問題篇
ねぇ、しきたりで先輩を「お姉さま」って呼ばなきゃいけない学校なんて、本当にあると思う? 挨拶が「ごきげんよう」一択な学校は?
しかもそこは山中の深い森の奥で、規則もめちゃくちゃ厳しくて、朝早くから礼拝堂でお祈りだって捧げちゃう、全国のお金持ちが集まってくるお嬢様学校。
冗談だろうって思うよね。そんなのはお話の中にだけ存在するものだって。現代の日本にそんな夢見がちな男子の妄想を凝縮しちゃいましたみたいな学校があるわけない、って。
……あるんだなぁ、これが。
わたしもお父さんから聞いた時は冗談だと思ったよ。しかも「高校はそこに行きなさい。手続きは済ませておいたから」だなんて。
笑っちゃうよね? 実際にヘラッと笑って「またまたぁ」って誤魔化そうとしたら、真顔でパンフレットを差し出されたんだけれども。
お父さんがいうには、わたしには女としての慎みがいちじるしく欠如しているらしい。一応、上流階級な家の娘であるわたしの行く末がはげしく心配なんだとか。
過保護なんだよねーウチのお父さんは。ちょっと娘が勉強もしないで山登りしたり、森に分け入って大地の恵みを大量採取してたくらいで、そんな。
そりゃ確かに中学三年生の女の子が夏休みをフルに使ってしたことが山菜採りなのは、自分でもどうかと思うけどさ。
ちょっとは抵抗してみたけど、お父さんの頑強な心の砦はチリ一つも崩せず、お母さんにも穏やかに「いってらっしゃい」と微笑まれてしまった。
味方のはずの母にまで裏切られてギザギザのガラスハートを抱えつつ、わたしはその山奥のお嬢様学校――聖ルーティア学院に足を踏み入れた。
落ち着いた色合いの煉瓦造りの校舎、色とりどりの花が咲き誇る庭園、荘厳な佇まいの礼拝堂。石畳の並木道に沿って歩いた先には、やんごとなき令嬢たちが寝泊まりする寄宿舎があり、その脇にはちょっとした日用品ならなんでも揃うお店まであったりする。
全体的に古びた建物が多いなか、視聴覚室やPC室なんて現代的なものが数十年前からある辺り、やっぱりここはお金持ちの学校なんだなぁと思う。特に視聴覚室には戦前の映写機が保管されているらしい。なんだかブルジョアな歴史を感じる。まぁ、その割に生徒は校則で贅沢を禁じられてるんだけどね。
入る前からわかってたことだけど、ここでの生活はなかなか大変だ。
なにしろ謳い文句が『良妻賢母を育てる』な学校である。
礼節を重んじ、慎みをもってよしとする。けれども決して愚鈍となるなかれ。
そういった教育方針のおかげで、ここの生徒はこれまたやんごとなき家柄の子息や一大企業の後継者たちに大人気なのだ。ルーティアを卒業した、というだけで箔がついたりする。なので学院側も一切の手加減がない。一般教養や様々な場でのマナーはもちろんのこと、経営の心得や社会情勢についてのお勉強なんてものまであった。
いまだに政略結婚が普通に存在する界隈である。
エステや習い事教室に通って、あわよくば高年収のいい男をゲット! ……なんてお花畑な気持ちでは生き抜けない世界なのだ。ハイスペックな旦那様を得たければ、その仕事を理解して最善の対応ができなきゃ問題外。そのためには最適な会話が出来るだけの知識と教養が必要だ。いまはバカップル丸出しの両親も、元は政略結婚だったから、わたしだってそれくらいは知っていた。
うん。わかってる。
……わかってるんだけどね。
それでも、いましか出来ないことってあるじゃない? もし万が一、わたしがその高貴な方々と結婚することになったとして、山菜と木の実採集ツアーとかさせてもらえなさそうだし。それなら自由になる時間のある内に、好きなことをして過ごしたいと思うのは決しておかしくないと思うんだ。もちろん、必要最低限の勉強はしてるよ。……ホントだよ?
