薄れていくので抱きしめて
目をおおっていた布が取り外されると、目の前が一瞬白っぽくなったが、それは間違いだと気づいた。
打ちっぱなしのコンクリート壁に囲まれた地下室は、スリット状の窓から射し込む夕刻の残光を、凝固した血のような赤黒さに染め上げていた。
背後で鳴り続ける、粘りつくような不規則なヒール音。それは、砕けた骨の上を歩いているかのような、乾いた不協和音を伴っていた。ひどい期間、連続勤務をしていたような、脳の凝りがじわっと解きほぐされ、目の奥がクリアになってきたようだった。
目の端に、女が映った瞬間、飛びかかろうとして、首が、足首が、太ももが、手が、体が、拘束されていることに気がついた。
「犯罪だぞ!これは!」
言ってみて、初めて自分は危険な目に遭っていると分かって、憎悪に血が昇る。
女は、対面の椅子に座った。右太ももを上に足を組む様が、自分を完全に制したという油断であることもイラ立たせた。
「怒った顔が恐いから、止めてほしい」
「うるさい。ほどけよ、これ!」
「うるさい、なんて言わないよ。そうじゃなくて、美味しいお店を見つけたから、一緒に行こうって誘うの」
「馬鹿か。知らん女を誘うか」
女はまた、足を崩し、立ち上がって近づいてきた。不規則なヒールの音は、無数の花が敷きつめられているからだ。そうして、嗅覚が働くようになった。だが、鼻を覆えない。肺の奥まで侵食する、甘ったるくも鼻を突く、すえた死臭。熟れすぎて崩れた果実と、放置された死花の腐敗が混じり合って、粘膜に絡みつくような。女はため息をつく。
「私を覚えてないの?」
女は白い、いくらのような花束を手にしている。そうして、真横にして見せた。
「この花も?」
「もちろん」
乾いた音が頬に響く。頬を張られた。
「何すんだよ!」
「見て!見るの」
そう言って、いくらのような花は折ってぐしゃぐしゃになって、ばらばらにコンクリートに、そのかすみ草の花は散った。何百とある中に。
潤奈はじっと目を見つめている。首は動かせないので、その目を見つめるしかなかった。
「どうしてそんなに不安そうな瞳をしているのだ、何かあったのか。よし、兄がこの間駅前に美味しいお店を見つけたから、一緒に行こう」
潤奈にそう言って微笑む。彼女の口の端が微笑むのに少し安心した。
「正一兄さん。ありがとう。私、嬉しい」
女はそう言った。誰だ、正一とは。
「誰だ、正一さんって」
「知っているでしょう。五年前からあなたの名前よ」
「どういう意味だ。俺は網正だ。誰か知らない奴と間違ってるんじゃないのか。間違いだ。たぶん、だろう。ほどいてくれ。俺はお前なんか知らない。俺に妹なんかいない。さっきも言ったが、犯罪だぞ、これは。会社に連絡してないんだ。今日は休むって。」
女はスマートフォンを取り出して、画面を見せながら言った。
「その必要はないわ。兄さんは大学生だもの」
その写真には、知らない家族に混じって俺が幸せそうに笑って写っている。女が俺の腕を抱いている。
視線が画面を忙しくなぞり、合成の跡を探すが、よく分からない。
「AI生成じゃないのよ。本当の事実」
何のことか分からないが、彼女が次々と見せる画面に、身に覚えのない、記憶が映し出されている。行ったことのないお店、知らない夜景、興味のない遊園地。
「分かったでしょう?本当のことよ」
俺は記憶喪失なのか……
「記憶喪失じゃないわ。いつも疑うから先に言っておくけど」
「じゃあ、何だ。俺の知らない、もう一人の俺、俺が双子で……」
女はスマートフォンをしまおうと、視界の外から何かを取り出した。
「何するんだ?止めろ!」
「別に危害を加える訳じゃないわ。幸せになるだけ」
「幸せ?」
マッチの火が箱から取り出されたろうそくに燃え移り、腐敗と咲ける香りが混じり合った。
「そう。幸せ」
スマートフォンを操作すると、斜めに差し込んだ夕刻の光は消え、部屋の中は一点の光だけとなった。
「さて。網正さんは、自分のことを覚えてる?」
「ああ」
俺は宅配ドライバーとして働いていたこと。子供部屋で、よく、強い酒で無理に寝ていたこと。
「その上司がムカつく奴で殺したかったよ」
思い出した。
「大変だったでしょう」
目の前の女は、
「でも、もういいの。幸せになりましょう」
最後に荷物を届けた先の女だ。
「何度でも」
「何度でも?」
何度でもこんなことが行われたのか? もしかして。
「兄さんは本当に凄いわ。お花がもう効かなくなっちゃったのだから」
「お花?」
目の前の、この何百か、何千かある花か?
