傲慢姫に奴隷騎士は跪く
奴隷を買った。
銀糸のごとく煌めく髪。瞳はサファイアを思わせる深い青。眉やまつ毛や唇の形まで整ったすらりと面長な顔立ち、華奢な体つき、磨けば光るであろう乳白色の肌、何もかもが人形のように綺麗だった。
だから、手元に置きたくなったのだ。
――新しい玩具として。
ヴァレリア・ジオラスは傲慢姫と呼ばれている。
皇家の血を引く公爵家の姫君という身分を笠に着て、何かにつけ「そんなこともわからないの?」と言って他の貴族令嬢を泣かせたり、類稀なる魔法の才を見せて腕自慢の貴族令息たちの心をへし折ったりなど、やりたい放題。
地頭が良く何でも器用にこなせてしまうのがいけなかった。父親が不在の際、代わりに執務をしたら父親以上に上手くやった。母親の公爵夫人でも知らない複数の他言語を扱えた。
自らを優れているのだと感じ、傲慢な振る舞いをするようになっても、その自覚が真実であるせいで誰にも咎められない。
そんな毎日はひどく退屈で、つまらなかった。
けれどヴァレリアを唯一楽しませるものがあった。
透き通った音色で鳴く派手な羽色の小鳥、吟遊詩人が歌い聞かせる物語、著名な画家に描かせた絵画など、美しいものだ。煌びやかな輝きだけがヴァレリアの心を潤してくれる。
ただ、長続きはせず、すぐに飽いてしまう。
それもまた、いっときの気を紛らわせる代物に過ぎない……そのはずだった。
ヴァレリアがそれを見つけたのは、都のはずれを馬車で通りがかった時のこと。
鎖つきの首輪を嵌められ、ボロボロの麻布の衣を纏った少年。歳の頃はヴァレリアと同じ十歳かそこらに見えた。
奴隷は主に三種類いる。戦争奴隷、犯罪奴隷、そして身売りされた奴隷。年齢から考えて、おそらく借金のカタにでもされて売られたに違いない。
馬車を停めさせ、従者の制止を無視して降りる。そして少年を改めて眺めてから商人に問いかけた。
「それ、わたくしにくださる?」
奴隷商人はそれはそれは驚いていた。無理もない。明らかに上流貴族、それもまだ幼いヴァレリアが奴隷に目をつけるなんて思ってもみなかったはずである。
商人の返事を聞く前に従者へ命じ、適当な量の金貨を投げさせた。それだけで買い物は済んだ。
その間ずっと黙りこくっていた少年は、ヴァレリアに手を引かれるがまま馬車の中へ。抵抗することも自ら言葉を発することも許されない奴隷故、従順なのだろう。
だがきっと、美しい彼には奴隷よりも別の役目を与えた方がよく似合う。
商人から買い取った時に手に入れた鍵で彼の首輪を解除した。
「気に入ったわ。お前、わたくしの騎士になりなさい」
「……え? 俺が?」
初めて少年が口を開く。
か細い掠れ声を漏らしただけだったけれど。
「情けない表情を晒さないでちょうだい」
「もうしわけ、ありません」
「お前はわたくしの所有物なのだから、その立場に恥じぬように美しい顔を見せていればいいのよ」
縮こまる少年をまっすぐに見つめながら、ヴァレリアは傲岸不遜に言い放った。
「そしてわたくしの前に跪いて言うの。『承知しました、ヴァレリア様』ってね」
少年はわかりやすく戸惑った。そもそも跪き方がわからないらしい。
仕方ないので教えてやると、ぎこちないながら馬車の床面に片膝をつき、頭を垂れられる。初めてにしては上出来だろうか。
「名はあるのかしら」
「シモン、です」
「ふぅん。……ではシモン、ヴァレリア・ジオラスの名において、お前を騎士と認めます」
シモンは逆らえないし逆らわない。先ほど命じた通りに「承知しました、ヴァレリア様」と応えるだけだ。
本当にどこまでも都合のいい玩具過ぎて、意地悪く口角が吊り上がってしまうのを抑えられなかった。
シモンを連れ帰ると、ジオラス公爵家は騒ぎになった。
平民、しかも奴隷だった彼を屋敷に入れただけではなく騎士に指名したとなれば、問題視されるのは必至。まもなく公爵に呼び出された。
「どうしてもか」
「ええ、お父様。お許しくださるでしょう?」
目をスッと細め、父を見上げるヴァレリア。
ヴァレリアの菫色の瞳はただでさえ鋭いので、圧をかけるのは得意だ。
「…………本来は専属騎士は皇族にのみ認められるが、ジオラス公爵家なら、不可能ではない。だが名ばかりの騎士では無意味だ」
「それならわたくしの手で鍛えるわ」
傍で控えていた使用人たちがざわついた。公爵も顔を蒼くしていたけれど知ったことか。
普通は護られるべき姫の身ではあるが、ヴァレリアには容易い。暇つぶしにもぴったりだ。
「シモン。行くわよ」
向かった先は広大な中庭。庭師によって手入れされた花が無数に咲き乱れる中で、シモンと相対した。