なんやかんやと問題もあったけど、それでもわたしが学院に入ってから、早くも二ヶ月が過ぎた。――そんな、ある日のこと。
そろそろ仲良しグループが固定されはじめたクラスは、とある話題で持ちきりになっていた。
「……それでね、彼女はシスターの目を盗んで寮を抜け出したんだ。真っ暗闇の中でぶるぶる震えながら、なんとか視聴覚室に辿り着いた。……ドアノブに触れると、なんだかいつもより冷たい気がしたんだって」
「キャーッ!?」
隣にいた女の子がいきなり悲鳴をあげて、思わずビクッとなってしまった。
「ちょっ……まだ早いよ、弥生……」
そういって、わたしの向かいに座るボーイッシュな女の子が呆れたように溜め息を吐く。
……気持ちはわからないでもない。
これから彼女の話はじわじわと盛り上がっていくところだったのだろう。せっかく作り上げたシリアスな雰囲気は、いまや完全にポッキリと折れてしまった。
「だ、だって、怖かったんだもの……」
涙目で抗議するのは、色素の薄いふわふわの髪と瞳が印象的な、人形みたいな女の子。
全体的に細身で目尻も頼りなく垂れているのに、そのお胸だけはとても自己主張がはげしくて、いつか心ゆくまで揉みしだげふんげふんっ! ……まぁ、その。可愛らしい女の子だ。
彼女の名前は小早川弥生ちゃん。なんでもちょっと西洋の血が入っているらしい。母方のお祖父さんがフランスの有名な建築家なんだとか。
そんな弥生ちゃんを半眼で見ているのは、やや吊り気味の大きな眼が勝気な印象の、宵島千尋ちゃん。
すらっとした手足とショートの黒髪。たとえ誰が相手でも崩れない凛とした雰囲気が、まるで歌劇団の男役みたいだと思う。本人には内緒で『千尋様に顎をクイッとされ隊』という学内ファンクラブが結成されているのを、わたしは知っている。ちなみに会員ナンバーは五番だ。ちょっと出遅れた。
「……小桃。口が開きっ放しでアホみたいな顔になってるぞ」
そんな彼女の物言いはちょっぴりスパイシー。それでもわたしは大事な友達だと思ってる。千尋ちゃんもきっとそうだよね! わたしはにへらと誤魔化しながら口を閉じた。
小桃はわたしの名前。高遠小桃という、なんとしても娘に花の名を入れたかった案外乙女チックな父がつけた安直な名前だ。
三人部屋の寮で同室だったわたしたちは、入学してすぐに仲良くなった。女ばかりの園に馴染みにくい性格だったのが理由の一つだろう。千尋ちゃんは気が強くて、弥生ちゃんは逆に気が弱すぎて。わたしは色々とふわっふわなおかげで、当時、それぞれが学院ではちょっとだけ浮いていた。
それでも不安だった高校生活でうまく友達を見つけられたのだから、自分のいい加減な性格に感謝していいのかもしれない。たとえそれが学院に送り込まれることになった最大の原因だとしても、だ。
「あーあ。弥生のおかげで白けちゃった」
「ご、ごめんなさい……」
わたしが遠い目をしていると、千尋ちゃんが弥生ちゃんをなじりはじめた。
二人は幼稚園からの幼なじみらしく、普段はすごく仲がいいんだけど、たまーにこうしてケンカをする。というより、千尋ちゃんがよく一方的に怒っていた。
短気な彼女は弥生ちゃんのおっとりした性格が歯痒いのだろう。それでも、気弱な弥生ちゃんがいじめられないように守ってあげてるのも知っている。
どれどれ、ここは場を和ます天才とまでいわれたわたしが、仲直りに一肌脱ごうじゃないか。
「千尋ちゃん。左眼を突かれたら右眼を差し出しなさいっていうでしょ? 争いはなにも生まないよ。弥生ちゃんを許してあげてよ」
「……会った時からいつかは言うつもりだったけど、小桃は思いつきで喋らない方がいい。アホがバレる」
「ずっとアホだと思ってたの?!」
ビックリした。そんな暗黒面を二ヶ月も胸の内に秘めていたなんて。ちょっと裏切られた気分だ。よくわたしと冷静に会話してたな。
