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ラベンダー・ガーデン

作者: こばけん

 肌寒い高原の風は、夏なのにすでに秋の気配を感じさせた。去年来たときとおんなじね――私は思う。この風も、ラベンダーの花も、あの湖も、何一つ変わってはいない。唯一つ違っているのは、信彦さん、あなたがいないことだけ。


 ねぇ、信彦さん。なぜもう会えないの?

 分かっている。あなたは今年の春、交通事故で死んでしまった。それはもう、どうにも仕様のないこと。

 でも、だからこそ、諦めきれないの。あなただって私のこと、まだ好きなんでしょう?


 私は視線をはるか先の湖に移す。湖までは緩い下り坂になっていて、一面にラベンダーが咲き乱れていた。その薄紫色の絨毯じゅうたんは遥か湖の青と相俟あいまって、とても美しく輝いて見えた。

 あそこへ行ってみようかしら、ふとそう思う。別に、あてのある旅ではない。帰れなくたって構わない。

 私は湖の方に向かって、一歩踏み出した。



 湖までは、二十分位かかった。人影もまばらな山の中。美しいラベンダーをかき分けるように進む。

「穴場なんだよ」――あなたが教えてくれた通りね。


 湖畔には乗り捨てられた古いボートが何隻かある。去年、あなたと冒険して、あのボートに乗ったっけ。

 一人、ボートで沖に漕ぎ出す。去年はあなたが漕いでくれたんだと思うと、握りしめたオールにもあなたの手の温もりを感じる。

 空は、広い。特に、こうやって湖のまん中から見ると。雲一つない青空は吸い込まれてしまいそうなほどに。

「怖い……」

「何が?」

「なんだか、空に吸い込まれてしまいそうだわ」

「大丈夫、僕が守っているから」

 あなたは、あきれ気味に微笑むと私をそうっと抱き寄せてくれた。そして初めての、淡い口づけ――。ああ、いけない。ここにいたら私、あなたの面影から一生逃れられない気がする。

 でも、それならそれでいいわ。私、あなたとともに生き、死んでゆくから。覚悟はできているもの。


 ボートで対岸までゆくと、そこはもう誰もいない野原。ラベンダーと高原の木々の間に、道なき道が見える。

 私は初めて見るその道を、歩いてゆくことにした。

 もう帰れなくたって構わない。私の人生は、あの日で終わってしまったの。あなたがいなくなった、あの日で。

 もう迷わない。ポケットには睡眠薬もある。このまま人知れぬ山の中で、静かに眠るように死んでゆくの。そしてあなたの許へ行くの。


 私が死に場所を求めて歩いていると、ふと向こうに人影が見えたような気がした。

「誰?」 

 怯えながらも声に出す。でも返事はない。

 目の錯覚だったのかしら。そう思ったときだった。


「由美子」

 えっ? 私の名前を呼ぶその声は――「信彦さん?」

「やっぱり由美子だったんだ。久しぶりだなあ」

「信彦さん、あなた、どうして此処へ?」

「ここは君との想い出の場所だから、懐かしくてね」

 私は眼を凝らした。そこには信彦さんの姿はない。でも、あの暖かな彼の雰囲気があることだけは感じられた。彼は、そこにいるのだ。

「逢いたかった――」

「僕だって同じさ。いつだって君のことを想っていた」

「どうして今まで話しかけてくれなかったの?」

「今は特別な時なんだ。誰もいないこの想い出の場所で、二人の想いが共鳴している。その力でようやく話すことが出来ているんだ。もう何分かしたら、またお別れなんだよ」

 そんな……!