ちなみに彼は着替えさせたので服装はまともなものになっており、よりお人形感が増している。
「ヴァレリア様……?」
「手合わせしましょう」
ひょい、と剣を投げ渡す。
公爵の執務室の壁にかけられていた装飾品だが、本物と遜色ない。部屋を出る前にくすねてきた。
「えっと、でも俺」
「遠慮はいらないわ。わたくし、強いもの」
跪き方もわからなかったのに、彼に剣が扱えるとは思っていない。なので実戦で覚えていってもらう。
ヴァレリアは長手袋を外し、外気に晒した掌の上に炎を踊らせた。魔法である。炎はヴァレリアの意思のままに剣の形をとった。
「さて、何秒耐えられるかしら」
結果――五秒。
わけもわからないうちに敗北した事実を噛み締めるシモンの苦い表情は、たいへん美しく、味わい深い。
それだけで彼を拾った価値があったと思えるほどに。
当然ながらというか、シモンが立派な騎士となるまでにかなりの歳月を要したのは言うまでもない。
ヴァレリアにとっては暇つぶしでしかなかったが、シモンにとって厳しい訓練である手合わせを数え切れないほど繰り返した。
「全然才能がないのね。無駄飯食らいで恥ずかしいわね?」
けれど逃げずに挑むのをやめない姿勢は見応えがある。奴隷根性だけでは片付けられないくらい、努力の仕方が凄まじかった。
人形と見紛う華奢な体に筋肉がつき始め、ヴァレリアより低かった背丈はいつの間にか伸びて追い越され、ついには剣の腕も。
炎剣を無数に出現させ斬りかかったのに、その全てをかわされて、彼の剣がヴァレリアの喉元に突きつけられる。
その時すでに出会ってから五年が過ぎ、互いに十五歳を迎えていた。
「今この場でわたくしの命を奪って、負け続けてきた屈辱を晴らしてもいいのよ」
「まさか。俺はヴァレリア様の忠実なる奴隷騎士でございます」
「そう」
皮肉や冗談ではなく、彼の言葉は真剣そのもの。
彼と過ごす間は退屈を忘れられるからと、少しばかり相手をし過ぎたかもしれない。
「これからもせいぜいわたくしを楽しませるといいわ。それがお前の務めなのだから」
「承知しました、ヴァレリア様」
すっかり様になった騎士の礼を見せるシモン。
その姿はあまりに美麗で、絵画に収められないことが残念だった。
それほど美しい彼なので、傍に侍らせても恥ずかしくない。
十六歳の社交デビュー。ヴァレリアをエスコートしたのはシモンだ。
落ち着いた色合いのシモンは、ヴァレリアの燃えるような赤毛や真紅のドレスを引き立たせる。まるで月と太陽が並び立っているかのよう。
大勢の視線が集まっていた。
嫌でも認めずにはいられないだろう二人の見目に惹かれて。そして同時に、ヴァレリアの隣に本来在るべきとされる人物の不在を訝しんで。
「あんな綺麗なひとは初めて見ました」
「あの御方、噂の傲慢姫様じゃありませんか」
「まあっ。ですが……」
「皇子殿下がご一緒なのでは?」
ざわざわとあたりの空気を揺らす囁きは、構うだけ無駄なので放っておく。
自分たちの姿を周囲へ見せつけ続けながら、ヴァレリアは食事が並べられているテーブルを転々とした。
「ほらお前、遠慮しないで食べるのよ」
後ろに控えていたシモンに皿を渡して促す。
彼は普段身の程を弁えて決して贅沢しようとしないが、ヴァレリアの望みであれば断らないし断れないだろう。
「よろしいのですか」
「当然でしょう。毒味してもらわないと困るし、それに、わたくしの社交デビューを祝す日だもの」
「ではお言葉に甘えさせていただきます」
たっぷりと甘辛いソースのかかった肉料理に、口の中でシュワシュワとほぐれるジェラート。初めて夜会のご馳走を食したがなかなかに悪くなかった。
立食に勤しむことしばらく。
そろそろ夜会の醍醐味であるダンスを始めようかと思った矢先、不意のことだった。
「ヴァレリア・ジオラス! どうして僕の元に来なかった!!」
背後から声をかけられた。しかも、かなり失礼で不躾な物言いで。
声の主が一般貴族であったなら無視していたところだが、相手が相手だ。仕方なく振り返る。
ぎろりと睨みつけてきている濁った灰色の双眸がそこにあった。
金銀の刺繍の施された礼服が目に眩しい。けれど特筆すべき点はそのくらいで、顔も存在そのものもパッとしない、そんな青年が立っていた。
「あらまあ、ごきげんよう。わたくしにご用かしら」
こちらも同じく鋭い目つきで、それでいて口元だけはにこやかに、ドレスの裾をつまんでお辞儀して見せる。
精一杯丁寧な対応を心がけたが、どうやらお気に召さなかったようだ。
「とぼけているのか?」
「挨拶もなしに声を荒らげられても、ねぇ」
「もうすぐダンスタイムだ。なのに貴様はほっつき歩いて、僕を探すそぶりもなかっただろう!」