なんとなくローマのカエサルさんに親近感を抱きつつ愕然としていると、傍らからクスクス笑う声が聴こえた。見たら弥生ちゃんが口元を押さえて肩を揺らしていた。
どうやら悲しい気持ちは引っ込んだようだ。うん、やっぱりみんな仲良くしてる方がいいよね。険悪な空気にならなくてなによりだ。
――わたしのガラスハートが犠牲になったけどな。
いじけていると、やる気をなくした千尋ちゃんが椅子にもたれかかった。微かに椅子が軋む。シスターに見つかったら叱られそうな格好だ。そんなだらしない姿でもサマになるんだから、美人はズルい。
「まったく……弥生は臆病すぎるよ」
「だ、だって、怖いの苦手なんだもの……」
「なら聞かなきゃいいだろ」
「仲間外れはイヤ」
一転して弥生ちゃんがきっぱりいい切った。この子、結構イイ性格してると思う。
「ねぇ、千尋ちゃん。他にはどんな話があるの?」
昼休みはまだ二十分ほど残っている。暇をもてあましたわたしは、なんとなくまだ話したそうな友人に続きを促してみた。弥生ちゃんにジトっと睨まれた。
ごめんね。他に話題を思いつかなかったんだ。今夜トイレに行きたくなったらついていってあげるから、許しておくれ。
そんなわたしたちの密かなアイコンタクトには気づかず、少年みたいな友人はちょっと嬉しそうな顔をする。
千尋ちゃんは怪談話が好きだ。というより、学院にいる生徒の大半はそういった刺激的な話が好きなように見える。
なにしろここは娯楽が圧倒的に少ない。あるといえば巨大な書庫か、安息日の昼から視聴覚室で上映される映画。あとは花の咲き誇る庭園でティータイムとか、許可制の麓への外出くらいかな。それも護衛のゴツいおじさん付きバスツアーみたいなものだけど。
学院内へのケータイの持ち込みが許されるようになったのも四年前だっていうから、ここは本当に校則が厳しい。裕福な家庭で不自由なく育ったお嬢さまたちには退屈な環境だろう。それでも我慢しているのは、明るい未来を夢見てのことかな。中には敬虔な信徒の子もいるみたいだし。
わたし? もちろん休日には山を歩きまわってますとも。この間は採ってきた山菜を食堂の料理人さんと一緒にこっそり天ぷらにして食べた。至福の時間だった。……もうずっとここにいなよって、わたしの中の悪魔が囁いてる。
甘い誘惑に必死で抗うわたしを尻目に、千尋ちゃんは得意げに七不思議を語りはじめていた。
ホントに好きなんだなぁ、怖い話。あるいは、弥生ちゃんを怖がらせるの。
「今のが『視聴覚室の悪魔』だろ? あとは……」
嬉々として千尋ちゃんが話すのは、この学院にまつわる七つの不思議。いわゆる、『学校の怪談』というやつだ。「今どき?」などと侮るなかれ。古い建物も多いこの場所は、夜になるとかなり怖い。夜中のお手洗いなんてちょっとした肝試しだ。弥生ちゃんに何度叩き起こされたことか。暗い廊下に独りで待つ方だって、それなりに怖いというのに。
おかげでわたしの方はすっかり恐怖に耐性がついてしまった。
ガクガク震える級友を撫でつつ、聞いたのはこんな七つの怪談だった。
・『視聴覚室の悪魔』……夜中に視聴覚室へ行くと、ひとりでに映写機が動き出してスクリーンに悪魔の影が映し出される。その姿を見ても、決して声をあげてはいけない。
・『巨大な眼』……深夜一時、三階美術室の天窓を巨大な何かが覗きこんでいる。その眼に決して視線を合わせてはならない。
・『月夜の異空間』……満月の夜は庭園の蔓薔薇に覆われた大アーチの中が異空間と繋がって、元の世界と連絡がとれなくなる。誰かの声が聴こえても、決して振り向いてはいけない。
・『未来のワタシ』……0時丁度に旧校舎二階の踊り場の大鏡の前に立つと、自分の未来の姿が見える。たとえどんな光景が映し出されても、決して身動きしてはいけない。
