【短編】デザイナーズモーツァルト
ピアノの才能について色々と言われるけれど、僕自身が自覚しているのは弾くのが好きって言う本当にそれだけ。
でももし病気が治るなら僕はこの才能の全てを捨ててもいい。もし運命が変えられるなら二度とピアノは弾けなくなってもいい。密かにそう思っている。神だとか色んなものにそう願掛けてきたが、病状も運命も何も変わらない。だから僕はまだピアノを弾き続けている。
歯を食いしばるような日常から逃げるようにピアノに向かっている。
この拍手喝采はなんだろう。僕はちっとも幸せじゃない。苦しんで弾いているのに、みなは僕を愛しているといい笑っている。それはそれは幸せそうに。何故だ? 愛しているのなら僕の苦しみを代わってくれよ。
ソワレ公演を終え、僕は関係者への挨拶もそこそこにコンサートホールを後にした。僕の娘が家で一人待っているので早く帰りたかった。彼女は病気なので心配だ。大丈夫だよ、お父さん。娘はそう言って僕を見送ってくれたが、内海を隔てるほど離れてしまうとどうにも不安で仕方なかった。彼女に何かあったらどうしようとそればかり。
娘が本当に僕の子だったら、僕が十三歳の時に生まれたことになる。彼女と養子縁組した最初は僕自身も父という立ち位置にピンと来なくて戸惑ったけど、彼女が父親というものに夢を持っててそう呼びたいと言うので受け入れている。
家までは内海を横断する船を使うのが一番早い。今日の最終便に間に合うように早足でよく知った道を歩く。車があればもっと早く港につけて助かるのだが、ピアニストは指を大事にしなければならないので運転はできない。
出港三十分前に港に着いた。あらかじめ買っていた切符を片手に船に乗り込んで真ん中右から二番目の座席に座る。海が見えにくいこのあたりの席が良かった。夕方の海は好きじゃない。そこだけ先に夜が来たみたいに暗くて、だから余計に娘への心配や自身の不安を膨らませてしまう。僕は暗黒の海に包まれているということを忘れようと目を閉じた。
僕はピアノの神童と言われたモーツァルトの遺伝子を組み込んでデザインされた試験管ベビーだ。ピアノの才能を期待されて生み出された。僕みたいな人間は最近の遺伝子工学の流行でデザイナーズシリーズと呼ばれてる。僕は僕以外のシリーズに直接会ったことはないけれど、誰々の遺伝子を持った人が何々の功績を上げたと言うニュースは時々聞く。うまく行っている例もあるのだ。僕と違って。
対岸の港に着いて船を降りると、小雨がぱらぱらと降り始めていた。そう言えば今朝の天気予報で折りたたみ傘を持って出た方がよいと言っていた気がする。しかしながら傘を持っていなかったので楽譜とか財布とかだがごちゃごちゃに入ったカバンで頭をかばいながら、暗い海から足早に遠ざかる。
港を臨む高台の住宅地に僕の家はある。バス停で時間を確認すると次のバスは三十分後だった。微妙なところだったが、じっとしているのが苦痛だったので、雨がひどく降らないことを祈りながら坂道を歩いて帰ることにした。
ぱららっと雨の雫が道なりの家のひさしからまとめて落ちて来た。そのぱららはニ時間ほど前に聞いた拍手みたいで僕は肩を震わせた。
僕の才能はモーツァルトどころか現代のピアニストの足元にも及ばなかった。まともな作曲もできたことはない。僕が弾くものは凡庸の域をどうしても出ない。それも僕自身が自覚したわけですらなく、薄々と周囲の反応で悟ったものだ。
そんな僕だが、デザイナーズシリーズと言うネームバリューがある為にピアニストとして何とか舞台に立てている。僕のスポンサーは僕を生み出した資金を回収する為に、僕は娘との暮らしの為に、毎月のように開催される対岸のリゾート地でのリサイタルに出ている。
さすがに梅雨入りしたんじゃないか。六月も中旬にさしかかり悪天候が続いている。今夜の小雨は降ったり止んだりした。雨にあおられて全身がしっとりとした状態になる。少し寒くなって来た。だから坂の上の我が家の明かりを見つけた時は心の底から安堵した。辺りはもうすっかり暗くなっていた。やっと帰り着いたのだ。すると僕が鍵を回すより先にドアが開く。
「お父さん、お帰りなさい」
小学校高学年か中学生かそのくらいの少女が顔をひょっこりと出した。どうやら足音で帰宅を察知したらしい。
「やっぱり傘を忘れて行ったのね」
と少女はタオルを差し出してくれた。
「ありがとう。体調はどう?」
「まあまあ! 大丈夫だよ、心配性」
「低気圧はゆいの体に良くないから」