たいへんご立腹な青年に、ヴァレリアは内心ため息を禁じ得ない。
大した容姿を持ち合わせていないのだから、せめて態度くらいは美しくあればいいのに、と。
傍から見ても誰も想像つかないだろう。この国の次期皇帝と目されるこの青年――マルセル・キャロ・ミシェルン第一皇子が、ヴァレリアの婚約者だなんて。
皇家から強く求められたのでなければ、絶対に結ばなかった縁談だ。本当なら今すぐにでもお断りしたいくらいである。
「しかもなんだ、貴様に付き従っている奴は。僕という婚約者がありながら、どこかしらの貴公子を自分のものにして見せびらかせていたんだな」
どの口が言うのか。
ヴァレリアより十歳上のマルセル皇子はさっさと社交界に出て、そこで出会ったご婦人たちとよろしくやっているというのに。ヴァレリアが社交デビュー前から聞き及んでいたほど有名だというのに。
聞くに耐えない侮辱に、それまで一言も発しなかったシモンの眉がぴくりと吊り上がる。明らかに殺気立っているので余計なことをするなと制しておく。
代わりにヴァレリアはこてんと首を傾げ、優しく問いかけて差し上げた。
「――そんなこともわからないの?」
ひぃっ、とどこからか悲鳴が響いた。過去に同様に質問したことで泣いた令嬢は数しれない。
マルセル皇子も顔を歪ませている。屈辱的に感じたのだろう。
けれどもこの一言は、ヴァレリアなりの慈悲だ。少し考えればわかることも理解できない、あるいは理解しようとしない者たちへ、親切丁寧に道理を説くのだから。
ある時は、好きな人に振り向いてもらえないと嘆く男爵令嬢に貴族社会の厳しさを語った。
ある時は、高価な宝石を取り寄せて造らせたと自慢げな侯爵令嬢のイヤリングが贋物であると指摘した。
ある時は、縁談が決まったと嬉しそうにしていた伯爵令嬢のお相手が結婚詐欺の常習犯だと教えた。
恥をかかされた等、激しく糾弾されたが、誤りを口にしたことは一度たりともない。
「女性は色々と身の危険があるため、夜会に単独で参加できないのよ。ご存知でしょう。普通は婚約者のあなたがエスコートする旨の便りをくださるべきではないのかしら」
「それは……!」
「便りがなかったということはマルセル皇子は欠席されると、そうわたくしが思っても不思議ではないわよね?」
マルセル皇子が口をはくはくとさせた。少し図星を突かれただけでこれとは、哀れになってくる。
「わたくしは今宵が社交デビューなの。晴れの日に婚約者が不在ならば代役を立てるしかなくなる。護衛も兼ねて代役を務めるよう、専属騎士に命じたの」
専属騎士に?と外野が騒ぐ。
皇族でもないのに騎士を持つのは傲慢が過ぎる、と。
「外野は黙っていて?」と微笑むと、おとなしくなったけれど。
「皇子、もしまだご不満があるというなら、婚約を解消してもよろしくてよ。ただ、皇帝夫妻がお許しになるかしらね」
反論も封じられ、まさにぐぅの音も出なくなったマルセル皇子。
これ以上相手しても無意味だと判断して、ヴァレリアは再び頭を下げた。
「パートナーと踊るから、わたくしはこれで失礼するわ。マルセル皇子もどうぞ良い夜を」
シモンのダンスは激しく、強引だった。
今回の夜会に向けてやけに張り切り、屋敷の執事連中に頼み込んで教えを受けていただけはあって、初心者にしては上手い方。だが、どこからどう見てもダンスに集中できていない。
『リードすることでヴァレリアの目を引きつけたい』という考えが、手に取るように伝わってきた。
「嫉妬は見苦しいからやめなさい」
隠せているとでも思っていたのか。
耳元で囁けば、驚いた顔をしていた。
「……申し訳ございません。どうしようもなく腹が立ってしまいまして。あれがヴァレリア様の未来の伴侶なのですか」
「好きでマルセル皇子を選んだわけではなくてよ。十歳も離れた相手に惹かれるような趣味はないもの」
現在の皇妃は元愛妾で、庶民の出。前の皇妃が若くして亡くなってしまったために地位を得た。
とはいえその地位は危ういものだ。息子であるマルセル皇子の立太子は難しく、かと言って他に皇位を継げる男児がいないものだから、婚約を交わすことで皇家に近しい血統のジオラス公爵家を後ろ盾とした。
ヴァレリアとマルセル皇子の婚約関係に、それ以上の意味は一切ない。
「政略結婚というものの存在は承知しています。が、ヴァレリア様を蔑ろにし過ぎているように見受けられました」
「下賤な者の血が流れているのだもの、正しい振る舞いというのがわからないのでしょう」
「下賤な者……」
物言いたげに呟き、しかし結局黙り込むシモン。