・『異形の書物』……深夜二時二十二分、図書館の最上階に見たことのない書架が現れる。そこに収められた本は、決して手にとってはいけない。
・『亡者の炎』……新月の夜。礼拝堂に飾られた燭台のひとつに、青白い不気味な炎が灯る。その火を決して吹き消してはならない。
・『秘密の話』……聖ルーティア学院では奇妙な出来事が起きる。怪奇に見舞われた者は、決して誰にもそのことを話してはならない。
かいつまんで説明してくれた千尋ちゃんは、どこか満足気にわたしを見た。いや、正確にはわたしに抱きついた弥生ちゃんか。
「うーっ、うーっ」と震えながら吐き出される息が当たって、お腹が熱い。弥生ちゃんが密着する腹部から膝にかけての湿度が凄いことになってる。大きな胸って結構熱いんだなぁなんてぼんやり考えながら、自分の胸を見下ろす。……泣いてないよ?
それにしても、なんだか学院の七不思議は変なのばっかりだ。まず、結末がわからない。対処法は教えてくれるけど、七不思議にあった人が最終的にどうなるのかは謎のまま。なんだか曖昧な印象をうける。
内容は日本のベーシックな学校の怪談から西洋の伝承っぽい話まであって、ホラーのごった煮って感じかな。踊り場の大鏡の話は、わたしが通ってた小学校にもあった。
正直なところ、あんまり怖くはなかった。やっぱり怪談は日本のじめっとした理不尽な話の方が怖いよね。そもそも、九時以降に寮を出たら叱られてしまうわたしたちには、気軽に行けない場所ばっかりだし。
なんというか、現実味が少し足りない。だから弥生ちゃんもそこまで怯えなくていいんじゃないかな。そういって慰めると、
「で、でも、本当に起きた怪談もあるって聞いたもの……」
そんな、憔悴したような声を返された。
え、そうなの? わたしは千尋ちゃんに目を向ける。
「ああ、実際にいくつか体験した先輩はいたみたいだな。私もそんな話を聞いたよ」
「怪異にあっても話しちゃいけないっていわれてるのに? その話しちゃった人はどうなったの? よく寮を抜け出してシスターに見つからなかったね」
「知らないよ。……小桃って『帰れた人がいないのに、誰がその話をしたの?』とかいって場の空気をブチ壊すタイプだろ」
……なぜバレたし。
友達に気になったことを質問し続けていたら、いつしか『みんなで怖い話』みたいな集まりには呼んでもらえなくなった。寂しかった宿泊研修の夜。涙が止まらなくなりそうだ。
怖い話をする時にそういう質問はしちゃダメなんだと、中学三年生になってようやく気づいた。まぁ治ってないんだけどね。禁止されたことをやりたくなるのは、みんな同じなんじゃないかな? そうやって自分の衝動を正当化してみる。だって気になるんだもの。
あ、学院での不思議体験を話しちゃった人もそうなのか。
ひとりで納得していると、静かに誰かの足音が近づいてきた。わたしに抱きついた弥生ちゃんがビクッと肩を震わせる。
「こら、いつまで騒いでるの? もうすぐ午後の授業がはじまるわよ」
聞こえた声は決して幽霊や悪魔のものなんかじゃない。柔らかで透き通るような、春の風みたいに綺麗な声。
顔をあげると、そこにはわたしたちのクラスの副担任、古坂梨々子先生が立っていた。梨々子先生は二十七歳とまだ若く、清楚な美人なのに気さくな性格で生徒から人気の音楽担当教諭だ。はしたなく騒いでいたわたしたちに向ける視線も、どこか優しい色をしている。他のシスターなら確実に叱責されていただろう。ちなみに、先生はクリスチャンではないので修道服は着ていない。学院では珍しい一般の教諭である。
「小早川さんはどうしたの? なんだか顔色が悪いみたいだけど」
「あ、えっと。これは……」
……さて、どう答えたものだろう?