「心配し過ぎぃ」
彼女は笑ってサンダルを脱ぐと玄関に先にあがる。僕もその後ろ姿に続く。
僕は彼女を、娘をゆいと呼んでいた。ゆいには唯一と言う意味を込めている。彼女の本当の名前はno17被験体デイジーと言う。とあるお金持ちの病気治療の治験の為にわざと有病状態で生み出された、ナンバーと花の名前を持つクローン人間だった。彼女はお金持ちが先に亡くなったことで孤児になってしまい、色々あって、手続きが大変だったけど僕が養女として引き取って育てている。僕と彼女は似た出生の経緯を持つもの同士だった。
玄関先で頭をふいて、ジャケットを脱ぎコートハンガーにかけてからリビングに入ると、ゆいがソファの上に部屋着を準備してくれていた。ごそごそと湿ったズボンも脱いで着替える。
「シャワー先に行く?」
「いや、お腹が空いてるから」
そう聞いてゆいは満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ晩ご飯にしよう。今日はシチューを作ったの」
声が得意げに弾む。体調がいいのは本当らしい。悪い時はベッドに伏したきりで起き上がれなくなる。
彼女の笑顔にホッとしながらテーブルについた。もう少しお待ちを。ゆいはそう言いながら、シチューを温め直したりご飯をよそったりしている。
「調子いいの? 食べれそう?」
何気ない様子でゆいが聞いてきた。
「うん。今日は大丈夫」
僕も何気なく返した。多分、大丈夫。食べれる。
僕は昔から食事というものが苦手だった。食べ物にさほど興味がないというのが元々あったのだが、ふと突然に、目の前にある食べ物が本当に食べ物かどうか分からなくなる時がある。
例えば荷物を梱包する時なんかにクッションとして使うエアーパッキンを、食べること前提で口に入れることは難しいように、米粒が、白くて小さな粒々がエアーパッキンのように「物」だと言う風に思えて、口にできなくなるのだ。
昔はそれも年に数度くらいで一週間くらい続くのだったが、今日は食べれるだろうかと恐々としている内にその頻度は上がり、突然のタイミングやささいなきっかけでそれが起きるようになった。
食べないということに慣れることはいつまでもなかった。ひどくお腹が空くのに目の前の食事を食べれないという状態に苦しめられる。そんな時は点滴で栄養を補給し命を繋ぐようにしていた。もしこれが毎日のように続けば僕はやがて餓死することになる。
医師によると、過度なストレスが原因の摂食障害だそうだ。うつの薬がいくつか処方された。病院にかかって分かったことはつまり、結局のところ心の病は自力で治すしかないと言うことだった。
ゆいに会う前はすぐにでも終わりの日が来るような気がして毎日が怖かった。
「ありがとう。いただきます」
いつも食べ始めはメインディッシュをスプーンに三分のニほどのせてから。ゆっくりとシチューを口に運び始めた僕を見て、ゆいも自分の皿に手をつけた。
「えへへ。うまくできてるでしょ?」
ゆいに会って、親子になって毎日を過ごしていると不思議と恐怖心は和らいだ。僕は僕に必要な仲間を手に入れたということだ。
シチューはとてもおいしかった。この世の幸せを煮詰めた味がした。
「公演の中継見てたよ。やっぱりお父さんって素敵……」
言いかけた言葉が不自然に詰まった。ゆいを見ると、眉間に皺を寄せ目を閉じていた。
「ゆい!」
「ううん。大丈夫。ちょっと目まいがしただけ」
ゆいの病気は、自分の免疫が自身を異物と思い込み攻撃し全身に炎症を起こす自己免疫疾患とそれにより引き起こされた臓器の機能低下が問題だった。臓器の中でも特に造血器と腎臓、関節に異常が多く、日常では疲れやすさや頻繁な発熱、全身の痛みに悩まされている。天候にも体調が左右された。家の中ではいつでも休めるから不自由しないと本人は言うが、状態がよく変わる上に治療薬の副作用で感染症にかかりやすいために外にはなかなか出かけられない。
「頑張り過ぎたのかな。ちょっと休むね」
頑張って強がっているがまた体のどこかが痛んでいるんだろう。ソファに預けていたいつもの柔らかブランケットを頭からかぶってふらふらとリビングを出て行く。触ると逆に苦しむ時もあるので何もできずに僕は自分の部屋に引き込んで行くゆいを見送る。リビングに一人残される。
「片付けよう……」
食べ終わったシチュー皿やお茶碗とゆいの食べかけをまとめてカウンターキッチンの流しへ持って行く。終わったら様子を見に行こう。体を温めると症状が緩和する時があるので、同時にお湯を沸かして湯たんぽの準備をする。