自身も決して高貴な身ではないという事実を気にしたのだろうか。しかしその自覚があればさしたる問題はなく、自覚せず、さも己が高貴であるかのように思い込むからこそ愚かなのである。
弁えていながら不相応な想いを抱くのも、別の意味で愚か者だとは思うけれど。
話している最中もダンスを続け、数曲が流れていった。気づけば次が最後だ。
「ラストダンスは優美に飾らなくてはもったいないというものよ」
「今度こそ、ヴァレリア様のパートナーとして恥じぬよう努めます」
シモンは気を取り直したようで、ヴァレリアが一番好みの表情を見せる。
「それでいいわ」
そのあとのダンスは拙さはあれど足捌きや手の使い方が丁寧、それでいて動きは大胆と、見違えるほど華やかに一変した。
ヴァレリアの言葉一つでここまで変わるのだから面白い。
専属騎士を伴って社交場に出るのは異例である。
王侯貴族のいる場に庶民を入れるとは何事だ、と腹を立てる者、自分の方がエスコートを務めるに相応しいと名乗り出る者等が現れるだろうと容易に想像がつく。それでも彼を連れ回そうと決めた。
心配せずとも、ヴァレリアが関心を向けるのはシモンだけだ。いかに綺麗なものであれ、彼と比較すると見劣りして思えるのだ。
だって、シモンよりも美しい存在をヴァレリアは知らない。
だって、シモンよりもヴァレリアを満足させられる存在はいない。
形式だけの婚約者はもちろん眼中になく、心底どうでもいい対象だと認識している。いずれ閨を共にしなければならないが、それはそれ。
皇子の妃となって以降も、忠実なる騎士として、そしてお気に入りの玩具として仕えさせ続けるつもりでいた。
まさか、それが叶わなくなるとは思ってもみなかったのである。
発端は、皇家からのお達し。
長々と書かれていたそれを要約すると『今後は婚約者らしくマルセル皇子と交流を行うように』とのこと。社交デビューの夜会の一件で、婚約関係の薄っぺらさを詳らかにしたのがいけなかったようだ。
念押しのように皇帝の印が押されている。
「呼びつける暇があるなら皇子の躾でもすればよろしいのに」
皇帝夫妻は一人息子を過度に溺愛しており、皇子が浮き名を流していても、然るべき便りを欠かして恥をかいても叱らないのである。
代わりにヴァレリアへ一方的な我慢を強いさせる。
そしてそれは皇帝夫妻に限らず、国を動かす重鎮と呼ばれる類の貴族連中も是としていた。私腹を肥やすことしか頭にない彼らにとって、皇子が聡明であれば操りにくくて困るからだろう。どいつもこいつも腐り切っている。
馬鹿馬鹿しい思惑に従うのは癪だが、仮にも皇帝の命令なので無視はできなかった。
婚約者との二人きりの茶会という体だ。シモンには「あの男と同じ空気を吸うとヴァレリア様が汚れてしまいます」と駄々をこねられたが、馬車に残して単身で挑む。
たとえ孤立無援でも言い包められたり屈することはないし、逆に皇家の甘過ぎる考えをへし折ってもいい。舌戦でも実力でも負ける気がしなかった。
ヴァレリアは傲慢だった。
自信に溢れていたからこそ、堂々と生きてきたからこそ、落とし穴に嵌まる可能性を見逃してしまった。
「マルセル皇子、この度はお招きいただき感謝するわ」
「ああ。どうぞ着席してくれ」
足を踏み入れた皇宮二階のバルコニー。
茶会の席について、マルセル皇子が飲み始めるのを待ってから、ゆっくりとカップを傾ける。味気ない紅茶だった。
歓迎の空気は感じられない。それなのに皇子は、笑みのような愉悦のような、それでいて怒りを滲ませた、いつになく醜悪な顔つきをしている。
体裁のためか、あるいは――と思考を巡らせようとしたところで、皇子が口を開く。
「改めて今回は婚約者同士の交流の場となっている。馬が合わなくとも歩み寄りは必要だろう、と父上が機会を設けてくださった。僕からの誠意の証として贈り物をしたい」
誠意がどこにあるのか謎だ。贈り物よりも、深い仲にある相手と縁を切った方がよほど真っ当ではなかろうか。
さらに、手渡されたのは真っ赤な布張りの小箱が一つ。
「皇家御用達の茶菓子を用意した。気に入ってもらえると嬉しい」
警戒しないわけではなかった。
夜会の豪勢な料理にしろ、味気ない紅茶にしろ、皇家御用達の菓子類にしろ、口に含むものには気をつけるのは王侯貴族における常識。
皇子に食べさせるか使用人を呼びつけるかして菓子類の毒味をさせよう。そう決めて小箱を手に取り――。
ぶすり。
長手袋越しに鋭利なものが突き刺さった。
「ぐっ……ぁ」
押し寄せた痛みに、うっすら血が滲むくらいに唇を噛み締める。
手袋を外して見ても傷口は目に見えない。代わりに視認できたのは無数の鉛色の針。
してやられた。