素直に「怪談をしていました」といっていいものだろうか。でも、そういうのって、あんまり先生たちには知られない方がいいんじゃないかな。さすがに梨々子先生にも呆れられそうだし。なにより学院全体で『怪談禁止』なんてことになったら、楽しみにしている他のみんなに申し訳ない。
「ごめんなさい、先生。ちょっと怖い話をしていたら、小早川さんが怯えてしまって」
そんなわたしの葛藤をよそに、千尋ちゃんが澄ました顔で真実を打ち明けてしまった。
えええ、いいの? だって淑女教育を第一とする学院で怪談だよ?
ひょっとしてクールなフリしてるけど頭が少しアレなのかな、と心配していたら、千尋ちゃんに凄い顔で睨まれた。……なんでわかったの?
え? 目つきでわかる? そんなバカな。わたしは純粋に親友の具合を心配していただけだというのに!
そんな視線だけのコミュニケーションを交わしていたわたしたちの頭上に、小さな溜め息が落ちてきた。
「怖い話が苦手な子に無理やり聞かせてはだめよ。可哀そうでしょ?」
「すいません。以後気をつけます」
肩を竦めて素直に謝る千尋ちゃん。かぶった猫が巨大すぎて戦慄する。なんて気持ち悪……あ、こっち見た。自重自重。
「って、あれ? 怒らないんですか?」
「まぁ、本当はキチンと指導しなきゃいけないんでしょうけど……私もここの卒業生だから、たまに息抜きしたくなる気持ちもわかるのよ」
そういって、梨々子先生は苦笑を浮かべた。
なるほど。だから他のシスターや先生たちと違って生徒への対応が柔らかいのか。それが良いのか悪いのかはわからないけれど、生徒からの人気が高いのも頷ける。
……でも、職員室で気まずくなったりしないのかな? さすがにいじめられたりはしないだろうけど、あんまり目立つと睨まれそうな気がする。女だらけの世界では、他の人と違う意見を口にするのも死活問題だというのに。
「あまりはめを外さないようにね。それと、次の授業は自習だけどサボっちゃだめよ?」
茶目っけたっぷりに片目を閉じて、先生は教壇へと歩きだした。
清楚系美人のウインク……っ! 思わず鼻血を噴き出しかけた。なんという破壊力! あの色気はどうすれば手に入るのだろう。大人? 大人になったら自然と身につくものなの?
