では初の、という事になる。

 彼女が、この209飛行隊に配属された時、あらゆるメディアに注目されたのは、想像に難くない。

 以前、捏造と偏向で有名な「自称」国営放送テレビ局が取材に来た時、リポーターが、彼女にこんな質問をした事があった。


「領空侵犯してきた他国の軍用機と接触したときは、やはり緊張しましたか。怖かったですか?」


 それに対して、奈美はにっこり微笑み、その場にいた全員が、唖然とする答えを返した。


「いやあ~。台所で、ゴキブリを見つけた時ほどじゃあなかったですよ~。北海道でもゴキブリって出るんですね~」


 それも、生放送の場面でだのことだ。

 裕也は、その時の事を思い出して、胃の辺りを抑えた。

 しかし、性格はともかく奈美は、裕也に勝るとも劣らない卓越した操縦技術の持ち主だ。

 特に、裕也とペアを組んでの編隊戦闘においては、絶妙のコンビネーションを発揮し、隊内では無敵を誇っている。

 ある時などは、巡回教導に来た飛行教導隊編隊を手玉に取ったほどで、今でも隊内で語り草になっている。

 だが、それだけではない、もう一つの重要な点がある。


(俺は……なんで、こんなすっとぼけた女に惚れちまったんだ……?)


 裕也は、本日始まって以来、最大級の溜息をついた。

 先ほどの奈美の台詞からも解る通り、二人は夫婦だったりする。

 性格はまるで正反対にもかかわらず、なぜか気の合った二人は、何度かプライベートな交際を繰り返し―気が付いたとき、奈美の薬指には結婚指輪が輝いていた。

 夫婦そろってイーグル・ドライバーである彼らを、僚友達は、親愛と多少のやっかみを込めて「夫婦鷲めおとわし」と呼んでいた。


「今日は、スクランブル無さそうだねえ」


 裕也の内心を知ってか知らずか、奈美は嬉しそうに言った。

 裕也は待機所の時計に目を向けた。後15分ほどで、自分たちの直帯は終わりだ。


「……気を抜かないほうがいい。こういうときに限って、ホットスクランブルが掛かったりするからな」

「心配性だねえ、裕くんは。大丈夫だよ、ウラジオストクの辺りも今日は大荒れらしいし、いくら露助でも、こんな日に遊びに来たりは……」


 気楽な口調で、奈美が言いかけたまさにその瞬間だった。

 待機所内に明かに心臓に悪そうな、けたたましいサイレン音が鳴り響いた。


「と……!!」

「あ、スクランブル……」


 裕也と奈美は反射的に立ち上がると待機所を飛び出し、アラートハンガーに向かって駆け出した。


「もう! 裕くんが変なこと言うからだよ!!」


 走りながら奈美は、並走する裕也に愚痴をこぼした。


「俺のせいか!?」


 奈美の口調が本気で咎めるようだったため、裕也は少したじろいだ。


 アラートハンガーに駆け込んだ裕也は、灰褐色の制空迷彩を施された、乗機F-15Jに駆け寄った。

 自分の機体にかけられたラダーを一足飛びに駆け上がり、シートに身を沈めると、コックピットにあるヘルメットをかぶった。ヘルメットには「FUMAフーマ」と、彼のTACネームがプリントされている。

 駆け寄った整備員の手を借り、Gホースを接続、座席のハーネスを締め上げる。そうしている間にも、F-15Jの周りには数人の整備員が取りつき、発進準備を整えていた。

 機体に取り付いていた整備員たちが、左右の主翼下のパイロンに2発ずつ装着された、国産の赤外線誘導ミサイルAAM-3と、機体の真下に装着されたガロンタンクから、安全ピンを抜き取った。

