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3話

署内は、忙しいというより雑だった。


電話が鳴って、コピー機が唸って、誰かが誰かに「それ今日中?」って言って、誰も答えない。

正確に言うと、答える前に別の声が被さって流れていく。


結城理人は、その中心から少し外れた机で、証拠品袋を丁寧に並べていた。

丁寧すぎて逆に目立つ。

雑音の中で、一人だけ“手順”が見える。


「お、結城」


背中に軽い声が落ちた。


「今回の、立候補したんだって?」


結城は顔を上げる。真面目な顔で、真面目に頷く。


「はい。私が担当します」


「偉いねぇ。じゃあ解決しろ。以上!」


「以上って何だよ」

俺は思わず——


……思っただけだった。


俺は、ここにいる誰にも見えない。

声も、届かない。


(この状況、そろそろ慣れろって? 無理だろ)


結城の机の横に立っている。

立っているつもり。

足がないのに立っているという感覚だけがある。


霊安室で自分の顔を見た。

腹に木材が刺さった状態で見つかったと聞いた。

でも、記憶がない。


俺は、ただ——知りたい。

誰に殺されたのか。

本当に“殺された”のか。


「木材刺さりは事故だろー?」


別の声。軽い。雑。


「いや、でも腹に刺さってるってなかなかないよな」


「コンビニ裏だろ? 木材散乱してたって。倒れて刺さったとかじゃね?」


「事故! 事故! はい解散!」


冗談のリズムが、勝手に結論まで走っていく。

笑いもついてくる。

理由は要らない、って顔で。


結城はそれを聞きながら、少しだけ眉を寄せた。

でも反論はしない。反論の代わりに、きっちり言う。


「可能性の整理は必要です。事故の可能性も、合理的に——」


「出た。合理的」

笑いが起きる。


結城は笑わない。

笑えないというより、笑うタイミングを知らない顔をしている。


通りすがりの上司が、雑に一言投げた。


「結城。……手袋は“ちゃんと”しろ。前みたいなのは勘弁だぞ」


結城は一瞬固まって、敬礼しかけて、やめて、頷いた。


「……承知しました」


(……過去にもやってたんだな)


結城は周囲の雑さを受け流しながら、現場写真を眺めていた。


そこには、コンビニ裏が写っている。

狭い通路。濡れた地面。ゴミ置き場。

立入禁止テープが妙に真面目に張られている。


その中心に——俺がいる。


腹のあたりが、不自然に盛り上がって見えた。

木材。

写真だと、あまりにも“説明みたい”に見える。


結城が、独り言のように呟く。


「……事故ですか」


俺の胸の奥が、きゅっと縮んだ。


(……これ)


痛みじゃない。

音が先に来る。木が割れる乾いた音。

それから、風。

コンビニ裏の、冷たい風。


記憶の入口だけが、ちらっと開く。


(事故じゃない)

(……押された)


俺は結城の耳元に近づいて叫ぶ。

叫んだつもり。

当然、届かない。


結城は写真を一枚ずつ並べていく。

同じ場所、同じ角度、同じ湿り気。

木材が散乱している。

散乱……しすぎている。


でも結城は、そこで止まった。


「……事故であれば、説明は容易です」


口にした瞬間、空気が軽くなる。

署内の雑さが、その言葉に乗っかってくる。


「ほらな、事故じゃん」

「木材散乱してたんだろ? はい解散」

「結城もやっと現実見た?」


笑い声。

紙コップのコーヒーの匂い。

コピー機の唸り。


(……違う)


俺の胸の奥が、きゅっと縮んだ。

さっきの“入口”が、閉じる音がした。


(事故で終わる)

(俺の死が、事故で処理される)

(誰かが笑って、終わる)


痛みじゃない。

でも、息が詰まる。

息なんてないのに、詰まる。


結城は、写真の俺を見ている。

その目が、一瞬だけ揺れた。


……揺れたのに。

結城は、揺れを押し殺すみたいに、声を整えた。


「……事故として扱う場合、必要な手続きは——」


(やめろ)


俺は結城の耳元に顔を寄せた。

叫んだ。

届かない声で、何度も。


(事故じゃない)

(押された)

(俺は、押されたんだ)

(頼む、気づけ)


結城は何も反応しない。

当たり前だ。

当たり前すぎて、腹が立った。


(……何もできない)


机の上の写真が、ただの紙になる。

俺の死が、ただの書類になる。


その瞬間——


結城が、写真を裏返しかけた。

「事故」と書いたメモが、机の端に見えた。


(やめろ!!)