ふと隣を見ると、先生の色香にあてられてフラフラのわたしを二人がじっと眺めていた。弥生ちゃんは元気になったみたいだね! ……うん、やめて。そんな残念な子に向ける眼でわたしを見ないで。自重しますから、お願いします。
そうこうしている内に古めかしいチャイムが鳴って、おとなしく席に戻る。
自習がはじまって、前の席から配られてきたプリントを受け取りながら、わたしはふと思いついた。
――そうだ。さっきのこと、あの子に聞きにいってみよう。
◇◆◇◆◇◆◇◆
授業を終えて寮に帰る途中、わたしは千尋ちゃんたちと別れて、木々の立ち並ぶ場所へとやってきた。
広い庭園を抜けた先にある、原生林のような背の高い樹木が鬱蒼と生い茂る場所。
茜色の空と暗い森の影が不気味なコントラストを描きだす――そんな場所に、『彼女』はいる。
あの子と出会ったのは、まだわたしが入学して間もない頃。いまや休日の習慣となった散策の最中に、この森の中へと迷いこんだ時だった。
あとから聞いた話だと、ここは生徒が近づいちゃいけない場所だったらしい。そのことをシスターから凄まじく叱られたのだけど、森にいたあの子と何時間か会話していたことを正直に口にしたらなぜか驚かれて、あれよあれよという間にお世話係を任じられることになった。
仲良くしてくれている食堂の料理人さん曰く、『彼女』は世界基準で考えても別次元と謳われる資産家の娘さんで、不興を買えば国家元首ですら身を滅ぼすほどの危険人物とされているらしい。それがなんで日本の学校にいるのかは分からないけど、おかげで生徒はおろか職員さんも扱いに困っていたのだとか。話を聞いて、わたしもちょっとだけ怖くなった。この森に行くっていうと千尋ちゃんたちが顔を強張らせるわけだ。それでも友達でいてくれるのだから、ホントにありがたい。
……でも、そんなに危ない子だとは思えないんだけどなぁ。
ちょっと冷たい感じはするけど、話しかければ普通に答えが返ってくるし、頭もすごくいいし、最近はごくごくたまーにだけど、笑ってくれるようにもなった。あと、信じられないぐらいの美人さん。
そういえば、二回目に会いにきた時はなんだかすごく驚いてた。それからちょっとずつ時間をかけて仲良くなれたような気がする。
もうこれは友達って呼んでもいいよね? わたしは料理人さんから渡された包みをギュッと胸に抱いて、暮れゆく森の中へと足を踏み出した。
木々に囲まれた小道をしばらく進むと、小さな教会が見えてきた。
石造りの堅牢な壁に、どっしりとした巨大な扉。その上の方には、小さく緻密なステンドグラスがはめ込まれている。屋根の上に設置された十字架にはびっしりと蔦が這っていて、ここが長く手入れされていないのを如実に表していた。
かつて、ここは特別なお祈りを捧げる場所だったらしい。それがどうして使われなくなったのかはわからないけど、『彼女』が来るまで無人のまま放置されていたそうだ。
それにしても、なんであの子はこんな不気味な場所にひとりで住んでるんだろう? 聞いたところだと自分から希望したって話だけど……。
疑問を抱きつつ、わたしは重い扉を開けて、ここ二ヶ月ですっかり見慣れた薄暗い教会の中へと足を踏み入れた。
「はろはろー。ロッテちゃん、わたしですよー」
暗い雰囲気を払拭するように、明るく呼びかけた。われながら間の抜けた声が、静謐な空間に木霊する。
中の光景はたぶん普通の教会と変わらない。焦げ茶色のベンチみたいな長椅子がいくつも並んで、巨大なステンドグラスの下には祭壇もあった。隅っこには立派なパイプオルガンまで置いてある。小さな教会だけど、設備はかなり本格的だ。
どこか神聖な空気が漂う景色のなか、最前列の席でむくりと影が動いた。
わたしと同じく修道服をモチーフにした制服をまとう、同級生の女の子である。
紅い夕陽を浴びたその半身は、まるで子供みたいに小さい。ひどくゆっくりした動きで『彼女』が伸びをすると長い白銀の髪がキラキラと輝いた。もし、雪の精霊がいるとしたら、あんな姿をしているのだろう。
やがて、寝起きらしい女の子は緩慢にこちらを向く。