 整備員たちが機体の傍から離れると、主任整備士が裕也に向けて、兵装チェック完了の合図を送る。

 親指を立ててそれに答え、裕也はエンジンを始動させた。


「フォクシーフライト、チェック・イン」

「2」


 奈美の2番機から、間髪入れず、発進準備完了のコールが入る。

 エンジンを始動した2機のF-15Jは、ほぼ同タイミングでハンガーから滑り出し、滑走路までタキシングを開始する。


「チトセ・タワー、フォクシーリード。スクランブルオーダー」

「フォクシーフライト、チトセ・タワー。クリアド・フォー・テイクオフ」


 滑走路端に到達したフォクシー編隊へ、管制塔から離陸許可が下りた。


「フォクシーリード、ラジャー。クリアード・フォー・テイクオフ」


 管制官の離陸許可に、裕也が応答する。


「よし、行くぞ。ウェーブ、横風に注意しろよ」

「了解」

「フォクシーリード、テイクオフ!」


 発進をコールすると共に、裕也はスロットルを開けた。

 凄まじい衝撃音を残し、裕也のF-15Jが滑走を開始した。

 奈美は乗機のコックピットで、裕也の機体が見る見る遠ざかっていくのを確認した。


「さて、と。次は私ね……フォクシー2、テイクオフ!」


 裕也の機体がちょうど滑走路を離れる頃、続いて奈美が離陸滑走を開始した。

 離陸を完了した2機のF-15Jイーグルは、ベイパーを引きながら、ハイレートクライムで瞬く間に雲上に駆け上がって行った。




 千歳基地を飛び立った2機のF-15Jは、千歳基地の管制下を離れ、三沢防空指揮所の管制下に入った。


「フォクシーフライト。こちらミサワ・コントロール。アンノウン(所属不明機)への誘導を開始する。方位040、高度200に上昇せよ」

「フォクシー・リード、了解」

「2」


 2機は要撃管制の誘導と、レーダーサイトからのデータリンクに従い、領空に接近するアンノウンに向け飛行していた。

 厚い雲のせいで、地上を視認する事は出来ないが、2機は海上に出ていた。


「ねえ、フーマ。今日のお客さん、何だと思う?」


 奈美が裕也に尋ねた。今日の夕飯のおかずは何がいい? と言い変えても違和感が無いような、のんびりした口調だ。


「さあな……」

「あたし、バジャー(Tu-16)だと思う。フーマは?」

「ん…? まあ、俺もそう思う」

「駄目だよ、それじゃ!」

「何が?」

「それじゃぁ、賭けにならないでしょ!?」


 あまりにも真剣な奈美の口調に、裕也は頭を抱えたくなった。操縦桿を握っていなければ、間違い無くそうしていただろう。


「フーマはベア(Tu-95)にしなよ。ね? ハイ、決定~」


 裕也ははしゃぐ奈美を無視し、前方に視線をこらす。

 やがて、数キロほど先に、豆粒ほどの大きさの、飛行物体を発見した。


「フォクシーリード、タリホー・ターゲット。12オクロック」

「2、タリホー・ターゲット!」


 裕也がターゲットの発見をコールすると、続いて奈美も発見をコールした。

 接近するにつれ、銀色の機体が2人の目に入った。2人の駆るF-15Jの、優に二倍以上の大きさの機体だ。垂直尾翼には全体主義のシンボルともいえる赤い星。

 ソビエト海軍電子戦機、Tu-16Jバジャーだった。


「やった、バジャーだ!! 私の勝ちだよ、フーマ」

「ミサワ・コントロール。フォクシー・リード。機種はTu-16Jバジャー」


 奈美の戯言を完全に無視し、裕也は管制官に機種を報告した。


「電子偵察仕様のJ型だ」

「フォクシー・リード。ミサワ・コントロール。了解した。ただちに、通告、ならびに写真撮影を実施せよ」

「フォクシー・リード、了解。これより、通告ならびに写真撮影を実施する」

「いつもの定期便だね。さくっと追い返しちゃお」

「油断するな! どこにミグやスホーイが潜んでるいとも限らん」


 あくまで気楽な奈美に、裕也はきつい口調で釘をさす。


「大丈夫だよ、フーマ。じゃ、記念撮影するねー」

「……ったく。俺はケツにつける。気を抜くなよ、ウェーブ」

「りょーかーい」


 奈美と裕也は編隊を解き、それぞれ、バジャーの左前方と右後方に遷移した。


「『通告する。我々は、日本航空自衛隊である。貴機は我が国の領空に接近している。直ちに進路を変更せよ』」


 バジャーは、裕也の通告などそ知らぬ様子で飛行を続ける。このまま行けば、数分で日本の領空に侵入する。

 その裕也の声を聞きながら奈美は、右手で操縦桿、左手で一眼レフを構え、ファインダーを覗きこんだ。


「ん~?」


 シャッターを切ろうと、ファインダーを覗きこんだ奈美だったが、バジャーの後部銃座の乗務員が、奈美に向かって何かハンドシグナルのようなものをしていた。


「え……なに?」


 よく見ると、指を立てていた。真中の指を。


「むっか~! この露助め!」


 奈美は怒りに震えながらも、立て続けにシャッターを切った。


「領空まで、あと5マイル」


 要撃管制官が、緊張した声で言った。


「『貴機は我が国の領空に接近している。直ちに進路を変更せよ』」


 裕也は通告を続けるが、バジャーが進路を変える気配は無い。裕也たちを嘲笑うかのように、悠然と飛行を続けている。


「ターゲットは領空を侵犯した。警告を開始せよ!」


 要撃管制官の緊張した声が、裕也の耳を打った。


「ちっ……了解!」


 裕也は小さく舌打ちをすると、ロシア語で警告を開始する。


「『警告する! 貴機は我が国の領空を侵犯している。直ちに退去せよ!』

 ロシア語で何度か警告するが、バジャーは警告に従う素振りは見せず、悠々と領空侵犯を続けていた。


(……シカトしやがって。こっちが手を出せないと思ってやがるな)