中身は確かに茶菓子であったが、注視すべきは小箱の方だった。小箱を覆う布の内側に針を仕込んで触れた途端に牙を向くように仕向けていたのだと瞬時に理解するが、もう遅い。
「乙女の肌を針で貫くなんて……あなたの愚かさを見誤っていたかしら。婚約者を傷つける行為は皇子として、いえ、人間としてあり得ない」
「また僕を糾弾するのか。いつまでその饒舌な口が動かせるか、楽しみだ」
針は単に痛みを与える目的ではなく、異物が塗られていることは確かだ。彼の口ぶりからして麻痺毒だろう。
すでに指先の感覚が失せ、全身へ痺れが広がり始めている。強烈で、しかも効き目がかなり早い。
――こんな男の前でみっともない姿を晒してなるものか。
深く呼吸を繰り返してどうにか平静を保とうとした。
「ジオラス公爵家が……黙っていない……わよ」
「だからどうした。小娘のくせに、女のくせに、公爵家のくせに偉そうなんだよ。自分が世界の中心みたいに思い込んで、誰も彼も、僕のことすらも見下して」
皇子はスッと立ち上がると、こちらへ歩いてくる。
灰色の双眸は狂気的な光を放っていて、なんともおぞましかった。このおぞましさと醜さを隠して婦人たちを虜にしていたのはある意味すごい。
もちろんそれも決して褒められた行いではないが。
「美貌? 才能? 血筋? そんなの持って生まれた授かり物だろうが」
「あら……ご自分が持たざる者である自覚を、お持ちだったのね」
美貌はなくても心根は美しく在れる。才能はなくても努力次第で秀才になれる。血筋はヴァレリアが補う。
だというのに劣等感を拗らせ、挙げ句の果てがこの凶行だ。
救いようがない。
「はっ。つくづく可愛げのない小娘だな。愛想よくできないならせめて、おとなしく僕にその体を味わわさせろ……!」
皇子の掌が迫り、ヴァレリアの細い首を鷲掴みにする。そして勢いよく押し倒された。
一緒に横倒しになった椅子が、がたん、と鈍い音を立てる。
麻痺のせいで身動きが封じられていることが腹立たしい。
あらかじめ抵抗する力を奪った上で好き放題に穢し、ヴァレリアの心をぐちゃぐちゃに踏み荒らすつもりなのだろう。鬱憤晴らしをしながら、未婚の娘として守るべき純潔を散らして逆らえないようにもできる、最高の手とでも誰かしらに入れ知恵されたのだろう。
顔面に吹きかけられる荒い息。
興奮のせいか汗で湿ってぬらぬらした掌の感触。
ギリギリと首を絞め上げられる息苦しさ。
本能的に感じずにはいられない、襲われることへの恐怖。
――気色悪い。気色悪い気色悪い気色悪い気色悪い。
もし純潔を奪われたら。もしこの場で穢されてしまったら。
いずれ婚姻を結べば体を重ねると覚悟していたのに、いざ欲望を向けられると、筆舌に尽くしがたい嫌悪感と拒否感が爆発した。
その爆発は体内から魔力となって溢れ出し、揺らめく炎の形をとった。
いけないと思った。皇族を傷つければ問答無用で罪になる。
わかっていても、炎は皇子へと絡みついて――。
魔法が、剣で遮られた。
「何をしている」
ここにいるはずのない声がする。
ここで目にするはずのない美しい銀髪が煌めく。
彼は剣先を皇子の背中に突きつける。
「何者だ!」
心底忌々しそうな顔で彼の方を振り返ったマルセル皇子。しばらくぽかんと剣を見つめて、息を呑んだ。
「……っ、貴様は」
「俺はヴァレリア様の騎士です。我が主に何をしている、無礼者」
「騎士ごときが偉そうな口を叩くのか!? あと一歩のところで邪魔をしやがって。その剣を下ろせ!」
「ヴァレリア様は皇子殿下が容易く触れていいような方ではない。我が主に辱めを受けさせるのなら、主の敵として処断することになります」
その言葉は脅しでも何でもないと理解したのか、皇子の顔面が蒼白に染まった。
そしてヴァレリアも、別の意味で血の気が引いていく。
騎士として正しい行為であるかもしれない。だが、ヴァレリアはこんなの、許可していない。
「シモン、やめなさい! これは命令よ」
勝手に馬車を出て、ついてきた挙句、望んでもいないのに庇われた。
おそらくは人目を盗んで城内に侵入したのだろう。その上で、ヴァレリアの反撃を防ぎ、罪ごと全て引っ被ることにしたのだろう。
それでも命じれば素直に聞くと期待した。
なのに、いつも都合が良すぎるくらいに従順であった奴隷騎士は、初めて裏切った。
「そればかりは承知できません、ヴァレリア様。あとで必ず償います」
そのあとの出来事は記憶が不確かだ。
麻痺毒が頭にまで回ったのか、あるいはシモンが従わなかった事実が衝撃的過ぎたのか。いつの間にやら意識を失ってしまい、次に目が覚めたのはジオラス公爵家の自室のベッドの上であった。