ゆいは今晩も眠れないかも知れないと思うと、僕もまた眠れそうになかった。
ゆいの体調が悪いと伝えたところ、リサイタルの反省会は来週末に延期になった。オンラインで短い時間で午後二時までに確実に済むなら構わなかったのだが、担当氏が気を遣ってそうしてくれた。
ゆいの体調は翌日も好転しなかった。それを気にして時々様子を見つつ、起き抜けのままの姿でのろのろと家事をしたりピアノを触ったりしていると、昼前くらいに宅急便で荷物が届いた。
滅多に外に出られないゆいの少ない趣味の一つがネット通販だった。僕も人に接するのは得意でないから、何かを購入しようとなるとそのほとんどをネット購入に頼っていた。また、食材や日用品を買うのはゆいの役目だったから日々何かしらが小さかったり大きかったりするダンボール箱で少しずつ届いた。
開梱すると買い替えの石けんといった日用品と一緒にエアーパッキンに包まれた手のひらほどの小箱が出て来た。緑の包装紙に黄色のリボンがかけられている。
ダンボール箱の中身は時にプレゼントだった。僕の誕生日や父の日だけじゃなく、バレンタインデーやクリスマスと言った行事を理由にしてゆいは色々な物を僕にくれた。特別なケーキや珍しい食べ物、僕が自分で選ばないようなちょっと派手なシャツや素材の良い靴下、食べ物からそう言った身につけるものまでネットで色々調べて買うのだ。請求はもちろん僕にくるので極端な金額の物はなくて、プレゼントはゆいが時間をかけて悩んで選んでくれたものばかりだった。男の人の物を選ぶのは難しいなんて言いながらゆいはそれを楽しんでいるようだった。僕も嬉しかった。
昼前の小箱の中身は何が理由のプレゼントだろうか。ゆいは何も言っていなかった。つまりこれは推理しなくてはならない。できるだけ早く、ゆいが起き上がって来る前に答えを見つけておきたい。リビングのカレンダーを見やると確かに今日の日付にはなまるがついていた。今までリサイタルに集中していたので気づかなかったが今日は何かの記念日らしい。いたって普通の平日だが……考えながらティッシュ、洗剤、これは柔軟剤……と日用品を収納場所へきっちり収めていく。
候補は幾つかあるが絞れなかった。この手の日付を覚えるのは得意じゃない。お互いの誕生日くらいなら覚えているのだが、やむを得ず僕はカンニングをすることにした。僕はゆいの勧めで日記をつけていたので、去年の分をリビングの隣の書斎……と言うより物置になってしまっている小部屋の本棚の奥からそれを引っ張り出して見てみた。すると家族記念日と書いてあった。
なるほど。
これ系の記念日は実はいくつかある。僕がゆいに初めて会ったこんにちは記念日。僕がゆいを正式に家族に迎えた親子記念日。一緒に住み始めた家族記念日。それから半年経ったハーフ記念日がそれぞれにある……。
階上から足音が聞こえたので慌てて日記をしまうと、ちょうどゆいが降りて来た。
「体調はどう?」
「だいぶ良くなった。寝てただけなんだけど」
そう言いながら、リビングを見回し、プレゼント用にラッピングされた小箱をカウンターの上に見つけた。ゆいの目がキラリと輝いた。
「さて、今日は何の日でしょうか!?」
ゆいの笑顔に安堵しながら答える。
「ゆいと僕が家族になってこの家に住み始めた記念日です」
「ピンポーン! カンニングしたな〜?」
「しました」
そこは素直に認める。
「開けてみていい?」
「いいよ!」
黄色いリボンをそうっとほどいてラッピングペーパーがちぎれないよう小箱を慎重に開けていく。
「おっ…これは」
出て来たのは小さなパールのついた蝶のピンブローチだった。
「どう?可愛すぎない?」
「うん。さりげなくてなかなかいいな」
早速ダイニングテーブルの椅子に掛けてあったジャケットにつけて羽織ってみる。
「どう?」
「カッコいい!」
「どのくらいカッコいい?」
「世界一カッコいい!」
「ありがとう。ありがとう」
僕はレッドカーペットを歩く俳優のように背筋を伸ばし手なんか振りながらリビングを歩いてみた。部屋着、無精髭にジャケットという妙ないでたちにゆいがお腹を抱えて笑っている。僕はたくさんの拍手を貰うよりもゆいを笑わせるのが好きだ。
ゆいはそれからしばらく元気だった。
そして幸せな贈り物や日用品が続いたせいで僕の頭はダンボール箱やパッケージされたDMのことをすっかり幸福の使者だと思い込んでしまった。