「そう、お花」
「俺には妹なんていない。他人だろ!」
両腕に力を込めて、拘束がとれないか試すが、全く動かない。立ち上がれない。
「他人? そうよ、最初はそうだった。でも、昨日まで兄だったという事実は、あなたの脳に刻まれたシナプスの一致なの。物理的な血の繋がりよりも、共有した偽りの記憶の方が、今のあなたを構成するタンパク質にとっては本物なのよ」
どういうことだ。まさか、洗脳?
目の前の、一点の明かり、花の腐敗臭。静けさ。そして溶けた声。頬の熱のある痛み。
それらが今、俺を追いつめているのだと分かった。
「視線、嗅覚。それらが兄さんを兄さんにするの」
「だけど、もう、効かないんだろう?ええ?」
「そう」
「残念だったな」
「そう、残念なの。だから、強くしないと」
血の気が粟立つ。一気に手先がかじかむ。
「もうすぐ、お誕生日ね。おめでとう、兄さん。三月二十日はあなたの誕生日よ」
「何言ってるんだ、俺の誕生日は」
危うく、正しい誕生日を言ってしまうところだった。何かに使われてしまうかもしれない。
女は、手の平に乗る程度の木箱を差し出した。
「この箱を開けるか開けないか、選ぶのはあなた自身よ。私はもう強制しない」
女は俺の後ろに回ると、左手が使えるようになった。
「この木箱には、本当のことが入っている。もし開けなければ、あなたは一生『自分を誘拐した女が誰なのか』を知る権利を失う。開ければ、あなたは『私がなぜあなたを兄に選んだか』を知り、納得して私の兄に戻る。さあ、あなたの意志を見せて」
そうして、俺に握らせる。よく見えるように目の前に持ってくる。何の変哲もない木箱だ。
「知りたいでしょう、私の名前を」
知りたい。この犯罪者の名前を。
花の腐敗臭が言葉を奪う。
限られた視界が未来の想像力を奪う。
女の声が脳を巡り、危機感を奪う。
そうして、左手のささやかな重みにのみ神経が注がれる。
目の前に置いた木箱は、古びて黒ずみ、まるで湿った皮膚のような質感を帯びていた。隙間からは、花の芳香を食い破るほどの強烈な腐臭が、生き物のような這い出し方をしてくる。
選ばなければ。選択するんだ。
木箱を太ももに置いて、俺は木箱を開けた。
開けてはいけない。
「よく見て」
潤奈の声が頭に響く。
俺は、開けさせられている。
箱の底に沈んでいたのは、幾重にも折り畳まれ、湿り気を帯びて黒ずんだ新聞の切れ端だった。
震える手でそれを取り出す。
指先に伝わるのは、冷たく、重い、紙というよりは肉片に近い不快な感触だ。
広げた紙面には、かつて俺が「愛していたはずの誰か」の顔が、インクの染みにまみれて並んでいた。
『一家無理心中か――発見された夫婦の遺体』
モノクロの写真の中で、父だったもの、母だったものが、かすみ草に囲まれて、泥のような色に変色している。死んだ?殺された?
「ねえ、兄さん。そんなゴミ、もういいでしょう?」
背後から、潤奈の粘りつくような声が鼓膜に這い寄ってきた。
彼女の指が俺の首筋に触れる。その冷たさは先ほど触れた新聞記事の、あの死体が想起させる温度と、全く同じだった。
そういえば、潤奈が目の前で微笑んでいる。
お店の予約は何時だっただろう。
「正一兄さん、おかえりなさい」
僕は潤奈を思いきり両手で抱き締めてやった。立ち上がって、もう一度ハグをする。
コンクリートに斜めに差し込んでいた夕刻の光は、月明かりになろうとしていた。