「ウエーブ、ちょっと遊んでやろうか」

「はあい。待ってましたあ」


 奈美は嬉しそうに言うと、瞬く間にバジャーの前方に踊り出た。そこで減速し、バジャーの進路を妨害するように、フラフラと飛行を始める。

 同時に裕也はバジャーの真後ろに回りこみ、赤外線誘導ミサイルによるロックオンを開始した。

 HUD上に菱形のダイヤモンドシーカーが出現し、バジャーのエンジン基部にロックオンをかける。ヘッドセットを通じ、裕也の耳に心地よいオーラルトーンが響き渡った。

 突然進路を妨害され、さらに後方からロックオンをかけられたバジャーは、明らかに混乱していた。クルーの混乱ぶりが、機体のコントロールにも表れているようで、バジャーの機体が不安定に左右にぶれた。

 バジャーのクルー達は、自衛隊が、こんなあからさまな脅しに出るとは思ってもみなかったのだろう。

 慌てて、そちらの警告に従うとばかりに翼を左右に振った。

 バジャーに対して示威行動を加えている最中も、裕也は周囲の警戒を怠らなかった。だが、どうやら護衛機の姿は無いようだ。


「よし、もういいだろう。そろそろ領空圏外だ」

「了解。ちぇっ、根性無しめ」


 悪態を一つつくと、奈美はバジャーの進路を妨害するのを止め、上空に移動した。同時に、裕也もロックオンを解除する。

 前方と後方の脅威が無くなると、バジャーは慌てて機首を巡らし、領空圏外へほうほうの体で離脱していった。


「ミサワ・コントロール。こちらフォクシー・リード。目標はポイントCを離脱して北上。領空圏外へ去った。時刻07:20」

「ミサワ・コントロール了解。たった今、こちらのF-2を発進させた。フォクシー編隊はCAP(戦闘空中哨戒)を引き継ぎ、千歳に帰還せよ」

「フォクシー・リード了解。よし、おうちに帰るぞ。雲を抜ける。しっかり付いて来い」

「2」


 緩やかな角度でバンクしながら、2機のイーグルは雲海に突入した。


「うひゃあ」


 奈美は思わず声を上げた。


(んー、何にも見えないなー……)


 灰色の厚い雲のせいで、キャノピーの外は何も見えない。


(……あれ?)


 何気なく計器に目を向けた奈美は、計器パネル中央の、機体の傾きを示す姿勢指示器の表示がおかしい事に気付いた。さっきまで、水平飛行をしていたはずなのに、姿勢指示器は、機体が左にバンクしている事を示していた。


(おっかしーなあ?)


 操縦桿を右に倒す。今度は、機体が右にバンクしている事を示した。


(なんでだろ……機体がバンクする。水平飛行に戻したはずなのに)


 首を傾げつつ、水平飛行に戻すべく、今度は操縦桿を左に倒した。


「フーマ? 何処にいるの?」

「お前から見て、2時方向だ」

「え……どこ? 見えない、よ……?」


 奈美は右前方を見るが、厚い雲のせいで、裕也の機体は確認できない。


「なんかさあ……機体が変なの……」

「落ち着け。計器をよく見ろ」

「見てるよ! だけど、変なの。真っ直ぐ飛んでるはずなのに、バンクしてるんだよ!」

「……なんだって?」

「お、おかしいよ! 故障してる……どうしよう、計器が故障してるよう!」


(奈美……まさか!?)


 雲海を抜け、奈美の機体状態を確認したとき、裕也の顔から血の気が引いた。

 奈美の機体は背面になっていたからだ。しかも、徐々に高度を下げている。


「いや……! 助けて、助けて裕くん!」


 混乱のあまり、奈美はTACネームではなく、裕也の名前を叫んでいた。


(畜生! バーティゴか!)