だからその日もリビングで何気なく郵便受けから引き出した紙類を順に見ていっていた。
サプリメントの広告や近場の不動産情報と言ったいつものメンツにはさまってやけに上等な便箋が顔を出した時、僕は突然冷や水をかけられたようなショックを受けた。その中身は半年後のコンサートへの招待状だった。
それは四年に一度、一週間に渡って開催される音楽イベントの目玉のコンサートだった。国内外から本物の演奏家たちがやって来る規模の大きい演奏会だ。僕なんかが行くと多くの人を前に恥をさらしに行くようなもので、前々回参加して堪えてから僕はこのコンサートには参加しないと決めていた。
今回もお誘いの連絡が来てしまったが、参加しない。行かないと決めているのにその招待状を見たせいで頭がもやもやとし始めた。
返事を出さなければならないからやむを得ず冷蔵庫にマグネットで招待状を貼り付けた。それからキッチンに立ち……あれ、何をしようとしていたんだっけ。
ああ、これはまずい。
数秒ごとに階段を転がり落ちていくように気分が沈んでいくのが分かった。前もこんなだったか。出ないのだから気にしなければいいと頭が分かっているのに体が勝手に不調になっていく。嫌な予感がした。僕はキッチンからふらつく足取りで自室へ向かった。横になりたかった。
窓の外は明るく、どこか遠くで鳥の鳴き声がした。もう少しすれば下校する子供の声でにぎやかになるであろういつもの昼下がりである。だけど僕は呪いにかけられた重い体をベッドになだれ込ませた。こういう時は目を閉じて心の嵐が去るのをじっと待つしかない。
ドアのノック音で目が覚めた。
「おとうさーん…?」
ゆいの声が聞こえる。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。汗をかいたようでシャツがじっとりと湿っぽく、外はすっかり暗くなっていた。
「ご飯できたよ。そろそろ起きてー」
すぐに行くよと普段通り声を出したつもりが、不安を隠せない落ち着きのない声色でもごもごと呟くだけになってしまった。そして起き上がれない。
「大丈夫……?」
状況を察したのかゆいの声が不安を帯びたものになる。大丈夫だと返したいが体を起こそうと妙に力が入ってうまく言葉にならなかった。
「ゆっくり休んでいいよ。何かあったかい飲み物持ってくるね」
ドアからパタパタと小さな足音が遠ざかって行った。
何とか起き上がり頭を軽く振ってみる。しかしそんなことでは思考のもやは晴れてくれず、すぐに元通りになる。冷や汗がこめかみをのろのろと伝った。とりあえず重い頭のままでゆっくりベッドから立ち上がる。リビングに行ってゆいを安心させたかった。
「あ! ダメだよ無理しないで!」
僕のマグカップを乗せたお盆を持ってゆいが駆け寄って来た。
「大丈夫……」
「大丈夫じゃなさそうよ。ほら手がすごく冷たい」
ゆいはお盆を片手に持つともう片方で廊下にぼうっと立っている僕の手を握った。ゆいの手は柔く温かかった。
しばらくそうして廊下に立っていると冷や汗もひいてきて少し体に温度が戻って来た。行こうとゆいに目配せをして二人で並んでリビングに戻った。
「食べれそう…?」
テーブルの上にはトマトスープパスタが野菜サラダと一緒に準備されていた。僕の好物のはずなのにどう見てもそれが食べ物に思えなかった。まるで赤い謎のかたまりみたいだ。いや、そんなことはない。でも、あれは何だ……。食べ物じゃないはずがない。頭では理解しているのにまるで食欲がわかなかった。それどころか異物を前に口の中は乾き、胃がむかつきはじめた。
「ごめん。今日は厳しいみたいだ…」
せっかくゆいが作ってくれたのに。病気のこういうのが心の底から嫌だった。楽しかった時間が急に、自分の意志ではどうにもならないほどに反転し、不幸の穴ぐらに落ちていくのが。まるで自分たちが築き上げた幸せが嘘でしたと言われたような感じがするのが。
ゆいの手をゆっくりほどいてとぼとぼと僕は部屋に戻った。背中にゆいの心配の視線がついて来るのを感じながらベッドに潜った。二週間くらいすれば落ち着くだろうか。やり過ごすしかない。辛抱の時間はいつも僕に準備をする余地を与えず急にやって来る。分かっているのにあまりに苦しくて毎回死にたいほどに僕は悲しくなる。毛布をかぶりながら僕は泣いた。
翌日、朝遅くに体を起こしてふらふらとリビングに出た。ドアの開ける音を聞いて、ソファに座ってテレビを見ていたゆいが弾けるようにこちらを振り返る。