高熱を出して三日ほど寝込んでいたらしい。効果の強烈さの割には毒の持続力は低かったようで、痺れは残っていないが、それを不幸中の幸いとは思えなかった。
たった三日。されど三日。
ヴァレリアは、見舞いに来た両親により、最も耳にしたくなかった報せを届けられたのだ。
シモンが遠方の地へ追いやられた、と。
招待もなく茶会に割り込み、皇子に対して剣を突きつけながら脅迫、最終的には制圧したシモン。茶会の終了予定時間になっても帰らないマルセル皇子を迎えに来た使用人によって発見されたという。
当然だが大問題となり、審議の結果、気が遠くなるような回数の鞭打ちの刑を施行したのちに都から追放。また、ジオラス公爵家も彼を切り捨てることを選択した。
シモンは文句一つ言わずに全て受け入れた。
一方で麻痺毒を盛って婚約者を襲おうとした卑怯者はというと、公爵家からの抗議を受けて、ごく短期間の謹慎処分となったのだとか。あまりにも軽い処遇である。
「無駄な諍いを起こさないため、最善を尽くしたのだ」と父に説得された。
「代わりに新しい騎士をつければいいでしょう」と母に宥められた。
くだらなさに呆れ、耳を塞ぎたくなって、両親を部屋から追い出した。そんな言葉でヴァレリアの気が収まるわけがないのに勘違いも甚だしい。
不意に、つるり、と瞳から何かが流れ落ちる。
なぜだろう、一度溢れ出すとちっとも止まってくれなかった。
――どうして。
――どうしてなの、シモン。
己の傲慢が招いた事態であると自覚しているだけに、下手に庇われてしまった故に、ヴァレリアはシモンに何を想えばいいのかわからない。
確かに彼は忠実なる騎士だったのだろう。忠実だからこそ裏切られるとはまったくの想定外だ。
何が『あとで償います』だ。弁明もなく目の前から消えるだけで命令に背いたことが許されると思っているのだろうか。
ヴァレリアを楽しませてさえいれば、美しい顔を見せてさえいればそれで充分だったのに。
「お前という彩を失ってしまったら、わたくしの人生に何の意味があるというの?」
涙声の問いかけは、虚しく響いた。
――だから、いっそ全てを終わらせることにした。
気がおかしくなりそうなほど、味気のない日々が過ぎ去っていく。
母が連れてきた新しい騎士はさして美しくなく、まるで興味を抱けなかったので一言も口をきいていない。
気を紛らわせたくて、目的もなく散財をしたりあちらこちらの集まりに出向いたが、どれも面白くない。マルセル皇子に敵意を浴びせられても憐れみの感情すら湧かなかった。
幾年そうして過ごしただろう。
何事もなかったかのように皇子との婚姻準備が進み、いよいよ挙式が目前となった頃――唐突に終焉が訪れる。
叛逆だった。
何ら不思議なことではない。
息子を甘やかすことしか知らない皇帝夫妻、女遊びにかまけてばかりの無能な皇子、平民を考慮に入れずに苦しめ続ける高位貴族たち……。
ついに耐え切れなくなった民が暴発したというだけの話。
彼らの背中を押したのは、他ならぬヴァレリアなのだけれど。
大々的には何もしていない。あの裏切り者が裏切ってでもヴァレリアの名誉を守ろうと罪を被った意味がなくなるからだ。
あくまで誰にも悟られぬよう名を伏せつつ、口の回る商人やら吟遊詩人やらを用いて真実をひっそりとばら撒いた。叛逆が達せられたあとの処理を任せるために他国へいくつか書簡を送った。たったそれだけ。
元から敬意などなかったが、皇家にはすっかり愛想が尽きてしまったのだ。救いようがない皇子の妃となり、腐り切った国を支え、存えさせる必要がどこにあるかわからなくなった。
おまけに、滅亡というショーはいい退屈しのぎになった。
叛逆した民たちによって都が、城が、屋敷が蹂躙される。
たくさんの高貴な血が流れた。下賤な皇子も「やめろ! 僕は皇子だぞ!」などと威張り散らしてどうにもならなくなると皇帝夫妻に縋りつき、仲良く親子一緒に殺されたらしい。最期まで愚かの極みである。
ジオラス公爵家も例外ではなく、両親はあっという間に晒し首。新しい騎士は逃げてしまったし、残るはヴァレリア一人。
「あははっ!」
憎悪をむき出しにする民衆を目の前にして乾いた笑みが漏れる。
ヴァレリアの掌の上で思い通りに動かされ、そのことも気づかないままの彼らの、なんと滑稽なことか。それを見ても心から楽しめていないヴァレリアはかなりの重症だと思う。
魔法で炎を纏う。ドレスが焦げても屋敷の残骸に火がついても構わない。
多勢に無勢。敵うわけがないとわかっていながら、魔力が尽きるまで踊り狂った。
◆
皇家が滅びた。
それは唐突で、けれど予想できた滅びだった。
シモンは皇家を嫌っている。憎んでいると言っていい。