透き通るほどに白い肌。触れれば壊れそうな儚い容姿に、ただ一点だけ、淡い紫の瞳が鮮やかな光を受けて揺らめいていた。
あまりにも幻想的な美しさを前に、わたしは思わず息をのむ。
「……遅かったですね。おかげで餓死するかと思いました」
――そして、やってきたのはこんな苦情である。
ねぇ、どう思う? 妖精みたいに綺麗な女の子がだよ? 真っ先にかけてくる言葉が、いつも「お腹すいた」なんだ。いまは夕方の六時。夕飯にはむしろちょっと早いくらい。
あの儚い容姿で、まさかの食いしん坊キャラとか。
詐欺だよね? この感動して呑みこんだ息はどうすればいいの? 鼻から噴き出して空でも飛んでみる? 返してよ。わたしのなけなしの詩的な称賛を、いますぐ返して。
などとやるせない思いで立ち尽くすわたしに、『彼女』――リーゼロッテは、指先をくいくいと動かして「早く持ってこい」と無言で急かす。彼女は家名が気に入らないらしく、ファーストネームしか教えてくれなかった。ロッテ、とあだ名で呼ぶのを許してくれたのも、つい最近になってのことだ。
「はい、これ。いつもの」
「ありがとうございます」
持ってきた包みを手渡すと、素直にお礼をいわれた。
そうそう、挨拶は大事だよね。なぜか日本語は流暢なのに礼儀は壊滅的だったロッテちゃんに、日本式マナーを叩きこんだ日々はいい思い出だ。
なにかしてもらったら『ありがとう』。これ、基本だからね。
満足げに頷くわたしを尻目に、ロッテちゃんはいそいそと包みを開けている。その手が、ピタッと止まった。
中から出てきたのは、竹の皮に包まれた大きなおにぎり三つとお漬け物。あと、おみおつけの入った水筒と揚げたての山菜の天ぷら。前に作ったのをおすそ分けしたら、ロッテちゃんが気に入ったらしく、ここのところ山菜の天ぷらは定番のメニューとなっている。
なんというか、すごくミスマッチだよね。見た目は完全に外人さんなのに、おにぎりと天ぷらが好物なんてさ。いや、たしかにここの料理人さんが作るごはんはどれも美味しいんだけど。それより、ロッテちゃんは食べないのかな? なんでわたしを悲しそうな瞳で見上げているの? ――うん。ちょっとおにぎりが歪んで、天ぷらも少し砕けてるね。
森に入る前の行動を思い出して、笑顔のまま硬直する。
「……なんで、こんなに潰れてるんです?」
切ない声で尋ねられる。
ロッテちゃん、基本的に無表情なのにね。いまはすっごい感情がわかるよ。
「あ、ああああああの、あのね!? こう、ロッテちゃんとの友情について、熱い思いがこみあげてきてね? それで……」
「……私のおにぎり…………」
「あ、あのね? そのー……えっと」
「…………私の天ぷら……」
「……」
小さな頭がどんどん下がっていく。――罪悪感で胸がハチ切れそうだ。
こんな時、どうすればいいのか。わたしは幼少期から積み重ねた経験で、その答えを得ている。よし、腹はくくった。さぁいくぞ。せーの。
「――ごめんなさい」
悪い事をしたら『ごめんなさい』。
そんなこと、幼稚園児でも知ってる常識だった。
「……学院の七不思議?」
「うん。今日はその話題でみんな盛り上がってたんだ」
一緒にお持たせの夕飯を平らげたあと、わたしとロッテちゃんは、食後のティータイムを楽しんでいた。飲んでいるのは生姜がほんのり香る琥珀色の冷やし飴。ちょっとクセがあるけど、わたしは大好きだ。夏になるとよく飲んでいる。
近頃むし暑くなってきたので、田舎のおばあちゃんに教えてもらった冷やし飴を作ってロッテちゃんにあげてみたところ、これも彼女のお気に入りとなった。
冷やし飴の登場に、なんとかさっきの失態は許してもらえたようだ。こんなこともあろうかと料理人さんに頼んでおいてよかった。
おかげで和やかにお話しできる。
「それでね。その中のいくつかは、実際に起きた出来事なんだって。おかげで弥生ちゃんが怖がっちゃってさぁ」
「貴女はまた、奇妙なことに首を突っ込んでますねぇ……」
なぜか呆れたように溜め息を吐かれた。
あれ? わたし、まだなにもお願いしてないよね……?