「お父さん、どう?」
ちょうどそのタイミングで電話が鳴った。僕はゆいに少し笑いかけてから電話に出た。
「先生、どうもご無沙汰しております。平野です」
「ああ、どうも……」
電話の向こうの人は弁護士の平野女史だった。彼女の声を聞いて僕は少し緊張した。
「音楽祭の件でご連絡させていただいたのですけど」
「ああ、やっぱり」
「あらら…招待状に先を越されてしまいましたね」
平野さんはそう返すと少しの間黙った。
「……うーん。先生、元気なさそうですね」
「ええどうにも……」
平野さんは過去のコンサート後の僕の狼狽を見ていたし、僕の情けない声で今の状況を察したようだ。彼女はあえてさばさばとした様子で続けた。
「ピアノは断りましょう。返事は代理で私がします。先生は気に病まなくて大丈夫ですからね」
「はい。申し訳ありません……」
「とんでもない。気にし過ぎないで、どうか元気出して下さいね」
平野さんの提案はありがたかった。彼女は元々は研究施設の顧問弁護士だった。その頃からの縁で僕たちと研究施設の間に入ってくれるだけでなく金銭管理のアドバイスや病院の紹介までしてくれた。彼女は何かと僕たちを気にして尽くしてくれるマネージャーのような人だった。
「それでは失礼します。ゆいさんにもよろしくお伝え下さい」
「はい。失礼します」
平野さんが電話を切ったのを確認してから受話器を置く。一旦心を落ち着かせようと深呼吸をした。それからソファのゆいを見てまた少し笑ってみせた。ゆいに心配かけたくなかったから。
「お父さん……」
かける言葉に詰まったようでゆいは不安顔でじっとこちらを見つめている。僕は努めて笑顔を作った。それからリビングを見まわし、あっ今見つけたと言った様子でテーブルの上の朝食のクロワッサンとスープに近寄った。ラップがかかっている。
「朝ごはんの準備ありがとう。ゆいはちゃんと食べた?」
「食べたよ。温め直す?」
「いや、このままでいい。いただきます」
「うん……」
着席して手を合わせてからまずはスープに手を伸ばした。スープなら少し吸えるんじゃないかとの期待もあった。ゆいはあえて自然にこちらを見ないようにしていた。ゆっくりとカップに口を近づけて匂いを嗅ぐ。コンソメスープだ。よし。と僕は舌先で舐めてみる。
「……」
それは間違いなく少し冷めたコンソメスープだった。匂いも味もその通りなのだが、何だかコップの外側に結露したただの水滴を舐めているような違和感があった。しかし飲めなくはない。思い切って細切りにされた具ごとグイッと飲み干した。勢いに任せてクロワッサンもつまんで口に押し込んだ。無理矢理に咀嚼する。これはクロワッサン、これはクロワッサン……。何度も自分に言い聞かせるが、飲み込むことができない。噛めば噛むほど口の中で粘土みたいになってとてもそこから先へ進めそうになかった。
午後から段々と雲が重くなり、すぐに霧がかった雨が降り始めた。
僕は重い体を引きずりながらも家の端にある防音室へ向かった。いつも午後二時ちょうどからピアノの練習をしている。何を弾くか順番も決まっている。決められたことをすると不思議と落ち着く。本当はだるくて指に少しの力も入りそうになかったが、強迫の誘惑に抗ってはならないから仕方ない。
何の成果も出せそうにない練習で好きなのに辛かった。そう思うと鍵盤が白く並ぶ歯のように見えてきた。悪魔の口だ。ピアノは僕の命を吸い取って笑っているみたいだった。
腹が空くのに食べれる物が無いという状況が続いた。以前は二週間くらいかけて徐々に回復したのに、今回は治る気配もなく三週間目に入った。病院からはドリンク缶の栄養剤が処方された。色々なフレーバーがあり飽きない工夫がされているとのことだったがどれもドロっとして妙に甘く、液体石けんの味がした。だからそれすらもすぐに受け付けなくなった。今は水やお茶、少しの温めたミルクくらいしか口にできなくなった。
毎日、食べられないにも関わらず食卓は用意された。もしかしたら今日は食べれるかもという期待が見えた。柔らかいものや刺激の少ないもので構成されたメニューにゆいの心遣いが見えた。
今朝も一度は持ち上げた箸を諦めて置いて、ふとリビングの窓の外を見やると、高台ならではの眺望でのどかなキラキラとした内海が遠くに見える。眩しいものはそれだけで疲れる。そして力などどこにも無いというのにやりきれない怒りばかりがふつふつと湧いてくる。心の半分がちぎれて自立しはじめたかのようで、その怒りや諦め極度の落ち込みをころころと繰り返し制御ができなかった。残りの半分の僕自身が客観的に眺めている側で僕の心はぼろぼろと崩れていった。