都に住まう民が飢えに喘いだ時、いくら訴えても聞き入れてくれなかった。訴えを刃向かったと曲解されて何人も処せられた。
餓死者が続出し、泣く泣く借金のカタにされる子供が続出。その中にシモンも含まれていた。
奴隷は人間として扱われず、特にシモンのように身綺麗な子供は金持ちの変態に飼われるのが普通。けれど幸いなことに、シモンは餌食にならずに済んだ。
主――ヴァレリア・ジオラスと出会ったおかげで。
初めてヴァレリアを目にしたあの日のことを、シモンは今でも鮮明に覚えている。
彼女の堂々とした態度に、磨き上げられた眩さに、強く強く魅入られた。
『気に入ったわ。お前、わたくしの騎士になりなさい』
だから、そのように命じられた時も嫌ではなかった。
傲慢でわがままで、困った姫君だった。シモンを立派な騎士に鍛え上げるためという名目で行われたヴァレリアの一方的なしごきは辛かった。
だが彼女は決してシモンを虐げることはなく、きちんと向かい合ってくれている気がした。
いつの頃からだっただろう、ヴァレリアに尊敬の念……いや、それ以上の想いを抱くようになったのは。
気がついた時には、とっくに奴隷の首輪を解かれたにもかかわらず、身も心も彼女の奴隷となってしまっていたのである。
そんなシモンにとって、皇家はますます嫌悪の対象となった。
驚くべきことにヴァレリアの婚約者であった皇子の屑っぷりは凄まじいものだったし、皇家そのものの対応もろくでもないまま。
本当ならすぐにでもヴァレリアを遠ざけたいところではあったが、政略という厄介な事情がある。一介の騎士に過ぎないシモンがどうこうできる問題ではないことが悔しかった。
もし何も起こらなければ、苦虫を噛み潰しながらも主と皇子の関係を黙って眺めていただろう。
ただ、最悪なことに、おぞましい事態が発生した。薄々感じていた嫌な予感が的中してしまった。
夫になってもいない形式だけの婚約者ごときがヴァレリアの貞操を奪おうなどと、この上なく許し難いことだ。シモンがどれほど我慢して気持ちを押し殺していると思っているのか。
ヴァレリアの前でなければ怒りに任せて心臓を貫いていたところだ。
それでも、一見無慈悲に思えて優し過ぎるヴァレリアは許さなかった。
「シモン、やめなさい! これは命令よ」
「そればかりは承知できません、ヴァレリア様。あとで必ず償います」
護衛騎士は主を守ってこそなのだ。たとえこれから傍にいられなくなるのが目に見えていたとしても。
初めてヴァレリアの命令に背いたことを、誤った行いだとは思っていない。
後悔しなかったかと言えば嘘になるけれど。
鞭打ちと追放の刑に処され、拠り所を失って以降幾年か、ふらふらと彷徨い歩いて暮らしていた。
騎士の経験を活かして傭兵になってみたり新しい主を探してみたり。どれも上手くいったとは言えない。
彼女の顔が見たいと、彼女の声が聞きたいと、恋しくてたまらなくなる。
そんな最中のことだ。民たちによる謀反が起きて皇家が滅亡したという噂が流れてきた。
「ヴァレリア様は……」
皇家だけならいい。むしろせいせいする。
問題は、ヴァレリアの安否。
皇家との繋がりが深い彼女が巻き込まれていないとは考えにくかった。彼女ほどの強者なら、と楽観したいが、無事の保証は薄い。
込み上げる焦燥感で頭がおかしくなりそうだった。
いてもたってもいられず、遠く離れたジオラス公爵邸へ駆けて駆けて駆けて――。
焼け焦げ、残骸となった屋敷を前に、崩れ落ちた。
火を放たれたのか。それともヴァレリア自らが火を放ったのか。
誰のものかもわからない焼死体が積み重なっている。
「ヴァレリア様、ヴァレリア様、ヴァレリア様!!」
狂ったように叫べども応えはなかった。
どのくらいそうしていただろうか。シモンの声に気づいて、一人の男がやって来た。
見るからに平凡な格好なのでおそらくは領民だ。元領民というべきか。
「どうした、見ない顔だな。余所者か?」
「……俺は傭兵をやっているシモンという者だ。ヴァレリア・ジオラス嬢の依頼を受けて、ここまで足を運んだ。ヴァレリア嬢の居所を知っていたら教えてほしい」
努めて冷静ぶった演技で問いかけてみる。
こんな有様だ。騎士だと明かさない方がいいと判断したのだが、どうやら正しかったらしい。
「あぁ? この屋敷のお嬢様か。それなら、身売りされたよ」
「身売り、された?」
「謀反騒ぎがあったことくらいは知ってるだろ。その時に引っ捕まえて奴隷商人に売り渡してやったんだ! 別嬪だったからなぁ。今頃はどこかの国の金持ちの愛人としてたっぷり可愛がられてるんじゃねえの?」
いい気味だ、と男は言う。