「いやよ! 私、あなたの処へ行く」

「由美子――」

 信彦さんの雰囲気が、ふっと動いた気がした。

「君はまだ生きねばならない。僕の処に来ることは出来ない」

「私、ここで死ぬ」

 ポケットから睡眠薬の袋を取り出す。私、これを飲んで、ここで静かに死んでいくの。一人じゃないんだから怖くないわ。

「由美子、君は一人じゃない。分かるだろう」

「そうよ、私には信彦さんがいるもの」

「そうじゃない。君には両親や、友達や、他にも大切な人たちがいるだろう。君が死んだらみんなが悲しむ」

 脳裏に、私の死を知って悲しむ両親たちの姿が浮かんだ。 かすかな逡巡。

「でも、私はあなたの処に行きたい。死んであなたの処に……」

「由美子。君の命は君だけのものではないんだ」 

「だけど――それなら私の人生って何なの? 望まない生を、ただ碌々(ろくろく)と生きて行かなくてはならないの?」

 悲しそうな信彦さんの雰囲気を感じる。 

 でも――だってそうでしょう? 私の人生は私のもの。ここで死んでこそ、今まで生きてきた意味があるの。あなたのいない人生なんて、私にとってただ苦しいだけ。

 私は意を決して、睡眠薬の袋を開けた。これで、あなたと一つに……。

「――――」

 でも結局、私は薬を飲むことが出来なかった。いざ死のうと思うと、私の中の何かが、私を強力に引き止めたから。

 恐怖――それもある。でも、もっと別の何か、本能みたいな物に引き止められて、私は動くことすら出来なかった。

 私はがっくりとひざをついた。涙がとめどもなく流れ出てくる。

「いいんだよ、由美子。僕はいつも君のことを見守っている。君は生きて幸せをつかむんだ。僕の分までね」

「信彦さん――」

「君にお別れの言葉を言えてよかったよ。君は少し思い込みが強いからね、もっと自由な心で生きるべきだと思う」

 そう指摘されて、なぜだろう、私は言葉に詰まった。

「何時までも後ろ向きになっていないで、いい人を見つけるんだぞ」

 段々と信彦さんの雰囲気が弱くなっていくのを感じる。

「待って! 行かないで」

「さようなら、由美子。約束だぞ。絶対幸せになれよ――」

 信彦さんは、消えた。


 その後どうやって歩いたのか、私は憶えていない。ただ気付いたときには、私は山を下りる国道に突き当たっていた。その道を三〇分位下って駅に着いた。もう夕方だった。

 私はただ呆然としていた。信彦さんが私を安全に導いてくれたのだと気付いたのは、ずっと後になってからの事だった。



 夕暮れの車窓からみる景色は、また格別に美しかった。傾いた夕日に照らされて、植物がみな黄金きんのように輝いている。私は想い出のこの高原の景色を、一生懸命目に焼き付けていた。

 もう、ここに来ることはないだろう――私は、ようやく少し動くようになった頭で考えた。

 私はもっと前向きに生きなければいけない。それが信彦さんのアドバイス、いや、最後の贈り物(プレゼント)なのだから。


 膝の上には、小さなラベンダーの鉢。駅の売店で売っていた。これを庭一杯に増やそうと思う。別に信彦さんの身代わりじゃないの。ただ、私にとって大切な花だから。


 今思うと、私が死ねなかったのは、現世に引き止められたからだったような気がする。まだ逢わなくてはならない人、しなくてはならない事が沢山あって、まだ早いと。

 きっと人は、自分の都合では楽にはなれないの。やるべきことをして、苦労もして、喜んで悲しんで自分の人生に最終的に納得するまでは。


 あるいは、いつかまた、私にも好きな人が出来るかもしれない。でも、そのときでも、私を見捨てないでね。

 あなたは一度死んだけれど、私の心の中で生きている。あなたと私は二人で一人なの。何時までも、いつまでも。


 信彦さん。

 私を立ち直らせてくれてありがとう。

 きっと、私、あなたが最後に言ったことを実現してみせる。何故って、それが私に出来る唯一の事だから――

「由美子。約束だぞ。絶対幸せになれよ―――」



                         END



一九八五年一二月 初稿

一九九五年一二月四日 改訂


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