 奈美の悲痛な叫びに、裕也は歯噛みした。


 バーティゴ――空間識失調と呼ばれるそれは、視界の利かない雲中や夜間飛行で、自分が今、どんな姿勢で飛行しているのかわからなくなってしまう現象だ。上下左右の感覚を喪失し、知らず知らずのうちに、旋回をしていたり、背面飛行になったりして、酷い時にはそのまま墜落してしまう事すらある。

 バーティゴに陥ったときの対処法は、自分の感覚をあてにせず、ひたすら計器の示す情報を信用する事。計器の示す情報は常に正しいからだ。


「ウェーブ、落ち着け。計器飛行に切り替えるんだ。計器は正確だ、信用するんだ」


 内心の動揺を必死に押し殺し、裕也は勤めて冷静に、編隊長としての指示を飛ばした。

 しかし奈美機は、背面飛行のまま、よろめきながらどんどん高度を下げていく。このままでは、例えベイルアウトしたとしても、無事に着水できるとは限らない。 よしんば、着水できたとしても、この季節では5分ともたない。


「フォクシーフライト、どうした。トラブルか?」


 異常を察知した三沢基地の邀撃官制官が、裕也に呼びかけたが、裕也はそれを無視した。


「ウェーブ、ウェーブ! 落ち着いて指示に従え!」


 裕也は呼びかけるが、パニックに陥っている奈美の耳には届かない。


「いや……助けて……助けて…!」


 奈美の悲痛な悲鳴が、ヘッドセットを通して、裕也の耳を打った。

 そうこうしているうちに、高度は既に2千フィートを切っていた。


(こうなったら……一か八かだ)


 裕也はスロットルを全開にし、アフターバーナーを入れた。

 

 一方の奈美は、完全なパニック状態に陥っていた。自分の感覚が信用できない。かといって、計器の示す情報も信じられない。自分の頭上に広がっている灰色が、厚い雲に覆われた空なのか、海なのかも判然としない。奈美はどうする事も出来ず、その只中に突入しようとしていた。

 その時、奈美の頭上に突如として、巨大な影が現れた。


「……っ!」


 それが何かを考えるよりも先に、奈美は反射的に衝突を避けるために操縦桿を前に倒した。意識しての行動ではなく、パイロットとしての本能がそうさせた。


「う、あ……!」


 視界が真っ赤に染まる。

 急激なマイナスG(上方向に加わるG)により、頭部に血液が集中し、視界が真っ赤に染まる現象――レッドアウトだ。

 慌てて操縦桿を戻すと、徐々に視界が回復した。奈美は頭を振り、自分の頭上を振り仰ぐ。


「裕……くん?」


 ほんの数メートル先に裕也の操るF-15Jがあった。バイザーが無ければ、キャノピー越しに、おたがいの表情が確認できるほどの近距離だ。


「あ、危ないじゃない……ぶつかるところだったよ」

「ウェーブ。落ち着いて、これから俺が言う事を聞くんだ」

「え……?」

「いいから、聞け!」

「う、うん」

「計器を見ろ、どうなっている?」


言われて奈美はHUDと、次いで計器パネル中央の姿勢表示器を確認した。


「は、背面になってる……」

 奈美は、まるで他人事のように、ぼんやり答えた。


「そうだ。高度を取って今すぐ水平に戻せ。自分の感覚を当てにするな。計器は正確だ。計器の情報を信用しろ」

「う、うん……」


 確かに、自分の機体はいつの間にか背面になっている。

 もし、あのまま上昇だと勘違いして下降を続けていたら。そう考えると寒気を禁じえなかった。

 奈美は慌てて機体を上昇させると、180度回転させ水平飛行に戻した。


「異常は無いか、ウェーブ」

「うん……大丈夫、ありがとう、フーマ」


 奈美は涙声になりながら答えた。


「ごめん……ごめんね、フーマ」

「気にするな。バーティゴはどんなベテランでもなっちまうもんだ。運が悪かったんだよ」


 裕也はなだめるように言うと、奈美機の下方に自機を潜り込ませた。

 奈美の機体に外傷が無いかチェックするためだったが、幸いなことに杞憂に終わった。


「フォクシーリード、応答しろ。何があった?」

「こちらフォクシーリード。フォクシー2がバーティゴに陥ったが、なんとかリカバリーした。機体に外傷、その他の以上は見受けられない。」

「ミサワ・コントロール、了解。フォクシーフライト、直ちに帰還せよ。無事で何よりだ」


 裕也の報告を受けた要撃管制官の声も、心なしか安堵の色を帯びていた。


「よし。今度こそ帰るぞ、ウェーブ。そろそろ燃料がビンゴだ」

「了解」


 奈美は、先程とは打って変わった、落ち着き払った口調で応答した。

 2機は編隊を組みなおすと、三沢のF-2隊にCAPを引き継ぎ、千歳への帰路についた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