今年の梅雨は特別長いらしかった。
ピアノ練習を終えて横になる。わずかな動きでも疲れてしまう。頭が重い。ゆいも体調が悪い時はこんな感じなのかな……とゆいのことを考えていると、かぶっていた薄手の毛布をごそごそと探る気配がした。
「……??」
そちらへ顔を向けるといつの間に部屋に入って来たのか、ゆいが布団に潜り込んで来ようとしていた。
「えへへ。今日ちょっと寒いね」
ゆいは屈託のない笑顔で言うと僕を小突いて壁側に追いやった。狭いベッドに二人並んで手を繋いだ。ゆいが足をピッタリつけてくると冷たさが伝わってくる。冷たいのに柔らかい。僕らの足は根っこのように繋がってるみたいで、冷たい足はすぐに温かくなった。
「私の元気がお父さんに行くからね。大丈夫だよ」
そう言われて僕は何と返したらいいか分からなかった。ゆい自身が元気じゃあないのに。そんな余裕ないだろうに……。
ゆいは寒いのか毛布の中に潜り込んでいった。ゆいのつむじだけ見える。可愛い娘の……つむじを見て……憤りのような諦めのようなやりきれないいくつもの感情が複雑に渦巻いて泡立ち、心の底へとどす黒くなって沈んで行った。
彼女は同情してくれるし心から心配してくれるけど、分かっているけど、苦しかった。大丈夫だなんて根拠もないようなことを言わないで欲しいと思ってしまう。どんなに愛していても僕と同じように苦しんでくれない事実が腹立たしく思う。この彼女に対する苛立ちは僕を何より苦しめる。
晴れ間が見えた翌日、平野さんから電話があった。いつも内容はだいたい僕のことなのだけど、今回は違った。
「いい知らせですよ先生」
そう前置きしてから告げられた内容は今までで一番驚くものだった。
アメリカでゆいの病気の特効薬が開発され、動物実験を終え、人での治験が始まったとのことだ。もちろんかつて被験体だったゆいに真っ先にその話がやって来たのだ。
「私の知人に信頼できるコーディネーターがいるのですぐにでも手配できますよ。ただしゆいさんはもう実験対象ではありませんので、普通の人と同じように渡航費に入院費と少々まとまったお金が必要です」
平野さんはそこまで一気に話してから声をひそめた。
「先生、これは提案なのですが……」
僕は平野さんが次に何を言うか読めた。だから先に言った。
「コンサートに出ます」
電話の向こうで少し驚いた気配がした。僕は以前からゆいの為にしてやれることは全てすると決めていた。僕の状態がどうであれ。だから迷わなかった。ここまでは条件反射で動いた。試練はこれからだ。
「先生……大丈夫ですか?最近あまり体調がよろしくないと聞いています」
「はい」
「無理はなさらないで欲しいとは思っているのですけど」
「はい」
手が震えはじめた。早く電話を切りたかった。そうしなければ決心が揺らいでしまいそうだった。
「わかりました。そのように進めます」
平野さんは僕の気持ちを悟ってくれたようだ。それでは、と言うとすぐに電話を切った。
僕は普段、毎月のリサイタルや地方情報誌のコラムへの執筆、その他にはデザイナーシリーズの研究費から生活費を得ていたが、それはやっと二人で、ゆいの治療費を含めると、ギリギリ生きていけるくらいだった。将来のためにもお金は必要なので、僕はいつかまたコンサートに出るだろうと思ってはいたのだ。
コンサートの出演料は破格だった。また、平野さんが機転を効かせてくれて、僕の演奏にチャリティー枠を設けてくれた。つまりそこでコンサートの出演料以上のお金が稼げる。治療費が予想よりも上回ってもいいように。
これできっとゆいの向こうでの治療費をまかなうことができるだろう。頭の中はコンサートに出ると言う事実に怯え警報が鳴りっぱなしだった。僕の頭よ機械になってしまえ。何も感じるな。
ゆい達実験台を作ったお金持ちは完全に悪いやつでは無く、莫大な遺産を全て同病治療の開発に使ってくれと遺言していた。だから、未来に希望はあったのだ。もはや無いと言ってもいいほどとても遠く感じていたのは僕だけだった。希望はちゃんと日進月歩してこうして目の前に現れた。
僕はいつも以上にピアノの練習をする為に防音室に向かった。廊下の途中で僕の病気の部分がささやいた。いいのか?そんな簡単に。僕の苦しみを一人きりで抱えるしかない寂しさを同じように感じて理解して欲しかったんじゃないのか?僕は、ゆいにずっと……。黙れ、それ以上言うな。病気に必死で蓋をしながら僕はすっかり細くなった指を暗闇に伸ばした。