「解決したいことがある、と顔に書いてありますよ」
……どうやら考えてることは筒抜けだったらしい。
そんなに分かりやすいかな、わたしの顔。一度、自分の顔面がどうなってるのか調べた方がいいのかもしれない。
うん。でも、いまは先に本題にはいろうかな。
わたしは、話の中で浮かんだ疑問を尋ねることにした。
「ねぇロッテちゃん。怪談が現実になるなんて、ありえると思う?」
「さぁ、わたしはそういった話に詳しいわけではないので……そもそも、それを知ってどうするつもりです? コモモさんはべつに信じていないのでしょう?」
「うーん……わたしはいいんだけど、怖がってる子が何人かいるみたいだから……もし、現実にありえないって証明できるなら、その子たちだけでも安心させてあげられたらなぁ……なんて」
だらしなく笑うわたしを、ロッテちゃんはじっと眺めていた。
お人形さんになったみたいに彼女の表情は動かない。そんなに正面から見つめられると、さすがに恥ずかしくなってしまう。
赤くなった頬を隠すように、わたしは顔をうつむけた。
「貴女はほんとうに、笑えるほどのお人好しですね」
「う……」
「……まぁ、話くらいなら聞きますよ。解決できるかどうかはわかりませんが」
「えっ、いいの?」
「丁度いい暇つぶしにはなるでしょう」
雪の精霊さんは、コクリと頷いてくれた。
できるだけ詳細に説明しろといわれたので、その時の状況も含めて細かく話をする。
ロッテちゃんは、いわゆる『天才』だった。ここに来るまではアメリカの某有名大学に在籍していて、お父さんの言い付けで聖ルーティア学院に編入したらしい。とはいっても、校舎で見かけたことは一度もないんだけど。
……そういう特殊な事情を抱えた人も、この学院には数多くいる。稀有な才能が育つのに、余計な雑音が入らないここは絶好の温床なのだ。
たとえばそれは画家としてのセンスだったり、音楽家としての才能だったり。条件によっては一流の講師を海外から招くことも可能なので、学院への入学を希望する『天才』たちはかなり多いと聞いている。
もちろん、楽な道じゃないんだけどね。何人かは厳しい環境に耐えかねて、逃げ出した人もいるらしい。
完全に集中できる環境であるということは、逃げ道を塞がれた場でもあるということだ。わたしみたいな凡庸な人間には、その重圧を理解することなんてできない。
……ふと、ロッテちゃんもそんなプレッシャーを感じているのかなと、不安になった。
彼女はおうちのことをまったく話さない。周りの大人たちも、その件に関しては口を閉ざしている。まるで、とんでもなく重い見えないなにかが、みんなを上から押さえつけているかのようだ。
それもきっと、わたしの手には負えないことなんだろうけど。
でも、いつかロッテちゃんに聞いてみようと思う。もし話してくれるなら、少しでも力になれるように努力する。たとえば話を聞いてもらうだけでも、ずいぶん気持ちは楽になるものだ。
わたしは、いつか彼女をこのひとりぼっちの場所から連れ出してあげたい。
こんな場所もあるんだよって、一緒に同じ世界を見て回りたいんだ。
だって、リーゼロッテはとても優しいから。自分には関係ないはずの問題を、あれこれいいながらもキチンと真剣に聞いてくれるような……そんな、心根の優しい子だから。
だから、わたしはたくさん『外の世界の話』をする。きっといまのこの一瞬が、いつか一緒に前へ向かうための一歩になると信じて――。
要点を書きだしたノートも持ち出しての説明が終わると、ロッテちゃんは静かに天を仰いだ。
目を閉じて思考に耽るその姿からは、何びとたりとも触れることを許されない神聖さすら漂っていた。
やがて、淡い紫の瞳が、ゆっくりと開かれる。
まるで神託を告げる巫女のように、彼女は桜色の唇から、こんな言葉を紡ぎ出した。
「――この中に、他のものと条件の異なる話が一つあります。それが今回の出来事の綻びであり、真実の扉を開く鍵となるでしょう」
そういって小さな指が示したのは、七不思議の詳細が並ぶノートの紙面だった。