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薄れていくので抱きしめて

作者: エリス計画
掲載日:2026/03/20

 目をおおっていた布が取り外されると、目の前が一瞬白っぽくなったが、それは間違いだと気づいた。


 打ちっぱなしのコンクリート壁に囲まれた地下室は、スリット状の窓から射し込む夕刻の残光を、凝固した血のような赤黒さに染め上げていた。


 背後で鳴り続ける、粘りつくような不規則なヒール音。それは、砕けた骨の上を歩いているかのような、乾いた不協和音を伴っていた。ひどい期間、連続勤務をしていたような、脳の凝りがじわっと解きほぐされ、目の奥がクリアになってきたようだった。


 目の端に、女が映った瞬間、飛びかかろうとして、首が、足首が、太ももが、手が、体が、拘束されていることに気がついた。


 「犯罪だぞ!これは!」


 言ってみて、初めて自分は危険な目に遭っていると分かって、憎悪に血が昇る。


 女は、対面の椅子に座った。右太ももを上に足を組む様が、自分を完全に制したという油断であることもイラ立たせた。


 「怒った顔が恐いから、止めてほしい」


 「うるさい。ほどけよ、これ!」


 「うるさい、なんて言わないよ。そうじゃなくて、美味しいお店を見つけたから、一緒に行こうって誘うの」


 「馬鹿か。知らん女を誘うか」


 女はまた、足を崩し、立ち上がって近づいてきた。不規則なヒールの音は、無数の花が敷きつめられているからだ。そうして、嗅覚が働くようになった。だが、鼻を覆えない。肺の奥まで侵食する、甘ったるくも鼻を突く、すえた死臭。熟れすぎて崩れた果実と、放置された死花の腐敗が混じり合って、粘膜に絡みつくような。女はため息をつく。


 「私を覚えてないの?」


 女は白い、いくらのような花束を手にしている。そうして、真横にして見せた。


 「この花も?」


 「もちろん」


 乾いた音が頬に響く。頬を張られた。


 「何すんだよ!」


 「見て!見るの」


 そう言って、いくらのような花は折ってぐしゃぐしゃになって、ばらばらにコンクリートに、そのかすみ草の花は散った。何百とある中に。


 潤奈はじっと目を見つめている。首は動かせないので、その目を見つめるしかなかった。


 「どうしてそんなに不安そうな瞳をしているのだ、何かあったのか。よし、兄がこの間駅前に美味しいお店を見つけたから、一緒に行こう」


 潤奈にそう言って微笑む。彼女の口の端が微笑むのに少し安心した。


 「正一兄さん。ありがとう。私、嬉しい」


 女はそう言った。誰だ、正一とは。


 「誰だ、正一さんって」


 「知っているでしょう。五年前からあなたの名前よ」


 「どういう意味だ。俺は網正だ。誰か知らない奴と間違ってるんじゃないのか。間違いだ。たぶん、だろう。ほどいてくれ。俺はお前なんか知らない。俺に妹なんかいない。さっきも言ったが、犯罪だぞ、これは。会社に連絡してないんだ。今日は休むって。」


 女はスマートフォンを取り出して、画面を見せながら言った。


 「その必要はないわ。兄さんは大学生だもの」


 その写真には、知らない家族に混じって俺が幸せそうに笑って写っている。女が俺の腕を抱いている。


 視線が画面を忙しくなぞり、合成の跡を探すが、よく分からない。


 「AI生成じゃないのよ。本当の事実」


 何のことか分からないが、彼女が次々と見せる画面に、身に覚えのない、記憶が映し出されている。行ったことのないお店、知らない夜景、興味のない遊園地。


 「分かったでしょう?本当のことよ」


 俺は記憶喪失なのか……


 「記憶喪失じゃないわ。いつも疑うから先に言っておくけど」


 「じゃあ、何だ。俺の知らない、もう一人の俺、俺が双子で……」


 女はスマートフォンをしまおうと、視界の外から何かを取り出した。


 「何するんだ?止めろ!」


 「別に危害を加える訳じゃないわ。幸せになるだけ」


 「幸せ?」


 マッチの火が箱から取り出されたろうそくに燃え移り、腐敗と咲ける香りが混じり合った。


 「そう。幸せ」


 スマートフォンを操作すると、斜めに差し込んだ夕刻の光は消え、部屋の中は一点の光だけとなった。


 「さて。網正さんは、自分のことを覚えてる?」


 「ああ」


 俺は宅配ドライバーとして働いていたこと。子供部屋で、よく、強い酒で無理に寝ていたこと。


 「その上司がムカつく奴で殺したかったよ」


 思い出した。


 「大変だったでしょう」


 目の前の女は、


 「でも、もういいの。幸せになりましょう」


 最後に荷物を届けた先の女だ。


 「何度でも」


 「何度でも?」


 何度でもこんなことが行われたのか? もしかして。


 「兄さんは本当に凄いわ。お花がもう効かなくなっちゃったのだから」


 「お花?」


 目の前の、この何百か、何千かある花か?