俺の中で、何かが弾けた。


“気持ち”が先に出た。

理屈じゃない。

怖い。

このままだと、俺は永遠に「事故」になる。


(嫌だ)


次の瞬間、視界が——近づいた。


——憑依。


熱でも冷たさでもない。

“生きてる側”の血の流れが、いきなり耳の奥で鳴る。


心臓。

結城の心臓が、どくんと一回だけ強く打った。


結城の肩が、わずかに跳ねた。

ペンが落ちて、机に当たって、乾いた音がした。


「……っ」


結城が声にならない息を漏らす。

周りの雑音が、一瞬だけ遠くなる。


俺は——結城の目で、写真を見ていた。


(見える)

(触れないのに……見える)

(動く)


右手が勝手に動いた。


いや、俺が動かした。

“動かしたい”じゃなく、“動いてしまった”。


指が、写真の中の一点を押さえる。

俺の腹のすぐ横。

周りと同じに見える木材。

でも、同じじゃない一本。


結城の声が、変わった。

丁寧さが消えて、短くなる。


「……違う」


(そうだ)


結城の指先が、写真の木材の側面をなぞる。

なぞっただけで、結城の喉が小さく鳴った。


「汚れじゃない……」


言いかけて止まる。

結城は“自分の言葉”に戻ろうとする。


でも戻れない。


俺の気持ちが、押してくる。


(事故じゃない)

(事故にするな)

(見ろ)

(こいつだけ、違う)


結城の口が、勝手に続けた。


「……膜だ。塗料の……」


その一言が、机の上に落ちた瞬間。

結城自身が、自分の声に驚いたみたいに目を瞬かせる。


「……え?」


俺はもう一押しした。

写真の周り——俺の周囲だけ、木材の“重なり”が違う。

散乱に見えるのに、どこか“足した”感じ。


結城の眉が寄る。

寄り方が、結城じゃない。

もっと、荒い。


「……丁寧すぎる」


結城がそう言って——

言ってしまって——


次の瞬間。


ぶつん、と糸が切れたみたいに、俺は弾き出された。


世界がふわっと裏返る。

身体がないのに、身体が落ちる感覚。


(……っ、今の何だよ)


結城は、固まっていた。

ペンを拾う手が、少し震えている。

でもすぐに、いつもの“整え”が戻る。


深呼吸。

姿勢。

手順。


結城は写真を揃え、メモを見て、そして——

わざとみたいに丁寧な声で言った。


「……今のは、私の直感ですね」


(直感じゃねぇよ。俺だよ)


結城は、もう一度だけ写真を見た。

俺の顔じゃなく、腹の横の一本を。


「現場へ行きましょう」


それだけ言って、立ち上がった。


(待て待て待て)


俺は付いていく。

というより、置いていかれたくない。


結城が署の自動ドアに向かう。

ドアが開く。


外。


陽が差し込んだ瞬間——


俺の輪郭が、ざらっと崩れた。


眩しい、じゃない。

削れる。


(……太陽、無理)


反射で、俺は日陰に逃げた。

柱の影。建物の影。

そこに入った途端、世界が戻る。


(何だこれ。太陽が敵って何だよ)


結城はそんなこと知らず、普通に歩く。


普通に駐車場へ。

普通に車へ。

普通に鍵を開ける。


乗る。

ドアを閉める。


(……え)


俺も反射で助手席側へ回って——


弾かれた。


ぶつかった、みたいな感覚。

“すり抜ける”のとは違う。

入れない。


(……乗れない??)


結城は当然気づかない。

エンジンをかけ、ウインカーを出し、丁寧に発進した。


(おい待て待て待て)


車が動く。


(俺、足ないのにどうすんだよ)


俺は走った。

走れる。なぜか走れる。

でも、追いつけるかは別だ。


(幽霊、徒歩縛りとか聞いてねぇ)


結城の車は角を曲がって——止まった。


結城が降りる。

そして、首を傾げる。


「……忘れました」


(何を)


結城は車に戻って、ダッシュボードを開けて、閉めて、また開けて、鞄を覗いて——


「……メモ帳です」


(そこかよ)


結城は一拍置いて、妙に真面目に言った。


「戻ります」


(助かる)


俺は影の中で息を整える。

息はないのに整う。


結城が署に引き返す間に、俺は追いついた。

追いつけたというより、置いていかれずに済んだ。


もう一度、結城が車で現場へ向かう。

今度は信号で止まり、渋滞で止まり、丁寧に止まりまくる。


俺は影を渡り歩いて追う。


(俺、今、影だけで生きてるな)


結城の車は現場近くで止まった。

コンビニの裏。例の通路。


結城が降りる。

真面目な顔。

でも、目の奥に、さっき流れ込んだ不安が残っている気がした。


(事故で終わらせたくない、か)


結城は立入禁止テープの前で、一度立ち止まった。


そして、丁寧に言う。


「……失礼します」


(それ、誰に言ってんの?)


結城はテープをくぐる。


その瞬間、俺の中で、また“音”が鳴った。


木が割れる音。

木が擦れる音。

結束バンドが締まる、乾いた音。

誰かの息。


(……ここだ)


記憶の入口が、目の前にある。

でも、まだ開かない。


結城は地面を見て、木材の痕を追い、静かに呟く。


「……散乱が、自然ではありません」


(だろ)


俺は日陰から一歩だけ出て、削れそうになりながら、結城の視線の先を追う。


木材の山がある。

散乱に見える山。

事故に見える山。


でも、俺の周りだけ。

俺の周りだけ、微妙に"重ねられた跡"がある。


結城はそれを、まだ言葉にしない。

言葉にしたら、事件になるからだ。


地面の端に、小さな結束バンドの切れ端が落ちていた。

濡れた土に貼り付いて、ただのゴミみたいに見える。


結城は、それを見落とした。


(おい)


俺は叫びたい。

叫べない。

触れない。


でも——


(……入れるなら)


胸の奥が、また熱くなった。


結城が「事故」と言いそうになる、その直前。

その迷いに、俺は——もう一度、飛び込もうとした。


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