貴族に相当な恨みを募らせていたのだろう。シモンも貧民だった者として、その気持ちはよくわかる。
とはいえ聞かされた話は到底受け入れられるものではなくて。
――見つけ出さなくては。
そう、強く思った。
まったくもって不本意なことに、シモンは英雄と呼ばれるようになった。
「シモン様のおかげで生きる希望が持てました」
「なんと素敵な騎士様なのでしょう」
称賛の言葉が次から次へと届く。中には縁談もあったが棄てた。
謀反の代償に家族を失った人々に手を差し伸べ、ヴァレリアがあとを託した他国たちが起こす国土問題やら何やらのいざこざを力づくで鎮めた結果だ。
全てはヴァレリアが戻って来た時に過ごしやすいようにするため。
同時並行で暇さえあれば各地を巡り、ヴァレリアを捜した。必ず見つかると信じて。
東の辺境へ赴いた。ダメだった。
西の森林地帯へ足を踏み入れた。求めるものはなかった。
南の最果ての海辺の街を眺め回した。
北の雪山を越える商人たちを監視した。彼女の姿は見当たらない。
一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月、半年……。
過ぎ去る時に反し、一向に探索の進捗がない。せめて少しでもヴァレリアを感じたくなって、知らず知らずに足が向いたのは、かつての都があった場所。
ヴァレリアと出会った思い出の地でもあるそこは、相も変わらず奴隷商人と、首輪を嵌められた哀れな奴隷がいた。
息を呑む。こんな偶然、こんな奇跡があっていいのか。
懐からありったけの金貨を出すのに、微塵の戸惑いもなかった。
奴隷を買った。
燃えるような紅い髪がちぢれて薄汚れてしまっているのが許せなかったから。ボロキレのような姿なのに、澄んだ菫色の瞳が魅力的に輝いていたから。
「ああ、やっと来たの」
彼女はさも当たり前のように微笑んだ。
◆
「ああ、やっと来たの」
それが正直な感想であった。
ヴァレリアは、シモンの根気強さを昔からよく知っている。ちょっとやそっとで折れやしない。
そんな彼がヴァレリアを迎えに来ないわけがないのだ。
あの謀反を経て生き残れるか否かは賭けだった。ヴァレリアは賭けに勝ち、奴隷に堕とされた。
魔力封じの効果がある奴隷の首輪を嵌められ、非常に不利な状態の中で、穢されたり殺されることなく売れ残るために舌戦を繰り広げるなどしたが省略。
シモンと再会できる可能性はこれしかなかった。皇家を筆頭に貴族連中を亡きものにし、身分も何もかも投げ打つ、この方法しか。
計画通り物事が運んで、抑え切れない喜びに口元が弧を描いた。
こうして笑えたのは一体いつぶりだろうか。
「裏切り者が、何の目的でわたくしを買い上げたのかしら?」
「ヴァレリア様のご無事を確かめたくて。お怪我はなさっていませんか。お風邪を召してはいませんか。苦しい思いはなさいませんでしたか」
「苦しい思いはしたわ。お前が勝手にいなくなったから」
色褪せていた世界は、今は鮮やかに見える。
シモンは今にも泣いてしまいそうな顔で、ヴァレリアの奴隷の首輪を破壊した。
「情けない表情を晒さないでと言ったでしょう? しゃんとなさいな」
「申し訳、ありません」
それからたくさん謝られた。
迎えが遅くなってしまったこと。命令に背いて罰せられたこと。ヴァレリアを守り切れず奴隷の道を選ばせたこと。
そして、不相応な想いをずっと抱いていること。
「愛しています、ヴァレリア様」
一切取り繕うことのない告白。
緊張に震える声すら美しいのだから、ずるい。
「俺は、ヴァレリア様と到底釣り合わないとわかっています」
「そうね。わたくしは地位も権力も持たない、ただの奴隷。一方のお前は英雄様だものね」
「意地悪をおっしゃらないでください。――ヴァレリア様が欲しい。ヴァレリア様を俺だけのものにしてしまいたいのです」
騎士がするように恭しく跪くシモン。もはやヴァレリアの奴隷騎士ではなく、誰もが褒め称える英雄になったというのに癖が抜けないらしい。
サファイアの瞳は熱を帯びて、ヴァレリアを射抜いていた。
――まあ、生意気だこと。
形式だけの婚約者がいたので、彼からの好意はずっと見て見ぬふりをしてきたが、こればかりは逃げられないと悟る。そもそも今更逃げるつもりはないが。
彼なしの退屈な人生なんて、もう考えられない。
「気に入ったわ。お望み通り、お前のものになってあげる。これからは主として、わたくしを楽しませ続けるといいわ」
「承知しました、ヴァレリア様」
シモンの手を取り、身を近寄せる。
絡まる二人の吐息。どんな絵画よりも美麗で見惚れずにはいられない、赤らんだ頬や長い睫毛を間近で眺め――。
そっと、証の口付けを交わした。