 「そう、お花」


 「俺には妹なんていない。他人だろ!」


 両腕に力を込めて、拘束がとれないか試すが、全く動かない。立ち上がれない。


 「他人? そうよ、最初はそうだった。でも、昨日まで兄だったという事実は、あなたの脳に刻まれたシナプスの一致なの。物理的な血の繋がりよりも、共有した偽りの記憶の方が、今のあなたを構成するタンパク質にとっては本物なのよ」


 どういうことだ。まさか、洗脳?


 目の前の、一点の明かり、花の腐敗臭。静けさ。そして溶けた声。頬の熱のある痛み。


 それらが今、俺を追いつめているのだと分かった。


 「視線、嗅覚。それらが兄さんを兄さんにするの」


 「だけど、もう、効かないんだろう?ええ?」


 「そう」


 「残念だったな」


 「そう、残念なの。だから、強くしないと」


 血の気が粟立つ。一気に手先がかじかむ。


 「もうすぐ、お誕生日ね。おめでとう、兄さん。三月二十日はあなたの誕生日よ」


 「何言ってるんだ、俺の誕生日は」


 危うく、正しい誕生日を言ってしまうところだった。何かに使われてしまうかもしれない。


 女は、手の平に乗る程度の木箱を差し出した。


 「この箱を開けるか開けないか、選ぶのはあなた自身よ。私はもう強制しない」


 女は俺の後ろに回ると、左手が使えるようになった。


 「この木箱には、本当のことが入っている。もし開けなければ、あなたは一生『自分を誘拐した女が誰なのか』を知る権利を失う。開ければ、あなたは『私がなぜあなたを兄に選んだか』を知り、納得して私の兄に戻る。さあ、あなたの意志を見せて」


 そうして、俺に握らせる。よく見えるように目の前に持ってくる。何の変哲もない木箱だ。


 「知りたいでしょう、私の名前を」


 知りたい。この犯罪者の名前を。


 花の腐敗臭が言葉を奪う。


 限られた視界が未来の想像力を奪う。


 女の声が脳を巡り、危機感を奪う。


 そうして、左手のささやかな重みにのみ神経が注がれる。


 目の前に置いた木箱は、古びて黒ずみ、まるで湿った皮膚のような質感を帯びていた。隙間からは、花の芳香を食い破るほどの強烈な腐臭が、生き物のような這い出し方をしてくる。


 選ばなければ。選択するんだ。


 木箱を太ももに置いて、俺は木箱を開けた。


 開けてはいけない。


 「よく見て」


 潤奈の声が頭に響く。


 俺は、開けさせられている。


 箱の底に沈んでいたのは、幾重にも折り畳まれ、湿り気を帯びて黒ずんだ新聞の切れ端だった。


 震える手でそれを取り出す。


 指先に伝わるのは、冷たく、重い、紙というよりは肉片に近い不快な感触だ。


 広げた紙面には、かつて俺が「愛していたはずの誰か」の顔が、インクの染みにまみれて並んでいた。


 『一家無理心中か――発見された夫婦の遺体』


 モノクロの写真の中で、父だったもの、母だったものが、かすみ草に囲まれて、泥のような色に変色している。死んだ?殺された?


 「ねえ、兄さん。そんなゴミ、もういいでしょう?」


 背後から、潤奈の粘りつくような声が鼓膜に這い寄ってきた。


 彼女の指が俺の首筋に触れる。その冷たさは先ほど触れた新聞記事の、あの死体が想起させる温度と、全く同じだった。


 そういえば、潤奈が目の前で微笑んでいる。


 お店の予約は何時だっただろう。


 「正一兄さん、おかえりなさい」


 僕は潤奈を思いきり両手で抱き締めてやった。立ち上がって、もう一度ハグをする。


 コンクリートに斜めに差し込んでいた夕刻の光は、月明かりになろうとしていた。


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