明るすぎる照明の下で僕はすっかり細くなった指を空に伸ばした。
家の対岸にある小さな作られたリゾート地で四年に一度の国際音楽祭が開催された。僕はそこの出し物として出演した。
拍手喝采が僕を包んだ。上手くもない僕のピアノと一緒に。悪い夢を見てるみたいだ。
僕は愛してるなら僕と同じくらい苦しんで欲しかった。哀れな仲間が欲しくて僕はゆいを引き取った。僕は彼女の不幸をずっと見ていたかったのだ。
ステージの上で泣いた。僕はゆいの家族じゃない。彼女の幸せを妬んでいる者が家族であっていいわけがない。
がんばれ! という声が聞こえた。拍手は大きくなっていつまでも止まなかった。
梅雨が明けた。ゆいは今回の梅雨ではあまり体調を崩さなかった。だが替わるように、コンサートにすっかり力尽きた僕が一日のほとんどをベッドの上で過ごすようになっていた。
遊びはいつか終わるもの。親子ごっこの日々に終わりが近づいている。アメリカにはゆいの未来が、希望がある。僕の未来はどこにある? どこにもない。
久しぶりに僕とゆいは散歩に出かけた。二人が元気な時は毎日行っていた散歩道だ。何だかとても懐かしかった。梅雨明けの爽やかな空気と日に日に色が濃くなって行く若葉が眩しい。
散歩コースは近所にある展望公園と呼ばれているところで、小高い山の僕らの家から頂上まで歩いて三十分くらい。高台から、家の中からとは違ったパノラマのスケールで海が見下ろせる。先日までの雨の日々が嘘のように空は晴れていて澄み渡りなかなか気持ちが良かった。海の向こうには対岸も見える。ここは夜景が綺麗な場所としても有名だった。
僕はこのわずかな距離でもすっかり疲れて木のベンチに座り込んでしまう。ゆいも横に座ってリュックから水筒を差し出してくれた。水筒の蓋をカップ代わりにして麦茶を一杯じっくりと飲み干す。僕の病状は少しずつだけど回復に向かっていた。水分なら問題ないし、食事も少しずつ、小さく刻んで食べれるようになっていた。
二人並んで座っている。ゆいはこちらは見ずに海を眺めている。その横顔がどこか悲しげだったから僕はおどけたように明るく言った。
「アメリカまであと少しだなあ」
「そうだね……」
「どうしたの? 嬉しくないの?」
ゆいはこちらを見た。思いの外強い視線に僕は内心おののいた。
「お父さん、私、アメリカには行きたくない」
「何で? 治るんだよ?」
僕はゆいがこう言うのを実は薄々分かっていた。
「うん、でも行きたくない。帰りたい。帰ろう、私たちの家に」
そこまで聞いて僕は頭を抱えた。分かっていたが聞きたくなかった。
「ゆい……君はもう不幸じゃない。僕に気を遣わなくてもいい。君は助かるんだ」
「そんなんじゃないよ」
ゆいはまだしっかりと僕を見ていた。その視線が正しくて痛くて僕は更にうつむいた。うつむくと涙がこぼれそうだった。
ゆいは僕の道連れになることを望んでいた。哀れな病気から自分一人助かることはできないから治療を拒否してるのだ。
ああ、辞めてくれ。僕をこれ以上醜くしないで。
水筒を握っていた手から力が抜けて水筒は地面に転がった。
「僕は嫌だこんな人生は……もう疲れた……」
体が崩れ落ちて行くようだった。でも実際はそうはならないから頭を抱えたみすぼらしく痩せた男だけが残った。生きることも死ぬこともできない。死体として生きている。そんな人生なのにこんなにも苦しくて辛いのは生きているからなのか。
「でもね、生きなきゃ」
ゆいが僕の背中をあやすように優しくさすった。僕は泣き出していつまでも顔をあげることができなかった。僕もゆいも試験管で生まれたけれど、誰しもと同じく泣いて笑う一人の人間だった。
コンサートから一ヶ月近く経った頃、平野さんからチャリティーの金額を伝える電話があった。
「そん……なに??」
その金額に仰天して僕は目を丸くした。どうしてだろうと言う疑問を口にする前に平野さんが理由を言った。
「みんなあなたのことが好きなんですよ」
「何故?」
平野さんの言う、好きだからだけでは答えとして不十分な気がして、そしてその金額が純粋に頼もしくて僕はシャツの上から胸をつかんだ。
「みんなが先生を好きなのは、先生が人間だからですよ」
僕が皆から聞く好きや愛しているは動物のペットに対するようなものだと思っていた。しかしどうやら違う……?
