彼とテレビ
バイトから帰ると彼が珍しくテレビを観ていた。
彼はテレビ番組が嫌いである。彼が自主的にテレビ番組を観ている姿をこれまで見たことがなかった。
それでもテレビが嫌いなわけではなく、スポーツ中継を観るために部屋にテレビがあった。
いつもあるはずの「おかえり」の声がなかった。
彼は私が帰ったことに気付かないほどにテレビ番組に釘付けになっている。彼は私を無視するような人ではない。
音楽番組だった。
彼がテレビから流れる音楽に合わせて口ずさんでいる。
その彼の表情は笑っているように見えた。
それがとても貴重で愛おしいと私は思う。
私と出会った時には彼の心は壊れていた。
毎晩夜になると彼はうなされている。
悪夢ばかり見るそうだ。
そんな彼が今は微笑んでいる。
彼の表情が毎日そうだったら良いのにな、と私は思う。
彼が口ずさむ歌はとても音痴で下手だ。
それでも良いのだ。
彼の歌は私しか聴いていないのだから。
今度、彼をカラオケに連れて行ってみようと思う。
私しか聴かないから安心して欲しいと伝えたら行ってくれるだろうか。
カラオケにはとても嫌な記憶があると、かつてボソリと呟いていた。
彼は下手であろうとも歌が好きに違いない。あれだけ嫌いだったテレビ番組を観ているほどなのだから。
そろそろ彼が観ている音楽番組が終わる時間が近づいてきた。
黙って様子を見ていたことを知ったら彼は嫌な顔をしそうだ。きっとするだろうなぁ。
どうやって彼の前に出て行こうか。
出て行くタイミングをかなり逃してしまった。
音楽番組が終わってしまった。
テレビが切られる音が聞こえた。
それでも彼はまだ歌を口ずさんでいる。
彼に想い出がある歌なのだろうか。
もう少し彼の下手な歌を聴いていようと思う。
こんな彼との穏やかな日々がいつまでも続けばいいのになあ。
(了)