「あなたの人間らしさを好いていると言うことです。血の通わない機械や言葉の通じない宇宙人ではなく、ね」
「僕は見せ物じゃないのか?」
「それを言いますと、スポーツ選手や芸能人なんかも似たようなものでしょう。考えようですよ先生。利用できるものは利用すればいいのです。想像してみて。お金があれば、彼女は治る。先生はいまだ病体かも知れませんが、彼女が元気に帰ってきたあかつきには旅行にも行けますし、贅沢できますよ。お金は意外と多くを解決してくれます」
平野さんはどこか嬉しそうだった。電話の向こうの彼女が穏やかで優しい笑みを浮かべているのが想像できた。
「私は今回無理をして良かったと思います」
「そう?」
「はい。これだけあれば当面コンサートに出なくても何とかなります。コラムも書かなくていいです。一旦の区切りってところかしら。しばらくはゆっくりされてはいかがです」
「ゆっくりだなんて……」
ぐずる僕に平野さんはさとすように言った。
「きっと今より良くなります。また、病状が寛解すれば別のお仕事を探すことも可能でしょう」
「……別の仕事?」
それは考えたこともなかった。
「先生、人は生きるのに理由なんかいらないんですよ。先生はピアノが上手く弾けなければならないと思っているようですが…本当はピアノが上手くなくても、リサイタルに出れなくても生きていていいんです」
冷や水を、いや雷に打たれたような衝撃が走った。それは人前でピアノを弾かなくてもいいってこと? 僕は突然平野さんが僕たちに尽くしてくれることを不思議に思った。
「何故、平野さんはここまで僕によくしてくださるのですか?」
「それはもう、家族みたいなものですから」
「僕がモーツァルトだからじゃないんですか?」
平野さんは笑った。先生はモーツァルトじゃないですと。
「それじゃ平野さんあなたは……僕がコンサートに出なくても……その、友達でいてくれるのですか?」
「もちろんですよ」
それから少し世間話をして、あまり頭に入って来なかったけど、僕は呆然として受話器を置いた。不思議な余韻に包まれた。
しばらくリビングで呆然としていると、ゆいが部屋から降りてきた。ゆいが何か言うより先に僕はゆいに早口でしゃべり立てた。
「あのね、あのね、ゆい。僕たち、お金持ちになったみたい。何か欲しいものある? ブランドのバッグとかダイヤモンドとか欲しい? ネットでたくさん買おうか……。ほらちょっと気になってたやつとか……しょうもない買い物しよう」
「何なに? どうしたの?」
僕は平野さんに言われたことを語った。その上で彼女に聞いてみる。その口からハッキリと聞きたかった。
「ゆい、ゆいは……僕がコンサートに出なくても家族でいてくれるの?」
「当たり前じゃん!」
「ピアノ上手くないけど……」
ゆいは慌てるような僕を見て最初は目を丸くして聞いていたが、やがてコロコロ笑いはじめた。あまりに彼女が明るく笑うので僕もつられて笑いだした。
「今日のお父さんって大人なのに子供みたい」
その数日後、ゆいがアメリカへ旅立つ日を迎えた。僕は空港まで見送りに出た。
「必ず帰って来るからね。約束だよ。また二人で遊ぼう。私たちは家族だよ」
ギュッと僕を抱きしめてゆいは力強く言った。
展望デッキでゆいの乗った飛行機が小さく小さくなって行くのを目を細めて見る。
風が強く吹いて僕の全体をなでて行った。
僕は彼女が乗った飛行機を、片目をつむり右手ですくうように手のひらにのせた。それを優しくゆっくりと両手で包むと、口に運んでみた。もちろん味はしないが、彼女の勇気が口の中で溶けて僕の内側に入って行くようだった。そうして僕の胃がぽわんと温かくなり力が少しだけわいてくる。
彼女が完治しますように。そう願掛けて目を開けると遠く小さくなって行く飛行機がスプーンの中でキラキラ輝くいつかのシチューのように白く眩しく見えた。




